妹とは……?
夏休みが近づいたある日のことだった。
「姉上!」
午後の陽気が心地良い時間、学院でいつものように一人で黙々と勉強していると、達美の呼び声が聞こえた。
顔を上げてそちらを向くと、達美がそれはもう良い笑顔で猛スピードで駆けて来ていた。いつもは冷静沈着な達美であるから、周りが驚いたような視線を向けていた。
姉である美月は、達美が本来はそれほど冷静沈着でもないことを知っているから特別驚くことはなかったが、
(そ、それにしても、達美ってとても足が速いのですよねえ……)
足の速さに感心していたのだった。
達美はいつも1階にいるから、1階から駆け上がって来たのかしら、と美月は思う。
(これだけ速く走れるのに、運動が嫌いです、汗をかくのが嫌いだからです、なんて言うのですから、全く困った弟ですわ)
美月は嬉しそうに駆けてくる達美を見て呆れたように苦笑した。
達美の後から少し遅れて、それでも必死に息を切らしながらも、達美と同じくとても笑顔で駆けてくる少女がいる。
背が小さく、ツインテールの可愛らしい子だ。
(あの子は、達美のお友だちかしら。
それにしても、一生懸命達美を追いかけて、可哀想に。
全く達美ったら、私に何の話があるのか分かりませんけれど、レディのペースに合わせて優雅にエスコートも出来ないようではモテませんわよ?)
そう思うと、一人得意げにフフンと笑った。
そして達美は美月の元にたどり着くなり言った。
「――――あのですね! 僕に恋人が出来たのですよ!!」
「……へ?」
突然のことに、美月は固まった。
(えぇっと、恋人……とは、恋人とは、えっと恋人とは……?
恋人って、何でしたっけ……?)
ようやくたどり着いたその少女は、息を整えると満面の笑みで言う。
「早乙女真心と申します! これからよろしくお願いします、美月お姉様!!」
「お、お姉様……?」
「ええ、美月お姉様。私、ずっと、陰ながら美月お姉様に憧れておりました」
「そう、ですか」
(な、なんだかよく分かりませんわ。頭が混乱しているのですわ。
私に妹が出来たのですか……?
えっと、それになんだかこの子、涼香先輩と似た匂いを感じるのですけれど)
それは達美も感じたようで、思わず達美は不思議そうに言う。
「君は僕のことが好きなのだよね? そう言ってきましたよねえ?」
「はい。達美さんのこともお慕いしておりますよ?」
「そ、そう?」
「ええ」
「本当?」
「もちろんですわ!
あと達美さん、私のことは君ではなく、真心とお呼びくださいね?」
「ま、真心さん……?」
「いいえ、呼び捨てで構いませんわ」
「真心?」
「はい。恋人になったのですから。フフッ」
「そうですねえ。フフフッ」
(この空気、甘すぎますわ)
「お姉様も、私のことはどうか、真心とお呼びくださいね」
「え、ええ――」
「――――ちょっと! 貴方……!」
そこへ、ズカズカと近づいて来たのは涼香だった。
「大原先輩? 一体何の御用です?」
真心がどこか意地悪な笑みを浮かべて聞くと、涼香はさらに苛立ったように真心に詰め寄って言う。
「貴方が美月様の妹ですって?! 絶対に許しませんわよ!」
涼香は美月と達美、真心とのやりとりを近くで耳をすませて聞いていたのだった。
真心はそんな涼香に臆することなどなく言う。
「何故先輩にそんなことを言われなくてはならないのですか?
関係ないですよねえ?」
「か、関係していますわよ。私の方がずっと美月様のことを慕っておりますのに、そ、そんな、そんな勝手なことを……!」
「まあまあ、大原先輩」
達美は涼香をなだめようとするが、涼香に声は届かないようだった。
「美月様も嫌でしょう? 急に妹などと!」
その言葉に、涼香、真心、達美の熱い視線が美月に集中した。
「そ、それは、えっと……」
真心はどこか不安げに美月を見る。
達美は手を合わせて拝んでいる。
(えっと、達美がとても喜んでいますし良いことなのでしょう。
それに私も妹が欲しいと思ったこともありましたし)
ふと、涼香を見る。
美月の前ではいつも穏やかな笑みを浮かべている涼香が、今は必死な血相で、射貫くように強い眼差しを向けていた。
(うぅ……、お、恐ろしいですわ……。
でも、しっかり言わなくてはなりませんわ)
「そ、そんなことはありませんよ?
これからよろしくお願いしますね、真心さん」
「は、はい! ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
真心はそう言うと、どこか恥ずかしそうに可愛らしくはにかんだ。
「そ、そんな、美月様……」
涼香はショックを受けたようにうなだれた。
そして心底悔しそうに涙目で、本音をぶちまけるように言う。
「――――ずるいですわ! 貴方、美月様の妹だなんて、ずるすぎるのですわ!」
「フフンッ」
その言葉に真心は得意げに笑う。
そして達美は再び疑惑の目を向けた。
「真心は本当に僕のことが好きなのですよね?」
真心は心外だというように頬を膨らませた。
「もう! 本当ですってば! いくらなんでも美月様の妹になるために好きでもない人に告白なんてしませんわ!」
そのハッキリとした物言いに、達美はホッとしたように照れたような笑顔を見せた。
「そっかあ」
「はいっ!」
真心は嬉しそうに頷いた。
美月は達美と真心を微笑ましく思うのだった。
「良かったですね、達美」
「はい!」
そんな甘いやりとりの中、なんとか心を落ち着かせた涼香は未だ多少の動揺を隠せないまでも、いつものように穏やかな笑みを浮かべて言う。
「み、美月様が受け入れたのであれば、私は何も言いませんわ。で、でも美月様、早乙女さんのことで何か嫌なことがあったら言ってくださいね? その時こそ私がこの小娘を何とか致しますから」
「そんなことにはならないので安心してくださいね、美月お姉様!」
「そ、そうですね」
◇◇◇
家に帰ると、美月と達美はいつものように縁とティータイムを取っていた。
ちなみに今日のお菓子は、美月がプリンの次に好きなどら焼きである。
そして達美は少し緊張した面持ちで縁に話した。
「母上、実は僕に恋人が出来たのです」
「…………へ?」
縁は固まって、それからその言葉を理解すると、動揺して、ヒステリックに聞く。
「そ、そんな、達美ちゃんはまだ小学3年生ですよ!?
あ、相手は一体どなたです!?」
「……早乙女真心さんです」
「早乙女……? 早乙女……」
縁はしばらく考え込んだ。
ブツブツと何かを呟きながら、一人で頷いたりしているのを、達美は固唾をのんで見守った。
美月もどや焼きを頬張りながら静かに待った。
――――そして縁が朗らかな笑みを浮かべて言う。
「良いでしょう! 早乙女真心さんとの交際を許可します!」
「本当ですか……!?」
達美は喜色満面に言った。
「母上ありがとうございます!!」
「良い縁ですからね。真心さんのことを大切にするのですよ?」
「はい!!」
「良かったですね、達美?」
「はい、母上の許可が取れれば一安心です」
「悠彦さんもきっと喜んでくれるでしょう」
それからというもの、達美は今までにないほど饒舌になって真心のことを話した。
「あんなに可愛い子が僕の恋人になってくれるなんて。僕はなんて幸運なのでしょうか。生きていて良かった。ああ、まさか夢だなんてことはありませんよねえ。それに……――――」
始めは美月も温かい心持ちで相づちを打っていたのだが、その内疲れが見え始めた。
(……な、長いですわね。話しが長いのですわねえ。
これはいつまで聞いていればいいのでしょうか。
惚気話を聞くのって、こんなに疲れるのですねえ)
げんなりし始めた頃、縁が言った。
「それにしても、達美の結婚相手が一番に決まるなんて思いませんでしたよ」
「――――け、結婚相手!!?」
縁の言葉にそう驚いたのは美月だった。
(恋人の話でしたよね!?)
達美は当たり前のように頷く。
「いやあ、姉上よりも先になんだかすみません。
姉上にも早く良い方が見つかるといいですね」
(むう……)
その言葉に思わずむくれる。
「いいえ、別にいいのですよ?
私は私のペースでそういう方を見つけていきますから。
むしろ達美はこんなに早くから結婚相手を決めてしまって大丈夫なのですか?
後になって、真心さんが達美よりも良いと思える方と出会ってしまうかもしれませんわ。だって結婚するまでどれほどの時間があると思っているのですか?」
「そ、そんな……」
しかし絶望したような顔をした達美を見て焦って言う。
「あの、いや、嘘ですよ? 真心さんは本当に達美のことを好きなのだと伝わってきましたよ? ええ、その想いは変わることはないでしょう!」
「本当ですか?」
「本当ですよ」
「本当ですか?」
「本当ですよ!!」
「本当の本当ですか!?」
(よ、余計なことを言ってしまったのですわ……)
「達美、申し訳なかったのです。酷い姉で申し訳なかったのです。
とても意地悪でした。
本当に、真心さんは達美のことを好きだと伝わってきたのですよ」
「そうなのですか? ……良かった、それならば良いのです」
「怒っていないのですか?」
「何を姉上に怒ることがあるのですか?」
「あう……」
(私の弟は本当に本当に良い子なのですわねえ)
達美は数年に1度、ゲームを知った時など、とても感激するものに出会った時、普通の子ども以上の癇癪じみた我が儘を言うが、それ以外は至って大人なのである。
一方、美月は普通よりも多少アホであるが、年相応の子どもであるだろう。