高嶺の花のお嬢様
美月は憂いを浮かべた表情を浮かべていた。
ふと、1つ息を吐くと、下がりかけた眼鏡を上げた。
それを見た人々は、美月の心情など知る由もなく、一体どのような優雅で崇高な苦悩を心内にひた隠しにしているのだろう、と思いを巡らせていた。
美月の手元には料理本が開いてあり、プリンのレシピが載っている。
(昨日お父様が買ってきてくださったプリン美味しかったですわぁ。また買ってきてくださらないかしら。自分で作ってもあの味は出ませんわ)
◇◇◇
美月は百々瀬家の長女、高ノ宮学院のSクラス、小学4年生である。
高ノ宮学院は、上流階級の子どもたちの通う日本の学校の中で、最も格式高い学院である。
そして、その学院の中でも、家柄において特別な存在として選ばれた者はSクラスに入ることになる。
高ノ宮学院は1学年が8~10クラス、生徒数240~300人の大きな学院であるが、Sクラスに入る者は1学年で10人ほどである。
そんなSクラスは非常に特殊な環境下にある。
まず校舎がSクラスだけ別にある。
一般校舎とは離れた場所にあるため、Sクラスの生徒が一般校舎の生徒と会うことはほとんどない。
校舎は大きな2階建ての建物で、入ってすぐ1階から2階が吹き抜けになっている開放感のある空間が広がっている。
お一人様用テーブルから、大人数で座れるテーブルもあり、席は決まっていない。
テーブルには各種日替わりの高級菓子が置かれ、飲み物はドリンクバーが置かれている。
学年の区切りはなく全学年、Sクラス60人程度全員があまりあるほどに広いその教室で過ごす。
そして授業がなく宿題もない。
朝の会と帰りの会はあるが、それ以外は基本的に自由である。
勉強をする人、読書をする人、気ままにお喋りを楽しむ人、様々である。
学習室があり、そこでは先生に1対1で勉強を教えて貰うこともできる。
高ノ宮学院の生徒の家庭では家庭教師を雇っていることが当たり前で、習い事も1つではないことが多い。
Sクラスの生徒においては家庭の事情の影響が大きく、それによる教育方針の異なりから、生徒によって勉強の仕方が様々で、進み具合も個人差が大きい。
この自由な環境は、一人一人の生徒の家庭の事情や教育方針を優先させるためである。
しかしそんなSクラスにもテストはあるわけだが、結果ほとんどの生徒が優秀な点数を出しているのだ。
◇◇◇
美月はいつも2階の窓際、お一人様仕様の丸テーブルに腰掛けていた。
学院ではほとんど勉強をして過ごし、時々読書をしたり、料理本を眺めたりしていた。
その席にはどのテーブルよりも贅沢なお菓子が置かれている。
美月が甘いもの好きだと知る者がそう手配したのである。
このクラスにおいて美月は高嶺の花である。
美月はSクラスの中でも家柄が良く、容姿は美しく大人びている。
洗練された一つ一つの動作は気品や優雅さがあり、一切の隙も感じさせない。
人を魅了し惹きつけるが、どこか近寄りがたいのだ。
実際のところ、清廉な気高い精神を持つ、プライド高きお嬢様である。
しかし決して傲慢であったり傍若無人であったりするわけではない。
――基本的な気質としては能天気であるし、かなり気安い性格をしているのだ。
周りの印象通りでない意外な性質も多くあり、誤解や勘違いもあるわけである。
高嶺の花と呼ばれることは嬉しいが、一人が好きなのだと思われて遠巻きにされ、友だちができないことは難点であった。
そんな中、4年生には百々瀬美月、高宮晃樹、三嶋明、佐倉慎という、非常に大きな名家の子息、息女であり容姿端麗な生徒が4人存在しているが、晃樹、明、慎などは、人気者といった感じで、遠巻きにされていることはなかったので解せない、と思っていた。
◇◇◇
帰り際、1人の人物が美月の元に近づいた。
長い髪を緩く巻いている、とても優雅な人である。
「美月様、何か不便などはございませんか?」
その人は大原涼香、美月至上主義者である。
小学5年生で美月よりも1つ年上だ。
美月を気に掛けて時々こうして話しかけてくれる先輩である。
「はい、大丈夫です。いつも気に掛けてくださってありがとうございます。涼香先輩」
美月は美しいソプラノの声でそう言うと、小さく微笑む。
笑うと大人びた印象から可愛らしさが垣間見えた。
涼香は心臓を打ち抜かれたかのように胸を押さえ蹲った
そのギャップの破壊力といったら、美月大好きな涼香なら尚のこと、悶絶もののようである。
「ど、どうしましたか?」
慌てて聞くと、涼香は何事もなかったかのように姿勢を正し、わざとらしいほど穏やかに言う。
「何でもありませんわ。それよりも美月様、何かあったら言ってくださいね。美月様の為でしたら、どんなことでも、ええ、何でも致しますから」
「ありがとうございます。でも、何でも、というのはちょっと……」
「何でも致しますよ?」
「ええっと……」
「美月様の為でしたら」
そう言う涼香の声音には、忠誠心や信仰心がこもった圧力を感じる。
そんな涼香に思わず顔を引き攣らせた。
(お、重いですわ……。それに怖いですわ……)
「――姉上、帰りますよ」
美月の1歳年下で小学3年生の弟、達美が美月を呼びに来ると、涼香は少し残念そうに言った。
「では、また明日ですね」
「はい、お先に失礼します、涼香先輩」
涼香は美月のことをこの上なく敬愛してやまないが、美月が一人を好むと勘違いしているため、決して纏わり付くことはなく、一定の距離感をもって接しているのだった。
迎えの車に乗ると、ホッと息をついた。
達美はそんな美月の安堵した様子を見て言う。
「大原先輩は相変わらず、姉上が大好きなのですねえ」
「ええ、正直、少し怖いですけれど、とても、とても優しい先輩なのです」
その言葉に達美は小さく呟く。
「優しい、というのは、姉上にだけですけどね」
「?」
聞き取れないで首を傾げると、達美は苦笑した。
「なんでもありませんよ」
「そうですか?」
「はい」
「雨が降ってきましたね」
車の窓から外を伺いながら呟いた。
「昨日、梅雨に入ったそうですよ」
達美は何の感慨もなく言った。
少しして美月たちの乗る車は百々瀬の家の門に着いた。
その門が開かれると、家までの庭の中の道なり1キロほどを進んだ。
噴水やバラ園などもあるとても壮大な庭だ。
撫子の家の庭とは違った美しさで、撫子の家の庭が自然が織りなす美しさであったなら、この庭は一切の無駄なく計算し尽くされた完璧な美しさである。
そしてたどり着いたのは、城のような外観であり、繊巧な彫刻の芸術性が感じられる壮麗な豪邸だった。
車から降りると、玄関前の花壇を整えていた庭師の人を見掛けた。
その庭師は美月と達美を見ると、急いだように頭を下げた。
庭師を見てふと思う。
(もうすぐ、紫陽花が咲くかしら?)
美月が足を止めていることも構わずに、達美はスタスタ家に入って行く。
「――――もうすぐ、紫陽花が咲くかしら?」
思ったままに庭師にそう聞くと、庭師はギョッとしたように驚いて、おどおどしながら答えた。
「そ、そうですね」
百々瀬家には広い庭故に何人もの庭師がいるが、百々瀬家専属という者だけではなく、美月の知らない庭師もよく見掛けた。
見習いの者も来ることがあり、美月に話しかけられたこの彼はそうだった。
先輩の庭師に教わりながら仕事をしていたのだが、ちょうど今その先輩がここを離れていた。
そんな時にこの豪邸のお嬢様に話しかけられてとても慌てているようだった。
そんな見習い庭師の慌てようなど気にすることもなく言う。
「紫陽花が咲くのが楽しみなのです」
美月は桜の次に紫陽花が好きだった。
(紫陽花はまるで宝石のようなのです。とても綺麗なのですわ)
美月は綺麗なものが好きだった。
綺麗なものはいつまででも見ていられる性質を持っていた。
「それでは、お仕事頑張ってくださいね」
美月はそう言うとあっさりとその場を後にした。
「は、はい」
その見習い庭師は突然のあっという間の出来事に呆然とした面持ちで、颯爽と去って行く美月を見送ったのだった。
後で見習い庭師は百々瀬家専属庭師に話した。
「今日、この家のお嬢様に話しかけられたんですよ」
「そうかあ。綺麗だったろう?」
「ええ! それはもう! 紫陽花はもうすぐ咲くのかと聞かれました」
「お嬢様は気さくな方だ。それに花が好きで、時々話しかけて下さる。この時期になると、紫陽花のことを聞かれるのは毎年のことだ。紫陽花はまるで宝石のように綺麗だと言ってなあ」
「へえ」
「この庭は、元々の土が良いのか、場所が良いのか、植物がよく育ってくれる」
「確かに。いくつかの庭をまわりましたが、この庭の植物はとても質が良いですね。枯れ葉もほとんどないし、害虫も少ない、とても生き生きとしています」
「達美坊ちゃんが、それは美月お嬢様が精霊に愛されているからだと言っていた。
精霊がいると自然が豊かになるらしい。美月お嬢様の周りには精霊が集まるから、この庭の植物は生きがいいんだと」
「ハハハ、そうですか。可愛いですね。達美坊ちゃんはまだ小学3年生でしたね」
「ああ、だが、撫子様、お嬢様からすると祖母にあたる方も、同じ事を言っていた。撫子様は何て言うか不思議な雰囲気を持つ方だ。
あの人が言うのだからそうなのかもなあ、とその時は思ったんだ」
「へ、へえ」
見習い庭師の曖昧な返答に、百々瀬家専属庭師は苦笑すると冗談だというように言った。
「まあ、お二人とも、それくらいお嬢様が素晴らしい人だという意味で言ったんだな」
「ああ、なるほど! さすが百々瀬の人は、上品というか詩的?というか、独特な表現をするんですねえ」
見習い庭師は、精霊というのは表現で使ったのだと納得して、感心したように大きく頷いた。
「そういうことなら、俺もそう思いますよ。
あんなに美しいお嬢様なら、精霊が集まるのも無理はありませんね」
◇◇◇
家に帰ると美月は、習い事までの少しの時間、母と弟と一緒にティータイムを楽しんだ。
母、縁は聡明な印象を持ちつつ、実に華々しく豪勢な美しさを持つ容姿をしている。達美は眼鏡を掛けていてインテリな印象が強く、この弟もまた整った顔立ちをしている。そしてここにはいないが父と兄もまた容姿端麗であった。
「達美ちゃんも、もうそろそろダンスを習わなければなりませんねえ。この先パーティーで踊る機会も増えるでしょうし」
縁はそう言って優雅に紅茶の入ったティーカップに口をつけた。
「1ヶ月に1度は、講師を迎えて教えてもらっているではありませんか」
「それでは足りませんよ。恥をかいてからでは遅いのですよ」
「でも家庭教師、英会話、ピアノ、ヴァイオリン、書道、水泳、柔道、剣道、
それ以上増えたら、僕はおかしくなってしまいます」
「おかしくなりませんよ。
だって達美ちゃんは、習い事の時間以外は遊び呆けているではありませんか」
この母は子どもの教育にとても厳しく、美月と達美は多忙な日々を送っていた。
美月は、家庭教師、英会話、ピアノ、ヴァイオリン、ダンス、テニス、水泳、料理、書道、美術と、達美以上に多くの習い事をしている。
従順で、多くの習い事をすることに満更でもない美月に対し、縁が調子にのった結果である。
「美月ちゃんは習い事の時間以外もしっかり予習、復習していますよ。
少しは美月ちゃんを見習いなさい」
「私ったら、どんなことも人より時間が掛かってしまうのですから仕方がありませんわ。
悠人お兄様なんてよく理由なく習い事を休んでいますが、全く努力せずとも何でも完璧にこなしています。達美は器用だし要領が良いのですから、習い事が増えたら増えた分だけ、何だかんだこなせますよ」
美月は才女だと言われているが、実は不器用で努力家であった。
覚えが悪く不器用であることを自覚しており、しかし優秀でなければ気が済まない、高潔なプライドでもって愚直に努力した。
また無情なことに、完璧超人の兄と、神童と呼ばれる弟を持っており、そんな兄弟の中で自分だけが凡人であることは許せることではなく、尋常でないほどの努力を必要とした。
幸い、努力をすることはプライドを傷つけることにはならなかったし、むしろ恵まれた素質がなくとも、努力を重ねた結果才女と言われていることに、自尊心の満足があり、誇りさえ感じた。
そして能天気な性格からか、躾が良すぎる教育からか、尋常ではない努力を日常の一部として、それほど辛苦を感じることなく過ごすことが出来ていたのだった。
「――姉上のように努力する人間にそう言われてしまったなら、僕は何も言えなくなってしまいますよ。僕はそんな姉上を尊敬していますから」
達美は美月に慈しむように優しい眼差しを向けた。
時々達美は、姉である美月に対して恥ずかしげもなくそんなことを言う。
そんなどこか達観している達美を、何だかよく分からないけれどこの弟は自分よりもずっと大人びていると感じる。
そう感じはするのだが、深く考えもせず口を開く。
「そんなことよりも、昨日お父様が買ってきてくださったプリン美味しかったですわぁ。また買ってきてくださらないかしら?」
その言葉に、達美は大人びた雰囲気から一変して無邪気に大きく頷いた。
「確かに! 昨日のプリンは美味しかったですね!」
この弟は、美月と同じで甘いものに目がなかった。
「じゃあ、帰ってきたら頼んでみましょうか」
「はい!」
「そうですね!」
縁の言うことに美月と達美は嬉しそうに頷いたのだった。