教師に牛乳を
「わかりやすいことなんて言ったら洗脳じゃないか。」――
俺は何をするにも遅すぎる午後3時という時間に、職員室でコーヒーとデスクワークをしていた。
生徒からの評判はもっぱら悪い。一つ上の学年は、社会科が一番楽しかったというのに。中学教諭は楽ではない。何もなくとも廊下では陰口大会が始まって、俺が通るとわかりやすく表情をかえる。雨が降っている。ノイズと共にチャイムがきこえる。
何を求めているのか、教室の後ろでひそやかと話をしている根暗な男子はチャイムを待ち望んでいた。廊下で別の組と茶話会していた女子は徐に席へ向かう。1分30秒遅れで授業を始める。茶飯事である。
「663年に日本と百済の連合軍が――。」生徒に質問をしてみる。みんな同じ声量で、近辺の仲間と雑談をしている。根暗な男子は疼いている。
授業を始めて43分と少しが経った。日直による形骸化した儀式が始まる。俺は女子が廊下へ向かうのを追いかけるよう、廊下で数学の土居先生と話を始めた。どうも先生というものとは話が合わないが、土居先生とだけは馬が合う。
土居先生は家ではコーヒーを豆から淹れて、それを魔法瓶に入れて持ってくる。しばしば一杯頂くが、その度に苦味や酸味、渋味が違う。今日はグァテマラらしい。舌に自身のある方ではないが、土居先生の話を聞くたび、コーヒーには詳しくなった気がする。現役の頃を思い出した。この生徒たちも一年半後には受験である。雨が止んだ。そうこうしているうちにチャイムがなる。次の教室へ向かった――。
「今日はトラジャですか。」
「ええ、そうですよ。先生は素晴らしい舌をお持ちですね。」
そんなことはない。舌は普通かそれ未満だ。だが、褒められて悪い気はしない。
「いやいや。でも、すこし知識はついてきました。しかし、どうして先生は毎日違ったコーヒーを持ってくるんですか。」
「気分ですよ。でも、同じコーヒーばかり飲んでいた頃よりは、そのコーヒーを飲んだ時でもより味がわかりますね。」
野暮だった。自分に恥ずかしくなった俺は、冷えない内にカップを空にして、教室へ向かった。
「そうとうお気に召されたようですね。」