プロローグ
4月うららかなある日、美月は祖母の家を訪れた。
春になると祖母の家の庭は、一面に広がる花々が目移りするほど色鮮やかに咲き溢れる。
その中でも一際目を引く、圧倒的で幻想的なほどの咲き乱れようである枝垂れ桜に、惹きつけられるように見惚れていた。
なんだかぼうっとして、花の匂いに酔うように、心地良い具合に頭が朦朧としてくるのだった。
いつも祖母の家に来ると、現実感がなく、時間の感覚が曖昧になる。
まるで幸せの国の住人になったかのように夢心地になるのだった。
美月はこの家には精霊が住んでいるという祖母の話を信じていた。
精霊たちは賑やかな声を奏でている。
それは人に聴こえこそしないが、柔らかい風、温かい陽、愉しげな空気を感じる、大きく息を吸うと、この場所が精霊たちの真心で満ちているのを感じていた。
◇◇◇
祖母、撫子は、精霊たちがあまりに騒ぎ立てるので、美月が来たのだと分かった。
彼女は精霊に寵愛され庇護されている特別な存在だった。
美月には兄と弟がいたが、撫子は美月を一番愛していた。
平等であるべきだと思いつつも、彼女は撫子の親しかった昔の友人によく似ている。
一緒にいると、時々どうしようもなく懐かしくなり、昔を思い出しては、大切にしなくてはと思い知らされるのだった。
外に出ると、庭の枝垂れ桜を眺めている美しい子どもの姿があった。
美月はまだ9歳の子どもだが、美しく、大人びた容姿をしていた。
胸下まである艶やかで柔らかい黒髪や透けるように白くきめ細かい肌からは清純さを、眼鏡を掛けた、少しつり目気味の強い瞳からは高潔の美質が感じられた。
精霊たちはとても嬉しそうに美月に纏わり付いている。
精霊たちの優しい愛の響きが伝わってくるようで、撫子はなんだか無性に優しい気持ちになるのだった。
撫子は声を掛けようと、足を一歩踏み出すと、その瞬間に強い風が吹き荒れた。
その中で不思議な感覚を得る。
「……?」
風が弱まってきて、目を細めて桜の花びら舞う中にいる美月の姿を見ると、何か、記憶に引っかかるのを感じた。
時々、精霊に導かれるように、何かしらひらめきのようなものを感じることがある。
美月が手の届かないほど遠くにいるような錯覚に陥ると、まだ美月の幼かった頃の光景がおぼろげに思い出された。
(あの桜は、病院の中庭に咲いていた、美月ちゃんと、男の子がよく、遊んでいて、それを眺めるのが私はとても楽しかった……)
「美月ちゃん……」
「――お祖母様! 今日はお邪魔しますね」
美月は撫子に気が付くと、途端に無邪気な子ども笑みを浮かべた。
「ええ、ええ、美味しい紅茶を用意しているわ!
けれど、それより、それよりもね、美月ちゃんがまだ学院に入る前、私が入院したことを覚えていますか? 美月ちゃんは毎日お見舞いに来てくれたのですけれど」
記憶を辿って、早く伝えなくてはいけないとどこか焦るように聞いた。
「ええ、少しだけなら、覚えています」
撫子の突発的な脈絡ない言動は、時々みられることだったので、美月は特に気にすることはなかった。
「そこでよく会っていた、美月ちゃんと同い年くらいの男の子、覚えていますか?」
「はい、少しだけなら……」
「何を覚えていますか?」
「確か春の季節で、病院の中庭の桜が見えるところで……、その方と一緒に絵本を、読んでいました」
美月は曖昧な記憶を思い出しながら、拙くも健気に答えた。
「その子とはあれ以来会っていないのですか?」
「はい。顔は覚えていませんから、きっとどこかで会っても分かりませんわ」
「そうですか……」
撫子は困ったように微笑むと、少しの間沈黙した後に聞く。
「どんな絵本を一緒に読んでいたのですか?」
その問いに美月は少し考えると、ハッとしたように声を上げた。
「そうですわ! あの方に『姫と勇者の物語』を教えてもらったのです」
「美月ちゃんの好きな本ですね」
『姫と勇者の物語』は繊細で難解な文書、心理描写の表現のある、本来は大人向けのファンタジー書籍なのだが、美月はその本が好きだった。
1巻だけが簡単な文書、優しい表現に変えられて絵本になっていて、それを美月は幼い頃すでにその男の子と一緒に読んでいたのだった。
「懐かしいのです」
美月はどこか眩しそうな控えめな微笑みを浮かべた。
――――ふと、風で舞う桜の花びらが、美月の目の前を通り過ぎた。
「大丈夫……」
美月は小さく呟く。
「頑張れって……」
「?」
撫子はよく聞きとれずに首を傾げた。
しかしそれから、美月は何でもないと誤魔化すように不思議そうに言った。
「それにしても、どうして今まで忘れていたのかしらねえ。とても好きな本なのに。それを教えてくださった方なのに」
「貴方たちは精霊たちに祝福されたのですよ? 私はそれを見るのがとても楽しかったのです」
撫子がそう言って聖母的に微笑むと、精霊たちは想いを汲み取ってくれてありがとう、というように撫子の頬にすり寄った。
そんな精霊に、美月の何か運命的な予感を覚えるのだった。