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アニメ学園へようこそ!  作者: 天塚
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OQ

 週末。僕は自転車を走らせて、学園から都内にある自宅へと向かっていた。夏ではないからまだましとはいえ、およそ二時間半かかる距離を自転車で移動するというのは結構な重労働だ。電車やバスを使えばもっとスムーズにいくのだけれど、ここは節約の為我慢だ。学園の外は当然ポイント制ではなく、普通にお金がかかるのだから。時折水分補給をしながらペダルを漕ぎ続け、お昼前くらいの時間になってようやく自宅の見える路地へと入る。すると自宅前の道路に、複数の人影が見えた。

「……あ、楓だ」

 自転車で駆けて来た僕に真っ先に気が付いたのは、髪の毛をツンツンと立たせた、小柄な少年。僕の弟、三男の大我(たいが)だ。歳は八歳で、小学三年生。手にはバドミントンで使うラケットが握られていて、どうやら家の前できょうだい達と遊んでいたようだ。

「あー、ほんとだあ! かえでだー!」

 すると大我の呟きが聞こえたらしく、右手に摘んだばかりであろう花をいくつも握り締めた小柄な少女がたたーっと自宅の庭方面から姿を現した。キラキラした瞳でとびきりの笑顔を見せるこの子は、三女の明衣(めい)。この春から、ピカピカの小学一年生になったばかりだ。明衣は僕が自転車から降りると、その周りを嬉しそうにうろちょろと走り回る。僕は「危ないよ」と苦笑しつつも、手を伸ばして明衣の小さな頭を撫でた。

「……遊んでくれてたんだね、優司、ありがとう」

 そして自転車を庭の端に停めしっかりと鍵を掛けた僕は、もう一人、外にいたきょうだいへと声を掛けた。Tシャツにハーフパンツというスポーティーな服装の少年の身長は、兄である僕よりも数センチ高い。細身ではあるけれど、その腕や足にはしっかりと筋肉がついている。

「……ども」

 照れくさそうに頭をぼりぼりと掻いているのが、次男の優司(ゆうじ)、中学二年生だ。手には大我同様、バドミントンのラケットを持っている。ここ最近は思春期真っ只中といった様子で若干とっつきにくい雰囲気を醸し出しているけれど、時々こうして自身の所属している部活でもあるバトミントンをしてきょうだいと遊んでくれることもあった。なんだかんだいって、根はいい子なのだ。

「ねーねー、かえでおままごとしようよー!」

 ぐいぐいと、明衣が僕のTシャツの裾を引っ張る。久々のきょうだい達との交流に嬉しさを覚えつつ、僕は自転車の籠から黒い鞄を取り出した。

「うん、いいよ。でも、一旦中で母さんたちに挨拶してきてからね」

 そう言うと明衣は、「わかったー!」と元気良く返事をしてくれる。僕はにこりと笑みを返してから、およそ三週間ぶりに自宅の玄関をくぐった。

「ただいまー」

 家の中に向かって声を掛けながら、僕はフローリングの廊下を歩いて行く。築十五年ちょっとの一軒家である我が家は、子供が多い暮らしのせいかその築年数よりも若干くたびれて見える。途中落ちていた誰かの靴下、おそらく大我かな、を回収しつつ、僕はリビングのドアを開けた。

「お兄ちゃん、……っと、その汗、まさかチャリで来たの? よくやるねー。その情熱をもっと他のことに生かせばいいのに」

 部屋の中央付近にあるリビングテーブルの前に腰を下ろしていたロングヘアの少女は、僕を見るなりちょっと辛辣な言葉を投げかけた。だけどこんなのはいつものことなので、僕は、ははー、と笑って受け流す。長女の五十鈴(いすず)、中学三年生。気の強い性格で、勉強から家事からなんでもできるしっかり者。きょうだい達を仕切っているのは、実は長男の僕ではなく五十鈴だったりする。目の前のテーブルにはノートや教科書などの勉強道具が広げられていて、どうやら宿題に取り組んでいたようだった。そして五十鈴の向かいには、もう一人、おかっぱ頭の少女が座っている。

(かえで)(にい)、久しぶり」

 鉛筆を走らせていた手を止めて穏やかな笑みを向けてくれるのは、次女の(しおり)。小学五年生。栞も五十鈴同様しっかり者だけれど、五十鈴が若干ヒステリックなのに対しこちらは非常に物静かな性格だ。ちなみに僕が入試の自己アピールに一輪車を取り入れるきっかけとなった、当時一輪車にハマっていた妹というのがこの栞だ。しかし今は一輪車には飽きてしまい、学校のブラスバンドクラブの活動に夢中なようだった。

「久しぶり。どう? 最近家の中は。何か変わったこととかあった?」

「別に。いつも通り動物園だよね」

 僕が尋ねると五十鈴ははーっと溜め息を吐き、隣では栞が苦笑いを浮かべる。二人はきょうだいの中でも年長組だし、それなりに苦労があるのだろう。僕が家を出たことで、単純に人手が一人減ってしまったわけだし。

「あら、かえくん、来てくれたのね」

 そうしてリビングで妹たちと話していると、ふいに廊下の向こうから声が掛けられた。振り向くと、幼い女の子を抱えたゆるくパーマのかかった髪型の女性、僕の母さんがこちらへとやって来ていた。

「久しぶり、母さん。……あーちゃんも、久しぶりー」

 後半は若干高いトーンになりながら、僕は母さんの腕の中の小さな女の子に手を伸ばした。「かえー」と僕の名前を呼んで天使のような笑みを浮かべているのが、花巻家の末っ子、天音(あまね)。通称あーちゃん。歳は二歳四か月で、我が家のアイドル的存在だ。最近は言葉もたくさん話すようになって、ますますその可愛さに磨きがかかっている。

「どう? 寮生活は。うちと違って、静かでしょう」

「んー、でも向こうも結構賑やかだよ。寮っていうよりは、なんていうか、校風が」

 僕は日々お祭り騒ぎ、といった感じの学園の様子を思い浮かべる。この前葵とやったモンスターを倒すあのゲームなんて、大我や明衣が見たらきっと大興奮だろう。

「ふふ、そーう? じゃあ、あまり寂しくはないかしら。私たちは、かえくんがいなくて寂しかったわよ。ね、あーちゃん」

 母さんが目を向けると、あーちゃんはぎゅーっと僕の首に小さな腕を巻き付けた。僕は思わず頬を緩ませて、ふわふわと柔らかいあーちゃんの髪の毛を指で梳いた。

「ふふ、騒がしいかもしれないけど、ゆっくりしていってね」

「うん、そうするよ」

 母さんにそう返事をすると、バン! と玄関のほうから何やら大きな物音がした。驚いてあーちゃんを抱っこしたまま廊下に出ると、そこには頬をぷっくりと膨らませた明衣の姿があった。

「かえで、まーだー? おそいよーっ! おままごとするってやくそくしたでしょーっ!」

「あ、うん。そうだったね」

 僕は慌てて、玄関でぷりぷりと怒っている明衣のもとへと駆け寄る。そのまま明衣に手を引っ張られて、僕はあーちゃんごと庭へと引きずられていった。

「あらら、これじゃああんまりゆっくりできなさそうねぇ」

 玄関のドアが閉まる直前、母さんのそんな呟きがかすかに聞こえた気がした。


 実に三週間ぶりに訪れた自宅で、家事を手伝ったり、きょうだいの遊び相手をしたり、勉強を見てあげたり……としていると、あっという間に時間は過ぎて行った。気が付けばもう陽が落ちていて、僕達は夕食の準備に取り掛かる。今日のメニューは、ホットプレートで焼くお好み焼き。長い大家族生活の経験上、『粉ものは偉大』という考えが染みついているので、我が家では頻繁に食卓に上がるメニューだ。安くて手間がかからなくて、お腹に溜まる。リビングのテーブルの中央にホットプレートを置き、きょうだい達がそれぞれ皿と箸を手にその周りをぐるりと囲む。ちなみに中に追加で入れるトッピングは、コーンチーズと明太チーズの二種類を用意した。おたまでプレートにタネを流し入れ、焼き上がったものから適当にお皿に載せていく。食べ盛りの子供たちが大勢いるので、焼いても焼いても次から次へと空皿を訴える声が上がった。流れ作業のようにどんどん焼いていく僕だったけれど、ちらりと視界の端でリビングにある電波時計の時刻を確認し、今焼き上がったものはすぐ脇に置いておいた自分の皿の上へと載せた。「あー!」と大我と明衣あたりから抗議の声が上がったけれど、「僕まだ一枚も食べてないって」と言ってなんとか納得してもらう。一旦生地を焼く手を止め、ソースとマヨネーズをかけて熱々のお好み焼きを口の中へと運んだ。お、これは明太子のほうだな。まろやかなチーズの中に、ぴりっとした辛味が時折感じられる。高級なものでもなんでもないけれど、久しぶりに食べた自宅の食事はなんだかやけにおいしかった。

「……栞、焼くのお願いできる? 僕もう行くから」

 そしてお好み焼きを一枚食べ終わり、グラスの中の麦茶をぐいっと飲み干した僕は斜め向かいに座っていた栞にそうお願いをした。栞は一瞬きょとん、としたけれど、手を伸ばしてタネの入ったボウルを受け取ってくれる。

「いいけど……、もう行くの? 楓兄まだ一枚しか食べてないのに」

「あんまり遅いと、学園の門が閉まっちゃうんだ」

 僕は立ち上がると、部屋の隅に置いておいた私物である黒い鞄を取りに向かった。現在時刻は午後六時二十分前後で、学園の門が閉まるのは午後九時だ。そうなると外から学園内に入ることができなくなってしまうので、そろそろ家を出ないといけない。

「あら、泊まって行けばいいじゃない。明日もお休みでしょ?」

「そうだよー。かえで、きょうとまっていってよー」

 あーちゃんを膝の上に載せた母さんと口の周りをソースだらけにした明衣がそう言ってくれるけれど、僕はふるふると首を横に振った。

「でも、外泊届出して来てないからさ。だから、泊まりはまた今度。あ、父さんによろしく言っておいて」

 残念ながら父さんの帰宅には間に合わなかったので、僕はそう伝言を残す。頬をぶーっと膨らませる明衣の口元をティッシュで拭ってあげてから、僕はみんなに向かって「じゃ」と軽く手を挙げた。

「かえくん、またいつでも遊びに来てね。みんな待ってるから」

「楓バイバーイ」

「うー、ぜったいすぐきてよー、かえでー」

「うん、またね」

 母さんときょうだい達の声にもう一度振り返って手を振ってから、僕は玄関でスニーカーを履きすっかり夜の闇に覆われてしまっている屋外に出た。辺りはしん、と静まり返っていて、自分の足音がやけに大きく響くように感じる。

「!」

 するとふいに、ガチャリ、と物音がして、庭の隅に停めておいた自転車の籠に鞄を入れようとしていた僕はばっと顔を上げた。見ると、自宅の玄関ドアから五十鈴が出て来るところだった。

「あれ、どうしたの。何か忘れ物したかな」

「別に、ただの妹からの有り難いお見送りだけど」

「……それは、律儀だなー」

 僕は自転車の鍵をくるりと回しながら、苦笑いを浮かべる。五十鈴は間違いなくそんな甲斐甲斐しいタイプではないので、何か別の目的があるに違いなかった。僕は自転車に跨りつつも、すぐには発車せずに五十鈴の次の言葉を待った。

「……どう? 学校。何かだいぶ変な学校みたいだけど」

「ん? そうだな……まあ、良くも悪くも個性的だね」

 僕は、あえてそんな風に無難に受け答えをしておく。そういえば五十鈴は、今年受験生だ。選択肢の一つとして、時夢を視野に入れているのかもしれない。僕の主観のせいで進路選択の可能性が閉ざされてしまうのは嫌だし、ここでべらべら喋るよりも体験入学などに参加して自分の目で判断してもらったほうがいいだろう。

「……お兄ちゃん、人が良いから。舐められて利用されたりしてんじゃないの」

「え?」

 しかし次に五十鈴の口から出た言葉は、進路相談とはかけ離れたような内容だった。顔を俯けて絶対にこっちを見ようとしない五十鈴の表情は、どこか照れくさそうにも見える。そこで、ようやく僕は察する。……五十鈴は大人しい性格の僕が個性的な学校で上手くやっていけているのか、心配してくれているのだ。

「……大丈夫だよ。ちょっと時間かかったけど、友達もできたし。たしかに変わってる学校だけど、最近はだいぶ慣れてきたよ」

「……ふーん、そ。じゃあ今度その友達家に連れて来てよ」

「う、うーん? そうだね……」

 僕がちょっと口ごもったのを見て、五十鈴はこの発言を嘘認定したようだった。やっぱりね、と言った様子で、僕を憐れむような目で見つめてくる。

「ち、違うよ! 本当に、友達はできたって! ただ、その子女子だからさあ……」

「はあ?」

 兄としての威厳の為にも、僕は慌ててそう付け加える。しかし五十鈴はまったく退く様子を見せず、むしろ軽蔑した目で僕を睨んできた。

「ちょっと何それ、お兄ちゃん高校に入ってチャラ男になったの?」

「違うよ! たまたま仲良くなったのが女子だっただけだって! だから男子の友達は……これから作るよ!」

 五十鈴はそんな僕の言葉を聞くと、はあ、と溜め息を吐いた。

「うっわ、お兄ちゃんがタラシって言われていじめられる未来しか見えないんだけど」

「なんでそーなる……」

 本当に、我が妹ながら口が悪い。一体、誰に似たんだろう。

「……まあでも、ありがとな。心配してくれて」

「!」

 これだけ好き放題言われた後だったけれど、僕は一応お礼を言っておくことにした。五十鈴は素直じゃないところがあるけれど、根は優しい子だ。それは兄である僕が、一番よく知っている。

「……もう、行けば」

 五十鈴は恥ずかしくなったのか、ぷい、とそっぽを向いた。夜風に吹かれて、五十鈴の長い髪がふわりと揺れる。……もう少し喋っていたいところだけれど、たしかにそろそろ行かないと。二時間半かけて自転車で移動したのに、目の前で門が閉まってしまった、なんてことになったらしゃれでは済まない。

「じゃあ、またな。家族のことよろしく。あと五十鈴は受験生だから勉強、と言いたいところだけど、学年トップに言ってもしょうがないか。とにかく、体壊さないように休むときはちゃんと休めよ」

「うるせーよさっさと行け」

 シッシッ、とまるで虫でも追い払うかのように手を動かされ、僕ははいはいと地面を蹴って自転車を発進させた。自宅の敷地を出て、民家が両脇に立ち並ぶ住宅街の道を走る。人通りはまったくなく、吹き付ける風も昼間と違って肌寒い。先程までの賑やかさとのギャップについ寂しさを感じてしまうけれど、後ろは振り返らなかった。……今の僕が帰る場所は、あのヘンテコな学園の寮の部屋だ。

 家族とはまた違った賑やかさが、きっと僕を待っていてくれるだろう。そんな風に思いながら僕はペダルを漕ぐ足に力を込め、闇の中を駆ける。ふと空を見上げると、そこには白い星がきらきらといくつか瞬いていた。



「お、楓ーっ」

 教室の中央付近の椅子に腰掛けて近くの席の生徒とおしゃべりをしていた葵が、ドアをくぐり抜ける僕の姿を見つけひらひらと手を振った。そしてちょいちょいと手招きをしてくるので、僕は通路となっている階段をいくつか降り葵の隣の席へと腰掛けた。

「おはよー楓。一時間目は会わなかったよねー」

「おはよう。多分、コースが違ったからだね」

 僕達は互いに、そう挨拶をする。今はもう二時間目だけれど、今日葵と会うのはこれが初めてだった。ここらへんがコース別授業の弊害で、たとえ同じクラスでも朝一に顔を合わせるとは限らないのだ。コースが全く被っていない場合なんかは、一日中顔を合わせないまま放課後になってしまった、なんて奇妙な事態もありえそうだった。

「はは、これが噂の葵のお気に入り?」

 するとすぐ近くから、そんな台詞が聞こえてきた。見ると葵の右側、隣の隣の席に腰掛けている男子生徒が、長机に頬杖を突きながらこちらに笑みを向けていた。

「そうだよ、琉」

 葵は、男子にそう言葉を返す。どうやら、二人は知り合いのようだ。葵に琉と呼ばれた男子は、へぇー、と呟くと、さらに言葉を続けた。

「あんまりそんな風に見えないけどなー。三年の先輩をフルボッコにしたなんて」

「してない! してない!」

 今まで聞き役に徹していた僕だったけれど、思いがけない単語につい大きな声を出してしまった。多分学食での田島先輩との出来事を言っているんだろうけれど、ああもう、一体どんな風に伝わっているんだ。僕は抗議の目を向けるけれど、葵はあはー、と誤魔化すようににやにやと笑うだけだった。

「ん? そかー? ……っと、つーかそれよりまず初めましてだよな。オレは安本琉(やすもとりゅう)。一年三組。よろしくな」

 そう自己紹介をすると、琉君はにこりと目を細めた。長身で手足はすらりと長く、目鼻立ちがくっきりとしていて髪型もおしゃれ。纏う雰囲気もどこか爽やかさがあって、女子から人気がありそうな感じの人だな、と思った。僕も自己紹介をするべく、ちょっと背筋を伸ばして、すうっ、と息を吸い込む。

「そーしーてー、この子は、なーちゃん! ふふ、可愛いっしょー! 惚れんなよ!」

「!」

 しかしそのとき、葵がそう言って自身の右隣に座っていた女子生徒の肩にぐっと腕を回したので、僕は開きかけていた口を一旦閉じた。葵に肩を組まれた女子は真っ直ぐに切り揃えられた黒髪のロングヘアをしていて、耳には白いヘッドホンを装着していた。

「……東宮(あずまみや)那子(なこ)です。よろしく」

 那子さんはそう言って、ぺこりと頭を下げてくれる。どうやら彼女も葵の友達のようだけれど、葵とは随分雰囲気の違う感じの人だった。おとなしいというか、おしとやかというか、どこか品のようなものが漂っている感じがする。大和撫子、という表現が一番しっくりくる気がした。まあそれだと、ちょっと耳に付けたヘッドフォンだけミスマッチな感じではあるけれど。

「ええと、僕は花巻楓。クラスは、一年三組です。二人とも、よろしく」

 そして遅ればせながら、僕も二人に自己紹介をする。そうやって互いに初顔合わせをする僕達を、葵は嬉しそうな表情で眺めていた。

「三人とも、私がビビっと来て声掛けた人達だからね!」

 その言葉通り、僕を含めここにいる面々は、みんな葵を中心として集まっているようだった。

「そういやさっきコースが違うとか言ってたの聞こえたけど、楓応用コースもとってんの?」

「あ、うん。文系だけ応用コースにしてるんだ」

 琉君に尋ねられそう答えると、「おおー!」と一同の視線が急にキラキラと輝き出した気がした。思いがけないその反応に、僕はちょっとぎょっとする。

「すげーな。頭いいんじゃん。これなら、謎解きとかクイズ系のクエストもいけそうだな。オレら全員アンポンタンだし、今まで全然太刀打ちできなかったからなー」

「い、いやいや、僕もそこまで頭いいわけじゃないし……」

 僕は慌てて顔の前で手を振って否定しながら、ちらりと琉君の隣に座る那子さんに目をやった。……雰囲気的に、僕より那子さんのほうが何倍も頭が良さそうに見えるけど。葵と琉君は、その、見た目的には勉強よりも遊びのほうが得意そうな感じがするけれど。あくまで、見た目的にね。

「人数も増えたことだしさー、このメンバーでOQクリアしたいよね」

「OQ?」

 葵の台詞の中に見知らぬ単語があったので、僕は首を傾げる。その疑問に答えてくれたのは、琉君だった。

「OQってのは、オンリーワンクエストの略。普通のクエストは受注人数にも制限がないし、達成人数にも制限はないだろ? だけどOQは一人、または一チームがクリアした時点でそのクエストは終了なんだ。クリア者が限られるからその分報酬も豪華だけど、難易度も格段に上がるんだ」

「へえ、そういうのがあるんだ……」

 本当に、僕はまだまだこの学園のシステムについて知らないことばかりだ。……というか僕からすると、入学して間もないのにみんなが熟知しすぎているようにも感じるのだけれど。

「琉となーちゃんと何回かは挑戦してみたんだけどさ、全滅だったんだよねー。ぜーんぶ先輩に先越されちゃってさー」

 悔しそうな葵の言葉に、こくりと那子さんも頷きを返していた。その様子を見るに、どうやら那子さんも結構クエストに参加したりしているようだった。

 そうしてしばし談笑していると、キーン、コーン、カーン、コーン……と授業開始のチャイムが鳴り響いた。正面に吊り下げられたスクリーンに光が灯り、ピンク色の髪をした数Ⅰ担当のももかせんせーが現れる。僕たちはタブレットを机の上に出すと、左腕をかざして出席確認を済ませた。

「はーい、それじゃあ、教科書十八ページ開いてねーっ。まずは前回の復習からいくよーっ」

 にこっ、と笑って何かのポーズを決めたももかせんせーは、まず前回の内容の範囲の計算問題を出題した。この授業は、基本コース。ただ公式を当てはめて計算していけばいいだけなので、特に難しいところはない。僕のタブレットの画面上には、次々と赤丸の印がついていく。無事に全問正解した僕は、ふと顔を横に向けた。

「……っ!」

 そして、思わず目を見開く。隣に座る葵のタブレットの画面は、丸ではなくほとんどがペケで埋まっていたのだ。そして驚くことに、葵の隣に座る那子さん、さらにその隣の琉君の画面も同じようなものだった。三人はうーん? と首を傾げながら、教科書の前のほうのページを呼び出したりしながら頭を悩ませ続けている。

「……」

 たしかに琉君は、さっき自分たちのことをアンポンタンだとか言っていた。だけど僕はそれは謙遜とか自虐とか、そう言った類のものであると思っていた。

 でもこの感じを見るに、たしかにこの中では僕がブレインを担うことになりそうだった。……ちょっと、荷が重い気はするけれど。

 その後僕はももかせんせーの授業を聞くというよりも、主に葵たちに解法の解説をすることに時間を費やした。僕自身黙ってスクリーンを眺めているのは少し退屈に思うときもあったので、この即席の勉強会のような時間はとても充実したものに感じた。そしてなんだか家できょうだい達の宿題を見てあげているときみたいで、思いがけずちょっと懐かしい気持ちになってしまうのだった。


「……あれ」

 今日の授業をすべて終えた僕は、放課後特に予定もなかったので下校するべく昇降口へと向かっていた。辺りには僕と同じ考えであろう生徒がたくさんいて、みんな一直線に出入口のほうへと吸い寄せられていく。しかし僕は廊下の隅に見知った顔を見つけ、すっとその流れから抜け出て彼女へと近づいて行った。

「どうしたの? 那子さん」

 廊下の隅で一人しゃがみ込んでいた那子さんに、僕は声を掛ける。見ると那子さんの正面には、僕の膝上くらいの身長の小さなロボットの姿があった。

「……楓」

 僕に気付き、那子さんはちらりと顔をこっちに向けた。その両耳には相変わらず、愛用の白いヘッドホンが着けられている。

「……この子、クエスト発生中みたいだったから」

 那子さんはそう言うと、再びロボットのほうへと顔を戻した。学園内では、こういった自立型のロボットを見かける機会が非常に多い。掃除をしていたり、何か荷物を運んでいたりと、その用途は多岐にわたっている。そして目の前のこれは、どうやらクエストに関連したもののようだった。

「……」

 僕は那子さんの隣にしゃがみ込んで、しばしそのロボットを観察してみる。ロボットは走行機能もあるようで足元には車輪が付いていたけれど、今は動くことなく静止している。目の部分には『Q』とアルファベットの文字が映し出されていて、胸に取り付けられているタブレット端末の画面には『クエスト発生中』とあった。僕は人差し指を伸ばし、とりあえずその画面に触れてみる。

「!」

 すると画面がぱっと切り替わり、クエスト受注画面が表示された。えーっと、クエスト名『忘却のメロディ』。詳細には、『忘却したメロディの記憶を掘り起こせ』とあった。……え? どういうこと?

「おそらく、イントロクイズ」

「え、ああ。そうなんだ」

 那子さんの言葉を聞いて、ようやく僕にも合点がいった。随分不親切な表現だと思うんだけど、みんなはこれでわかるんだろうか。

「……やってみよっか。楓は、どうする?」

「ん、僕? そうだね、せっかくだしやろうかな」

 そうして頷き合うと、僕達はチームとしてこのクエストの受注手続をとった。するとロボットの胸元のタブレットの画面が切り替わり、細かいルールなどが記載されたページが現れる。

「制限時間は一分、その間に五問正解すればクエストクリア、か……」

「パスは無限に使えるみたいだから、わからなそうだったら早めにパスしていったほうがいいかも」

 僕と那子さんは念入りにルールの確認を行うと、ロボットの頭上に設置されている赤いボタンの上へと互いに手を伸ばした。ルール説明によると、このボタンを押すことでタブレットが回答入力画面へと切り替わるらしい。ちなみに回答を入力する時間は制限時間の一分間には含まれないとのことだったので、そこで焦る必要はなさそうだ。

「じゃあ……始めるよ」

「うん」

 赤いボタンの上に互いに手を重ね、僕はちょっと緊張の面持ちで頷いた。那子さんの左手がタブレットのスタートボタンに触れ、ついにイントロクイズが始まる。画面に表示された制限時間のカウントの数字に若干意識を向けながらも、残りのすべての神経を両耳へと集中させる。流れてきたメロディを五秒ほど聴いたところで、ピコン! と僕の手の上から那子さんがボタンを叩いた。そしてピッ、ピッ、とタブレットの画面に曲名の文字を打ちこんでいき、決定ボタンを押す。すると少しの間を挟んだ後、ピンポーン、という正解音が鳴り響き、画面には赤丸の記号が現れた。

「す、すごい! 那子さん!」

「……ありがと。でも、まだあと四曲正解しないと」

 那子さんはちょっと照れくさそうな表情を見せつつも、次の問題に向けてすぐに集中モードへと入っていった。その様子を見た僕も慌てて、再び両耳に神経を注ぐ。このクエストには二人で挑戦しているわけだから、単純に計算すれば一人最低二曲はノルマだろう。改めて気合いを入れ直した僕だったけれど、次なる音楽が流れ始めてわずか二秒程でボタンを叩いたのは、またもや那子さんだった。


 シャララーン、とゴージャスな感じの音楽が流れ、僕と那子さんの腕時計からはピコン! と電子音が鳴った。画面を見るとクエストクリアの文字と共に、30ポイントを獲得した旨が書かれていた。

「すごいね、那子さん。僕全然わからなかったよ」

 僕はぱちぱち、と、さっきまでの那子さんのすさまじい活躍を思い出しながら拍手を贈る。那子さんは音楽が流れるやいなやものすごい反応速度で次々とボタンを押していき、一度もパスを使うことなく、そして制限時間を残り二十秒以上も残してこのクエストをあっさりクリアしてしまったのだ。一問も正解できず何の貢献もしていない僕までポイントをゲットしてしまうというのは、ちょっと申し訳ない感があった。

「……たまたまだよ。ほとんどアニソンだったから」

 那子さんは少し照れたように俯くと、右手で耳に着けている白いヘッドホンに触れた。なるほど、さっきのはアニメソングだったのか。どうりで那子さんが回答画面に入力した曲名を見ても、僕がまったくピンと来ないわけだ。

「あ、そうだ。もしかして、そのヘッドホンでいつもアニソン聴いてるの?」

 僕は、ふと思いついて那子さんにそんな質問をしてみた。那子さんはいつも白いヘッドホンを耳に着けているから、何の音楽を聴いているのか実は少し気になっていたのだ。そして今回のイントロクイズでの活躍を見るに、それはアニメソングの可能性が高いのではないだろうか。しかし那子さんは僕の予想に反し、ふるふると首を横に振った。

「……これ、いつも何の音楽も流れてない」

「え、そうなの?」

 那子さんはそう言うと、カポッ、と両手を使って耳から白いヘッドホンを外した。そしてそのまま、スッ、とそれを僕の方へと差し出してくる。

「……本当だ」

 那子さんから受け取ったヘッドホンを自分の耳に装着してみた僕は、そう声を漏らした。そこには何の音楽も流れておらず、ヘッドホンに遮られた周囲の音が若干くぐもって聞こえるだけだった。

「あ、じゃあもしかして、ファッションってやつなのかな」

 僕は那子さんにヘッドホンを返却しながら、今度はそう尋ねてみた。僕は特に雑誌とかも読まないし、ファッションにはかなり疎いほうだ。だけど那子さんのヘッドホン姿は、素人目から見てもとてもよく似合っていると思った。

「……まあ、そういう気持ちもまったくないわけではない」

「?」

 カポッ、と再びヘッドホンを装着した那子さんの口から出た言葉は、そんなかなり曖昧な感じのものだった。僕の中に釈然としない気持ちとクエスチョンマークが同時に浮かぶけれど、なんとなく、今はそれ以上追及しないでおいた。

 するとすぐ近くでジジ……という機械音のようなものが響き、僕達は揃ってそちらへと顔を向けた。見ると、今さっき僕達がクエストでお世話になったロボットがゆっくりと廊下を前進し始めていた。僕が姿を見かけてからはずっと静止した状態だったはずだけれど、もしかしたら新たなクエスト参加者を求めて旅立っていったのかもしれない。

 ……しかしもう随分見慣れたとはいえ、生徒とロボットが平然と行き交う廊下というのは、やはり奇妙な光景だった。

 

 

「おー、楓ー」

 後方から名前を呼ぶ声が聞こえてきて、僕はくるりと振り返った。朝の冷たい空気の中、あちこちには僕と同じように登校途中の生徒達がわんさか見える。

「ん?」

 しかしその中に一つだけ奇妙な物体を見つけ、僕は思わず二度見した。歩いている生徒達の間を縫ってこちらへと駆けてくるのは、自転車よりもコンパクトなサイズの謎の黒い乗り物。

「おはー、楓ー」

 ザザッ、と車輪と地面がこすれるような音がして、その乗り物は僕の隣に静止した。そしてその上に乗っていた琉君が、片手を挙げて僕に挨拶をしてくれる。

「お、おはよう琉君……何、それ?」

 僕も挨拶を返すけれど、視線はやはり琉君よりもその奇妙な乗り物に釘付けだった。形としては、スケートボードにハンドルらしき持ち手の部分を付けたような感じのものだ。どうやらサドルもペダルも付いていないようだし、立ったまま乗るタイプの電動バイク、みたいなものだろうか。

「ああ、セグウェイだよ。今日の朝男子寮の周り散歩してたらさー、レンタルセグウェイっての見つけたんだ。公道は走れないらしいんだけど、学園内なら乗り放題だからさー。中々いい感じだぜー!」

「へえ……すごいね。はじめて見たよ」

 寮から本校舎までは、歩いておよそ五分ほどで行くことができる。そのためほとんどの生徒は徒歩で通学をしていて、学園の敷地内では自転車すらほとんど見かけることはない。そんな中セグウェイという奇抜な乗り物で現れた琉君には、周囲を歩く生徒達からも注目の視線が集まっていた。

「そうだ、楓も乗れよ。タンデムしてこーぜ」

「え?」

 琉君はそう言って一度セグウェイから降りると、僕にシート部分に立つように促した。たしかにそのシートは縦長で結構な大きさがあるので、二、三人で一列になって乗ることもできそうだった。僕は言われるままシート部分に乗り上げ、両手でハンドルを握ってみる。

「ハンドルんとこにブレーキついてるだろ? いざとなったら、それ引けば止まるからさー。というわけで、電源入れるぞ」

 そう簡単に説明すると、琉君もぴょん、と僕の後ろに跳び乗った。そして手を伸ばしてハンドルの空いているスペースを握ると、ピッ、と電源らしきボタンを押した。

「!」

 その瞬間、ぐんっ、と僕達二人を乗せたセグウェイは前方へと加速した。僕は驚いて、思わずブレーキレバーを力一杯握りしめる。するとザザッ、と地面との摩擦が起こりセグウェイは動きを止め、どんっ、と僕の背中に琉君の体がぶつかった。

「び、びっくりした……。これ、電源がアクセルを兼ねてるの?」

「いや、体重移動で動くんだ。前方に体重かけたら前にいくし、後ろにかければバックするぜ。右に曲がりたきゃ、右側に体重をかければいい。ちなみに、真ん中にかければその場で静止するぜ。まあでもちょっとムズイから、おとなしくブレーキ使ったほうがいいけど」

「え、そうなんだ……」

 僕はブレーキレバーから手を離すと、ゆっくりと踵を上げて前方に体重をかけてみた。すると再び、セグウェイが加速を始める。速度としては早歩きよりは速く、自転車よりは遅い、といったところだ。僕は歩行者にぶつからないように時折左右に体重移動をして進路をとりながら、セグウェイを前へ、前へと動かしていく。

「どう? 楓」

「面白いね。なんか直感的っていうか……」

 だいぶコツを掴んでくると、そんな風に後ろの琉君とお喋りをする余裕も出てきた。顔に当たる風もちょうどいい強さで、とても気持ちが良い。これは、そのうち学園内でセグウェイブームが来るのではないだろうか。

「まーでも、野郎二人でタンデムってのはちょっと虚しいなー。やっぱここは男女でやるべきだろ。楓の位置が那子だったら最高なんだけどなー」

「……琉君、那子さんのこと好きなの?」

 僕は一瞬聞かなかったことにしようかとも思ったけれど、やはりちょっと気になったのでそこに触れてみた。すると琉君は誤魔化すこともなく、さらりと言ってのける。

「うん。だってさー、めっちゃ可愛いじゃん。好きになるのは必然だな、うん」

「な、なるほど……」

 僕は琉君の熱い語りに少し気圧されつつも、ほうほうと相槌を打つ。たしかに那子さんは見た目も女の子らしいし、性格もおしとやかな感じだから男子からの人気は高そうだ。爽やかイケメンである琉君が目をつけるのも、わかる気がする。

「二人共、すごくお似合いだと思うよ。美男美女って感じで」

「お、マジで? 世紀のベストカップルとは嬉しいこと言ってくれるねぇ」

「そ、そこまでは言ってないけど……」

 琉君は、うりうりー、と後ろから僕の肩を揉んでくる。それが妙にくすぐったくて、僕はハンドルを握ったまま身を捩らせた。あ、危ないなあ。運転が狂ってしまわないように、僕は必死に体重移動に神経を集中させる。そうして若干フラフラした軌道を描きつつも、僕と琉君を乗せたセグウェイは無事に本校舎前へと辿り着いた。校舎の横に自転車置き場があったはずなので、そちら側へと移動する。

「あ、ここか」

 すると自転車置き場の隣に、『セグウェイ置き場』なるスペースを発見した。すでに五、六台が停められていたそこへ、僕達の乗って来たセグウェイも仲間入りさせる。電源がしっかりと切られていることを確認してから、僕はシートを飛び降りた。

「……あ、響架(きょうか)先輩だ」

 すると一足先にシートを降りていた琉君が、そう言ってじっと視線を遠くに向けていることに気が付いた。僕も同じ方向に顔を向けてみると、本校舎へと続く道を颯爽と歩く黒髪のミディアムヘアの女子が目に入った。

「知り合い?」

 僕がそう尋ねるも、琉君はふるふると首を横に振った。

「いや、一回も話したことないけど。でも、有名なガチ勢の先輩だから知ってるよ。『魔王』だし」

「ま、まおう?」

 僕は再び、遠くを歩いている黒髪の先輩の姿に目を向ける。すると、先輩の背中から何か黒いものが靡いているのが見えた。あれは……マント? 

「いわゆる、ロールプレイってやつだな。響架先輩は、自ら進んで『魔王』の役割を演じてるんだよ。他にも『勇者』のロールプレイをやってる先輩もいて、この二つの派閥はライバル同士なんだ。勇者軍と魔王軍はよくデュエルしてっから、楓もたぶん一回くらい見たことあるはずだぜ」

「あー、そういえばなんか見覚えあったかも……」

 琉君の言葉を聞いて、僕の記憶がぼんやりと蘇っていく。たしかにいつだったか、魔王がどうだとか言いながら剣や銃を振り回していた人達を見たことがあった気がした。そのときはギャラリーの人数もすごかったから、琉君の言う通り、きっとこの学園ではすごく有名な生徒なのだろう。

「いいよなー。オレらもいつか、ああいう大物の先輩と戦ってみたいよなー……」

 そう呟くと、琉君はぐーっと腕を天高く突き上げて伸びをした。その動きにつられて、僕も顔を上げる。そして再び本校舎のほうへと目を向けてみるけれど、そこにはすでに響架先輩の姿はなかった。もう中に入ってしまっただけなんだろうけれど、魔王がどうとかの話を聞いたせいで、まるで魔法か何かの力でワープしたんじゃないかと一瞬想像してしまいそうになってしまった。うーん、僕もだいぶ、この学園に馴染んできたなあ……。そこに嬉しさを感じつつも、やはりちょっと苦笑いをしてしまう僕だった。


「よーし、じゃあ、今日はこのくらいにしておこうかー!」

「おー!」

 葵は剣を鞘へとしまいながら、僕、琉君、那子さんの三人に声を掛ける。いつの間にか辺りの景色はもう、夕日でオレンジ色に染まっていた。腕時計の画面を見ると今日のクエストで獲得したぱかりのポイントの数字が表示されていて、僕は思わず頬を緩ませた。

 この学園に入学してから、一か月と少しが経った。僕、葵、琉君、那子さんの四人は、休み時間や放課後を使ってこうして一緒にクエストに励むことが多くなっていた。初めの頃はこの学校の独特なシステムについていくのがやっとだった僕だけれど、みんなに教えてもらいながら少しずつ知識をつけていって、今ではクエストで獲得したポイントを使って自分のステータスを強化したりするようになっていた。

「んー、しっかし、今日もOQは発生しなかったなぁ」

 琉君は少し悔しそうな表情をして、頭の後ろをぼりぼりと掻く。OQとはオンリーワンクエストの略で、一人、または一チームしか達成できない特別な仕様のクエストのことだ。通常のクエストよりも難易度は上がるけれど、その分報酬も豪華で、そして何よりOQを達成することはこの学園の生徒達にとってはかなりの栄誉である。僕達もOQを狙って日々色々な場所でクエストを探していたのだけれど、結局見つかるのは通常のクエストばかりだった。

「……新しくOQが見つかればすぐに噂になると思うから、多分ここ二週間くらい、まったくOQが発生してないんだと思う。さすがにそろそろ、来てもいいと思うんだけど」

 那子さんもちょっと険しい顔になりながら、そんな見解を述べる。那子さん達は何度かOQに参加したことがあるようだけれど、僕にはまだその経験がない。僕の中でも、早く参加してみたい、という気持ちは日に日に強くなっていっていた。

「ふふ、まーこれだけ間が空くってことは、何か凄まじく大がかりなクエストが来るのかもね」

 そんな風に痺れを切らしかけていた僕達三人の一方で、葵はどこか余裕のある笑みを浮かべていた。そしてそんな葵の言葉に、僕達もなるほど、と納得の表情になる。

「大がかりなクエストって、どんなのだろうね」

「そりゃーやっぱ、世界を救う系でしょ」

「……ず、随分とアバウトだね」

 葵がさらりと言った台詞に、僕は思わず苦笑いを浮かべる。だけど葵は真面目そのものだったようで、僕の頬をむぎっと引っ張って言い返してきた。

「当たり前だろう! みーんなみんな、世界を救いたくてしょうがないんだよ! アニメや漫画を見てごらんよ、八割それだよ!」

 そして葵は今度は僕の肩をがしっと掴み、がくがくと前後に揺さぶってくる。その横では「気持ちはわかる」「……中二病人口すごいからね」と、琉君と那子さんがうんうんと頷きを返していた。

 中々発生しないオンリーワンクエストに、僕達の期待はどんどんと膨らんでいく。

 そして待ち焦がれていたその時は、唐突に訪れたのだった。


「……ふふ」

 濡れた髪をドライヤーでさっと乾かすと、僕は一人笑みを浮かべながら洗面所を出た。そして向かった先は、冷蔵庫の前。冷凍室の扉を開けて、放課後に敷地内にあるコンビニで買ってきたカップのバニラアイスを取り出す。食器棚からは銀色のスプーンを一本取って、僕はリビングのテーブルへとついた。

 時刻は、午後八時過ぎ。辺りはもう真っ暗で、生徒達はそれぞれ寮で思い思いの時間を過ごしていることだろう。風呂上がりの火照る体を冷まそうと、僕はカップの蓋を開けて真っ白なアイスへとスプーンを突き立てた。……と。しかし、まだアイスはだいぶ固めだ。もう少し時間が経ってから食べた方がいいと判断し、僕は一旦スプーンを置く。アイスクリームは生活必需品ではないから、経済的に至れり尽くせりのこの学園でも0ポイントでは買えない代物だ。だけど最近はクエストで安定してポイントを稼げているし、たまには贅沢をしてもいいだろうと手を出してみた次第だった。実家にいた頃もアイスなんてほとんど食べなかったから、もしかしたら半年ぶりくらいになるのかもしれない。

「……おっ?」

 そんな風に、アイスが程よく溶けるのをテーブルの前でおとなしく待っていたときのことだった。突如ふっ、と部屋の照明が消え、辺りは一瞬にして完全なる闇へと包まれた。

「……停電?」

 僕は一人でぼそりと呟くと、そうっとテーブルの上辺りを狙って手を伸ばした。すると、指先に何か固いものが触れる。テレビのリモコンだ。僕は手探りで電源のボタンを押してみるけれど、部屋の隅に置いてあるテレビの画面に光が灯る気配はなかった。……となると、部屋の照明の蛍光灯が切れたわけではない、か。

「うーん……」

 僕は再び、テーブルの上に右手を彷徨わせる。すると、先程とは違う何か固いものが指先に引っ掛かった。風呂に入るときに外しておいた、腕時計型端末だ。画面脇のボタンを指で押すと、パッ、と四角い小さなディスプレイに光が灯る。そのかすかな光で辺りを照らすと、僕はゆっくりと玄関方面へと向かって歩き始めた。

「……よっと」

 ガチャリ、と玄関のドアを開けて、僕は屋外にある寮の共用通路へと躍り出る。夜だからもちろん真っ暗ではあるのだけれど、月明かりがあるせいか室内よりは若干視界がきく気がした。日中とは違って冷たい風が、ふわりと僕の体に吹き付ける。辺りの様子を窺うと、僕以外にも何人かの寮生が外に出てきているようだった。ざわざわとした話し声や、ドタン、バタン、と慌ただしいドアの開閉音があちこちから聞こえてくる。

「……」

 僕は玄関脇のコンクリートの壁に背中をもたれさせると、腕時計の画面を操作した。インターネットブラウザを立ち上げて、『都内 停電』のワードで検索してみる。

「……あれ」

 しかし現れた検索結果の中には、今現在進行形で起きている停電に関する情報は一つも見当たらなかった。もしかしたら、情報が更新されるまでには少し時間がかかるのかもしれない。

僕はネットでの情報収集を諦めると、通路の塀に寄りかかってぼんやりと学園の校舎群がある方角に目を向けた。僕の部屋は建物の三階に位置しているため、本来ならばかなり遠くまでの景色を見渡すことが可能な場所だ。だけど今は辺り一帯が闇の中にあり、明かりといえば夜空に輝く月の光と……。

「ん?」

 そこで僕は、ようやくある違和感に気が付いた。たしかに、学園内は辺り一帯が闇に包まれている。校舎のあるほうもそうだし、今僕のいる男子寮、それに向こう側にある女子寮のほうも真っ暗だ。敷地内の公園やお店が建ち並ぶショッピングエリアの辺りにも灯りは見当たらないし、道の至るところにあるはずの街灯の光も今は確認することができない。

 しかし言ってしまえば、停電が起きているのは、そこだけ。学園の敷地内だけたった。どうしてそう言い切れるのかと言うと、すべてはここから見える景色にある。今僕がいる男子寮の三階からは学園外の建物もいくつか見ることができるのだけれど、そこは今も何の問題もなく、煌々と黄色い光が灯り続けていた。

「!」

 そんな風に一人考えを巡らせていると、ふいに、左腕にブルブルと振動を感じた。腕時計の画面を見ると、葵からのボイスコールだった。ピッ、と通話ボタンに触れ、僕は口元を画面に近づける。

「……もしもし?」

『もしもーし、楓。元気ー?』

「えーっと、元気だよ。なんか辺りは真っ暗だけど」

 停電という特殊な状況下であるにも関わらず、葵はいつも通りテンションが高めだった。ぶれないなー、と、そのたくましさに思わず僕は笑いそうになってしまう。

『そっかー、っと、それで今どこにいる?』

「ん、今? 寮にいるよ」

 僕はそう言うと、再びガチャリと玄関のドアを開けて部屋の中へと入った。腕時計型端を使っての電話は、その性質上基本的にスピーカーホンの状態になってしまう。別に聞かれてはまずい話をしているわけではないけれど、周囲に人がいる状況はあまり好ましくなかった。

『よーし、それじゃあさ、準備ができたらすぐに本校舎前に来てよ。あ、ちゃんと腕時計忘れずにね!』

「……え?」

 その急なお誘いに、僕は、ぽかん、とした表情でしばし固まってしまう。

「……ちょっと待って、まさかこの停電の中遊ぶの? 危なくないかな……」

 寮には特に門限が設定されているわけではないから、夜間に学園の敷地内を闊歩していても別に咎められることはない。だけど今は停電で街灯も点いていないわけだし、何か特別な用事がない限りは部屋でおとなしくしていたほうがいいのではないだろうか。

 しかし次に葵から発せられた言葉は、僕のそんな考えを一気に吹き飛ばすインパクトのあるものだった。

『この停電は、おそらくクエストによるものだよ! OQが発生したんだ! というわけで、本校舎前に集合。いいね?』

「えっ……あ……、うん!」

 僕はそう短く返事をすると、葵との通話を終了した。そして数秒の間、暗闇の中に煌々と輝く腕時計の画面をじっと見つめた。

 オンリーワンクエスト。ついに、発生したんだ。待ち焦がれていた瞬間がついにやって来て、僕の心臓はドクドクと高鳴る。たしかにクエストだというなら、学園内だけという狭い範囲の停電にも納得がいく。……というか、こんなところでぼうっとしている場合じゃない。すぐに準備して、出ないと。僕は突っ掛け履きをしていたスニーカーを玄関に脱ぎ捨てると、どたばたと室内へ上がった。今の僕は部屋着姿だから、とりあえず制服に着替えないと。暗闇の中、壁に掛けてある制服を掴もうとベッドの上に乗り手を動かす。

「!」

 すると、ガタン! と指先に何か固い物が当たり、太ももの辺りには鈍い衝撃が走った。暗くて見えなかったけれど、壁の辺りから何かが落下してきたみたいだった。僕の足に当たってベッドの上に落ちたであろうそれに、おそるおそる手を伸ばしてみる。……固くて、形は長細くて、小さいわりには結構重い。

「……! これって……」

 僕は、カチリ、とその謎の物体の先の部分にあったボタンを押した。するとすうっと、僕の手元から一筋の白い光が伸びる。懐中電灯だ。電球付近のダイヤルを回すと光の大きさはどんどん広がり、部屋内の様子がだいぶ見えるようになった。そして壁に掛かった制服のすぐ近くに、白い四角い物が取り付けられていることに気が付いた。近づいてみるとそれは非常用のラジオで、そのすぐ下には何かが取り付けられていたような窪みが見えた。おそらく本来はここに収まっていたはずの懐中電灯が、僕が手をぶつけてしまったことで落下してしまったのだろう。

「……っ!」

 そして貴重な光をゲットしぐるりと辺りを照らした僕は、ここで衝撃の事実を思い出してしまった。懐中電灯の照らす光の先には、テーブルの上に乗ったままのバニラアイス。先程からは随分と時間が経ったから、もうそろそろ食べられるはずだ。

 ……というか、今すぐに食べないとまずい。停電ということは当然冷蔵庫も機能していないはずだから、一度保存して後から……ということもできない。今食べなければ、このアイスはドロドロになる未来へと一直線だ。

「……」

 僕は、迷った。アイスを食べたい気持ちは、もちろんある。だけど今は、待ちに待ったOQが発生している最中だ。クリアできるのは一チームのみだから、いわゆる一つのパイを全員で奪い合う構図だ。早い者勝ちというような側面も大いにあるだろうから、初動が早いに越したことはないだろう。

「……」

 僕は銀色のスプーンに手を伸ばし、ぱくり、と掬ったアイスを口元へと運んだ。甘さと冷たさがじんわりと口の中に広がり、いつまでも味わっていたいと思えるほどの幸福感が湧き上がってくる。だけど僕はそこでスプーンを置き、カップの蓋を閉めた。そして気休めではあるだろうけれど、アイスを冷凍室の中へと戻す。

「……またの機会、ってことで」

 若干後ろ髪を引かれつつも、僕はこうしてなんとかアイスとの決別を果たした。そして急いで制服に着替えるとタブレットの入ったバッグを引っ掴んで、右手には懐中電灯を握り締める。

 ……犠牲にしたアイスのためにも、絶対にOQをクリアしなければ。

 改めてそう決意を固めると僕は寮の部屋を飛び出し、本校舎へと向かうべく暗闇の中を駆けるのだった。


「お、来た。楓ー、こっちー」

「……葵」

 本校舎前に辿り着くと、僕に気付いた葵がひらひらと手を振ってくれた。その傍らには、既に琉君と那子さんの姿もある。急いで来たつもりだったけれど、どうやら四人の中では僕が一番最後に到着したみたいだった。

「……ていうか、すごい人だね……」

 僕は走って来たことで少し上がってしまっていた息を整えつつ、ちらりと辺りに目を向けた。本校舎前の煉瓦作りの道には僕達以外にもたくさんの生徒の姿があり、その数は五十人は余裕で超えていそうだった。この人達全員が、OQクリアを狙っているということなのだろうか。

「こりゃー、葵の勘が見事に大当たりってわけだ。見ろよ楓、OQ受注画面だぜ」

「……わ、本当だ……」

 そして琉君が差し出してくれたタブレットの画面を見て、僕は感嘆の声を上げた。そこには『闇に囚われし学園』というタイトルのクエストが表示されていて、クエストの種類を示す欄には『OQ』の文字があった。やはりこの停電は、OQだったのだ。

「ふふふ」

 葵は体の前で腕を組み、不敵な笑みを浮かべている。実はクエストというものは、どこでも自由に受注できるわけではない。特定の場所に行かなければクエスト受注画面が出現しない、というちょっと面倒くさい仕様になっているのだ。例えば公園とショップエリアでそれぞれクエスト受注画面を開くと、そこにはまったく別のクエストがずらりと並ぶことになる。クエストの受注場所が学園側から公表されることはないため、今回こんなにも早く辿り着けたのは琉君の言う通り、本校舎前を集合場所に指定した葵のお手柄だった。

「停電が起きたとき、ビビっと来たんだよね。あ、これ絶対OQだ、って。それで停電と関連するような場所ってなんだろーなって考えたら、真っ先に発電所が思い浮かんだんだ。学園内で発電所っていえば、まあ、これくらいしかないよね」

 そう言うと葵は、ちらり、と視線を上に向けた。僕もつられて顔を上げると、目に飛び込んできたのは夜空に向かってぐんと伸びる風力発電のための風車だった。なるほど。これがあるから、今回のクエストの受注場所がここに設定されたのか。

「それじゃあ全員揃ったことだし、さっそく四人チームとしてOQ受注するけど……いい?」

 タブレットを片手に那子さんがそう伺いを立てるので、僕達はこくりと頷いた。それを見た那子さんは、さっとタブレットに指を走らせる。すると数秒後、ピコン! とそれぞれの腕時計から電子音が鳴り響いた。画面を見るとOQを受注した旨が記されていて、タイトルの下にはクエスト詳細という項目も出現していた。

『……魔の眷属達の手により、学園は闇に囚われた。再び光を灯すには、光の精霊の力が必要だ。幸い、ここに精霊にコンタクトをとるための手がかりがある。謎を解いて行き、どうか学園に光を取り戻してほしい……』

「……なんか、いつもよりも設定に気合いが入ってる感じだね」

「そりゃーOQだからね。てか設定言うな!」

 率直な感想を述べた僕に、葵は人差し指をビシイッ、と突きつける。僕は、あはは……と苦笑いを返すと、画面をさらに下へとスクロールさせた。すると一番下に、『第一音楽室』の文字を発見する。

「第一音楽室……? どういうことだろう」

「とりあえず、そこに行けってことじゃねーかな。みんな、どんどん中に入ってってるし」

 琉君の言葉を聞いて昇降口のほうに目を向けると、たしかに本校舎前にいた生徒達は次から次へと校舎内に吸い込まれていっていた。僕達も慌てて、その流れに加わった。

「……なんかいいね、夜の学校って」

 一階にある第一音楽室へと向かって歩きながら、葵は楽しそうに手に持った懐中電灯で廊下のあちこちを照らしていた。校舎内は停電しているため真っ暗だったけれど、たくさんの生徒が懐中電灯を手におしゃべりをしながらぞろぞろと歩いているので、あまり不気味とか怖いといったふうには感じなかった。終始和やかなムードで廊下を進むと、やがて第一音楽室が見えてくる。ドアが開いていたので中へと入ってみるけれど、そこは特段いつもと変わりのないように見えた。音楽家たちの肖像画が壁にずらりと並べられていて、教室の前方には大きな黒いグランドピアノ。後方には倉庫に入りきらなかったのであろう木琴や鉄琴が、布を掛けられた状態でいくつか並べられている。

「……たぶん、中じゃない。プレートだと思う」

 僕達が音楽室内をうろうろとしていると、那子さんがちょいちょいとドア付近から手招きをした。そちらへと行ってみると、入り口脇の壁に張りついている白い四角いプレートの前に生徒達の列ができていた。このプレートは学園内の色々な場所に設置されていて、腕時計をかざすことでいくらかのポイントを得ることができるものだ。僕達も移動教室の度に、よくお世話になっている。

「! 物理室、だって」

 列に並んでピッと腕時計をかざすと、画面には新たな目的地と思われる場所が表示された。物理室はたしか、三階にあったはずだ。僕達はエスカレーターを目指し、再び移動を始める。

「……このパターンだと、何回かたらい回しにされそうだな……」

「はは、僕もちょっとそんな気がしてる」

 琉君の懸念に、僕も苦笑いを浮かべつつ同意した。おそらく、次の物理室で終わり、ということはないだろう。そこにきっと、また新たな目的地の指示があるはずだ。

 案の定物理室の入り口脇のプレートに腕時計をかざすと、画面には『201教室』と次の目的地が表示された。そしてその後も何度か場所を移すように指示があり、僕達は夜の校舎内をうろうろと徘徊し続ける。そして訪れた、四階にある生徒会室。そのプレートに至ってようやく、場所以外の指示が画面に現れたのだった。

「『バスケットゴールに、3ポイント×3』……」

「……うわ、マジで? 3ポイントシュート三回決めろってことかよ。結構難易度高くねぇか……?」

 次の指示を目にし、琉君はあちゃー、と言って額に手を当てる。今まではただひたすら移動すればいいだけだったけれど、この指示はそう簡単にはクリアできなさそうだ。というか3ポイントシュートなんて、僕に関して言えば生まれてこの方決めたことなんてない気がする。

「我こそはバスケ部でしたって人、手挙げてー」

 葵が問い掛けるも、『はーい』と手を挙げる人は現れない。

「……とりあえず、バスケってことは体育館でしょ。移動しよう」

 那子さんの提案に揃って頷き、僕達はエスカレーターを降りて一階にある体育館を目指すのだった。


 異変に気が付いたのは、本校舎と体育館とを繋ぐ渡り廊下に差し掛かったときだった。停電中だからどこもかしこも真っ暗なはずなのに、廊下の先、体育館のほうからは黄色い光が漏れてきている。どうして、と考えてすぐに合点がいった。真っ暗なままじゃとてもじゃないけれどボールをゴールに入れることなんてできないから、ここだけ特別に緩和されているのだろう。なんだか設定がぶれてきたな……と思い腕時計でクエストの詳細画面を呼び出してみると、『生徒の皆さんの協力のおかげで、現在少数ではありますが光の精霊たちが力を貸してくれています』という一文がいつの間にか追加されていた。ぬ、抜かりないな。

「おー……」

「……結構、人いるね」

 そして体育館の入り口までやって来たところで、琉君と那子さんはそんな呟きを漏らす。煌々と光が灯っている体育館内にはすでに二十人程の生徒の姿があり、みんな一心不乱にゴールに向かってシュートを繰り返していた。ゴールは全部で四つしかないため、わりと混み合っているように見える。しかもこの場にいるほとんどは先輩のようだったので、僕達一年生はなんとなく中に入って行きづらい雰囲気があった。

「やりづらそうだなあー。空くの待つって言っても、どうせ次から次へと来るだろうし」

 葵の言葉の通り、こうしている間にも僕達の後ろからは生徒がどんどんとやって来ていた。ダーン、ダーン、とボールが床に叩きつけられる音は、より一層激しさを増していく。

「……あれ、たしか屋外にも、バスケットコートなかったっけ」

 するとふいに、那子さんがぼそりとそう呟いた。その言葉で僕達は一斉に、グラウンド脇にあるバスケットコートの存在を思い出す。

「ナイス那子! そこならきっとここより空いてるぜ」

「っ、でも、そこでも大丈夫なのかな?」

 那子さんに向かってグーサインを向ける琉君の隣で、僕はちょっとそんな不安を口にした。現に生徒達はみんなここに集まっているわけだし、目的地としては体育館で確実に間違いはないはずなのだ。

「んー、場所が指定されてるわけじゃないし、大丈夫だと思うよ。行ってみようよ」

 葵は左腕を持ち上げると、腕時計の画面に目を向けた。たしかに先程生徒会室でゲットした指示には、場所のことまでは書かれていなかった。

「……そうだね。じゃあ、外に行ってみようか」

 こうして僕達はみんなが集う体育館を後にし、屋外のバスケットコートを目指すことにした。一旦本校舎に戻り昇降口から外に出て、グラウンド方面へと向かう。すると遠くにぼんやりと黄色い光が見えたので、僕達は揃って顔を輝かせた。コートに、電気が点いている。ということは使用が想定されていたということで、屋外コートでも問題はないということだろう。

「おー、貸切じゃーん!」

 琉君はテンション高く、暗闇の中そこだけスポットライトのように照らされているコート内へと走っていった。コートは一面のみで、ゴールは二つと体育館よりは数が少ない。だけど今現在ここには僕達四人しかいないし、これから人が押し寄せてくるようなこともなさそうだった。一つのゴールを二人ずつで使えるのだから、十分に贅沢だろう。隅に置いてある籠の中にはたくさんのバスケットボールが用意されているし、あとはシュートを決めるだけだ。

「っしゃー、やるぜ!」

「おーっ!」

「!」

 すると気合いの雄叫びを上げた琉君と葵が、バサッ、と制服のジャケットを脱ぎ捨てた。そして長袖のワイシャツ姿へと早変わりした二人はバスケットボールをいくつも抱え、スリーポイントラインへと並び立つ。

「だ、大丈夫二人共? 夜だし、結構肌寒くない?」

「そんなの、体動かしてりゃ暑くなるだろ!」

「そーそー!」

 僕の心配の声にも、琉君と葵は強気なコメントを返すのみだ。し、試合をするわけじゃないんだから、そんな暑いなんて程になるかなあ……。そんなふうに思いつつも、たぶん何を言ってもこの二人は止められそうにないので放っておく。ちなみにこのやり取りをしている間、那子さんは地面に落ちたままだった二人のジャケットを回収してコート外へと投げ捨てていた。よ、容赦ないなあ……。


「よっと」

「うりゃっ」

 山なりの軌道を描いた二つのボールは、ゴールにかすることなくダーン、と地面に叩きつけられた。あちこちにはこれまで放ってきたボールがいくつも転がっていて、コートの隅に置いてある籠の中身はもう空になってしまっていた。

「やっぱムズいな……」

「ねー……」

 3ポイント挑戦開始からぶっ続けでシュートを放っていた琉君と葵は、ここで一旦息を吐いた。二人のシュートフォームは中々様になっていて何度か惜しい場面もあったのだけれど、やはりそう簡単には決まらない。僕と那子さんも二人とは反対側のゴールに向かってボールを投げ続けていたけれど、こちらは未だに距離感や力加減すらまったく掴めていない状態だった。

「ランニングシュートなら、いけるんだけどな」

「あ、それなら私も自信ある」

 そう言うと琉君と葵はたったっと素早くドリブルをしながらゴール下へと走って行き、右手で頭上へとボールを放り投げた。二人の投げたボールは続けざまにゴールへと吸い込まれていき、ネットを揺らして地面へと落ちる。やはりその感じを見るに、二人共運動神経は良いみたいだった。クエストに関係のないランニングシュートとはいえゴールを決めたことで少し気分転換になったのか、二人は「よし!」と気合いを入れ直すと、再びスリーポイントラインへと並び立った。

「よっと」

 そして琉君の手から、山なりにボールが放たれる。くるくると回転しながら飛んでいくボールは、真っ直ぐにゴールリングの中央を目指しているように見えた。

「!」

 そしてその予感は正しかったようで、ボールはシュッ、と小気味良い音を立ててゴールネットを通過した。ダーン、ダーン、と地面に打ち付けられるボールの音を聞きながら、僕達はおおーっ! と盛大な拍手を贈る。

「おお……ビビった……。入るもんだな……」

 しかし数秒前に3ポイントシュートを華麗に成功させた当の本人は、まだどこかぽかん、とした表情だった。遠くにあるゴールネットをじっと見つめるその目からは、『マジで?』という心の声が聞こえてきそうだ。

「……これで、あと二回決めればいいことになるね」

 那子さんがぼそりと呟いた言葉に、僕はこくりと頷いた。今の琉君のゴールで、どうやっても不可能だというわけではないということは証明された。時間にしても挑戦開始からまだ七、八分くらいしか経っていないし、こんな感じのペースでいけば三十分くらいで決着がつくのではないだろうか。

「うう、すげーな琉。私も負けてらんないし!」

 葵はちょっと悔しそうな表情をしながら、スリーポイントラインからボールを放つ。残念ながらそのボールはゴールの少し手前で落ちてしまったけれど、かなりいい線はいっていたように見えた。

「よーし」

 僕も落ちていたボールを拾い、スリーポイントラインへと向かう。あと、二回。僕に技術なんてものは到底ないけれど、まぐれでも入ればそれでいいのだ。僕は気合いと期待を十分に込めると、両腕を頭の後ろに振りかぶってボールを前へと押し出した。


「うげー……」

「入んねー、マジで……」

 そう言ってコート上に寝転がり夜空を見上げてしまっているのは、葵と琉君だ。僕と那子さんはそんな二人に、近くの自販機から買ってきたばかりのスポーツドリンクをすっと差し出す。

「……やばいね。まさかこんなに入んないとは思わなかった。結局、あの時の琉の一回きりじゃん。なんかこのまま朝が来ちゃう気がするんだけど」

 スポーツドリンクをごくりと一口含んでから、葵が疲労感を滲ませた声で言った。ちらりと腕時計を見ると、時刻は午後九時四十二分。バスケットコートに来てシュートを始めてからは、おそらく三、四十分程が経過していた。しかしあれ以来ボールがゴールネットを揺らすことはなく、僕達の集中力は途切れつつあった。中でも次から次へとシュートを量産し続けていた葵と琉君の消耗は激しく、これは一度休憩を挟まないとダメだろう。

 僕もペットボトルに口を付け、ごくりと冷たい液体を喉へと流し込む。そして一旦ペットボトルを地面に置くと、落ちていたボールを拾ってシュッ、と投げてみた。しかしボールはだいぶ右に逸れ、虚しく地面に叩きつけられる。

「うーん……」

 僕はスリーポイントラインの前でしゃがみ込み、どうしたものかと考えを巡らせる。何度投げてみても、僕の放つボールは情けないことにリングに当たることすらほとんどなかった。やっぱりスリーポイントラインからゴールまでは、遠すぎる。ただただゴールの方向に向かって飛ばしている、というような感覚で、これだけ投げても力加減や角度などがまったく掴めていないのだ。

 すると、もぞ、と視界の端で何かが動いた。見ると、那子さんがボールを手にゴール下へと歩いていくところだった。その反対側のゴール下では、まだ葵と琉君が地面に寝転がって伸びている。那子さんはかなりゴールに近い位置で立ち止まると、シュッ、とおもむろに両手でシュートを放った。ボールはダンッ、とリングに当たったけれど、そのまま跳ね返されて地面へと落ちてしまう。

「……那子さん?」

 その様子を見て、僕は思わず声を掛けた。クエストの指示にあったのは、3ポイントシュートを三回決めることだ。それ以外のシュートを決めても、意味はない。だけど那子さんはボールを拾うと、再びゴールのすぐ傍からシュートを放った。

「……まずは、近くから練習してみようかな、って。なんか長期戦になりそうだし」

 ダンッ、と地面に打ち付けられるバスケットボールを背に、那子さんは僕へと視線を向けた。夜風に吹かれて、さらりと那子さんの長い黒髪が揺れる。

「……そうだね。そうやって徐々に遠ざかっていくっていうのも、アリかも」

 僕は那子さんの隣に並び立つと、シュッ、とゴールの至近距離からシュートを放った。投げたボールはボードに当たってそのまま跳ね返って来たけれど、めげずにもう一度。僕と那子さんは、ゴールに向かって交互にシュートを放っていく。

「……あ」

「おおっ!」

 そして何度目かの挑戦ののち、ついに那子さんの放ったボールはすとん、と綺麗にゴールネットの中へと吸い込まれていった。僕は「すごいよ、那子さん!」と傍へ駆け寄り、少し離れたところでその様子を見ていた葵と琉君からは、「ナイッシュー!」と声が飛んだ。もちろん那子さんがシュートした位置はスリーポイントラインの外ではないから、クエストの進捗には何の変化もない。だけどボールがゴールを通り抜けるあの爽快な音を聞くと、やはり気持ちが高揚してしまうものだった。

 ピコン! 

「……え?」

 すると突然、僕達四人の腕時計から一斉に電子音が鳴り響いた。タイミングがまったく同じということは、学園からのお知らせメールか何かだろうか。僕達は左腕を持ち上げて、画面を確認しにかかる。

「えっ?」

「……嘘?」

「どういうことだ?」

 葵、那子さん、琉君が、それぞれ戸惑いの声を上げた。僕も声こそは上げなかったけれど、かなり驚愕の表情になっていたと思う。画面に表示されていたのは、画像ファイルが二つ。しかもその二つの画像は、OQのクエストフォルダ内に収まっていたのだ。

「……何この画像、次の指示ってこと? でもまだ3ポイントシュートクリアしてないよね?」

「……システムバグって誤送信しちゃったのかな。それか何か今後の展開に必要なもので、あらかじめこの時間に送信する予定だったとか……」

 葵と那子さんは画面を見つめながら、うーんと首を傾げる。僕もとりあえず表示された画像ファイルの一つを展開させてみるけれど、腕時計の画面だと小さくてちょっとわかりづらい。すると同じことを思ったのか、琉君がコートの隅に置いておいたバッグからタブレットを取り出した。個人の腕時計とタブレットは連動しているので、どちらでも同じ操作ができるようになっているのだ。タブレットの大画面に琉君が画像を表示させると、僕達は顔をくっつけてそれを覗き込む。

「……なんだろ、体育倉庫?」

「というよりは、部室っぽくね? ロッカーとかもあるし」

「バットが見えるってことは、野球部の部室かな」

 僕、琉君、葵は、画像を見て口々にそう呟く。画面に映っているのは細長いロッカーがいくつかと、籠の中に入った大量の金属やプラスチック製のバット。どこか薄暗い感じのその部屋の床には、白いボールもいくつか落ちているのが見える。葵の言う通り、野球部の部室という答えが一番しっくり来る気がした。

 そして琉君は画面をスライドさせて、二つ目の画像を呼び出す。それは一つ目の画像と違い、画面全体が明るい色合いだった。画面の中央にはお湯で満たされている大きな湯船が映っていて、隅のほうにはいくつかシャワーや蛇口が見える。そして画像のところどころには、湯気の白いもやがかっていた。

「……これ、寮の大浴場じゃない?」

「え」

 那子さんの呟きを聞いて、僕と琉君は揃って顔を見合わせた。

「大浴場? 男子寮にはそんなのねーけど? 部屋に風呂ついてるし」

 琉君のその言葉に、葵は「えー?」と目を丸くした。

「そうなの? 女子寮は部屋にもお風呂あるけど、一階に大浴場もあるんだよ。夜遅くまでやってるから、結構みんな利用してるよね」

「そ、そうなんだ……」

 それを聞いて僕と琉君は、微妙にショックを受ける。たしかに男子寮と女子寮は、建物の構造からしてまったく異なっている。男子寮は一部屋一部屋が外通路で繋がっているマンションタイプだけれど、女子寮はホテルのように通路も全部室内にあるタイプだ。だけど中身は基本的に同じだと勝手に思っていたから、まさか大浴場なんてものが片方にのみ存在しているとはまったく知らなかった。僕の部屋にある風呂も十分に立派なものなのだけれど、やっぱり大浴場いいなあ、と思ってしまう。

「……それで、この画像の意味はなんなんだろう。ミスだったらそのうち、何かしらのアナウンスがあると思うけど」

「他に文章とかも書かれてないしねー。単純に考えれば、ここに行け、ってことかな」

 那子さんと葵がタブレットを見つめ考え込む横で、僕はふと自分の腕時計の画面を操作してみた。OQのクエストフォルダを再びチェックしてみるけれど、この画像の他に新しく追加されているものは見当たらない。

「……ん?」

 しかしそのとき、僕の頭の中で何か引っかかるものがあった。違和感を感じたのは、先程生徒会室でゲットした、『バスケットゴールに3ポイント×3』という指示。

「……っ、そうか!」

「?」

 急に大きな声を上げた僕に、三人は揃って不思議そうな顔をした。僕は興奮で体が熱くなるのを感じながら、この不可解な現象について説明するべく口を開いた。

「この画像は、葵の言う通り次の目的地だ。僕達は、シュートノルマを達成したんだよ!」

「ん、んん? ちょっと待って楓。シュートはまだ達成できてないよね? だって、琉が一回決めただけじゃん」

 葵のその疑問は、一見もっともらしく感じる。だけど、違う。そもそも、『3ポイントシュートを決めなければならない』というのが、僕達の大きな勘違いだったのだ。

「指示には、『バスケットゴールに3ポイント×3』と書いてあったよね? 僕たちはこれを『3ポイントシュートを三回決めろ』と解釈したけれど、実はそうじゃなかったんだ。『3ポイント×3』。つまり、九点分ゴールを決めれば、この指示は達成だったんだ」

「……!」

 三人の表情が、はっとしたものになる。まず、葵と琉君がランニングシュートを決めて、2ポイント×2で四点。その後琉君が3ポイントシュートを成功させたので、足して七点。そしてついさっき那子さんがゴール下からシュートを決めたことで、見事九点に達したのだ。

「……うわー、なんか、すげー意地悪な感じだな。これ気付かないで永遠にクリアできない奴絶対いるだろ……」

 琉君の言葉に、僕も苦笑いを返す。運が悪ければ僕達も、朝までシュートを続けていたかもしれないのだ。想像するだけでも、恐ろしい。

「ただ僕としては、得点をリアルタイムで正確にカウントした仕組みのほうも気になるところなんだけどね……」

「あ、それならたぶんあれだよ」

 僕がついでにそんな素朴な疑問をぶつけると、葵はぴんと人差し指を立ててコートのすぐ傍にある照明を指差した。え、照明? と僕は一瞬首を傾げかけたけれど、すぐに葵が指し示していたものは別のものだと気が付いた。葵が言っているのは、照明の脇にぶら下がっている半透明の球形をした監視カメラのことだ。

「あれって将来街中に犯罪防止とか追跡のために設置することが検討されてる、すごい高性能なカメラなんだって。人を見分けるのとかもそうだし、細かい判断もコンピューターが自動でやってくれるようにできてるらしいよ。うちの学校ってかなり自由な校風だけどさー、それが実現できてるのもこのカメラがそこらじゅうに張り巡らされてるからなんだって。すごいよね。大切な子どもたちを預かってるんだから、そのぐらいして当然だっておとーさんは言ってたけど」

「へえ……そうなんだ。……はは、それにしても、葵のお父さんはすごく葵のことを想ってるんだね」

 僕は学園の監視カメラ技術の高さに感心しつつも、葵の言葉の最後の方にすごく微笑ましさを感じてついそんなことを言ってしまう。変わった学校だから、きっと葵のお父さんも受験前に色々調べたんだろう。葵は僕の言葉に照れたのか、「え、あー、うーん?」と曖昧な返事をしていた。

「えーっとそれじゃあ次の指示ってことだけど、ここは男子陣と女子陣で一旦分かれるってことになる感じ?」

「……そうだろうね。女子寮は男子禁制だし」

 琉君がタブレットをバッグにしまいながらそう言うと、那子さんもこくりと頷きを返した。次の目的地は、画像にあった場所。僕と琉君は野球部の部室、葵と那子さんは女子寮の大浴場だ。

「よーし、じゃあそれぞれの場所で何か見つけたら、連絡取り合うってことで。それじゃあ、一旦バイバ……っくしゅっ」

「だ、大丈夫? 早くジャケット着なよ……」

 小さくくしゃみをした葵を見て、僕は慌ててコート外に脱ぎ捨てられていたジャケットを取りに走った。もうすぐ衣替えの季節とはいえ、夜風はまだまだひんやりと冷たい。ついでにお風呂に入ってあったまってきたら、と言いたいところだったけれど、さすがにそんな悠長にはしていられないか。今現在この意地悪なシュートノルマをクリアできた人は、何人くらいいるのだろう。

そんなことを気にしつつ、僕と琉君の男子陣、葵と那子さんの女子陣はここで一旦別れた。僕達男子が目指す野球部の部室は、色々な部活の部室が密集している部室棟という建物内にある。部室棟はグラウンドのすぐ脇にあって、近代的なデザインが多いこの学校にしては珍しくコンクリート造りの古き良き校舎といった外観をしていた。先程まで僕達がいた本校舎とは違い、こうして夜に見るとちょっと不気味な感じだった。真っ暗な廊下の両脇にずらりと並ぶドアを次々と懐中電灯の光で照らしながら、僕達は奥へ奥へと進んでいく。

「……お、ここじゃん、野球部」

 そして一階の突き当たりにやってきたところで、琉君が足を止めた。見るとドアの上部に、『野球部』の文字がある。ドア脇には御馴染みの白いプレートも存在していたので、僕と琉君は揃って腕時計をかざした。するとピッ、と電子音が鳴り、画面には『2ポイントゲット』の文字が表示された。しかしそれ以外には特に何も起こらなかったので、僕達はドアノブを回して中に入ってみることにした。幸い鍵はかかっていなかったため、すんなりと侵入に成功する。室内は、しん、と静まり返っていて、僕達以外に人の姿は見当たらなかった。

「ええっと……ぱっと見た感じ、特に変わったものは見当たらないね」

 部屋内をぐるりと見渡してみるも、そこは本当に何の変哲もないただの部室だった。壁際に配置された細長いロッカーに、ベンチの上に置かれた茶色のグローブ。床には年季の入った感じのバットとボールが大量に詰まっている籠が置かれていて、鼻をつくのは汗とカビ臭さが混じったような独特の匂い。アニメ学園なんて呼ばれる変わった学校だけれど、こうしてスポーツに勤しんでいる生徒もちゃんと存在していたということだろう。

「……」

 そのとき、すっ、と琉君が部室の床にしゃがみ込んだ。そして籠の中からボールを一つ取り出すと、どこか真剣な表情でその手元に視線を送る。すぐ脇に置かれた懐中電灯の光が、そんな琉君の大きな背中をぼんやりと照らしていた。

「琉君?」

 僕が声を掛けると、琉君ははっとしたように顔を上げた。

「……ん、いや、懐かしーなと思って。オレ、中学の時野球部だったんだよね」

 琉君はひょいとボールを軽く上に投げると、ぱしり、と片手でキャッチする。

「へえ、そうなんだ。ポジションはどこだったの?」

「ピッチャー」

「え、すごい! 一番花形じゃん!」

 僕が思わず身を乗り出すと、琉君はちょっと照れくさそうに、はは、と笑った。琉君は体格もいいし、さっきのバスケのシュートを見ても運動神経がいいことは明らかだ。きっと、常にスタメンにいるような選手だったのではないだろうか。

「高校ではやらないの? 一応、うちの学校でも野球部はあるみたいだけど」

「うん、やらない」

 僕のそんな質問に、琉君は迷うことなく即答した。まあたしかに、部活動は中学まで、という考えの人も少なくないだろう。現に僕も中学では卓球部に所属していたけれど、高校では帰宅部だし。

「や、実はさ、二年の冬くらいに結構まずい怪我しちゃって。それで野球はやめたんだ」

「……え、あ、そうだったんだ……」

 その琉君の言葉を聞いて、僕はつい数秒前の自分の発言に反省の念を抱く。知らなかったとはいえ、根掘り葉掘り聞いて琉君には嫌な思いをさせてしまったかもしれない。

「まーでも、今はこんな面白れー学校に通ってるわけだしさ。もう野球の事はそんなに恋しくねーんだよな。もー日々クエストで忙しいったら」

 琉君はそんな僕の様子に気付いたのか、ちょっと冗談めかしてそんなことを言う。その気遣いが嬉しくて、僕は微笑みを返した。

「ってわけでー、はいどーん」

「!」

 すると突然そんな掛け声と共に、琉君は目の前の籠を勢いよくひっくり返した。当然ぶわあああ、と籠からは大量の野球ボールが零れ落ち、部室の床を元気に跳ね回る。

「ど、どうしたの、琉君……」

「おー、ビンゴ。まさか一発目で見つかるとはな」

 僕はその奇行に困惑するけれど、琉君はにやりと笑みを浮かべて空になった籠の中を覗き込んでいた。僕も顔を近づけてみると、籠の底の部分にラミネート加工されたシートのようなものが貼りつけられていることに気が付いた。そしてそこに印刷されている黒い細かな模様には、どことなく見覚えがある。

「これ……QRコード?」

「だなー。しかも、見てみろよここ。『部室1/2』って書いてある。ってことはー」

 琉君はそう呟くと、ばっ、とすぐ脇にもう一つあったボールの籠をひっくり返した。すると空になったその籠の底にも、同じようにQRコードが貼りつけられているのが確認できた。そしてそのコードの右下には、『部室2/2』の文字が書かれている。

「このQRコードを読み取ればいいってことかな。書かれてる数字の分母が2ってことは、これでこの部室にある手がかりは全部っぽいし」

 僕は肩に掛けていたバッグからタブレットを取り出すと、カメラモードを起動してバーコードリーダーを選択した。そして二つ並んだ籠の底のQRコードを読み取ろうとするも、暗いせいで中々上手く認識できない。月明かりの差し込む窓際に移動して、さらに琉君に懐中電灯の光を上手い具合に当ててもらうことで、ようやくなんとか読み取ることに成功した。

「……これは」

「なんかの……暗号? っぽいな」

 僕と琉君は、揃ってタブレットの画面に展開されたデータを覗き込む。そこに映し出されていたのは、謎のアルファベットの羅列だった。左下には、『部室 1』というナンバリングもされている。そして画面をスライドさせると、再び似たようなアルファベットの羅列が現れた。しかし今度は左下に『部室 2』と書かれていて、右下には猫らしきイラストの左半分だけが途切れるようにして描かれていた。

「……多分これ、何かもう一つの暗号と組み合わせて解くんじゃないかな」

 僕はナンバリング2、猫のイラストが半分だけ書かれたほうの暗号の画面を指差した。猫が半分しか書かれていないというのは、意図的なものに違いない。きっともう半分が描かれた暗号がどこかに存在していて、それと組み合わせることで完全なものになるという仕組みなのではないだろうか。

「でもこっちにはないってことは……大浴場のほうにあるってわけか」

 琉君の呟きに、僕はこくりと頷きを返した。絶対とは言い切れないけれど、おそらくその可能性は高いだろう。僕はタブレットを操作し、とりあえず手に入れた二つの暗号のデータを葵へと送信した。

「!」

 するとすぐに、葵からボイスコールがかかって来た。電話に出て話を聞くと、あちらはまだ寮に着いておらず、もう少し時間がかかると思う、とのことだった。女子寮は校舎群からだいぶ離れた場所にあるから、それは当然のことだろう。僕は「焦らなくていいから、暗い中怪我とかしないように気を付けて」と伝え、通話を切った。

「……さてと、それじゃあ片づけるか。これ」

「……はは、そうだね」

 こうしてとりあえず後は葵たちからの情報待ちとなった琉君と僕は、苦笑いを浮かべて床に大量に散らばった野球ボールを見つめた。さすがに、これをこのままにしておくわけにはいかないだろう。僕達はいそいそと、ボールを拾っては籠の中へと戻していく。するとやがて底に貼りつけてあったQRコードは見えなくなり、再び何の変哲もないボールの籠が出来上がった。こうして見ると、琉君が真っ先に籠をひっくり返すという発想に至ったのは、かなりすごいことだったのではないかというふうに思えてくる。普通だったら、まずはロッカーを開けるだろう。

 今現在、僕達のクエストの進行度が生徒達の中でどのぐらいの位置にいるのかはわからない。だけどなんとなく、クリアに手が届きそうな場所にはいるような気がした。


「お待たせー! 二人共ー!」

 そんな元気な声とともに、葵は昇降口のドアをくぐり抜けてこちらへとやって来た。その後ろには、ヘッドホンを耳に着けた那子さんの姿も見える。昇降口の隅に設置されたベンチに腰掛けてタブレットの画面と睨めっこしていた僕と琉君は、揃っておー、と片手を挙げた。

「そっちもお疲れー! 遠かったっしょー?」

 琉君はにこりと白い歯を見せて微笑み、遠い女子寮のほうまで足を延ばしてくれた二人に労いの言葉を掛ける。大浴場のほうで無事に葵達も暗号を発見し、僕達はこうして数十分ぶりに合流を果たしたのだった。

「よーし、それじゃあ、謎解きの時間といこうか!」

「そうだね。あ、でも一部はもう解けたよ」

 やる気満々といった様子で向かいのベンチに腰掛ける葵に、僕は手元のタブレットの画面を見せた。二人が来るまでの待ち時間の間に、一部の暗号の答えは導き出せていたのだ。画面に表示されているのは、僕達が見つけた『部室 1』とナンバリングされた暗号。『□HN□K』といった具合で所々に四角の空欄が混じったアルファベットの羅列で、空欄に当てはまる文字を考える、というタイプの暗号だった。

「すごい……もう解けたんだ」

「私達もデータ送られてきたときパッと考えてみたけどさあ、わかんなかったよね」

 那子さんと葵は、そう言って感心したような視線を僕に向けてくる。それにちょっと照れくさくなりつつも、僕は暗号の解説を開始した。

「このアルファベットは、あるものの頭文字を表しているんだ。ちなみに英語じゃなくて、この場合はローマ字表記の頭文字だね」

「ふーん? って、それ聞いてもまったく思い当たらないんだけど……」

 葵はうーん、と顎に手を当てながら、タブレットの画面に表示された暗号を凝視する。しばしその様子を窺っていたけれどどうやら答えは出ないようだったので、僕は手のひらを葵の前に突き出して言った。

「答えは、これ。指の頭文字だよ」

「指……? あっ」

 葵も気付いたようで、自分の手のひらを持ち上げじいっと視線を送る。そう。これは、五本の指の名称の頭文字だ。Hは人差し指で、Nは中指、Kは小指。つまり空いている箇所には親指のOと、薬指のKが入るのだ。

「そしてもう一つの暗号も、考え方としては大体同じ感じのものだよ」

 次に僕は画面をスライドさせて、猫のイラストが描かれた暗号を画面に表示させた。これは『部室2』と『大浴場2』のナンバリングがされた、二つの暗号を合体させたものだ。案の定大浴場のほうには猫の体のもう半分が描かれた暗号があり、それをぴったりと繋げることで『SMTWT□S』という一つの暗号を完成させることができたのだ。

「これは、曜日の頭文字。英語でサンデー、マンデー、チューズデー……、ってこと。空欄の部分はフライデーだから、Fが入る」

「……なるほど」

「さっすが、楓だよなぁ」

 僕の説明を聞き、那子さんと琉君はそれぞれそんなコメントを返してくれる。しかし今現在僕が解けたのは、ここまでだった。残るもう一つの暗号は、これからみんなで解かなければいけない。僕はタブレットを操作すると、『大浴場 1』の暗号を画面に展開させた。

「……わ、なんかかわいーね」

 表示されたのは葵がそんな感想を述べるのも頷ける、まるで絵本の中の一ページのようなどこかほのぼのとした画像だった。今までにあったようなアルファベットの羅列とは大きく異なり、画面一杯には方眼紙のようなマス目が広がっている。左上のマスにはうさぎのイラストと共に『スタート/ゴール』の文字がある。他にも、岩のイラストや矢印のマークがマスの所々に見られた。

「……迷路、みたいな感じなのかな」

「えーっと、ルール説明読んでみよう」

 那子さんがぼそりと呟くのを聞いて、僕は画面の下部にあった『ルール説明』の文字に指で触れた。すると暗号がいったん消え、ずらっと説明文が表示される。

「……えーと、簡単に言うと、岩以外の全部のマスを一回ずつ通って、再びスタートのマスに戻ってくればOK、ってことだね。ただ、矢印のマスはその方向に向かって進まなきゃダメって制限があるみたい」

 僕は文章にざっと目を通すと、とりあえずそんな感じで簡潔にルールを整理してみた。障害物や方向指示など特殊な条件はあるけれど、広義で言えば一筆書きということのようだった。迷路というよりかは、パズルとか脳トレといった区分に当てはまるような感じだ。

「うーん、なるほど……。なんとなくだけど、これならオレらでも解ける気がするな」

「確かに。さっきのアルファベットのやつよりはいけそうだよね」

「……適当に線引いてたら、偶然正解に辿り着くっていう可能性もありそう」

 そう言いながら三人はそれぞれ、自分のタブレットを取り出して手に抱える。やる気満々なその様子に頼もしさを感じつつ、僕はちらりと画面の時刻表示を確認した。現在時刻は、午後十時十八分。普段だったら、もう眠りについていてもおかしくない時間だ。だけど不思議と眠気は感じず、むしろどんどん目が冴えていくような気さえした。

「……よし」

 僕は人差し指を持ち上げ、画面に広がるマス目に指を走らせた。周りでは三人も、真剣な眼差しで同じ仕草をしている。四人がかりで挑めば、きっとこの一筆書きパズルもすぐにクリアすることができるだろう。

 月明かりの差し込むベンチに腰掛け、僕達は一心不乱に画面を見つめ続けるのだった。


「……はあー……、やべぇ、マジでわかんねー……」

 そう言ってドンッ、と膝の上に載せたタブレットの画面に顔を突っ伏したのは、琉君だ。ベンチの上で大きな体を折り曲げて、そのままぴくりとも動かなくなる。

「なんかもう、何でこんなに解けないのかがわかんない……。だって、そんなに回答パターンのあるようなやつじゃないよね? これ」

 僕の向かいのベンチで葵もふらりと体を傾かせると、隣に座っていた那子さんの膝の上にどっかりと倒れ込んだ。那子さんは驚いた様子でタブレットを持っていた手を上に上げたけれど、一応どかしはせずに葵に膝枕をしてあげることを容認したようだった。

「……」

 僕は無言で、辺りが暗い中白く強い輝きを放つタブレットの画面をじっと見つめた。映し出されているマス目やうさぎのイラストは、もうちょっと見るのがしんどくなってきていた。琉君や葵がああなってしまう気持ちも、大いに理解できる。

 表示されている現在時刻は、午後十一時三分。この一筆書きパズルに挑戦し始めてから、もう四十五分程が経過している。だけど僕達は一向に、このパズルの正解に辿り着けないでいた。葵の言うように、どうしてこんなにも解けないのか、それがまったくわからない。マスの数はおそらく五十くらいで、そこまで多いわけでもない。四人がかりで色々なパターンを試していけば、そのうち正解に辿り着けるはずだった。しかしいくら指を動かして線を引いても、行き止まりにぶち当たったり、矢印の指示に沿わなくなってしまったりの繰り返し。これでもかというくらいに考え尽くしたのに正解が出ないというこの状況では、もう閃きみたいなのが舞い降りてくるのを待つしか方法はないようにさえ思えてきてしまう。ほのぼのとした絵本のようなイラストのパズルなのに、まさかこれほどまでに難易度が高いとは。諦めたらそこで終わりだからなんとか向き合い続けるしかないのだけれど、何の策もない頭ではただの手の運動になるだけだった。

「……こうなったら、奥の手を使うしかないな」

 そんな疲労感が漂う空気の中、ふっ、とタブレットに突っ伏していた琉君はゆっくりと体を起こした。僕達が視線を向けると、琉君はうーん、とベンチの上で大きく伸びをする。

「……人は、一人では生きて行けない。困ったときは、お互い様。今こそ、助け合いの精神を発揮するときだ! オレ達の力では限界だというのなら、誰かの力を借りればいい。頭が良さそうな知り合いに、このパズルを解いてもらうよう協力を要請しよう!」

 琉君は格言のようなものを交えつつ、ぐっ、と体の前で拳を握り締めた。その言葉に、異論を唱える者はいない。僕達だけではもうお手上げだということが、この長い時間を費やしたことでみんな理解できてしまっていたのだ。だけど僕はちょっと気になることがあったので、まずはその点を確認してみることにした。

「でも、それってアリなの? ほら、例えばネットの使い方で言うと、クエストの暗号を自分で調べるのはオッケーだけど、掲示板とか質問サイトでピンポイントに答えを得るのはアウトなんじゃなかったっけ。リアルの知り合いに聞くのは、セーフなのかな……」

 僕はこれまでに何度か謎解き系のクエストに参加したことがあったので、そこらへんのルールを少しは把握していた。だけど調べなければならないほどの難解な謎には運良く出会わなかったこともあり、詳細についてはまだまだ知識が浅かった。

「もちろん。人脈も立派な力だからな、そこは問題ないぜ」

「……それに、クエストは途中からでもチームに加わることも可能だから。もし相手が望めばチームに組み込んで、クリア時に報酬が行き渡るようにすればいい」

「そっか……。それなら、その方向で考えたほうがいいかもなあ……」

 琉君と那子さんの言葉を聞いて、僕はふーっと深く息を吐いた。今回のパズルを解く力となれなかったことには、もちろん悔しさもある。そもそも琉君たちが協力者が可とされていることを知っていながら今の今までその提案をしなかったのも、できれば自分たちで解きたいという気持ちがあったからなのだろう。だけど、ここは決断の時だという気がした。琉君の言う通り人脈も力なのだから、胸を張って前に進むのみだ。

「ってことは、クエストに参加してない人を当たってかないといけないよね。……でも私の友達っていうと、大抵参加しちゃってるような気がするなー」

 そう言うと葵は那子さんの膝の上に寝転がったまま、タブレットの画面を指でスクロールさせた。きっと、学園の名簿を呼び出して片っ端から目を通しているのだろう。実はタブレットに初めから内臓されている名簿は、アドレス帳の役割も兼ねている代物だ。名簿上の名前を選択すると、ボイスコールやメッセージのやり取りができるようになっている。つまりは連絡先交換なんてものをするまでもなく、学園の生徒同士ならば自由にダイレクトに繋がることができてしまうのだ。

「……ん」

 そのとき、僕の頭の中にある人物の姿が思い浮かんだ。学園内で出くわした時には互いに挨拶をして、少し世間話をする。だけど友達と言うにはちょっとおこがましくて、知り合いと言うには冷たすぎる気がする、そんな微妙な間柄。

「……」

 僕はタブレットを操作し、学園の名簿から一年生のページを選択した。そしてずらりと並ぶ生徒の名前の中から、『立木康直』の文字を見つける。黒縁の眼鏡を掛けた、どこかおとなしそうな雰囲気のする男子。立木君は以前話したときに、授業は全部応用コースを選択していると言っていた。ということは、かなり頭がいいに違いない。そして立木君は、学園内のイベントにはあまり興味がないようだった。だからおそらく、今回のOQには参加していないはずだ。

「お、どうした楓。良い感じの奴見つけたか?」

「……う、うん。ちょっと……連絡してみる」

 琉君に脇からタブレットを覗き込まれ、僕はこくりと頷きを返した。立木君の名前に指で触れ、若干緊張しつつもボイスコールの発信を選択する。

「……」

 プルルルル、という呼び出し音を聞きながら、もしかしたら寝てしまっているかもしれないな、と遅ればせながらそんなことを思った。時刻はもう十一時を過ぎているし、停電中ときたら起きていてもやれることなんて何もない。クエストに参加するのでなければ、普通はさっさと寝てしまうだろう。だとしたらこうしてコール音を鳴らすのも迷惑だろうし、もう切った方がいいかもしれない。そう思い、画面の切断ボタンに触れようとしたときだった。プツッ、と小さな音が響き、画面に表示されていた『呼び出し中』の文字が『通話中』へと切り替わった。

『……もしもし?』

「え、あ、立木君……」

『花巻君? こんばんは』

 いつも通りの立木君の、穏やかな声がタブレットのスピーカーから響き渡る。立木君はここから遠く離れた場所でこの通話をしているはずなのに、なんだかすぐ目の前にいるような錯覚がした。

「こ、こんばんは……。ごめんね、夜遅くに。もしかして、寝てたかな」

『ううん、起きてたよ。ちょっと、今日の授業の復習しておきたくて』

 その立木君の言葉に、僕は思わず、え、と目を丸くした。

「あれ、でも今停電中だよね? 暗い中、大変じゃない?」

『や、それがタブレットだからさ。暗くても特に支障はないんだよね。技術の進歩に感謝、ってところかな』

 立木君はそう言って、はは、と控えめに笑い声を上げた。言われてみればたしかにタブレットの画面は自ら発光しているから、この停電の中でも紙媒体と違って使用に大きな困難は生じないのだろう。しかしそうはいっても、大抵の人はこんな日にわざわざ授業の復習なんてしないだろう。立木君が勉強熱心な人ということが、ひしひしと伝わってくる。

『それで……何か僕に用事だったのかな?』

「あ……、うん。えっと……」

 立木君に尋ねられ、僕はようやく本題を切り出した。

「その……実は今僕、クエストに参加してるんだ。この停電を解消するって目的のやつなんだけど、それをクリアするために必要なパズルがどうしても解けなくって。立木君なら解けるかな、と思って連絡してみたんだ」

『……パズル? へえ……どんなのだろ。ちょっと、気になるね』

 ここで断られてしまったらおとなしく諦めるしかなかったけれど、どうやら立木君は少しこの話に興味を持ってくれたみたいだった。僕は「ちょっと待ってて。今データで送るね」と一旦通話を切ると、画面を操作してパズルのデータを立木君のタブレット宛に送信した。すると数秒後に、ピピッ! とメッセージの着信音が僕のタブレットから上がる。見るとそこには、『はじめて見る感じのパズルだね。少し考えてみる』という立木君からの言葉が綴られていた。

「……どう? 楓、いけそう?」

 そう言うと葵はひょこっと那子さんの膝の上から体を起こし、僕の顔を覗き込んでくる。画面から目を離してそちらを見ると、葵だけでなく琉君と那子さんも僕を期待の込もった眼差しで見つめていた。おそらく葵達の知り合いは、既にクエストに参加していそうな人がほとんどだったのだろう。今現在立木君は、僕達四人にとってまさに頼みの綱となっているということのようだった。

「うん、すごく頭がいい子だから、可能性はあると思う」

 僕は真っ直ぐに三人を見据え、そう正直な気持ちを述べる。だけどだからといってただ黙って待つというのは悪い気がして、僕は再びあのパズルのデータを画面に呼び出した。もううんざりするほど眺め回したパズルだけれど、改めて挑戦したら今度こそ何かヒントや取っ掛かりみたいなものを発見できるかもしれない。

「……よし」

 僕は気合いを入れ直すべく、ぺちり、と軽く自分の頬を両手で叩く。そして再び、タブレットの画面との睨めっこを開始するのだった。


「……お」

 ピピッ、という電子音が鳴り響いたのは、それから十五分程が経った頃のことだった。手元のタブレットの画面には、新たなメッセージを受信したとの文字が浮かぶ。確認してみるとそれは立木君からで、文章はなくデータファイルだけが一つ送信されてきていた。僕は逸る気持ちを抑えながら、人差し指を持ち上げて画面を操作しそのデータを展開させる。

「!」

 そして、息を呑んだ。目の前に映るのはもう見るのも嫌になるほどに見尽くした、あの一筆書きパズル。しかしそのマス目には、ずらりと黒い線が引かれている。僕は画面の隅から隅まで目を走らせて、空欄のマスがないか、指示に背いている部分がないかをはらはらと確認していく。スタートから伸びた線は、すべてのマスを完璧に通って再びゴール地点へと終着していた。これが、このパズルの解答。自分で考えていたときにはどうしても辿り着けなかったのに、こうして正解を見るとこう線を引く以外にないじゃないかという気持ちになってしまうから不思議だった。僕の周囲では葵達も、「すげー!」「天才だー!」と言って歓喜に沸いている。僕はその興奮の熱を保ったまま、左腕を持ち上げて腕時計の画面に指を走らせた。選択したのは、この華麗な答えを導き出した人物の名前だ。

『……あ、花巻君。データちゃんと届いてたかな』

 呼び出し音が途切れるなり耳に飛び込んできたのは、そんな立木君の声だった。僕はすうっと息を吸い込むと、少し早口になってしまいながらも今心の中にあるありったけの思いを吐き出した。

「すごいよ、立木君……! 僕達なんて、いくら考えてもまったく解けなかったのに!」

『……はは、たまたまだよ。中々難しいパズルだったね。それに、結構時間かかっちゃって……』

「……っ! そんなことないよ! めちゃくちゃ速いって!!」

 僕の言葉を聞いても、立木君は謙遜するばかりだ。どれだけ僕達が感動しているのかが伝わっていないようなのが、ものすごくもどかしい。だけどおそらく、これを繰り返していてもいたちごっこだ。そこで僕は、立木君にある一つの現実的な提案をするべく口を開いた。

「それで……立木君も、僕達のチームに参加しない? その、もちろん、今から合流するのが面倒だったら、後は僕達が頑張るからさ。だけどこのパズルを解いてくれたのは立木君だし、もしクリアできたときにはちゃんと報酬が受け取れるように……」

『はは、お誘いありがとう。でも僕は……いいかな』

 しかし僕が最後まで言い終わる前に、立木君のそんな声がスピーカーから響いた。僕は一旦口を噤むけれど、立木君が遠慮している可能性を考えて再び口を開いた。

「えっと、今回のクエストはOQっていう特別なクエストだから、クリア報酬もかなり豪華なものになるんだ。学園内で使えるポイントも結構もらえるはずだから、絶対に損はしないはずだよ」

『……うーん、そうなんだね。でも僕、ただ単にそういうのにあんまり興味がないんだ。面白いパズルを解かせてもらって頭の体操にもなったから、こっちとしてはもうそれで十分だよ。ありがとう』

「……そ、そっか」

 だけど、立木君の意思は変わらないようだった。クリアした場合に報酬を受け取ってもらえないというのは非常に残念ではあるけれど、本人が興味がないと言っているものを無理強いはできない。

「それじゃあ、今度ジュース奢るよ」

 この学園では水とお茶は0ポイントで買えるけれど、ジュースはポイントがかかる。学生の間の奢り奢られといえばジュースが定番なので、僕は代わりにそんな提案をしてみた。

『あ、いや、いいよ。実は僕、甘いものってそんなに好きじゃないから』

「う、そ、そっか」

 しかし、またしても立木君からは断られてしまう。僕としてはやっぱり何かお礼がしたいのだけれど、一体何をすれば立木君は喜んでくれるだろうか。そんな風に考え込んでいると、ふいにスピーカーからぼそりと立木君の呟きが聞こえた。

『……だから、コーヒーでお願いしたいかな』

「!」

 その瞬間、僕の心の中をぶわっと温かい風が通り抜けていった。立木君の声色は今までの遠慮するようなものとは違い、心を許した友達に向けるような、そんな人懐っこさを感じさせるものだった。僕は嬉しさで頬を緩ませながら、すうっ、と息を吸い込む。

「……うん! わかった、じゃあ、今度コーヒーごちそうするよ!」

『はは、ありがとう。楽しみにしてるね』

 僕と立木君は、互いにそう言葉を交わす。電話だから当然相手の姿は見えないけれど、きっと画面の向こうでは、立木君も笑顔になってくれているような気がした。

「やったな、楓!」

 そうして立木君との通話を終えると、琉君が白い歯をニッと覗かせながら僕の肩に腕を回してきた。僕もにこりと笑みを返すと再びタブレットの画面に向き直り、立木君が解いてくれたパズルの『判定』ボタンに指で触れた。すると、ピンポーン、という正解音が鳴り響き、画面には三つの暗号を解いたことで『complete』の文字が表示された。続けて、新たなデータファイルがクエストフォルダ内に収まったのを確認する。

「……資料室、だって」

 そのデータを展開させて出てきた三文字を、僕は読み上げた。他に写真や説明のようものは添付されておらず、そのシンプルさはOQの初めに校内の色々な場所をたらい回しにされたことを思い出させた。

「今までの感じからすると、そこに行けってことだよね?」

「資料室ってどこだ? なんとなく、本校舎にありそうな感じはするけど」

 葵と琉君がそう言って僕の画面を覗き込む横で、那子さんは自分のタブレットを持ち上げ何やら操作をしていた。そしてぴたりと手の動きを止めると、画面をこちらに向けてぼそりと呟いた。

「……資料室は、三階にあるみたい。ここを真っ直ぐいったところにあるエスカレーターから行くのがいいと思う」

 那子さんの手元にあるタブレットには、校内の見取り図が表示されていた。僕達はそこにある『資料室』の位置を確認すると、揃ってこくりと頷いた。


「……そういや、全然見かけなくなったよな。生徒達」

 三階へと続くエスカレーターに乗りながらそう呟いたのは、琉君だった。辺りは相変わらず真っ暗で、僕達の持つ懐中電灯の光だけが白く輝いている。聞こえてくる音といえば僕達の息遣いと、こうしてお喋りをする声だけだった。

「……たしかに。もうみんな、飽きて帰っちゃったのかな」

 僕はすぐ隣、エスカレーターの同じ段に乗っている琉君にそう言葉を返す。昇降口でパズルと格闘していた最初の三十分くらいは、生徒達が行き来する姿をちらほらと見かけることがあった。だけどそれ以降は、まったく他の生徒と遭遇していない。

「それか、まだみんなバスケで詰まってて体育館にいるとかね。まあそこをクリアしたとしても、あの鬼難しいパズルがあるからさー。こうして資料室に向かってる人は、まだほとんどいないんじゃないかな」

「お、それじゃあ、オレたちが最前線ってことか!」

 そんな葵の言葉を聞いて、琉君は目を輝かせる。それを見て那子さんは、「まだそうと決まったわけじゃない」と冷静に釘を刺していた。

 そのまま僕達はエスカレーターに乗り続け、もうすぐお目当ての資料室がある三階、というところまでやって来る。すると那子さんは肩に掛けたバッグからタブレットを取り出し、画面に見取り図を表示させてもう一度資料室の位置を確認していた。

「……エスカレーター降りたら、左に曲がって」

「りょーかい」

 那子さんの指示を聞くと、琉君はひょいひょいと残りの階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。「あ!」と僕達もそれを追いかけようとしたところで、違和感を感じて足を止める。琉君はエスカレーターから三階へと降り立ったところで、向こう側のどこか一点を凝視したままぴたりと動かなくなってしまっていたのだ。

「……琉君?」

 僕が声を掛けても、琉君の反応はない。僕は葵と那子さんと顔を合わせて首を傾げるも、とりあえず琉君の傍まで行ってみることにした。

「!」

 そして僕達も、ようやく琉君の不可解な反応の理由を理解した。琉君、そして今は僕達もいる廊下のすぐ先には、複数の生徒の姿があったのだ。その生徒達は、左側から伸びる廊下からこちらへと顔を出したばかり、といった様子だった。そしてその先頭に佇んでいる女子生徒を、僕は知っていた。学園内でデュエルと呼ばれる対人戦をしているのを何回か見たことがあったし、いつだったか琉君に名前を教えてもらったことがあった。そう、彼女は……。

「う、うわー! ビビった! 魔王軍じゃん!」

 そのとき後ろにいた葵がそんな大声を上げたので、僕は驚いて一瞬びくっと肩を跳ねさせた。少し先の廊下では、じっと黒髪のミディアムヘアの女子がこちらに目を向けている。彼女は別名魔王とも呼ばれる、三年生の響架先輩だ。どこか高貴なオーラを漂わせるその背中には、いつか見たときのように黒いマントが揺れていた。

「……あなた達、一年生?」

 そう問い掛ける響架先輩も、僕達と同様に驚いている様子だった。僕達は学園の有名人であるという先輩に話しかけられ、「あ、はい、そうです……」と慌ててこくこくと頷いた。

「……っ、おい、お前ら、OQ参加者か?」

 すると、すっと、響架先輩の後ろから二つの大きな影が出てきた。現れたのはそっくりの顔をした男子生徒が二人で、どちらの背中からも響架先輩と同じく黒いマントが伸びている。おそらく双子であろうその二人は僕達を値踏みするかのように、じいっと険しい視線を送ってきていた。

「あ……はい、そうっス」

「……どこまでクリアした?」

 先頭にいた琉君がそう答えると、続けてそんな質問がやって来た。しかし今度は琉君はすぐに答えずに、僕にちらりと視線を向けてきた。……馬鹿正直に全部喋ってしまっていいのか、おそらくそういうことを迷っているのだろう。目を見ただけでそれを悟った僕は、琉君に代わって口を開いた。

「……一筆書きのパズルを含む、三つの暗号を解いたところです。そして、次に表示された目的地に向かっているところでした」

 これなら『資料室』という単語を口にしてはいないから、もしも響架先輩達がそこまで辿り着いていなかった場合でも手柄を横取りされる心配はないだろう。僕の言葉を聞くと、双子の男子は揃って眉間に皺を寄せた。そしてくるりと、これまた二人シンクロした動きで体を反転させる。

「響架様、こいつらマジっぽいです」

「これは、ほっとくわけにいかないかと」

「ふうん、そうね……」

 双子が少し焦ったような口調でそう言うと、響架先輩は何かを考え込むような様子ですっ、と顎に人差し指を当てた。その仕草はやけに様になっていて、かっこいい。響架先輩は双子を押しのけると、再び先頭へと躍り出た。そしてにやり、と不敵な笑みを浮かべると、正面にいる僕達にじいっと視線を注ぐ。

「まさか入学したばかりの一年生が、私達と肩を並べるとはね。正直驚いたわ。それで私達もあなた達と同じように、これからその目的地に向かうところなのだけれど……ふふ、どうする? 早い者勝ちということで、そこまでの道のりをかけっこでもする?」

「……!」

 そう言われ、僕達の目はつい資料室が存在するであろう廊下の先の暗がりへと向いてしまう。資料室にどんな指示が待っているのかはわからないけれど、早くそこに辿り着くに越したことはないという気がした。もしかしたら、資料室に辿り着いた瞬間にクエストクリア、なんていう可能性もありえるのだから。

「……だけど、それはあまりスマートではないわね。というわけで、そんなに足腰に力を入れなくていいわよ」

 響架先輩はくすくす、と笑うと、今にも資料室へと駆け出そうとしていた僕達をそう言葉で制した。僕達はう、と顔を引きつらせ、言われた通り体から力を抜く。思えば響架先輩達は僕達よりもほんの少しだけれど資料室に近い場所にいるから、突進していったところであの双子に阻まれてしまうだけだろう。それに本当に早い者勝ちで決着をつけるつもりだったなら、そもそも響架先輩達はこんな話をせずにさっさと資料室へ飛び込んでいる。だけどそうしないということは、何か別の目的があるということに違いなかった。

「私の経験上、そろそろこのクエストもクライマックスだと予想しているの。つまり、この先がラスボスってこと。そしてこれはOQだから、ラスボスを倒せるのは一チームだけ。端的に言うと、あなた達をこの先に行かせたくないのよ。ラスボスがどういう種類のものかはわからないけれど、その場所に着いただけでクリアというものかもしれないし」

 響架先輩はそう言うと、ふーっ、と一度長く息を吐いた。そして再び僕達を見据えたときには、その目は飢えた肉食獣のようにぎらつきを帯びていた。

「だから、デュエルで勝負しましょう。勝った方が、この先に進むことができる。どうせクリアできるのは一チームなんだから、ここで蹴落とされても同じことよね?」

「……っ!」

 その物言いに、僕達は情けなくも怯んでしまっていた。廊下の暗がりに佇む響架先輩の全身からは、自信のようなものが際限なく溢れ出ている。自分たちが勝つことを微塵も疑っていないその姿は、敵でありながらかっこいいの一言だった。

「そうだ! お前たちみたいなひよっこ、俺らでこてんぱんにしてやる!」

「双子のコンビネーション、見せつけてやるぜ!」

 するとまたもや双子が響架先輩の後ろから飛び出して来て、揃って左右対称に腕を斜めに突き上げる妙なポーズを取った。しかしそんな気合い十分といった様子の双子に、響架先輩はさらりと言葉を投げ掛けた。

「あ、ハルマキは下がっていなさい。今回は私とひかちゃんで片をつけるから」

「「!」」

 響架先輩にそう言われると、ハルマキ、という謎の名称で呼ばれた双子は、すすす、と持ち上げていた腕を同時に下ろした。そしてちらりと、後方、響架先輩よりもさらに奥の方へと目を向ける。そこで初めて、僕達は向こう側にもう一人人がいることに気が付いた。そこにいたのは、頭に大きな黒い魔女のようなとんがり帽子を被った小柄な女子生徒。栗色がかったロングヘアをしていて、背中には御馴染みの黒いマントが揺れている。そして目を引くのは、傍らに背丈にほど近い大きさの箒を携えていることだった。

「あ、ひかる先輩じゃん! ってことは、魔王軍勢揃いじゃねーか……」

「……知ってるの?」

 僕が尋ねると、琉君はこくりと頷いた。そしてすっと僕の隣まで下がってくると、こそこそと小声で耳打ちをしてくれた。

「まず黒髪の巻き髪の先輩が、『魔王』(いずみ)響佳(きょうか)先輩だろ。……って、これは前言ったっけか。そんでその傍らにいる双子の先輩が、服部(はっとり)遥真(はるま)先輩、春樹(はるき)先輩。まあ、どっちがどっちかオレには見分けつかねーけどな。んで、魔女帽被ってんのが、吉村(よしむら)ひかる先輩。全員三年生で、この四人で『魔王軍』勢揃いだ」

「……へえ」

 僕は改めて、目の前にいる四人の先輩を見つめた。ぱっと見た感じ四人はかなり個性的な感じで、それぞれに共通点のようなものは感じられない。一体どういうわけで、こうしてつるむようになったのだろうか。なんとなく、気になるところだった。

「えー、あたし出るの?」

「もちろん。ハルマキは応援席ね」

 響佳先輩にご指名を受けた魔女帽の女子、ひかる先輩はちょっと面倒臭がっているような感じだった。だけど本気で嫌がっているわけではないようで、それ以上文句を言ったりはしない。双子の遥真先輩と春樹先輩も、「ラジャッ! 全力で応援します!」と揃って敬礼のポーズをしていた。

「……一応、ハンデはつけてくれるみたいだね」

 そのやり取りを見て、那子さんがぽつりと呟いた。響架先輩が僕達に提案しているデュエルとは、モンスター相手ではなく人対人で対戦するゲームのことだ。僕も今までに何度か、葵達とデュエルをして遊んだことがある。そうしているうちに学んだことは、このゲームは素早さや攻撃力といった各個人のステータス値が高いほう、そして高いプラス効果のついた武器を使っているほうが有利であるということだった。もちろんどのタイミングでどのマスに移動してどう攻撃するか、といった戦略も大事だけれど、ステータスの値や武器の性能の占める割合はかなり大きい。

 つまりそれは言い換えれば、僕達一年生が三年生の魔王軍に勝つことはかなり難しいということだった。なぜかというと入学したばかりの僕達のステータスはほぼ初期値で、武器だって初期装備のままだ。一方魔王軍は入学から二年の歳月が経っており、その間にこつこつとステータスを強化し続け、武器もより強い武器に変えているはずだ。どう考えても、魔王軍側が有利である。

 そこでこの差を解消するために、響架先輩はハンデをつけてくれるようだった。遥真先輩と春樹先輩の双子コンビはデュエルに参加せず、響架先輩&ひかる先輩VS僕達四人、という対戦構図にしてくれるらしい。二対四ならば人数的に考えてこちらが有利になるし、ステータスが劣っているにしても工夫を凝らせば勝機は見えてくるはずだ。

「……良心的だな」

 僕は思わず、ぼそりとそう呟いた。『魔王』というと悪者というイメージが僕の中にはあるのだけれど、目の前に佇む響架先輩は正々堂々とゲームを成立させようとするスポーツマンそのものだった。言動が少し高飛車な感じだったりはするけれど、普通に良い人なんじゃないだろうか、この人。

「で、どうするよ? 乗るか?」

 琉君はそう言って、僕達一人一人に目を向ける。その問い掛けに、葵はしゃきん、と腰から剣を引き抜いて答えた。

「そりゃーもちろん、売られた喧嘩は買うに決まってるっしょ!」

 そしてずかずかと前方に歩いて行くと、ビシイッ! と響架先輩の鼻先に銀色に輝く剣を突きつけた。

「私達のOQ初クリアがかかってますからね! 魔王軍ぶっとばして、先に進ませてもらいますよ!」

 そんな葵の挑発に、響架先輩はにいっと攻撃的な笑みを返す。

 こうして真夜中の校舎内で、魔王軍VS僕達一年生のデュエルは幕を開けたのだった。


 互いにデュエル用にチーム登録をし認証ボタンを押すと、僕達が立っている長い廊下の床は一斉に光り輝き始めた。御馴染みのゲーム用の緑色のマス目が、廊下の天井近くにちらほらとあるプロジェクターから床に投影されているのだ。停電中で辺りが真っ暗ということもあって、それはまるで天の川のように綺麗な光景だった。しかしいつまでも見惚れているわけにはいかないので、僕達は廊下の端のほうにある赤いマス、スタート位置へと移動する。響架先輩とひかる先輩は、僕達と反対側の廊下の端がスタート位置となっていた。

「……何か、作戦ってある?」

 僕は右手で自分の武器であるブラックガンをぎゅっと握りながら、一マス挟んで隣のスタート位置に立っている葵に尋ねた。僕も何度かデュエルの経験はあったけれど、それはステータスにそこまで差がない者同士で遊びでやっただけに過ぎない。明らかに格上との対戦は初めてだし、どう立ち回ればいいかがいまいちよくわからなかった。

「んー、そうだね。とりあえずパネル開くの優先で、攻めなくていいからとにかく逃げ回るって感じかな。攻撃範囲には敵じゃなくて味方を収めるようにして、積極的に回復技使ってこう」

「ん、了解」

 その言葉で、まだまだデュエル初心者の僕にも葵のこの作戦の意図が伝わった。つまり、アレを狙うということだろう。たしかに、人数では上回っていても僕達と魔王軍とのステータスには大きな差がある。しかるべきときに一気に攻撃をするというのは、悪くない作戦だ。

 全員がスタート位置である赤いマスに収まったことで、いよいよデュエルがスタートする。廊下の真ん中辺りにある部屋のドアからはひょこっと遥真先輩と春樹先輩が顔を覗かせて、「響架様ー! ファイトです!」「ひかるさんー! ガンバです!」と応援の声を送っていた。その声に応えるようにして、響架先輩、続いてひかる先輩が動く。二人は一直線に前方へ十マスほど進み、一気に廊下の中ほどまでやって来た。デュエルにおける行動順は、ステータスの素早さの値の大きさで決まる。当然僕達ではなく魔王軍から動き始めることとなり、それだけでもかなり向こうにとって有利な状況であると言えた。しかし二人の攻撃範囲は、まだ僕達のいるマスには届いていない。結果パネルを捲るだけに留まり、僕達はノーダメージのままだ。

「よっしゃー! こっちのターンだ!」

 自分の行動順が来た葵はそう叫ぶと後方へ三マス移動し、即座に位置確定を行い足元のパネルを捲った。すると『攻撃力UP!』の文字が現れるけれど、それは残念ながら僕達が狙っているものではない。次に琉君、那子さんと続いて同じように数マス進んでパネルを捲るけれど、その結果も同様だ。そしてデュエルに参加しているメンバーの中で一番遅い行動順である、僕の番がやって来る。一マス後ろに下がった位置でパネルを捲ってみるも、『防御力UP!』の文字。これも、はずれだ。

 ここで、再び魔王軍のターンとなる。二人共僕達から七、八マス離れた位置まで迫るけれど、攻撃範囲には入らなかったようで今回もパネルを捲るだけで終了。僕達もまたちまちまとマスを移動するけれど、お目当てのパネルは現れてくれない。

 そして次の響架先輩のターンで、ついに僕達のチームに初ダメージが生じてしまうこととなった。琉君と那子さんを攻撃範囲に収めた響架先輩は、すっ、と胸元から茶色がかった木の棒……杖を取り出した。

「ふふ……ようやく攻撃が届くところまで来たわね。二人共、闇に抱かれて眠りなさい。ダーク、トルネード!」

「!」

 素早く杖の上に親指を滑らせコマンドを入力すると、響架先輩は技名と思われるものを発しながら勢いよく杖を振り下ろした。すると琉君と那子さんに向かって黒い竜巻のような映像が迫り、二人の体力ゲージは一気に三割近くも削られてしまった。

「やべぇ……いきなり必殺技じゃん……」

 琉君は自分の体力ゲージを見つめ、引きつった笑みを浮かべる。しかし、これで終わりではなかった。次の行動順は、ひかる先輩。ひかる先輩は大きな箒を抱えて数マス前方へと進むと、ぼそり、と呟いた。

「アイス、ミスト」

 すると今度は、琉君一人に向かって氷の粒が舞う映像が襲いかかった。

「うわあ、またオレかよ!」

 琉君はそう言って、思わず顔を手で覆う仕草を見せる。しかしそんなことをしても防げるはずは……と思いきや、あれ? 琉君の体力ゲージは先程響架先輩の攻撃を受けたときのまま、変化がなかった。

「……っ、まずい、氷漬け」

「え?」

 那子さんが焦りを色濃く滲ませた声で言ったので、僕はもう一度琉君の体力ゲージに注目してみた。すると体力ゲージの上部、Yasumoto Ryuと名前が書かれた横に、先程までにはなかった氷のマークが出現していることに気が付いた。……状態異常。攻撃の中には単純に体力ゲージを減らすものの他にも、こうした厄介な搦め手の技も存在するのだ。

「やばい、このままだと琉が移動できない! 火属性攻撃で溶かすんだ!」

葵はそう言って、たたっ、と琉君のすぐ近くのマスまで走ると銀色の剣を薙ぎ払った。炎が琉君へと迫る映像がマス上を流れるけれど、名前の横の氷のマークは消えない。どうやら、何度か繰り返さないといけないみたいだ。僕も琉君を攻撃範囲に収めて『火弾』という火属性攻撃を何度か撃ち込むけれど、くそっ、琉君の状態異常は回復しないまま、魔王軍のターンへと移ってしまった。

「ふふ、まずはあなたから退場いただこうかしら」

 そう言って響架先輩はにやりと笑みを浮かべると、再び琉君をターゲットにして攻撃を加える。必殺技は一度使うと再び使えるようになるまでにいくらかの時間を要するため、今回の攻撃は通常技だった。だからさっきの攻撃よりもダメージ量は少なかったけれど、それでも手痛いことに変わりはない。さらにひかる先輩も、完全に琉君を狙い撃ちにする。こうして集中的に一人を狙うことで、まずこちらの人数を減らすことが目的なのだろう。人数の差は大きなアドバンテージなのだから、こちらも黙ってはいられない。とにかく琉君が早く動けるように、火属性攻撃を繰り返し叩き込む。

「……おっしゃ! 解除された!」

 そして何度目かの葵の攻撃時に、ようやく琉君は氷漬けから解放された。動けるようになった琉君は歓喜の声を上げると、すぐさま響架先輩達から離れたマスへと移動する。琉君の体力ゲージは残り四割といったところまで減少してしまっていたので、那子さんと僕は回復技を使って支援した。

「……逃がさないわよ」

 しかし響架先輩は、容赦なく琉君を追いかける。琉君から数マス離れた場所で位置確定を行い、ぺらりと足元のパネルが翻る。そしてそのまま攻撃……といこうとしたところで、響架先輩の動きはぴたりと止まった。

「!」

 僕達の耳に、独特のメロディが聞こえてくる。響架先輩はぎりっと唇を噛んで、おざなりに杖を振った。琉君に向かって黒い闇のオーラが迫るけれど、体力ゲージの減少は先程までの攻撃とは比べものにならないくらい微々たるものだった。

「……ひかちゃん!」

「わかってる!」

 響架先輩に名前を呼ばれると、ひかる先輩はたたっとAPを目一杯使ってマスを移動した。そしてパネルを捲るも、そこには『防御力UP!』の文字。メロディは、今も尚流れ続けている。

「来たー! 全員、総攻撃!」

 葵は待ってましたとばかりにそう叫ぶと、響架先輩に向かって大きく剣を振りかぶった。すると響架先輩の体力ゲージは、一割ほどごそっと減少する。

「おー!」

 次に琉君もそう雄叫びを上げると、黒いグローブを嵌めた両手をシャドーボクシングのように細かく動かした。響架先輩が苦い顔になり、再び体力ゲージが減少する。続いて那子さんも、手に持った杖を振り下ろす。僕も銃口を真っ直ぐに向けて、トリガーを引いた。この攻撃ラッシュで、響架先輩の体力ゲージは一気に四割ほど減ってしまう。自分のターンが来たところで、響架先輩は僕達から逃げるように遠くのマスへと駆けて行った。ひかる先輩もさらに遠くのマスへと逃げつつ、響架先輩に回復技をかけていた。

「ふっふふ! どうですかきょーか先輩! やられる側の気分は!」

 葵は剣を構え、再び響架先輩へと迫る。響架先輩は悔しそうに顔を歪めるけれど、どうすることもできない。今は、僕達一年生チームの無双状態だった。頭上では、今も絶え間なくメロディが流れ続けている。

 このゲームは、基本的にステータス値の高い方が有利だ。だけどそれでは、そもそもゲームをしなくてもステータスの差を突き合わせることで大体勝敗がわかってしまう。それでは、つまらない。だって勝負というものは、お互いの力が拮抗してこそ楽しいものだからだ。

 そこでこのゲームには、ある特殊な効果を持つパネルが採用されていた。それが、リバース・タイム。このパネルを踏むと、辺りには独特の音楽が流れ始める。そしてこの音楽が流れている間は、攻撃時に敵味方のステータスが逆転するという現象が起きるのだ。つまり今の僕達一年生のステータス値は、響架先輩のものとごっそり入れ替わっている。これこそが、先程から僕達がちまちまとパネルを捲っていた理由だった。まあ結局、リバース・タイムを引き当ててくれたのは敵である響架先輩だったのだけれど。

 というわけで、僕達はこれを機にどんどん攻撃を繰り出す。僕達はまだ必殺技を持っていないからすべて通常技での攻撃になるけれど、響架先輩のステータス値は素晴らしく、一度の攻撃につき一割ほどゲージを削ることができていた。一方魔王軍は廊下を逃げ回り、パネルを捲ることに専念する。この逆転現象を終了させるには、再びリバース・タイムのパネルを捲らなければならないからだ。

「……ゲージ・チェンジ」

 足元のパネルが不発だったことを確認したひかる先輩は、箒を手にぼそりと呟いた。必殺技であろうそれは、おそらく回復技だ。僕達も魔王軍と同様にまずは人数を減らすことを考えて集中攻撃を加えていたから、今現在響架先輩の体力ゲージは残り二割という大ピンチに陥っていた。普通に考えてひかる先輩の選択としては、回復技を繰り出す以外にないだろう。

「……え?」

 しかし今の回復技でどれだけ響架先輩のゲージが戻ったかを確認しようとした僕は、思わず目を疑った。床に投影されている響架先輩の体力ゲージは一ドットも減っておらず、満タン。フルに回復してしまっている。まさか。僕の顔から、さーっと血の気が引いていく。それじゃあ今まで僕達が叩き込んだ攻撃は、意味がなかったというのか。

「……! 入れ替わってる、体力ゲージ」

 那子さんははっとした声で言うと、顔を俯けてひかる先輩の体力ゲージへと目を向けた。それで、ようやく僕も気付く。今の必殺技で、響架先輩の体力ゲージがフルに回復したわけではない。ひかる先輩の体力ゲージの値と、入れ替わったのだ。その証拠にひかる先輩の体力ゲージは、僕達が必死に減らした二割の値を示している。

「時間稼ぎ、ってことだね」

 葵はそう呟くと、剣を片手に響架先輩ではなくひかる先輩へと狙いを定め駆け出した。まずは人数を減らすことが最優先だから、この葵の判断は正しいと言えるだろう。しかしひかる先輩は僕達から少し離れた位置にいるので、そちらへ向かうまでのマスの移動に費やすAP量は大きくなってしまう。そしてそのぶんコマンド入力に使えるAPも減るため、いくらか攻撃の威力も落ちる。ひかる先輩の狙いは、それだった。このままだと響架先輩がやられてしまうのは明らかだったから、せめて自分がやられてしまうとしても数ターンの時間を稼ごうとしたのだ。その目論見通り、葵、琉君、那子さんと攻撃を加えても、ひかる先輩の体力ゲージは削りきれなかった。しかし、やはり残りわずかだった体力ゲージだ。次の僕の攻撃で、とどめを刺してしまえそうだった。僕はぎゅっとブラックガンのグリップを握りしめ、ひかる先輩を攻撃範囲に収めて位置確定を行う。すると、ぺらり、と足元のパネルが翻った。

「……あ」

「!」

 その瞬間僕だけでなく、葵、琉君、那子さんも顔を引きつらせた。頭上に流れていた音楽は、ぴたり、と止まり、辺りは一気に静かになる。まさか、このタイミングで? と、僕はおそるおそる顔を下に向ける。そこに記されていたのは紛れもなく、『リバース・ タイム』の文字だった。

「バカ! 楓!」

「っ! ごめん!!」

 葵に吠えられ背を丸めつつも、僕はひかる先輩に向けてトリガーを引いた。しかしリバース・タイムが終了し本来の自分のステータスに戻った今では、ひかる先輩の体力ゲージを削りきることができない。かろうじて残った体力ゲージを見つめて、ひかる先輩は大きな魔女帽の下でほっとした表情を浮かべていた。

「ダーク・レイン!」

「うげえええ!」

 そしてようやく反撃ができるようになった響架先輩は、必殺技名を叫びながら迷うことなく琉君へと杖を振り下ろした。その攻撃で、先程氷漬けになったときに残り四割まで減らされていた体力ゲージはさらにごっそりと減ってしまう。そして命乞いをする暇もないまま、次のひかる先輩のターンで琉君の体力ゲージは完全に吹き飛ばされてしまった。

「ナイスです! 響架様! ひかるさん!」

 その華麗な展開を目の当たりにし、ギャラリーである遥真先輩と春樹先輩が歓声を上げる。図らずもこの原因となるパネルを捲ってしまった僕は顔を凍りつかせて、琉君のアルファベット表記の名前が光の粒子となって消えていくのを目で追った。

「ご、ごめん琉君……僕が」

「なーに、こっからだ! オレは、応援に回るぜ!」

 琉君は励ますようにあっけからんと言うと、バシッ、と僕の背に喝を入れて双子のいる向かいの部屋へと身を滑り込ませた。そして双子と張り合うようにして、大声で声援を送り始める。残された僕、葵、那子さんはその声に応えるようにこくりと頷きを返すと、再び逃げ回りながらパネルを次々と捲っていく作業へと取り掛かかった。そんな中魔王軍が次にターゲットに選んだのは、那子さんだった。

「……!」

「那子さん!」

 しかしお目当てのパネルはそう簡単には現れてくれず、本来の実力を取り戻した魔王軍の総攻撃で琉君に続き那子さんの体力ゲージもゼロになってしまった。これで僕達の人数のアドバンテージはなくなり、二対二。……ダメだ。ステータス値が大幅に違うのだから、早くリバース・タイムのパネルを引き当てないとこのまま負けてしまう。戦線を離脱した那子さんが応援席である琉君の元へと駆けて行く後ろ姿を見つめながら、僕の頭にはただただ焦りだけが浮かぶ。

「次は、あなたね」

「……っ!」

 そしてにいっ、と不敵な笑みを浮かべる響架先輩が、目の前に迫る。どうやら次のターゲットは、僕らしかった。黒い闇のオーラが足元に纏わりつき、体力ゲージが一割ほど減る。それに追随してひかる先輩にも攻撃を叩き込まれ、また一割減った。やばい。僕はできるだけ遠くのマスに逃げて、ひたすらパネルを捲る。

「楓っ……!」

 葵もパネルを捲りつつ回復技を支援してくれるけれど……ダメだ。ダメージ量が大きすぎて、到底追いつかない。僕の体力ゲージは確実に減って行き、残り二割というところまできてしまう。くそっ。このまま僕も、やられてしまうのか。先輩相手に勝つということは、たとえハンデがあっても無謀だったということなのだろうか。

「……!」

 そんな風に気持ちが萎えかけていたそのとき、ふっ、と僕は顔を上げた。鼓膜を揺らすのは、あの独特なメロディ。弱きが強きを挫くことができる、希望の音色。下を見てみると、僕の足元のパネルには、『リバース・タイム』の文字が記されていた。

「……やった! 行け、楓!」

「……っ!」

 葵が握り拳を頭上に突き上げるのを視界の端に捉えながら、僕はブラックガンの銃口を偶然攻撃範囲内に入っていたひかる先輩へと向けた。そしてAPを目一杯使ったコマンドを入力すると、人差し指でトリガーを思いっきり引いた。

「……あーあ」

「なー! ひかるさーん!!」

 残りわずかだった自分の体力ゲージが吹き飛ぶ様子を見て、ひかる先輩はつまらなそうに舌を出した。そして大きな箒を引きずりながら、悲痛な叫び声を上げる双子のもとへすごすごと歩いて行く。その向かいの部屋から顔を出す琉君と那子さんからは、拍手と歓声が沸き起こっていた。

「ナイス楓! これいけるよ!」

「葵……うん!」

 にっこりと笑顔でグーサインを向けてくる葵に、僕は銃を持つ手にぎゅっと力を込めて頷きを返した。ひかる先輩が退場したことで、残るは響架先輩ただ一人。こっちは僕と葵の二人がいるし、おまけに今はステータス値が逆転するリバース・タイム。響架先輩にパネルを引き当てられる前に体力ゲージを削りきれば、勝てる!

「よくもひかちゃんを……今に見てなさい!」

 響架先輩はきっと僕を睨み付けるけれど、すぐに背中を向けて逃げの姿勢となる。この音楽が流れている間は、響架先輩の攻撃はほとんど意味を為さない。

「おりゃー!!」

 一方葵と僕は、水を得た魚のように躍動して攻撃を叩き込む。葵は剣を振り回し、僕は銃のトリガーを引きまくる。その度に魔王軍の応援席からは悲鳴が上がり、響架先輩はぎりっと唇を噛み悔しそうな表情を見せた。だけどもちろん攻撃の手を緩めたりはせず、ついに響架先輩の体力ゲージを残り一割というところまで減らすことに成功した。次の葵のターンで、この長かった戦いの幕も下りるだろう。

「……えっ」

 しかし僕達はここに来て、『魔王』を名乗る者の引きの強さを痛感することになる。頭上を流れていたあのメロディが、突如ぷっつりと途切れたのだ。僕、葵、琉君、那子さんの四人は、思わずぽかんとした顔で天井を見つめてしまう。

「ダーク、トルネード!」

「……うわっ、嘘っ……!」

 響架先輩は僕達の理解が追いつくのを待ってはくれず、速攻で必殺技名を発した。すると黒い竜巻の映像が足元に迫り、僕の体力ゲージは瞬く間に吹き飛んでいった。きらきらと、僕の名前のアルファベットが宙に溶ける。あまりの急展開に、僕はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。

「……ふぅ、やっとね。随分と焦らされたわ……」

 響架先輩はやれやれと言った様子で息を吐くと、じろりと今や自分以外の唯一の生存者となった葵に目を向けた。まさか、嘘だろ……? 僕はふらふらと琉君達のいる応援スペースへと向かいながら、何が起こったのかを頭の中で整理した。僕達を鼓舞してくれていたあのメロディは、もう聞こえない。つまり響架先輩がパネルを引き当てて、リバース・タイムを終了させたということだった。

「さあ、どうぞ逃げ回りなさい。といっても、もちろん追いかけて叩き潰すだけなのだけれど」

「かっこいいい! 響架さまああ!!」

 この奇跡の逆転劇に、双子は陶酔しきったように声を張り上げる。ひかる先輩も声こそ出さないけれど、ドアから身を乗り出して食い入るように戦いの結末を見ようとしていた。今勝利を確信しているのは、僕達ではなく魔王軍のほうだった。僕達が逆転するには葵が再びリバース・タイムを引き起こす他ないけれど、これまでの移動で辺りには空のマスが多くなっている。果たして、間に合うかどうか。

「……っおい!」

 すると僕の隣で琉君が、焦ったような声を上げた。その理由は、すぐにわかった。葵が、すっ、と響架先輩の目の前のマスへと移動したからだ。それは逃げ回って再びリバース・タイムを狙うという、このゲームでの唯一の打開策を無視した行動だった。その葵の謎の動きに、味方である僕達だけでなく魔王軍の面々も目をぱちくりとさせる。

「……何? もう自棄になっちゃった? それとも仲間がいないと戦い方すらわからないくらいの、おばかさんだったということなのかしら」

「うーん」

 響架先輩の呆れたような問いかけにも、葵は曖昧な返事だ。コツ、コツと剣の峰を自分の肩に当て、リズムをとるような動きを繰り返している。一体、葵は何を考えているのだろう? この場にいる全員が目をクエスチョンマークにする中、葵はゆっくりと口を開いた。

「実は、言ってないことがあったんですよねー。きょーか先輩にっていうか、みんなに」

「……ふうん、何?」

 響架先輩は訝しむように目を細めたけれど、そのまま続きを促した。ギャラリーである僕達も、揃って葵の発言に注目する。

「停電が起こる、ちょっと前かな。暇だったから、寮で発生したクエストやってたんですよ。モンスターボコるだけの、簡単なやつ。で、そしたら……ゲットできちゃったんですよね、必殺技」

「!」

 言葉の最後で、葵はにっと口元を吊り上げた。すると響架先輩の目の色が変わり、さっきまで喜びを爆発させていた双子はさーっと顔を青くした。ひかる先輩もぎりっと静かに唇を噛み、魔王軍の周りの空気は一気に張りつめたものへと変化する。一方僕、琉君、那子さんの三人は、驚きのあまりリアクションがとれずただただその場で固まってしまう。葵が、必殺技を取得していた? まさか。だってこのゲームの最中、葵はずっと通常技しか使っていなかったじゃないか。

「初披露するなら、やっぱここぞってときにしたいじゃないですかー。というわけで、今がその時かなー、と。ふふ、最高の舞台をありがとーございます、きょーか先輩」

「……!」

 響架先輩は、じりっ、と思わず後ずさりかける。だけどそんなことをしても、意味はない。響架先輩の体力ゲージは、残り一割。リバース・タイムではない今、通常技ではそれを削りきることはできない。だけど必殺技でなら、いける!

「いっけええ! シルバー・ストーム!」

 葵は大声で技名を叫び、長剣を勢いよく振り下ろす。すると銀色の閃光が襲いかかり、響架先輩の体力ゲージは跡形もなく消し飛んだ。頭上では、デュエル終了を知らせる音楽が鳴り響く。眩い光の河はふっと消え、辺りは再び何の変哲もない真っ暗な廊下へと戻っていった。

「……っ!」

「響架様ぁー!」

 響架先輩はがっくりと床に膝を突き、心配そうな顔をした双子が傍へ駆け寄る。このゲームで実際に体にダメージが及ぶことはないから、これは響架先輩の演出のようなものだろう。入り込んでるなあ、と感心の念を抱きつつ、僕達も応援席にしていた部屋を飛び出し葵の傍へと移動した。

「……びっくりした。そんな隠し玉を持ってたなんて、気付けなかった。あたし達の完敗」

 ひかる先輩はぼそりと僕達にそんな賛辞の言葉を贈ると、ぐいっと響架先輩を引っ張り起こした。響架先輩はまだ少し悔しそうな表情をしていたけれど、立ち上がってポンポンと膝についた埃を手で払う。そしてすうっと一度深呼吸をした後、真っ直ぐに僕達へと目を向けた。

「……あなた達、名前を聞いても?」

 僕達は一瞬きょとん、と視線を合わせるけれど、すぐに一人ずつ名前を名乗った。

「……学園に現れし新たな風、歓迎するわ。次はハンデなしで、私達に勝ってみせることね」

 すると響架先輩は黒いマントを靡かせながら、僕達のすぐ脇を通り抜けていった。後ろには双子の遥真先輩と春樹先輩、そして大きな魔女帽にくいっと手を掛けたひかる先輩も続く。それは次の目的地である資料室があるほうとは、真逆の方向だった。

「……はい! ありがとうございます!」

 僕達は小さくなる魔王軍の背中に向かって、ぺこりと頭を下げた。そしてくるりと体を反転させると、長い廊下の一番奥へと目を向ける。さあ、いよいよ、OQもクライマックスだ。僕達は並んで、真っ暗な廊下を一歩前へと踏み出した。


「やー、マジびびったわ。葵必殺技持ってたなら先に言えよー」

「いや、言うつもりだったよ? だけどOQ始まったらさ、もーそれに夢中で忘れちゃってたんだよね」

 資料室のドア脇に取り付けられたプレートに腕時計をかざしながら、琉君と葵は先程のゲームについてそんな会話を交わす。ピッと電子音が鳴り響き、画面にはいつものようにわずかなポイントを取得したとのメッセージが流れた。どうやら目的地に到着しただけでクリア、とはいかないようだ。

「……でもそのおかげで、魔王軍を出し抜いて勝てたわけだし」

「そーそー! さっすがなーちゃん、いいこと言うね! もっと褒めてもいいんだよー!」

 葵はうりうりと、那子さんの頬に自分の頬を擦りつける。そんな葵の嬉しそうな様子を見ていると、僕もつられて笑顔になった。なのでそもそも序盤から必殺技を駆使していればもっと早く決着がついたのでは、という野暮な指摘はしないでおく。勝ったことに変わりはないし、二転三転する戦況にはみんな心踊らされたはずだ。

 そして琉君ががちゃり、とドアノブを回し、僕達はいよいよ資料室の中へと足を踏み入れた。中は廊下と同様に真っ暗だったけれど、部屋の前方には何か白く発光しているものが見えた。普段授業で使われているような、大きなスクリーンだ。そこには何か文章が表示されているようだったので、僕達は部屋の中央へと足を進めた。

 カチャリ。

「え?」

 すると突然後ろのほうで物音が聞こえたので、僕は振り返った。見ると僕達が今入って来たばかりのドアが、いつの間にかぴったりと閉じられていた。何か嫌な予感がした僕は、急いでドアへと駆け寄った。

「……っ、開かない! なんで……」

 しかしドアノブに力を込めてみるも、一向に回らない。こちら側には鍵のようなものは見当たらないし、外側から鍵を掛けられたということだろうか。

「……楓、これ電子ロックだ。廊下には私達の他には誰もいなかったし、たぶん遠隔操作でやられたんだと思う」

 すると葵は、ドアノブのすぐ脇に取り付けられた黒いプレートを指差した。見るとそこには、小さな赤いランプが点灯しているのが確認できた。なるほど。電子ロックならば、その場にいなくても遠隔操作でドアや鍵の開閉をすることができるだろう。とはいっても、それは誰にでも簡単にできるようなことじゃない。つまりこれは、学園側の何らかの意図によるものの可能性が高いということだ。

「なんか閉じ込められたっぽいが……とりあえず、スクリーン見てみようぜ」

 ドア付近で困惑の表情を浮かべる僕達に、琉君はくいっと親指でスクリーンのほうを指差して言った。たしかに、ここでドアノブをがちゃがちゃやっていても仕方がない。僕達はこくりと頷くと、再びスクリーンの前へと足を向けた。

「……! LAST、MISSION……」

「どうやら、これが最後の指示みてーだな……」

 スクリーンの一番上に書かれていた文字を見て、僕と琉君は思わず声を上げる。響架先輩の予想通り、やはりこの資料室が最終局面のようだった。僕は逸る気持ちを抑えながら、続く文字を慎重に目で追っていく。

『光の精霊に力を借りるには、3キロ分の供物を捧げなければならない。この部屋にあるものを駆使して、3キロ分の供物を用意しろ。数は一つでも、複数でも構わない。床に設置してある量りは一チームにつき三回まで使うことができ、三回目に表示された数値をファイナルアンサーとする。誤差として、前後100グラムまでを認める。正しい重さを表示できなかった場合、回答権は失効。次のチームへと移る』

「……なるほど。閉じ込められたのは、不正防止とか、その他諸々の都合って感じみたい」

 スクリーンの文章をすべて読み終えた那子さんは、納得がいった表情になって頷いた。今回の指示には色々と制限があるようだったから、一チームごとに閉じ込めてしまうのが一番都合がよかったのだろう。つまりOQをクリアするか、あるいは失敗して回答権が失効すれば外に出られるということのようだった。

「しっかし3キロって……5キロの米一袋の……半分よりちょい重いって感じ?」

「なんか、あんまりピンと来ないよね……」

 琉君の呟きに、僕は苦笑いで答える。普段物の重さを意識して生活なんてしていないから、これはなかなかの難問になりそうだった。しかも量りが三回……三回目は回答になるから、実質二回しか試せないというのも結構厳しい。

「まーでも、なんとかするしかないよね。とりあえず、色々見てみよう」

 葵はそう言って、部屋のあちこちへと懐中電灯の光を向けた。資料室と名のついているだけあって、そこは普段僕達が使っている教室よりも雑然とした空間だった。床には長机とパイプ椅子がいくつか置かれていて、大きな模造紙が飛び出している段ボール箱なんかも見える。壁際には本棚がずらりと並んでいて、中には本の他にも何かの資料がぱんぱんに詰まったファイルや、文房具類が収められていた。僕達はそれらを手当たり次第に持ち上げてみて、3キロという重さに近そうなものを探す。

「……これとかどうだ?」

 そう言って琉君がひょいと持ち上げたのは、パイプ椅子だった。僕も近くにあったパイプ椅子を一脚手に取り、その重さに感覚を集中させてみる。重さの目安となるものが何もないからただの勘にはなってしまうのだけれど、たしかに、3キロってこのくらいの重さのような気がした。

「いい感じだと思うよ。一回、量ってみよっか?」

 葵はそう言って、みんなに伺いを立てる。僕と那子さんがこくりと頷いたのを見ると、琉君はパイプ椅子を担いで白く発光しているスクリーンの前へと移動した。スクリーンの下の床の上には、銀色の薄い四角い板のようなものが置かれている。これが、量りだ。懐中電灯で画面を照らし数字がゼロであることを確かめると、琉君はそっと板の上にパイプ椅子を乗せた。僕達はその周りにしゃがみ込んで、数字が止まるのをじっと見つめる。やがてピッ、と量りから電子音が鳴り響き、パイプ椅子の重さが確定したことを知らせた。

「……2.4キロ、か……」

「意外と足りないもんだねー」

 琉君は数字を読み上げると、あちゃー、と額に手を当て、葵はうーんと首を傾げた。いい線はいっていると思ったのだけれど、3キロまではあと600グラムも足りていなかった。そしてこれで、回答以外で量りを使えるのは残り一回となった。

「ってことは、あとは600グラム相当のものを見つければいいってことだよね? 数は複数でもいいって書いてあったし、それをこの椅子と組み合わせればいいんじゃないかな」

「お、そうだねー。じゃあ、次はそっちの方向で考えてみよっか。えーっと、600グラムってことは、椅子の四分の一の重さ……」

 葵は僕の提案を聞くと、再びきょろきょろと室内を物色しにかかった。僕達も辺りに散って、今度は600グラム相当の重さに値するものを探し回る。さっきのパイプ椅子は予想よりも軽めの数字が出たから、感覚としてはこれだと思うものよりも少し重めのものをチョイスするのがいいかもしれない。

「あ、ねえねえ、これはどーかな」

 すると葵が良さそうなものをを見つけたようで、壁際の本棚から引っ張り出した何かをどさりと長机の上に置いた。近づいて見てみると、それは国語辞典だった。僕はその辞典を、片手、両手でなど色々な持ち方で持ってみる。しっかりした重みが腕にかかるけれど、パイプ椅子と比べたら全然だった。椅子の四分の一という微妙な範囲を、上手くかすっている気がする。琉君と那子さんも辞典を持ったり置いたりを繰り返し、手応えを感じたようだった。

「じゃあ、いくよ?」

「おー」

 そう言うと葵は少し上目使い気味になりながら、辞書を量りの上にそうっと載せた。話し合いの結果、僕達は重さの感覚を掴める最後の機会をこの辞典に賭けることにしたのだ。目まぐるしく画面の数字が増えていき、やがてピッ、と小さく電子音が響く。

「……うわ、ちょうど1キロじゃん。そんなに重いんだ、これ……」

 葵は辞典を量りから持ち上げると、うげーと苦い顔をした。この結果には、僕も驚きだった。もちろん600グラムぴったりになるなんて都合の良い考えはしていなかったけれど、ずれるとしても800グラムとかそこらへんだと思っていたのだ。だけど実際は、1キロ。狙いから、400グラムも外れていた。人間の感覚が、いかにいい加減なものかがわかる。だけど、今回の行動も決して無駄ではない。また一つ、重さの目安となるものを手に入れたことには違いないのだから。

「ええっと、それじゃあもう量りは使えないから、あとは自分たちの感覚だけで3キロを目指していくわけだけど……どうする? さっきと同様にパイプ椅子と組み合わせることを想定して、600グラムのものを探していくか、それとも今量った国語辞典と組み合わせることにして、2キロのものを追い求めていくか。どっちがやりやすいかな」

 僕は思考を前向きなものに切り替えて、これからとるべき行動の選択肢を提示してみる。正確に言うとこれらとは別にまた一から3キロのものを探していくという道もあるといえばあるのだけれど、それはいくらなんでも博打すぎる気がするので言わないでおいた。現実的に考えて、今まで重さが判明したもののどちらかと組み合わせるという道がベストだろう。

「うーん、どっちがいいのかな。600グラムっていまいちピンと来ないから、辞典三冊分って考えた方がわかりやすいような気はするけど」

「あ、オレもそー思う。つーか、その辞典が三冊あれば解決なのにな」

 葵に同意を示し、琉君は、ははー、と笑う。

「!」

 その言葉にはっとして、僕は壁際に並ぶ本棚へと懐中電灯の光を向けた。本棚の中はお世辞にも綺麗とは言えず、大きさも分類もばらばらな本やファイルが滅茶苦茶に詰め込まれているような感じだ。……もしかしたらこの中に、葵が見つけた国語辞典が複数冊ある可能性もあるのではないだろうか。

「……探してみよう。琉君の言う通り、三冊あるかもしれない」

「! え、マジで?」

 琉君は、冗談で言っただけだったのだろう。僕が真剣な目をして本棚を見つめていることに、かなり驚いている様子だった。もちろん、確証があるわけではない。だけどもし三冊見つかれば、これ以上の最適解はない。幸い本棚の数はそんなに多くはないし、四人がかりで調べればそんなに時間もかからないだろう。

「……」

「……那子さん?」

 すると那子さんが、無言のまま一直線に本棚の一角へと歩いて行った。そして迷うことなく、すっ、と一冊の分厚い本を引き抜く。その表紙が見えた瞬間、僕だけでなく、葵と琉君も「あ!」と声を上げた。那子さんが取り出したのは、さっき量りに乗せた国語辞典とまったく同じものだったのだ。

「……さっき本棚で、同じような辞典を見かけた気がしたから。一冊だけじゃなかったんだね、びっくり」

 那子さんは淡々と言うと、葵が長机に置いていた辞典の上へ今見つけたもう一冊の辞典を重ねた。これで1キロの辞典が二冊だから、合計で2キロ。あと一冊同じものが見つかれば、文句なしに3キロだ。

「う、うおおお! 二度あることは、三度ある、だろおおっ!」

「これいけるって! 手分けしてあと一冊、見つけよう!」

 琉君と葵はばっと素早く左右に散ると、懐中電灯の光で本の背表紙を次々と照らしていく。僕と那子さんも、二人がまだ手をつけていない本棚へと急いだ。そうしてみんなで目を皿にして探し始め、五分ほどが経ったときのことだった。

「……うおっ! やべっ、あったー!!」

 琉君はそう叫び声を上げると、すぽん! と本棚から勢いよく分厚い辞典を引き抜いた。表紙には、『国語辞典』の文字。葵、そして那子さんが見つけたものと、正真正銘同じデザインだ。

「……っ! やった!!」

 僕達は歓喜の声を上げ、イエーイ、と互いにハイタッチを交わした。これで、辞典は三つ揃った。つまりあとはこれらを量りの上に載せるだけで、念願のOQクリアだ。

「……長かったね」

 すると那子さんが、感慨深げにぼそりと呟いた。それを聞いて僕も、今日の夜から始まったOQクリアに向けて突っ走った道を思い出していた。校舎内を巡って、バスケのシュートをして、部室と大浴場で暗号を手に入れて。立木君の協力で難問パズルを解き、廊下で偶然出会った魔王軍とはデュエルで対戦をした。そして、この資料室での攻防。ふと腕時計を見ると、すでに日付は次の日へと移り変わっていた。

「それじゃあ、載せるぞ!」

「うん!」

 琉君は僕達一人一人に目を向けてから、三冊まとめて重ねた辞典を量りの上にそっと載せた。画面の数字が勢いよく増えていき、やがて、ピッ、と電子音が鳴り響く……。

「!」

 すると突然、ぱっ、と目に眩い光が飛び込んできて、僕達は反射的に目を閉じた。部屋の照明が、復旧したのだ。カチャリ、とかすかに聞こえた音は、ドアの電子ロックが解除された音だろう。僕は手で目元を覆いながら、おそるおそる瞼を持ち上げる。量りの画面に表示された数字は、3キロちょうど。清々しいほどの、ピタリ賞だった。

 すると遅れて腕時計から、チャラチャチャチャーン! と陽気な音楽が鳴り響いた。画面を確認すると『OQ 闇に囚われし学園 クリア!』の文字とともに、僕達四人の名前が表示されていた。さらに画面をスライドさせると、『3000ポイントゲット!』とクリア報酬も表示される。3000ポイントということは、実質3000円分と考えていい。さすがOQ、通常のクエストとは桁違いだ。

「ん?」

 そして獲得ポイントの下に、気になる表示を見つける。そこには『スター×5 ゲット!』の文字があった。

「お、やった! スターも報酬にあるじゃん!」

「……えっと、何? この、スター、って」

 腕時計の画面を見てガッツポーズを決める琉君に向かって、僕は尋ねた。僕も入学して随分と時間が経ってこの学園の独特のシステムにはわりと詳しくなったつもりでいたけれど、『スター』というものは初耳だった。

「お、楓はスター取得したの初めてか? スターはクエストとかで時々もらえることがあってさ、ポイントとはまた違ったお得なものなんだ。カタログみたいなのがあってさー、スターと商品が交換できるんだ」

「ほら、これだよ、スターカタログ」

 琉君はそう説明をしてくれて、葵はずいっと自分のタブレットの画面を僕に近づけて見せてくれる。そこに載っていたのは、米や果物などの食料品や、掃除機などの電化製品。さらに服や文房具、図書券や旅行券など実に幅広いものが揃っていた。そしてどうやら商品によって、必要なスターの量も違うみたいだった。

「……あ」

 その中で僕はある商品に惹きつけられ、画面をスライドする手を止めた。映っているのは、『ワンダーランドジャパン』という関東にあるテーマパークのチケットとホテル宿泊券のセットだ。画面にタッチすると、着ぐるみのキャラクターが子どもたちに手を振っている写真や、ジェットコースターに乗って両手を上げている学生たちの写真が出てくる。

「あ、WLJのパークチケットじゃん。楓好きなの?」

「え、ううん……というか、行ったことないから……」

 僕がそう言うと、葵は驚いたように目を丸くした。WLJは、日本で一番有名なテーマパークだ。一度も行ったことがない人なんて、中学の時もクラスで僕だけだった。

「そうなんだ? じゃあ、今度行ってみなよ! 子供から大人まで楽しめる感じで、すっごく面白いよ!」

「う、うん。そうだね……」

 そう言うと僕は再び、楽しそうなパーク内の様子を収めた写真に目を戻した。僕はもう高校生と結構な歳になってしまっているからそこまででもないんだけれど、下のきょうだい達は行きたがるだろうなあ。明衣や大我はもちろんだし、五十鈴もああ見えて子供っぽいところがあるから、行けることになったらきっと喜ぶはずだ。僕はこの商品に必要なスター数を確認し、それを家族の人数で掛け算してみる。……うわ、膨大な量になった。でも今すぐは無理でも、卒業までの三年かければ……。

「おーい、どうしたの? 楓」

「ん、ああ、いや……」

 画面を見つめたままぼうっと考え込んでいた僕に、葵が心配そうに声を掛けてくる。僕はちょっと迷ったけれど、今思ったことを口に出してみることにした。

「その……今は全然足りないんだけど。卒業までの間には、家族全員連れてここに行けたらいいな、って……」

「おー、良いじゃん! きっと行けるよ!」

 葵はそう言うと、にっこりと僕に笑顔を向けてくれた。葵は僕の家族構成を知らないので、この発言はあまり当てになるものではない。だけど僕はそう言ってもらえたことが嬉しくて、思わず目尻を緩ませた。


それから少し経ってから、僕達は校舎を後にした。真っ暗な深夜の道の所々には、僕達が復旧させた街灯のオレンジ色の光が見える。四人で並んで寮までの道を歩いていると、時折冷たい風が吹き付けてきた。だけど初めてのOQクリアという熱に浮かされていた僕にとっては、それも心地よく感じられたのだった。


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