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アニメ学園へようこそ!  作者: 天塚
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アニメ学園

「おいテメー、よくもあたしの前にのこのこ現れやがったな」

 そう言いながら少女は、スッと白銀に輝く長剣を振りかぶった。風を切る鋭い音と共に剣が振り下ろされると、遅れて少女のツインテールがふわりと揺れた。

「……ふっ、その程度の攻撃、痛くも痒くもないわ。修行が足りないんじゃないかしら」

 そう言葉を返すのは、黒髪のミディアムヘアの少女だ。その髪はくるくると綺麗に巻かれていて、相対しているツインテールの少女よりも随分と大人びて見える。黒髪の少女はおもむろに胸元から何やら茶色がかった木の棒のようなものを取り出すと、その手を前に突き出した。途端に、辺りから黄色い閃光が巻き起こる。

「ぐっ……」

 ツインテールの少女は両手を顔の前でクロスさせると、ぐっと体を沈み込ませた。黒髪の少女はそれを見ると、勝ち誇ったような表情で腕を組んだ。

「まだだ!」

「魔王は私らが倒す!」

 しかしそんな中、たたっと前線へと駆けてくる二人の姿があった。ツインテールの少女の仲間であろう彼女たちの手には、それぞれ銃と弓が握られている。黒髪の少女はそれを見ると、ふうっと面倒臭そうに溜め息を吐いた。

「まったく……どれだけやっても同じだというのに……。まあいいわ、ハルマキ、相手してあげなさい」

「「ラジャッ!!」」

 黒髪の少女が目線を送ると、後ろからぬっと長身の少年二人が姿を現した。二人は身長や髪型だけでなく、顔の造りまでが瓜二つだ。おそらく、双子だろう。そしてどちらの手にも、黒髪の少女のものと似たような木の棒が握られていた。

 それぞれが武器を構え、バチバチと睨み合う。

 そんな漫画やアニメの中のようなこの光景が、僕の学校では日常だった。



「えーっと、それじゃあ二者面談始めるぞー。花巻は……(はし)(みね)が第一志望だったな」

 梅雨ということで連日すっきりしない空が続いていた、六月中旬。放課後の教室で、僕の担任である早瀬(はやせ)先生は進路希望調査票に目を落としながら椅子へと腰掛けた。

「あ、いえ。僕は高校には進学しないで、中学を卒業したらすぐに働くつもりです」

 僕がさらっとそう言うと、早瀬先生の動きがぴたりと止まった。そしておそるおそるといった様子で顔を上げると、机を挟んで向かい側に座る僕と目を合わせた。

「……え、でも、調査票には第三志望まで高校の名前が書いてあるけど……」

「その、調査票を書いたときにはまだ気持ちが固まってなくて。とりあえず適当に高校名を書いたんです」

「そ、そうか……」

 早瀬先生は、まだ二十代半ばといったところの若い男の先生だ。噂では、受験生を受け持つのは今年度が初めてらしい。明らかに動揺を隠しきれていない様子で、額にはうっすらと汗が滲んでいた。

「……ええっと、花巻がその選択をした理由を聞かせてもらってもいいかな」

 しかし、いくら若くても先生は先生だ。早瀬先生は気持ちを立て直したようで、背筋を伸ばしてきりりとした表情で僕に問いかけた。僕はこくりと頷いて、口を開く。

「先生も知っているかもしれないんですけど、僕の家はきょうだいが多いので。少しでも家にお金を入れたいんです」

「ああ……そうだったな。えーっと、たしか五人きょうだいの長男だったか、花巻は」

「七人です」

「ん……そ、そうか。七人だったか」

 早瀬先生はぴらりと手元の紙を捲ると、調査票の下の紙へと目を通した。そこには、たくさんの数字や折れ線グラフのようなものが書かれているのが見えた。

「しかし……もったいない気もするんだがな。花巻は成績もいいし、高校だけじゃなく大学進学だって視野に入れていいくらいだ。……まあ、大学は別にしても、このご時世高卒くらいはないと就職するにしても非常に厳しいぞ?」

「それはわかってます。だけど、僕は特に将来なりたいものとかもないし、学びたいこととかも特になくて。あんまり進学する意味がないような気がするんです。それだったらやっぱり働いてお金を稼いで、下のきょうだい達にできるだけ多くの選択肢を残してあげたいな、って」

 早瀬先生は眉間に皺を寄せて、難しい顔をしている。やはり、就職希望の生徒など滅多にいないのだろう。どう対応すべきか、頭を巡らせているようだった。

「親御さんは、なんて言っているんだ」

「……え、あ、それは、まだ話してみてないんですけど……」

 僕がちょっとばつの悪い感じでそう答えると、早瀬先生は心なしかほっとした表情になったように見えた。そしてカチリとボールペンの上部をノックすると、調査票の用紙にすらすらとペン先を走らせた。

「とりあえず、親御さんに相談してみなさい。花巻の家には色々と事情があるのだろうけれど、もし進学が可能なのであれば先生はぜひその道を奨めたい。花巻は成績がいいから、公立高校に受かることは造作もないだろう。それとどうしても働くという道しかなかった場合でも、定時制や通信制という選択肢もある。やはり、高卒資格くらいはとっておくべきだと先生は思う。そこらへんも含めて、次の面談まで親御さんとしっかり話し合っておくように」

「……はい。わかりました」

 そう言うと僕は立ち上がり、ぺこりと一礼をしてから教室を出た。廊下で待機していた次の面談者であるクラスメイトが、僕と入れ違いになって教室へと入って行く。面談を終えた僕はすぐに部活へと戻るべきだったけれど、なんとなくそんな気分になれなくて廊下の端にある水飲み場へと向かった。蛇口をひねって喉を潤し顔を上げると、そこにはまだまだあどけない顔をした少年の姿があった。正面にある鏡が、僕の胸元あたりまでを映しているのだ。こんな大人とは程遠い少年が、一年後には汗を流して労働に勤しんで、家族を支える。そんなことは、やっぱり無謀なのだろうか。


 早瀬先生に言われた通り、僕は両親に進路について相談をしてみることにした。本当はこういう真面目な話はなんだか照れくさいのであまりしたくないのだけれど、ずるずると先延ばしにしてもしょうがない。僕が中学を卒業したらすぐに働こうと思っている旨を伝えると、両親共にものすごく驚いた顔をしていた。そして二人とも、せめて高校くらいは出ていてほしい、と口を揃えて言った。僕は「じゃあきょうだい達の手がかからなくなってから高校に通う」と言ったのだけれど、それは母さんにあっさり却下されてしまった。母さん曰く、「大人になってから勉強することは非常に大変だ」とのことだった。働いて家にお金を入れたい僕と、高校を卒業してほしいという両親。そんな両者の意見をふまえて考えた結果、一番ベストなのではないかと感じたのが通信制の高校に通うという道だった。働きながら高卒資格を得る方法としては定時制という道もあるけれど、調べたところ定時制は毎日学校に通わなければならず、さらに卒業に最低でも四年かかるということだった。それに対し通信制は月に二、三回学校に行くだけでよくて、順調にいけば三年で卒業できるらしい。それに定時制と違って給食費もかからないため、僕にとってはこちらのほうが魅力的に感じた。両親としては大多数の子と同じく全日制に通ってほしいようだったけれど、説得を重ねた結果、最終的には僕の意思を尊重して通信制に行くことを了承してくれた。

 というわけで僕は七月、もうすぐ夏休みという時期に行われた二回目の二者面談で、家から自転車で行ける距離のところにある公立の通信制高校を第一志望として口にした。

「……そう、か。そうだな、ここなら交通費もかからず通学できるし、日中フルで働けるしな……。入試は面接だけだし、ここの倍率は毎年0.5倍前後だから……落ちることはないだろう」

「は、はい……。だからあと問題は……就職先だけですかね? 大体日曜日にスクーリングがあるらしいので、日曜に休みがとれるような職種がいいかなとは思うんですけど……」

「……」

 しかしその言葉に対する、早瀬先生の返答はなかった。僕があれ? と思って顔を上げると、早瀬先生は机の一点を見つめたまま黙り込んでしまっていた。……面談の初めから、なんとなく早瀬先生の様子がいつもと違うような気はしていた。表情が暗いというか、なんだか思いつめている感じというか。もしかして、中卒での就職というのは僕が予想しているよりもはるかに難しいものだということなのだろうか。だとしたら就職ではなくアルバイトという形から入るべきか……なんてことをぐるぐると考えていると、ようやく早瀬先生が口を開いた。

「なあ、花巻。青春ってなんだと思う?」

「……え? 青春、ですか?」

 いきなりの突拍子もない質問に、僕は目をぱちくりとさせた。だけど正面にいる早瀬先生は冗談を言っている風でもなく真剣そのものだったので、僕は真面目に考え始める。

「えーっと、一生懸命部活で汗を流したり、学校行事で盛り上がったり、あとは……その、いわゆる恋愛関係とかじゃないですかね……」

 一番最後の部分だけは、もごもごと誤魔化すような感じの喋り方になってしまった。だけど早瀬先生はそれをからかうこともなく、真剣な眼差しのまま再び問いかけてきた。

「それじゃあ花巻。お前は中学生活を二年ちょっと過ごしてきたわけだけど、どうだ? その期間は、青春だったか?」

「え……」

 僕の頭に、ブカブカの学生服を着て初めて中学校の校門をくぐった入学式の日の光景が映し出される。それから日常の授業風景や、部活動の練習、体育祭や合唱コンクールなどの学校行事の記憶が、次々と頭の中を駆け巡っていった。

「う、うーん……どうだろう……。部活では特に活躍もしてないし、学校行事も、まあそれなりに楽しかったけど、普通に嫌なこととかもあったし。れ、恋愛に関しては、まったく縁がなかったわけで……。……まあその、悪いものではなかったけど、青春と呼ぶほど大層なものではなかったってところでしょうか……」

「……そうか。まあ、大抵の奴はそんな感じだと思うぞ」

 早瀬先生はそう言うと、ふっと笑みを浮かべた。僕は未だに早瀬先生の話の意図が掴めなくて、「は、はあ……」と曖昧に頷くばかりだ。

「先生の場合はな、高校生活が青春だった」

「え? あ……そうなんですか?」

 早瀬先生はぐーっと椅子の背もたれにもたれかかると、両手を頭の後ろで組んで教室の天井を見つめた。その目は、遠い昔を懐かしんでいるかのようだった。

「中学だと、校則がガチガチに厳しいだろ? おしゃれもできないし、お菓子やゲームも持ち込めないし、放課後に寄り道するなんてこともできない。だけど高校になると、一気に緩くなる。中学の今より、自由度は格段に上がるんだ」

「……」

 僕は、早瀬先生の言葉を静かに聞いていた。早瀬先生が僕に何を言いたいのかは、さすがにここまで来れば理解できた。だけど、僕の気持ちは変わらない。僕が一般的な家庭に生まれていたら、たぶん普通に全日制の高校に進学していたと思う。でも、現実は違う。

 それに、僕は嫌々通信制の高校に行くわけじゃない。僕は両親も、六人のきょうだい達のことも大好きだ。そんな大好きな家族に少しでも力添えがしたくて、自分でこの道を選んだのだ。世間から見たら可哀想に映るのかもしれないけれど、僕自身は、まったくそうは思っていない。

「……ええと、たしかに先生の言う通り、高校は中学より楽しい所なんだと思います。でも僕は……」

「そこで、だ。先生も色々調べて、花巻の家庭事情でも通えるような全日制の高校を探してみたんだ」

「え?」

 やんわりと説得を断ろうとした僕の前に、早瀬先生はすっと一枚のパンフレットを差し出した。表紙には『時夢学園高等学校』という文字が印刷されていて、校舎と思しき建物の写真も載っている。

「え……僕でも通えるって、ここ私立じゃないですか? あ、もしかして特待生制度とかですか? でも先生、そういうのって授業料とかには適用されますけど、施設管理費とかそういうのには適用されないことが多いから、結局結構な金額になっちゃうんですよ……」

 僕は三年生になったばかりの頃に高校の学費について一通り調べていたので、特待生制度が完全なものではないということを既に理解していた。だからこそ、全日制という選択肢を除外したのだ。せっかく早瀬先生が探してくれた学校だけれど、表紙の外観を見るに校舎は新しくて立派な建物だし、運営費が莫大にかかっているであろうことは容易に想像ができた。

「それが、この学校はそういうのも含めて学費が無料なんだ。さらに言うと、生活費も完全に無料。どうだ? これなら花巻にぴったりだろう?」

 早瀬先生はそう言うと、にっと白い歯を見せて笑ってみせた。僕は予想外の言葉に、数秒間固まってしまった。

「……え? ちょ、ちょっと待ってください。そんな学校、本当にあるんですか? だってそれじゃあ、どうやって運営を維持して……というか、生活費? ってどういうことですか? 寮費ってことですか?」

「……テレビで何回か特集が組まれたこともある、学生の間ではかなり有名な学校らしいが……花巻、まったく知らなかったか?」

「は、はい……。ええっと、うちテレビがないので……」

 僕の言葉を聞いて、早瀬先生は「そ、そうか」と少し慌てたような顔になった。だけど、テレビがないことに驚くリアクションなんてもう見慣れている。早瀬先生の詳しい説明を待ちきれず、僕はパンフレットへと手を伸ばしページをパラパラと捲った。そして後半のほうのページにあった、『学費』の欄に目を留める。

「学費・生活費完全無料……未来ある生徒達の高校生活を完全にサポートします……、ほ、本当だ……」

「ちなみに生活費っていうのは寮費や光熱費、さらには食費やら日用品にかかるものまでかなり幅広いみたいだぞ。なんでも『ポイント制』っていう独自のシステムを採用しているらしい」

「ええっ、そんなに広範囲が無料なんですか?」

 僕は再び、パンフレットの詳細に目を通す。……あった、ポイント制。何やら学園の敷地内にはコンビニ、ドラッグストア、ファミレス、ホームセンターなどなどたくさんの店が揃っていて、敷地内から一歩も外へ出なくても事足りるようになっているらしい。そして敷地内の店では、現金ではなく『ポイント』という学園独自の通貨で売買を行う。生活必需品に関しては、0ポイント、つまり無料で購入することができる……というのが『生活費無料』ということらしい。

「す、すごいですね……。本当に一切合財、お金がかからないんですね……」

 僕はパンフレットから顔を上げて、一度大きく息を吐いた。こんな高校があるなんて、裕福な家じゃない子にとってはまさに『夢の学校』じゃないか。

「そうだな。……まあただ、一つ問題というか、花巻にとってはネックになるであろう点が存在する」

「?」

 少しトーンを落とした早瀬先生の言葉に、僕は首を傾げる。こんなに経済的な支援が充実した高校の問題点とは、一体なんだろうか。

「この高校はな……アルバイトが禁止なんだ」

「……! そ、それは……致命的ですね……」

 僕の中の興奮の熱が、一気に冷めていくのを感じた。学費も生活費も無料というのはものすごく魅力的だけれど、アルバイトができないのでは意味がない。

「でもな、花巻。学費と生活費が丸々一人分浮くだけでも、親御さんにとってはかなりの助けになると思うぞ」

「あー……、まあ、そうなんでしょうけど、でも……」

 僕は再び、説得をやんわりと断るモードへと移行する。下のきょうだい達が受験生になったときにはぜひ薦めたいと思うような素晴らしい制度の学校だけれど、自分が通おうという気にはやっぱりなれなかった。

「……まあ、そう言う花巻の気持ちもわかる。そこでだ。もう一つ見てもらいたい欄がある。入試情報のページを見てみろ」

 しかし、早瀬先生はいつになく強気だった。僕の前のパンフレットのページをぺらぺらと捲り、『入試情報』のページを広げる。そこには募集人員や試験科目、過去三年の志願倍率などのデータが載っていた。

「……えっ、倍率30倍? いや……これ誤植ですよね? だって募集人員が二百人だから……六千人が受験しに来たってことになりますよ? いくらなんでも高校受験でそれはないんじゃ……」

 僕は突拍子もない数字のデータに、思わず目を疑った。少子化のこの時代、いくら経済支援制度が充実している魅力的な学校とはいっても、この数字は異常だ。しかし早瀬先生は、静かに首を横に振る。

「信じがたいかもしれんが、その数字は事実だ。大勢の入学希望者がいるが、入れるのはほんの一握り。ここは、そんな学校だ」

「そ、そうなんですか。……あ、でもそれじゃあ、そもそも僕が受けても受かりっこないですね。こんな倍率じゃあ、学年トップくらいの成績じゃなきゃ無理でしょうから」

 ははは、と僕は笑い声を上げた。こんなありえない倍率の高校なんて、僕の意思がどうとか以前の問題だ。僕の成績はいい方ではあるのだけれど、さすがに五千八百人を蹴落として二百人に残れるほどではない。

「そんなことはないぞ。見ろ花巻。試験内容は学科試験じゃない。面接での自己アピールオンリーだ」

「……え?」

 早瀬先生は、人差し指でトントン、とパンフレットの一部分を指差している。その先には、たしかに『試験内容 面接』の文字が。国語や数学といった文字は、どこにも書かれていなかった。

「……」

 僕の頭はもはや、混乱の渦の中にあった。学費、生活費完全無料。倍率は毎年30倍超えで、試験内容は面接のみ。一体、なんなんだ? この学校は?

「……いや、試験が面接だったとしても、僕が受かるわけないですよ。アピールできるものなんて、ないですし」

 しかしふと我に返ると、そもそも試験内容が面接だったところで結果に大きな違いはないことに思い至る。むしろ学科試験なら猛勉強すればまだ可能性があるけれど、面接なんて合格基準が曖昧なものはさらに難易度が高いと考えたほうが良い。……というかさっきから試験のことばかり考えてしまっているけれど、そもそも僕はこの高校を受験する気はないのだ。

「はは、そうだな。この倍率じゃあ、ほぼほぼ落ちるだろう」

 早瀬先生は目を細めて、けらけらと笑った。僕も「ですよねー」と笑みを返し、パンフレットを閉じようと机の上に手を伸ばした。

「でも、だからこそ花巻には受けてほしい」

 急に真剣なトーンを帯びた早瀬先生の言葉に、僕の手の動きが止まった。僕は机の上のパンフレットから、早瀬先生へと視線を移す。

「これだけの倍率なんだ、受かる可能性は限りなく低い。花巻は落ちて、予定通り通信制の高校に通うことになるだろう」

「……」

 早瀬先生の言葉を聞きながら、ドク、ドク、と自分の心臓が高鳴っていくのがわかった。そして胸の中に、なんともいえない気持ちが湧き上がる。なんだ? この気持ちは?

「だけど、もし受かったら。それは、花巻がこの高校に通う運命だった、ということなんじゃないか? さっきも言ったが、一人分の学費と生活費が浮くだけでも、十分な親孝行なんだ、花巻。倍率30倍をくぐり抜けたそのときには、全日制の高校に通う。そんな選択をしても、いいんじゃないか?」

「……っ」

 ドクン、ドクン、と心臓は加速を続ける。早瀬先生の言葉に、僕はどうしようもなく惹かれてしまっていた。家族の為に、少しでもお金を稼ぎたい。それは偽りのない、僕の本心だ。だけど早瀬先生の言うように、倍率30倍の面接を突破するという奇跡が起きたときには……。

「まだ時間はたっぷりあるから、よく考えてみるといい。親御さんにも相談してな。そのパンフレットは、花巻にあげるから」

「は、はい……」

 僕はパンフレットを胸にかかえ、席を立った。教室を出てからも、胸の鼓動は中々静まらない。廊下の窓辺へと佇んで風に吹かれながら、僕はもう一度パンフレットの表紙を眺めた。

 『時夢学園高等学校』。

 一体この学校は、なんなんだろう?


 その後、僕は早瀬先生にもらったパンフレットの情報だけでは飽き足らず、主に学校のコンピュータールームのパソコンを使って、放課後や夏休み期間にちょくちょく時夢学園高校について調べていた。その甲斐あって僕は、時夢学園高校についてさまざまな角度からの知識を得ることができた。

 時夢学園高等学校は、都内にある全寮制の私立の高等学校。設立からまだ五年しか経っていない、新しい学校だ。創設者であり理事長である伊藤(いとう)小次郎(こじろう)氏の『様々な境遇の生徒達が集まる学校にしたい』という考えに基づき、学費、生活費完全無料という珍しい制度が採用されている。そしてそんな大胆な制度が実現できるのも、この伊藤氏のおかげなのだ。

 伊藤氏のもう一つの顔は、株式会社TOKIYUMEの代表取締役、つまりは社長。その会社は主に漫画、アニメ、ライトノベル、ゲーム、ネット、音楽、動画配信などのサブカルチャーといった分野を扱っていて、さらにそれ以外にも不動産や石油関係にも手を出しているらしい。かなり儲かっている会社らしく、そうして稼いだ莫大な資金の一部で学校を運営しているそうだ。

 そんな時夢学園高校は、時折別称で呼ばれることがある。一つが、『アニメ学園』。これには好意的な意味と、侮蔑的な意味の両方が含有されているらしい。そしてもう一つは、『ニート養成学校』。これは明らかに、悪意の込もった表現だ。

 こんな別称が浸透してしまうのは、時夢学園高校が一般的な高校とは随分とかけ離れた校風であるためだった。伊藤氏がサブカルチャーを扱う企業の代表ということもあり、学園内はその影響を多分に受けている。一言でいうと、『アニメから飛び出してきたような高校』なのだ。

 僕は夏休み期間に行われた時夢学園高校の体験入学に参加してみたのだけれど、見るもの見るものに度肝を抜かれた。まず制服のデザインからしてかなり奇抜だし、在学生達が当たり前のように腰に剣を下げていたりするものだから本当にここは教育機関なのかと疑いそうになった。そして学園のあちらこちらでは、プロジェクション・マッピングとかの技術なのだろうか、カラフルなマス目のような物が投影された床の上で、生徒達が剣や銃を振り回してゲームか何かをして競っているような光景が散見された。他にも敷地内をやたらと小型のロボットが走っていたり、学校説明の際スクリーンに出てきたのが3Dのアニメ調の女の子のキャラクターだったりと、とにかく色々とぶっ飛んでいた。僕の家にはテレビがないから、アニメを見たことはほとんどない。だけどそんな僕でも、この学校を一言で表すなら『アニメ学園』しかないだろう、と思ってしまうような場所だった。学園内では毎日アニメもかくやといった様々なイベントが行われていて、そうしたイベントに積極的に参加してほしいということからアルバイトが禁止されているのだそうだ。そしてこれらの特色が俗にいう『オタク』と呼ばれる人々の心を掴み、毎年異常な高倍率を引き起こしているのだった。

 しかし時夢学園高校の生徒がオタクばかりかというと、決してそうではない。やはり僕のように手厚い経済的支援に惹かれた生徒もいるようで、全体の二割程度の生徒がいわゆる『苦学生』と呼ばれるタイプの人だそうだ。他にも学園のカリキュラムにはプログラムやグラフィックについて専門的に学べる科目もあるようで、技術者志望の生徒も全体の一割程度存在しているらしい。

『アニメやゲームに興味がない方でも、全く問題ありません。現に私は、学園内で行われるイベントにはほとんど参加せずに、日々勉学に励んでおります。校内の図書館には参考書や学術書が充実していますし、過去の映像授業をいつでも閲覧できる環境も整っています。学園を卒業した先輩の中には、日本の最高峰である東大へと合格した方もいらっしゃるんですよ』

 そう語ったのは、在校生代表の生徒のうちの一人だった。その生徒は他の在校生よりも落ち着いた印象で、制服も余計な改造を加えずにすっきりと着こなしている。模範的な高校生、といったその姿に、奇抜な印象ばかりが襲ってきて目がちかちかしてきていた僕はようやく一息吐くことができた。もちろん全体的に見ればオタク勢力の割合が過半数を占めるのだろうけれど、そうじゃない人もこの学園にはいるのだ。

 体験入学から帰って来た僕は、大いに悩んだ。随分と独特な学校だったけれど、経済的支援の手厚さは間違いなく全国一だろう。もし受かったならもう三年間学生として、早瀬先生じゃないけれど『青春』みたいなものを追い求めても許されるのではないか。

 中々決断ができないまま夏休みが終わり、秋になり、そして冬になっても僕は迷っていた。ようやく決心を固めたのは、願書の締切ぎりぎりになってからだった。『やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいい』。そんな歴史上一体誰が言い出したのかわからない言葉に背中を押され、僕は一か八か、時夢学園高校を受験することを決意した。

 試験科目は、面接オンリー。中学時代に頑張ったことなどのオーソドックスな質問に加え、五分程度の自己アピールが課せられる。質疑応答に関しては通常の面接練習で対応できそうだったけれど、問題は自己アピールだった。インターネットでそこらへんを調べてみると、過去の合格者は『アニメソングを歌った』『得意のキャラ弁を披露した』『円周率を暗唱した』など様々で、見れば見るほど合格基準がわからなくなってしまった。結局自分にできることを考えた結果、僕は『一輪車に乗りながら卓球のラケット打ちをする』という特段すごくもなんともないことを自己アピールとして選んだ。一応理由としては当時妹が一輪車にハマっていて、その練習に度々付き合っていたことと、僕が中学三年間卓球部に所属していたということに由来する。本番、ラケットを片手に一輪車で場を走り回る僕に、面接官からは「おー」とまばらな拍手が降り注いだ。正直、その反応は絶賛とは程遠い。まあでも、僕の力量ではこのくらいが精いっぱいだ。ちょっとへんてこな学校を受験したというだけでも今後の話のタネとしてはなかなかいい経験になったし、それはそれで仕方がないだろう。僕は試験後も特に落ち込むことはなく、そんな風に気楽に捉えて通信制に入学した後を見据えアルバイト情報誌を見たりしていた。

 そして試験から一週間が経った日の、放課後。僕は十数人の生徒と共に、ぞろぞろとコンピュータールームに来ていた。手にはそれぞれ受験票の白い紙が握られていて、視線は学年主任の先生が操作する一台のパソコンの画面に釘付けだ。ここにいる生徒は、みんな時夢学園高校を受験した人達だ。インターネット上で行われる合格発表の時を、今か今かと緊張の面持ちで待っている。倍率は、例年に違わず30倍超。はたしてこの中の誰か一人でも、合格を手にすることはできるのだろうか。画面の右下の時計が午後四時に切り替わった直後、先生は時夢学園高校のホームページをクリックした。画面がぱっと切り替わり、ずらっと数字の羅列が目に飛び込んでくる。

「……」

 しばし、場が沈黙で満ちる。みんな手元の受験票と画面とを見比べて、自分の番号があるかどうかを慎重に確かめていく。しかしやがて「あークソっ」「落ちた……」という呟きが聞こえ始め、先生が「残念だったな」と言って落ち込む生徒達の背中をビシバシと叩いて回る。そんな激戦を戦い抜いた戦友同士のような妙な団結感が辺りに漂う中、僕は画面を見つめたまま固まってしまった。

「うーし、みんな確認は終わったか? まあ、ここは倍率がバケモノ級だからな。落ちるのが当たり前だ。いつまでもしょぼくれてないで、第二志望の高校の試験に向けてしっかりと勉強を……ん? 花巻どうした? まだ確認終わらないか?」

 解散に向けて場を締めくくろうとしていた先生が、ずっと画面に目を向けたままの僕に気が付いた。互いに慰め合っていた生徒達の視線も、一斉に僕へと注がれる。

「……えーっと、あれ、僕の番号、これですよね……?」

 僕は顔を引きつらせて、手に持っていた受験票を先生へと突き出した。先生は怪訝な顔をしてそれを受け取ると、画面の数字と照らし合わせはじめる。すると数秒後、先生の目の色が変わった。

「……おい花巻、おめでとう! 受かってるじゃないか、お前!」

 先生は興奮した声で言うと、僕の肩をがしっと掴んでがくがくと前後に揺さぶりだした。周りの生徒達も「え! マジで!?」「嘘だろ、見して!」なんて声を上げながら次々に画面へと駆け寄って行く。そして僕の番号を確認すると、「すげええええ!!」「おめでとおおおー!」と祝福の言葉を投げかけてくれた。さっきまでの空気は一変し、一気にお祭りムードだ。だけどこれだけの大歓喜の渦の中心にいながらも、僕はまだどこか現実味を感じられないでいた。

 僕が、受かった?

 一体、なぜ?



「く……くっそおおおお……っ!!!」

 がっくりと地面に膝をついたのは、ツインテールの少女を含む三人衆。それと同時に地面に投影されていた光はふっと消え、何の変哲もない赤茶色の煉瓦作りの道が僕達の視界に戻ってきた。ツインテールの少女達を見下ろしながら、黒髪の少女は不敵な笑みを浮かべる。

「ふふふ……正義が勝つとは限らない、とはまさにこのことね。行くわよハルマキ。朝からつまらないものを相手にしてしまったわ」

「「ラジャーッ!!」」

 踵を返す黒髪の少女の後ろに、長身の双子がまるで家来のようにくっついていく。さーっとその場を風が吹き抜けていって、一つの戦いの終わりを宣告しているかのようだった。

「うおー、やっぱり今回も魔王軍勝利かー」

「朝から良いもん見れたなー。なんかテンション上がって来た!」

 パチパチという拍手と共にあちこちからそんな感想を述べる声が聞こえ始め、ぐるりとできていた人の輪が次第に崩れていく。ツインテールの少女達が肩を寄せ合って立ち上がる姿を目の端に捉えながら、僕もその人波に沿って歩き始めた。人々が吸い込まれていくのは、目の前にそびえる近代的な建築物。美術館か何かなんじゃないかと思うくらい立派なこの建物は、本校舎。僕が一週間程前から通うことになった、学園の学び舎だった。

 エスカレーターで四階まで上がった僕は、一時間目の授業が行われる403教室へと足を踏み入れた。がらりと広い室内には階段状に長机と椅子が並んでいて、正面には大きな白いスクリーンが吊り下げられている。高校の教室というよりも、大学の講義室といった表現がしっくりとくる空間だ。実際教科に合わせて生徒達が教室を移動する方式だし、受講科目を生徒それぞれが選択できるという点も大学っぽい。席は全体の半分ほどがすでに埋まっていて、特に後方の席の空きが少ない。僕は階段を降りて前方へと歩いて行き、まだ隣に誰も座っていない席を確保した。肩に掛けていたショルダーバッグを下ろし、中から板状のタブレット端末を取り出して机の上に置く。電源を入れて画面に表示された時刻を確認すると、まだ授業開始まで五分ほどの時間があった。その間僕はぼうっと、自分より前の席に座る生徒達を眺めたりして時間を潰す。授業開始を待つ生徒は友達とおしゃべりをしたり、はたまたタブレットを操作していたりとさまざまだ。中には僕のように退屈そうに一人で座っている生徒もいて、こういう子に声を掛けてみるべきなんだろうなあ、と思うけれど、結局中々勇気が出ずに時間ばかりが過ぎていく。元々積極的な性格ではないことや、はたまた個性的な生徒の多い校風に圧倒されてしまっていたりして、せっかく30倍超の難関をくぐり抜けて高校に入学したというのに、僕には未だに友達ができないでいた。

 キーンコーン、カーンコーン、とチャイムが鳴り響き、教室の前方のスクリーンに光が灯った。そしてぴょこん、と現れたのは、ピンク色の髪の毛をしたアニメ調の3Dモデルの女の子のキャラクター。普通の学校だったら先生が映し出す映像を間違えたと思うところだけれど、ここでは違う。このキャラクターがれっきとした僕達の数Ⅰ担当の先生、ももかせんせーだ。

「みなさーん、今日も楽しい数学の授業の時間ですよーっ」

 どう見ても小学生にしか見えない幼さのももかせんせーは、にっこりとスクリーンの中から僕達に笑みを向ける。

「ももかせんせー、今日も安定のかわいさだなー」

「まぁ3Dモデルだしな」

 そんな呟きが、後方の席から聞こえる。この学校の授業はほとんどの教科がこういった3Dモデルのキャラクターによる映像授業で、そのせいもあって校内で生身の教職員の姿を見かけることはかなり少ない。そんなところも、『学校』らしくない印象を抱かせる要素の一つだった。

「授業の前にみなさん、出席確認を忘れずにねーっ。せっかく授業を受けたのに、カウントされないなんて悲しすぎることにならないようにねーっ」

 授業前の毎度御馴染みの言葉を聞くと、生徒達はすっと左腕をタブレットの上にかざす。僕もみんなと同じ動きをして、出席確認を済ませた。この学校で授業を受けるにあたって必需品となるのが、タブレットと腕時計型端末だ。タブレットの中には教科書のデータが入っていて、ノートのようにメモをしたり練習問題を解いたりすることもできる。そして僕の左腕にも嵌められている小さな画面のついた腕時計型端末は、タブレットの画面に認証させることで出席確認を行うことができるようになっている。他にも電話やメールの機能が備わっていたり、学園内の通貨であるポイント機能が搭載されていることもあり、一日に何度も活躍することになる代物だ。ちなみにこの二つは、入学時に学園から生徒全員に配布されたものだ。僕は今までこういうハイテク機器に触れたことがほとんどなかったので、使いこなせているかといったらちょっと微妙なところだった。

 ももかせんせーの可愛らしい声での解説が教室中に響き、一時間目の数Ⅰの授業は滞りなく進んでいく。内容は本当に基本的なところだけ、といった感じで、わりとぼうっと聞き流していても十分についていけるくらいのレベルだ。これはこの授業が『数Ⅰ 基本コース』であるからで、応用コースだったらこんな風にはいかないだろう。授業は基本コースと応用コースが自由に選択できるようになっていて、僕は文系は応用コース、理系は基本コースを選択していた。コースはいつのタイミングでも自由に変更できるとのことだったのでとりあえずといった感じで選択したのだけれど、実際受けてみると基本コースはちょっと退屈だ。だけど僕は大学に進学する気はないし、バリバリ勉強するというのもなんだか違う気がしてそのままコースを変更することなく授業を受け続けていた。周囲をちらりと見ると、授業そっちのけでおしゃべりに熱中している生徒の姿が見える。授業態度としてはあまりよろしくないんだろうけれど、僕はちょっと羨ましい気持ちになった。


「ふうっ……」

 僕はどっかりと、教室の前方の一番端の席に腰を下ろす。これから行われるのは、四時間目の英Ⅰの授業。午前中でいえば、最後の授業だ。ここは応用コースとあって、生徒の数もおよそ二十人くらいと少人数だった。チャイムが鳴り、映し出されたのは金髪に青い目をした長身の男性のキャラクター。英Ⅰ応用コース担当の、Mr.カルロスだ。

 応用コースは中々難易度が高く、真剣に聞いていないとあっという間についていけなくなってしまう。だけど僕はなんとなく身が入らなくて、随所で行われる練習問題でも次々とペケがつけられてしまっていた。それを見る度、僕ははーっと溜め息を吐く。

 思えば今日は朝から誰とも喋っていないなあ、とそんな授業に関係ないことが頭に浮かんでしまう。入学してからおよそ一週間。たまたま席が近かったり移動教室で一緒になった子と世間話をしたことはあったけれど、友達というほどの仲まで進展することはできなかった。というのもやはりこの学園の生徒は『オタク』と呼ばれるカテゴリの人が多く、アニメや漫画の話題が上がることも多い。だけど僕はそういうのが全然わからないから、その間はただただ愛想笑いをすることしかできなかった。そうすると向こうも気を使うし、僕も申し訳ない気持ちにになってしまう。辺りには気まずさだけが残り、誰も幸せになれない最悪の結果となってしまうのだった。

 キーンコーン、カーンコーン、とチャイムが鳴り、僕ははっとする。いつの間にか、授業の終了時間となってしまっていたのだ。辺りでぞろぞろと生徒達が席を立つ中、僕は慌ててすっかり集中できずじまいだった英語の教科書のページを閉じた。そしてクラスの連絡板のページを呼び出し、ショートホームルームの有無を確認する。四時間目の終了後にはショートホームルームという時間が設定されているけれど、これは毎日ではなく何かの話し合いや連絡事項があるときにだけ行われる。画面を見ると今日は行われないようだったので、この後は昼休みの時間になる。僕はタブレットを鞄にしまいながら、学食のある一階へと移動するべく席を立った。

「こんにちは」

 そんな時突如横から声を掛けられて、僕は思わず目をぱちくりとさせた。見ると黒縁の眼鏡を掛けた男子が、にっこりと微笑みを浮かべて僕を覗き込んでいた。数秒固まってしまったのち、僕も遅れて口を開く。

「こん、にちは」

 僕が挨拶を返すと、眼鏡の男子はほっとしたように目を細めた。なんとなく、おとなしそうな雰囲気のする子だと思った。

「君、古文の授業も応用コースだったよね。勉強、好きなの?」

「好き、というか、どうだろ……。中学のときは、そこそこ成績は良かったけど……」

 僕は、ははは……と曖昧に笑う。僕の選択しているコースを知っているということは、この眼鏡の男子も三時間目の古文の授業のときに同じ教室にいたのだろうか。

「そっかー。その……僕っていわゆる、苦学生ってカテゴリの人間なんだよね。だからもし君がそうだったら、仲間かなって思って声掛けてみたんだけど……」

「あ、そういう意味だったら僕もだよ。僕アニメとか全然わからないけど、経済的支援が充実してたからこの学校に入ったんだ」

 少し言いにくそうな様子で語った眼鏡の男子に、僕はそう言葉を返した。すると眼鏡の男子は、ぱあっと目を輝かせた。

「そうなんだ! あ、僕、立木(たてき)(やす)(なお)って言います。よろしく……」

「あ、僕は花巻(はなまき)(かえで)。こちらこそよろしく」

 そうして名乗った僕と立木君は、互いに少し恥ずかしそうな表情で目を合わせた。教室はいつの間にかがらんとしていて、僕と立木君しかいなくなっていた。

「花巻君、お昼は学食? もしそうだったら、一緒にどうかな」

「うん、ぜひ!」

 僕は笑顔で答えると、機敏な動きで机と椅子の間から抜け出て立木君の隣に並んだ。ようやく僕にも、高校で初めての友達ができそうな予感がした。


「僕は……親子丼にしようかな。花巻君は、決まった?」

「うーん、今日はなんかお腹空いてるしなあ……。決めた、カツカレーにしよう」

 がやがやと騒がしい喧騒の中僕はピッと券売機のボタンを押し、左腕を読み取りセンサーの部分へとかざした。隣の券売機では立木君も、同じ仕草をしている。学食のメニューは一部のデザート類を除き、0ポイントで購入することができる。改めて学園の支援体制に感動しながら、僕達は食券を手に再び生徒達の列へと並んだ。そして白い湯気の立ちのぼる昼食の載ったお盆を受け取ると、適当に空いている席を見つけて腰を下ろした。

「わあ、花巻君とはクラスも一緒だったんだね。じゃあ寮は? 僕は第一男子寮なんだけど……」

「僕は第三。そこは一緒じゃなかったね。残念……」

 テーブルを挟んで向かい合いそんな話をしながら、僕達は昼食を平らげていく。偶然にも立木君とは同じクラスだということも判明し、これからますます一緒にいる機会が増えそうだった。

「花巻君は文系だけ応用コースなんだよね? 僕は一応全教科応用コースにしてるんだけど、良かったら花巻君も……」

「おう、康直。隣いいか?」

 そんな中、立木君の言葉を途中で遮る人物が現れた。立木君の横を見ると、坊主頭で縁なしの眼鏡を掛けた男子生徒が昼食の載ったお盆を持って佇んでいた。

「っ! 先輩! もちろんです、どうぞ!」

「おー、サンキュ」

 立木君が先程までよりぴんと背筋を伸ばして促すと、眼鏡の男子はにこりと笑ってそのすぐ隣に腰を下ろした。思いがけない新たな人物の登場に、僕もちょっと身を固くする。

「ども。康直の友達? 俺は三年の田島(たじま)。よろしく」

「あ……どうも、一年の花巻楓です。よろしくお願いします」

 僕は自己紹介をしてくれた田島先輩に、慌ててぺこりと頭を下げた。どうやら立木君の知り合いのようだけれど、入学からまだ一週間しか経っていないのに先輩とも交流しているなんて、もしかしたら見た目以上に立木君のコミュニケーション能力は高いのかもしれない。

「で、康直がつるんでるってことは……こいつも?」

 そして田島先輩は天丼を箸で口元へと運びながら、ちらりと隣に座る立木君に目をやった。視線を向けられた立木君は「はい、そうです」と言って頷くけれど、僕には何の話をしているのかさっぱりわからなかった。話の感じからして、なんだか僕に関することみたいだけれど。

「え、えーっと……」

「あ、花巻君。すごいんだよ、田島先輩は。ものすごく頭が良くて、模試の判定もいつもA判定以上なんだ」

 立木君は僕の様子に気が付いてそんな説明をしてくれるけれど、それだけではいまいち話の意図が見えなかった。すると今度は、田島先輩が僕に顔を向ける。

「俺も康直や君と同じく、苦学生なんだ。こんなトチ狂った学校だから君も不安になったかもしれないけど、大丈夫。どんな環境でも、しっかりと意志を持てば勉強はできる。過去の先輩には、東大に行った人だっているんだから」

「は、はあ……」

 田島先輩の熱の入った言葉に、僕はちょっと面食らってしまった。たしかに僕はこの学校の経済的支援体制に惹かれて入った苦学生だけれど、大学進学までは考えていない。田島先輩の僕に対する評価に、そこらへんのズレがある気がしてならなかった。

「この学校だと、やっぱり僕達みたいな人だと肩身が狭くなりがちだけど……田島先輩は、そういう苦学生のコミュニティをしっかり作ってくれているんだ。月に何回か勉強会を開いたりもしてて、困ったときにはお互いに助け合って。入学当初、僕が一人で学食で昼食を食べていたときに優しく声を掛けてくれたのも、田島先輩なんだ」

「おいおい、あんま褒めんなよ。照れるじゃねーか」

 田島先輩がぐりぐりと脇腹を小突くと、立木君は嬉しそうに笑った。二人の仲の良さそうな様子を見て、僕もつられて口元が緩む。

「おーっ、すっげー! それ、めっちゃレアな奴じゃん!」

 その時、すぐ近くからそんなどよめきが聞こえてきて、僕達は揃ってそちらの方へと顔を向けた。見ると少し離れた席で昼食を食べている生徒の一人が、不遜な表情で真っ黒な刀を頭上に構えている。周囲を囲む友達らしき人達は興奮した様子でそれに見入っていて、あれこれと質問を浴びせたりもしていた。

 チッ、という小さな音が響いて、僕は顔を正面へと戻した。すると先程までにこにこと談笑していた田島先輩が、はしゃいでいる生徒達を険しい顔で睨み付けていた。

「本当に呆れるね。彼らと同じ学校に通っているだなんて、おぞましくて吐き気がする」

 田島先輩は溜め息まじりにそう吐き捨てると、グラスに注がれていた水をごくりと飲んだ。

「あいつらの知能は小学生、いや、幼稚園児で止まっているとしか思えないね。普通アニメだのなんだのなんて、子供のうちに卒業するものだろう? それをいい年になってもまだ追いかけて、ギャーギャー騒いで。向上心も何もなく、ただただ堕落した毎日を送るだけだ。本当に、社会のゴミとしか言いようがない。見てごらんよ、あそこに置いてある観葉植物のほうが、二酸化炭素を酸素に変えてくれるだけあいつらよりも価値があるね」

 田島先輩の言葉に、立木君は、はは、と笑い声を上げた。僕は学食の窓際に置かれていた背の高い観葉植物に目を向けてから、再び刀を中心に盛り上がっている生徒達を見た。あの刀がなんなのかはよくわからないけれど、たしかに将来何かの欲に立つようなものとは到底思えなかった。……だけど。

「でも、夢中になれる好きな物があるっていうのは、悪いことじゃないんじゃないですかね。勉強だけできればいいってわけでもないし……それに、なんか楽しそうですよ」

 僕の言葉が想定外のものだったのか、田島先輩は一瞬大きく目を見開き、その横では立木君が笑みを引きつらせた。その反応を見て、言わなきゃよかったかもしれない、と僕の中に少し後悔の念がよぎった。だけどいくら自分たちとは違う世界にいる人達とはいえ、それを『社会のゴミ』と表現した田島先輩の言葉は、ちょっと違うと思った。

「……残念だな。君も、愚かな人間だったということか」

「……!」

 数秒間の沈黙の後、田島先輩は眼鏡をくいっと人差し指で持ち上げるとまだ食べかけの天丼が載ったお盆を持ってガタリと席を立った。どうやら、完全に怒らせてしまったようだ。ずんずんと歩いてテーブルを離れていってしまう田島先輩の背中を、僕と、そして立木君は顔面蒼白で見つめる。何か言葉を掛けなければと手を伸ばしかけるけれど、上手い言葉が出てこない。謝る? だけど謝らなければいけないほどのことを言ったつもりはないし、……ああでも、やっぱりちょっと生意気な言い方だったかもしれない。僕が額に汗を滲ませて思い詰めていると、ふと、斜め前に座っている立木君と目が合った。

「……」

 立木君は気まずそうに俯くと、お盆を手にすっと立ち上がった。そしてたたっと小走りで駆けて行くと、少し離れたテーブルに腰を落ち着けていた田島先輩の正面の席に座った。そしてそのまま、箸を手に昼食を再開し始める。僕を呼び寄せる様子は……なさそうだった。

「……」

 僕は一人取り残されたテーブルで、スプーンを手に目の前の残りわずかとなったカツカレーをじっと見つめた。周囲からの楽しそうなお喋りの声が、嫌でも耳に入ってくる。

 立木君の行動を、責める気にはなれない。だって、向こうは三年生の先輩だ。そちらを優先してしまうのは、仕方がない。そもそも、僕が余計なことを言ってしまったから悪いのだ。立木君は、悪くない。

 感情が溢れて零れ落ちそうになって、僕はぎゅっと唇を噛んだ。せっかく、友達ができそうだったのに。たった一つの行動のせいで、全部が台無し……。

「やるねー、君。さっきのって先輩でしょ?」

「!」

 ふいにすぐ近くから声が聞こえて、僕は驚いて顔を上げた。するといつの間にか僕のすぐ脇に、にこにこと笑みを浮かべているポニーテールの女の子の顔があった。そのあまりの至近距離に再び驚いた僕は思わず身を引き、椅子の背もたれに背中をぶつけてしまう。

「い、いてて……」

「ありゃー、大丈夫?」 

 ポニーテールの女子はそんな僕を見て、けらけらと笑い声を上げる。その両頬にはぷくっと、えくぼが浮かんでいた。彼女は誰もいない隣のテーブルから椅子を引っ張って僕の隣にやって来たようで、テーブルの上には僕のカツカレーの他に空の食器が載ったお盆が一つ増えていた。

「さっきの、通りかかって偶然聞いちゃったんだけどさー。すごいよ君。普通、先輩に歯向かうとかできないって」

「い、いや、歯向かったわけじゃ……。ただ、思ったことを言っただけっていうか……」

 僕は、ぶんぶんと手を振って否定する。謙遜でもなんでもなく、本当にただ口をついて出た言葉だったのだ。

「それでもすごいって。ってゆーか、ちょっと嬉しかった。オタクとしてはね」

「……」

 ポニーテールの女子は、にこりと嬉しそうに眼を細める。僕はなんだか照れくさくなって、思わず目を逸らした。そんな風に言ってもらえると、沈んでいた気持ちが少し軽くなった気がした。

「君はさ、アニメとか全然興味ないの?」

「いや、興味がないっていうか……、今まで見れる環境になかったから……」

「ふうん? あ、地方住みだったのかな。じゃー今ならいっぱい見れるよ。深夜にチャンネル回してみ」

「え、あ、うん……」

 僕は、曖昧に頷く。見れなかったのはテレビがなかったからだけど、まあそれは別に言わなくてもいいだろう。貧乏です、って宣言してるみたいだし。

「あとさー、学校の図書室はもう行ってみた? アニメのブルーレイから漫画からライトノベルやら、よりどりみどりですぜ。無料で借りれるからさー、きっと一つくらい気に入るものがあるんじゃないかな」

「え……そうなの? 学校の図書室なのに……」

 知らなかった。まあでもアニメ学園って言われるくらいだし、冷静に考えればそれくらい備わっていても不思議じゃない、か。

「ふっふふー。まあせっかくこんな学校にいるわけだしさー、使えるもんは有効活用しちゃったほうがいいよ。というわけでもう一つ、君にお得な情報をプレゼント」

「?」

 ポニーテールの女子はそう言うと、ふいに目線を遠くに向けた。僕も、彼女と同じ方向に顔を向ける。

「学食の入り口の壁に、白い四角いプレートみたいなのがあるんだけどね。帰りにそこに、時計かざしてみ。嬉しいことが起こるよ」

「う、嬉しいことって?」

「それはやってみてからのお楽しみ」

 ポニーテールの女子は口元に人差し指を立てると、ふふふと不敵に微笑んだ。むむ、気になる。時計というのは、腕時計型端末のことだろう。かざすくらいならそんなに手間でもないし、言われた通り帰りにやってみようかな。

「ちなみにそれは学食だけじゃなくて、教室の入り口とかいろんなところにあるからさ。通りかかったらかざしといて損はないよ」

 そう言うとポニーテールの女子は立ち上がり、自分の座っていた椅子を元のテーブルへと戻した。そして空の食器の載ったお盆を手に持つと、じゃ、と言って立ち去って行く。カチャリ、カチャリと歩くたびに鳴る音は、彼女の腰に提げられた銀色の剣のものだ。

「あ、あの!」

 いつの間にか僕は立ち上がって、その背中に声を掛けていた。学食の喧騒の中、ふわりとポニーテールを揺らして彼女が振り返る。

「えっと、君、名前は……?」

 なんだか急に恥ずかしくなって、僕はちょっと俯きながらその言葉を口にした。返事が来るまでの数秒間が、やけに長く感じられた。

「……葵。伊藤(いとう)(あおい)。一年だよ。……君は?」

「あ……僕は、花巻楓。一年」

 僕の言葉を聞くと、彼女はにっこりと微笑んだ。

「りょーかい。じゃあ楓、またね」

 最後にそう言葉を残すと、彼女は今度こそ本当に去って行った。その姿が見えなくなると、再び一人になったテーブルに僕はすとんと腰を下ろした。銀色のスプーンを手に、残り二、三口となっていたカツカレーを口へと運ぶ。伊藤、葵。頭の中では、ついさっきまで隣にいた女の子の名前がぐるぐると駆け巡っていた。


「あ……これか」

 昼食を終えた僕が食器を返却して学食の入り口へと戻ってくると、先程葵が言っていた通り、白い四角いプレートが壁に張りついているのが見えた。僕は左腕を持ち上げて、そこへ腕時計型端末をかざしてみる。すると、ピッ、と小さな電子音が鳴ったのが聞こえた。

「? 2ポイント、ゲット……?」

 画面を見てみると、クラッカーが打ち鳴らされているイラストと共に、そんな文字が表示されていた。ポイントは、学園内のみで使える通貨だ。価値的には1ポイント=一円なんて言われているから、感覚で言うとただ時計をかざしただけで二円が手に入ったようなものだ。微々たる金額ではあるけれど、たしかにこれは嬉しいことだろう。

 昼休みが終わって五時間目の授業が行われる美術室にやって来たときにも、僕は入り口の白いプレートに腕時計をかざしてから入室した。画面を見ると、今度は『3ポイントゲット』の文字が。今まであまり意識して見ていなかったから気付かなかったけれど、僕以外にも多くの生徒がこの行動をしているようだった。こういうシステムがあると、面倒な教室移動もちょっと楽しいものになる。上手いこと考えたなあ、と僕は学園側に感心の念を抱くのだった。


 そして放課後。僕は、三階にある第二図書室へとやって来ていた。辺りにはカラフルな色をしたアニメのブルーレイやDVDのケースがずらりと並んでいて、生徒の姿もわりと多い。僕は初め一番手前にあった第一図書室へと入ったのだけれど、そこは何の変哲もない一般的な学校の図書室と同じだった。あれ? と思った僕が廊下に出て周囲を見回すと、その隣にはなんと、第二、第三図書室なるものがあった。そしてこの二つの図書室が、葵が言っていたアニメや漫画が揃っているところだった。一般的な本よりもそういうもののためのスペースが広いとは、なんかもうすごいとしか言えない。

 せっかくだから何か一つくらい借りてみようと思い、僕は棚をぐるりと見て回る。だけどまったく知識のない僕には、どれを借りたらいいのかさっぱりわからなかった。アニメといえば子供向けという印象が強かったけれど、どう考えても小学生とかが見るものじゃなさそうな雰囲気のものがたくさんあるし。困った僕は、とりあえず棚のところどころにあるパッケージが正面を向いているものの中から選んでみることにした。そういう陳列をしているということはきっと人気がある作品なのだろうし、初心者の入門にはちょうどいいだろう。そうしていくつかのパッケージを手に取って見ていると、一つ、ものすごく気になるタイトルが目に入って来た。

「大家族、鳥越(とりごえ)家の日常……?」

 僕は吸い寄せられるように、そのパッケージへと近づいて行った。表紙には、ポーズを決めた制服姿の女の子と男の子が描かれている。裏面には表紙にいた男の子が何やら巨大な生物と戦っている場面が描かれていて、どうやらバトル物のようだった。僕はパッケージを再びひっくり返し、ナンバリングを確かめる。ちょうど一巻だし、これにしてみようかな。自身の境遇と同じ大家族というワードに惹かれた僕は、そう決意して腕時計型端末を右下に張られていたバーコードの上にかざした。


「お、おお……」

 寮に帰宅した僕は、さっそく借りてきたばかりの『大家族 鳥越家の日常』というアニメを視聴することにした。寮の部屋は一人部屋なので、僕は誰に気を遣うこともなくどっぷりと作品の世界に入り込むことができた。そして感想からいうと、『まさかこれほどとは思わなかった』というのが真っ先に浮かんだ言葉だった。まずキャラクターのデザインから動きから何から、僕が昔何度か見たことがある子供向けのアニメとはまったく違っていた。そして、ストーリー。ある日突然、町に宇宙からの侵略者であるバケモノが現れる。しかしなぜか、その姿は大家族である鳥越家の十人きょうだいにしか知覚できなかった。世界を守るため、きょうだい達は協力してバケモノを倒していく。大まかに言えば、そんな話だった。構図としては単純なものだけれど、それぞれの得意な分野を生かしてバケモノを倒していく様は、中々考えられていて面白かった。僕自身が大家族だから、それぞれのキャラに現実のきょうだい達を当てはめる、なんていう楽しみ方をしてしまったりもした。初めて子供をターゲットにしていないアニメ作品を見たわけだけれど、ハマってしまう人の気持ちがこの短時間でも大いに理解できた。たかがアニメとバカにすることができない、そんな魅力がたしかにそこにはあった。

その後、僕は数日間図書室に通いつめ、六巻構成となっていた『大家族 鳥越家の日常』、全十二話のストーリを視聴し終えたのだった。



「……あ」

 移動教室の為に廊下に出たところで、ある人物の姿が目に入った。黒縁の眼鏡を掛けた、ちょっとおとなしそうな雰囲気の男子。立木君だ。向こうも僕に気が付いたようで、ぎこちない笑みを浮かべながらも軽く手を挙げる仕草を見せる。

「立木君、次の時間ここの教室?」

「うん。花巻君は……別の教室?」

「うん。生物だから、基本コース」

 立木君は全教科応用コースを選択していて、僕は理系は基本コースを選択している。所属しているクラスは一緒だけれど、こうして教科によっては別の教室になることもあるのだ。

「……」

「……」

 しかしそれ以上会話が弾むことはなく、辺りには気まずい沈黙が落ちる。

「……えっと、じゃあ、お互い授業頑張ろう。じゃあね」

「あ、う、うん」

 立木君はすっ、と、僕が今出てきたばかりの教室へと吸い込まれていく。僕は名残惜しくその入り口付近をしばし見つめていたけれど、やがて次の授業のある教室へ向けて歩き出した。……あの学食での一件以来、立木君とは微妙に気まずい状態が続いている。こうして偶然会ったときには挨拶や世間話をしているから、そこまで険悪な仲というわけではない。だけど、それ以上でもそれ以下でもないというか。なんというか、友達になりそこなってしまったみたいな感じだった。

 はあー、と思わず溜め息を吐いてしまいながらも、僕は六時間目の生物の授業が行われる生物室の前へと辿り着いた。そしてもはや習慣になってしまっている、左腕の腕時計型端末をドア脇のプレートへとかざす仕草をする。ピッ、と電子音がして、いくばくかのポイントが獲得されたことを知らせてくれる。

「やー、精が出ますねえー」

「う、わああっ!」

 画面を確認していたらいきなり耳元でそう囁かれたので、僕は驚いて背中を仰け反らせた。ばっと振り向くとそこには、快活そうなポニーテールを揺らす葵の姿があった。

「ふふ、やってくれてるんだね、ポイントゲット!」

「あ……、うん。せっかくだし、やったほうがお得だし」

 僕がそう言うと、葵はにっこりと嬉しそうに笑みを浮かべた。葵とは、あの学食のとき以来の再会だった。ここにいるということは、葵も生物は基本コースを選択しているのだろう。別にそれは何もおかしいことではないのだけれど、なんとなく神出鬼没な印象を与える子である。なんというか、声の掛け方が唐突な感じなんだよなあ。葵は僕と同じように左腕をドア脇のプレートへと近づけポイントを獲得すると、再び顔をこちらに向けた。

「どこ座る? やっぱさ、後ろのほうがいいよねー」

「え? う、うん」

 葵はそう言うと、教室の後方のテーブルへとずんずん歩いて行く。基本的にこの学校の授業は座席指定がないので、どこでも好きな場所に座ることができる。だけど僕は今まで周りになるべく人がいない席を狙って一人で座っていたので、葵がどうやら僕と一緒に座るつもりであるということについどぎまぎしてしまっていた。

 すとんと丸椅子に腰を下ろした葵の隣に、僕もおずおずと腰掛ける。教室内にはすでに結構な数の生徒がいたけれど、授業開始までにはもう少し時間がありそうだった。

「……あ、そうだ。図書室、行ってみたよ。すごかった。色んなDVDとかあって」

 僕はタブレットを机の上に出しつつ、葵に図書室の存在を教えてもらったことをふと思い出してそう口にしてみた。

「おー、なんか借りてみた?」

「うん。えっと、『大家族 鳥越家の日常』ってアニメ、全部見たよ。すごく面白かった」

「おっ、オオトリかー。私もあれ結構好き。二期やってほしかったなー……」

「二期?」

 聞き慣れない単語が出てきたので、僕は聞き返す。すると葵はちょっと得意気な顔になり、右手の人差し指をピンと立てて説明してくれた。

「いいかい? アニメは慈善事業じゃないから、作るのにも予算というものがかかるんだよ。そしてその予算はどこから出て来るのかというと……ずばり、ブルーレイとかDVDの売り上げ! つまり売上が芳しくないと、続きが作ってもらえないんだ!」

「え、そうなの? あれ、でも、続きって……ちゃんとハッピーエンドで終わってたよね?」

 僕はアニメ『大家族 鳥越家の日常』のラストシーンを思い出しながら、そんな疑問をぶつける。最終局面で出てきた増殖するタイプのバケモノも分裂器官を集中攻撃することでなんとか撃退し、世界には平和が戻ったはずだった。

「そのラストの二、三話はアニメオリジナル展開だよ! 原作の漫画はまだ続いてるし、今も戦いの真っ最中だよ!」

「え! そ、そうなの!?」

 まさか終わったと思っていた話に、続きがあったとは。しかもまだ戦いの真っ最中ということは、バケモノは未だに殲滅できていないということじゃないか。一体、どんな展開になっているのだろう。

「気になるならさ、漫画のほう読みなよ。それも多分図書室にあるよ」

「う、うん。そうする……」

 どうやら僕の図書室通いの日々は、もうしばらく続くことになりそうだった。

「ふふ、その様子だとさー、ちょっとはアニメとか好きになった?」

 葵はにこにこしながら、僕の顔を覗き込んでくる。その距離感に僕はドキッとしてしまうのだけれど、葵は特段何とも思っていない様子だ。

「う、うん。今まで見たことなかったけど、面白いなって思ったよ。なんかこの学校の人達みたいに熱狂的になる人がいるのも、わかる気がしたよ」

「ふふ、そーでしょ」

 葵が嬉しそうに笑うと、頬にはぷっくりとえくぼが浮かんだ。僕はそれを見て、えくぼってどういう仕組みでできるんだろう、なんてどうでもいいことをつい考えてしまった。

「よーし、じゃあ次は見るだけじゃなくて、体験してみようよ! 楓、今日の放課後暇?」

「放課後? う、うん。特に予定はないけど」

 葵に尋ねられ、僕はこくりと頷く。本当はさっき葵に聞いたばかりの『大家族 鳥越家の日常』の漫画を借りに図書室に行こうかな、と思っていたけれど、それは別に緊急の用事ではないし。

 すると、キーンコーン、カーンコーン……と授業開始のチャイムが鳴り響いた。席を立っていた生徒達も腰を下ろし、教室前方のスクリーンには光が灯る。

「じゃあ、放課後私に付き合ってよ、きっと楽しいからさ!」

「? いいけど……何するの?」

 出席確認の為にタブレットに左腕をかざしながら、僕は葵に尋ねる。だけど葵はいたずらっぽい笑みを浮かべて、こう言い放った。

「内緒! 今はほら、授業を頑張る時間だよ!」


「えーっと、どこに向かってるのかな……」

「ふふ、まだ内緒。まあ着けばわかるよ」

 放課後。僕と葵は並んで、本校舎を出てすぐのところにある煉瓦作りの道を歩いていた。辺りにはピンク色の花をわずかに残した桜の木々が立ち並んでいて、吹き抜ける風ももう随分と温かい。未だに目的地を教えてもらえていない僕だったけれど、葵が学校の敷地内でありながらたくさんの店が建ち並んでいる『ショップエリア』の方向へと進んでいるであろうことはなんとなく予想ができた。カフェとかに入って、お茶でもするのだろうか。

「じゃーん、着いたよ、ここ」

 しばらく歩いて葵が足を止めたのは、案の定ショップエリアの中にある一つのお店。しかしその外観は、到底カフェやファミレスのようには見えない。古き良き日本の城……を十分の一くらいに小さくしたような、そんな奇抜な建物だった。

「……えーっと、ここは、何のお店?」

「武器屋だよ」

「……どうして平和な日本に、武器屋なんてものがあるのかな……」

「んー、アニメ学園だからかな」

 葵は、ははー、と声を上げて笑う。その動きに合わせて、葵の腰に提げられている銀色の剣がかちゃりと音を立てた。

「そう言えばちょっと気になってたんだけど、それは?」

 僕は剣を指差しながら、葵に尋ねる。葵に限らず、この学園では腰に銃やら剣やらを提げている生徒が非常に多い。詳しくはないけれど、いわゆるコスプレ? というやつなのだろうか。

「ふふ、これが私の初期装備だよ。シルバーソード。どやっ!」

 葵はにやりと笑って腰に手を当てると、シャキン! と素早く鞘から剣を引き抜いた。切り裂かれた空気が遅れて僕へと迫り、その圧で前髪がふわりと揺れた。

「……かっこいいと、思う」

 葵の手から伸びる日光に反射してきらりと輝く刀身を見つめながら、僕はそう本心を口にした。もちろん本物とは程遠いどこか玩具感が漂うものではあったけれど、なんというか、少年心をくすぐられるような代物であるというのは否定できなかった。

「ふふ。というわけで、楓の武器も調達するよ! さあ、中に入ろう!」

「え! あ……」

 葵は慣れた手つきでかちゃりと剣を鞘へと収めると、ぐいっと僕の手を引いて城のような外観の武器屋の引き戸をがらりと開けた。というわけってどういうわけだよ、なんて疑問を覚えつつも、僕はその勢いに流されるまま入店してしまう。すでに中には何人かの生徒達がいて、僕達が入って来たことに気付いてちらりと視線を向ける人もいた。

「さて、最初の運試し! 楓、左腕用意!」

「う、うん?」

 葵に引っ張られた先にあったのは、小さなテーブルの上に載せられた白く発光するタブレット端末。店内が薄暗いこともあって、その光は一際眩しく見えた。

「何? これ。腕時計使うってこと?」

「初期装備は無料でもらえるからね。さあ、一思いにやってみよう!」

 葵はピッピッと指でタブレットの画面を操作すると、ジェスチャーで僕に腕時計型端末をかざすように促した。いまいち理解が追いついていない感があったけれど、とりあえず言われた通り左腕を画面へと突き出してみる。するとピッ、という電子音が鳴って画面が切り替わり、宝箱のイラストが現れた。そしてそれがパカッと開くアニメーションが映し出され、中から黒い拳銃のイラストが飛び出してきた。

「ブラック、ガン?」

 僕は、イラストの下に書かれていた文字を読み上げる。

「お、いいじゃん、銃。定番だけどやっぱかっこいーよね」

 僕の隣で、葵も画面を覗き込む。そして人差し指を伸ばすと、ピッ、と画面上の何らかのボタンに触れた。するとイラストが消え、代わりに『発行中』という文字が現れる。ジジッ……という機械音がしたかと思うと、ウィーン、とタブレットの下部からレシートのような小さな紙が排出された。その紙に手を伸ばし裏返してみると、バーコードのような黒い縞々が印刷されていた。

「それをカウンターにいるマスターに渡せば、武器がもらえるよ」

 葵はそう言うと、店の奥の方へちらりと目を向けた。光があまり差し込まない薄暗い店内には、ぐるりと周囲を取り囲むように棚が並んでいる。武器屋という単語だけを聞くと何やら物騒なイメージがあるけれど、落ち着いた色のインテリアや暖色の関節照明などが相まって、おしゃれなバーや喫茶店といった雰囲気に近く感じた。棚には剣や銃などの武器が飾られていて、数人の生徒達がそれを見てわいわいとお喋りをしているのが見える。そして店の一角に存在していたのが、L字型をしたカウンター。そこには、どう見ても生徒ではなさそうなワイシャツ姿の男性が腰掛けていた。おそらく三十歳くらいであろう年齢のその男性はがっしりとした体型をしていて、口元には髭を蓄えている。つまり何が言いたいのかというと、結構強面だった。

「さあ、行ってきなよ!」

「わっ!」

 マスターらしきその男性の容姿に思わず怯みかけていた僕だったけれど、葵にぐいぐいと背中を押されて容赦なくカウンター前へと連れていかれてしまう。マスターに近距離からじろりと視線を向けられた僕は、慌てて手に持っていた紙を前に突き出した。

「お、お願いします……」

「……」

 マスターは無言で僕から紙を受け取ると、ワイシャツの胸ポケットから手帳のような大きさの何かを取り出した。そしてその先端部分を、僕が渡した紙のバーコード部分へと近づける。赤い光がバーコードへと照射され、ピッ、と電子音が鳴り響くのを確認すると、マスターは腰掛けていた丸椅子からのっそりと立ち上がった。そしてカウンター内部のドアの向こうへと姿を消し、数十秒後、黒い拳銃とベルトのような紐を手に戻ってきた。マスターは無言で、ことり、とそれらをカウンターの上に載せる。

「あ、ありがとうございます……」

 僕はおそるおそる、拳銃とベルトを受け取った。一瞬お金のことが頭をよぎったけれど、たしか葵が初期装備は無料、みたいなことを言ってたから、支払いは気にしなくていいのだろう。

「ありがと、マスター。また来るね!」

 葵は人懐っこい笑みを浮かべて、ひらひらとマスターに手を振る。マスターはこちらにちらりと目を向けたけれど、相変わらず無言のままだった。


「ふふ、どう? 中々様になってるんじゃない?」

 隣を歩く葵が、僕の腰に提げられた黒い拳銃にじーっと熱い視線を注ぐ。僕は思わずはは……と苦笑いを返すけれど、右腰に加わった少しの重量にそんなに悪い気はしていなかった。制服のジャケットのベルト部分に装着したホルダーの中に収められた黒い拳銃、ええっと、名前は『ブラックガン』だったっけ、はすぐに引き抜けるようなちょうどいい位置にあって、こうして歩いていてもその付け心地に違和感はない。もちろん本物の拳銃ではなく玩具だし、あったからといって何かの役に立つような物ではないんだろうけれど、こうして腰に提げているだけでなんだかちょっとわくわくした気持ちになってしまう。まるで、自分が何かの物語の主人公になったかのような気分だった。

 そうしてしばらく葵と肩を並べてショップエリアを歩いていると、やがて道の端々にあったお店が途切れ、女子寮の建物が見えてきた。まだ午後四時前といった時間なのでまったく暗くはないのだけれど、一応玄関前まで送った方がいいのかな。男子寮は女子寮のさらに先にあるから、通りがかりでそんなに手間でもないし。

「よーし、それじゃあ武器を調達できたことだし、次はクエストいってみよーっ!」

「え?」

 しかしちょうど女子寮前へと差し掛かったところで、葵は気合いのこもった様子で右手をぐーっと天高く突き上げた。てっきり武器を入手することが今回の葵の目的だったと思っていた僕は、まだ続きがあるということを知り思わず目をぱちくりさせた。

「え? クエスト……? って、何?」

「クエストっていうのは、この学園で行われる色んなイベントの総称だよ。クリアすると、ポイントがゲットできたりするんだ。まあ一番わかりやすいものとして、今日はモンスターフルボッコ系に挑戦しよう!」

 その葵の説明を聞いて、僕の中にも思い当たるものがあった。そういえば普段から学園のあちこちでは、剣や銃を振り回して何かのゲームに興じている生徒達の姿がよく見られていた。

「武器があると、その『クエスト』ってやつに参加できるってこと?」

 僕は右腰に提げられたブラックガンに手で触れながら、葵に尋ねる。

「いや、なくても問題はないよ。ただ、あったほうが有利だし、なんていうかテンション上がるからね。……っと、着いた! 楓の初クエストはここでやるよ!」

 そうして葵が足を止めたのは、赤い柵がそこだけ途切れている、入り口と思われる部分。その先にはたくさんの桜の木が立ち並んでいて、地面は散ってしまった桜の花びらでまばらにピンク色になっている。木陰で若干暗く感じるその向こうには、ブランコや鉄棒などの遊具が見えた。公園だ。遊具のある開けた空間はそこまで広くはないようだったけれど、目の前から伸びる散策コースのような道は結構遠くまで続いていそうだった。総面積としては、かなりの大きさがあるのかもしれない。

「とりあえず二人チームでクエスト受注するよ? ザコだから一人でも倒せると思うけど、まあ初めてだしチュートリアルってことで、私もお手本見せるから」

 葵はピッ、ピッと、何やら自分の腕時計型端末を指で操作していた。その様子を隣で見ていると、ピコン! という音が鳴り響き、若干の振動が僕の左腕に伝わった。

「……クエスト、公園の大掃除……公園内を暴れ回るモンスターを三匹退治しろ……って、えっと……」

「さーて、バトルと行きますか!」

 画面に表示された文字を読み上げた僕が顔を上げると、葵はにやりと笑って左腰に提げられた銀色の剣に手を掛けた。そしてそれをすっと引き抜いて右手に構えると、左足を一歩前に踏み出した。

「!」

 その瞬間、今までは桜の花びらがあちこちに落ちているただの道だったはずの地面に、パアアアッ、と光が灯った。僕達の前の五メートル四方程の道の上に、緑色の正方形のマス目が浮かび上がる。顔を上げて光の出所を探すと、周囲にいくつかある細長い電灯のようなものが目に入った。あそこから、地面に向かってこのマス目が投影されているのだ。

「楓、まずスタート位置に立とうか」

「ス、スタート位置?」

「赤くなってるマスがあるでしょ? そこがスタート位置だよ」

 言われて地面を見ると、たしかに一面緑色だらけのマスの中に、たった二つだけ赤色に染まっているマスがあった。その一方の上には葵が立ったので、僕は空いているもう一方のマスの上へと立つ。

「ふふ、見てごらん楓、あれが私達の敵だよ。公園内を暴れ回っている、迷惑なモンスターさ。めっちゃぶよぶよしてそうだね!」

「……あれは」

 僕は少し離れたところにあるマスに浮かび上がっている青色のモンスターを、じっと見つめた。なんか、見覚えがある。たしか小学生のときに友達がやっていた携帯ゲーム機の画面で、こんなのを見た気がする。

「……スライム?」

「そう! やっぱザコといったらスライムだよね!」

 葵は快活に笑うと、すっと左腕を持ち上げた。そしてそこに嵌められている腕時計型端末の画面を、剣を持ったまま右手の人差し指をぴんと立てて指差した。

「ここに体力ゲージと、APが表示されてるでしょ? スライドさせると必殺技とかも出てくるんだけど、まあそれはまずいいや。今大事なのは、このAP、アクションポイントの数字。簡単に言うと、一ターンにつきこの数字の数だけマスを移動できるってこと。シミュレーションRPGっぽい戦闘システムだね」

「う……うん?」

 葵の説明を何とか飲み込もうとしながら、僕は左手を持ち上げて自分の腕時計型端末の画面を確認してみた。画面には僕の名前、そして青色の四角いバーが表示されている。おそらくこれが、葵の言う体力ゲージだ。その下にはAPというアルファベットが表示されていて、その隣には8という数字がある。ということは、僕は一ターンで八マス移動できる、ということらしい。まあそもそも、ターンというのがよくわからないんだけれど。

「行動順は素早さで決まるから、今回の場合は私が一番手だね! ってことで、移動しちゃうよ! 次は楓だから、とりあえず私の隣に来てね」

「え、あ……」

 葵はたたーっと緑色に発光するマスの上を駆けて行くと、敵である青色のスライムの近くのマスの上で立ち止まった。そしてこちらに振り返ってちょいちょいと手招きをするので、僕も見よう見まねで葵の隣のマスまで移動した。スライムは僕の真正面、マスでいうと三マス離れたところでゆらゆらと揺れている。

「さてと、楓。ここまで移動してきたわけだけど、残りAPはいくつ?」

「? えーっと、1、だね……」

 葵に尋ねられ腕時計の画面を確認すると、APの数字が8から1に減少していた。これは僕が七マス移動したから、ということのようだ。一体、どうやって感知しているんだろう。床に投影されているマス目や正面に浮かび上がっているモンスターといい、ゲームの最先端すごすぎる。

「……あれ、ってことは、もう一マス前に進めるってことだよね?」

 僕はそう呟くと、右足を一歩前へと踏み出した。まだこのゲームのシステムを完全に把握したわけではないけれど、目的は目の前の青色のスライムを倒すことのはずだ。ということは、できるだけ近づいたほうがいいだろう。僕がマスを移動すると、画面に表示されているAPの数字は1から0へと変わった。

「ふふ、そーなんだけどね。でも楓、楓の武器は銃でしょ? 敵に近づきすぎると使えないはずだよ。画面スライドさせて、攻撃範囲表示してみ」

「え? う、うん……」

 葵に言われた通り、僕は腕時計の画面を指でスライドさせてみた。すると表示が切り替わり、右上に『攻撃範囲表示』の文字を見つけた。僕はそこに、指で触れてみる。

「わっ」

 すると変化が訪れたのは、画面上ではなく地面に並ぶマス目のほうだった。今僕の立っているマスから正面方向に三、四、五マス離れているマスが、いつの間にかそれぞれ青色に発光していた。

「ほらねー。その青く光ってるところが攻撃範囲だよ。だから、最低でも敵と三マス離れてないとダメだね。というわけでー、一歩下がろう」

 背中をくいっと引っ張られ、僕は一マス下がり再び葵の隣に並んだ。画面のAPの数字は、0から1に増える。そして攻撃範囲を示す青色のマスが、ちょうどスライムのいるマスのところへと移動していた。

「APが1残ってるから、攻撃できるね。もうニマス下がれば3になるけど、説明しにくくなるから今回はここから撃とう。えーっと、1消費するのはAだと思うんだけど……合ってる?」

 そう言うと葵はぐいっと顔を寄せて、僕の腕時計の画面を覗き込んだ。画面にはA、B、X、Yの四つのアルファベットが表示されていて、それぞれの下には数字も表示されている。数字は順に、1、2、3、4となっていた。

「お、やっぱAだね。下に書かれている数字は、APの消費量だよ。マスを移動するだけじゃなく、敵を攻撃するのにもAPが必要なんだ。アルファベットのボタンでコマンドを入力することで、必殺技を使ったりするんだよ。ここらへんのシステムは格ゲーっぽいよね」

「カ、カクゲー?」

「格闘ゲーム」

 あ、その略なんだ、と妙に納得した僕の右腰から、すっと重さがなくなった。葵が、僕のブラックガンをホルダーから抜き取ったのだ。葵は左手で銃を握ると、グリップの少し上の辺りに親指を立てた。するとカチッ、という音がして、何かがぷらーんとそこから垂れ下がった。蓋になっていたらしいその中には四つのボタンが配置されていて、その中央には小さな四角い画面のようなものも見えた。

「このボタンでコマンドを入力するんだ。……といっても、今はAPが1しかないからA一択だね。Aボタン押したら、真ん中の画面に触れてコマンド確定。それから引き金を引けば、スライムに攻撃ができるよ」

 そう説明すると、はい、と葵は僕に黒い銃を手渡した。僕はそれを受け取り、正面の青色のスライムに向かって構えてみる。

「あ、忘れてた」

 そしてボタンに指で触れようとしたとき、葵がそう言って僕の右腕を引っ張った。

「その前に位置確定しなきゃいけないんだった。えーっと攻撃位置が確定したら、銃の画面に触れてね。そうすると、マスがめくれるよ」

「? めくる?」

 僕は首を傾げつつも、とりあえず言われた通りにやってみることにした。四つのボタンの中央に位置する小さな画面に親指で触れると、『位置確定』の文字が表示された。それと同時に、僕が立っているマスのほうにも変化が訪れる。今まで緑色だったマスが赤色に変わり、さらにそのマスがぺらりと捲れ上がりその裏面が明らかとなった。自分の影になってしまっていたので少し後ろに下がって見てみると、そこには『攻撃力UP!』と記されていた。

「そんな感じで、マスの下にはパネルが隠されていることがあるんだよ。自分に有利になる効果がついたり、逆に不利になる効果がつくこともあるね。ちなみに一度めくったマスは空になって、次に同じ場所に来ても何もないから注意してね。一度めくったところは灰色のマスに変わるから、それで判断できるよ」

 葵は「じゃー今度こそ撃っちゃえー」と言って、指で銃の形を作ってバーンと撃つ仕草を見せた。僕はこくりと頷いて、再び腕を持ち上げる。親指でAボタンを押すと画面上にもAとアルファベットが現れ、APの数字は0になった。そして、『コマンド確定』の文字に触れる。そこで僕はようやく顔を上げ、目の前でゆらゆらと揺れているスライムに向かって銃の引き金を引いた。

「!」

 すると、ドン! という銃声が鳴り響き、スライムに向かって赤色の光弾が放たれた。もちろん本当に銃口から弾が飛び出したわけではなく、投影されている映像がそのように変化したのだ。光弾が当たったことでスライムは若干後ろに仰け反り、そのすぐ脇に投影されていた体力ゲージがわずかに減少した。

「これで楓のターン終了だね。そんで次はスライム君のターンなわけだけれど……多分意味ないと思うなー……」

 葵はふふ、と不敵な笑みを浮かべてスライムを見つめる。僕もそちらへと目を向けると、スライムのすぐ目の前のマスが青色に発光していた。あれは、僕が攻撃範囲を表示させたときと同じだ。ということは、今はスライムの攻撃範囲を表示しているということなのだろう。しかし僕と葵はスライムから少し離れたマスの上にいるので、攻撃範囲となっている青色のマスは無人だ。このままでは意味がないから、きっとスライムは移動してくるのだろう。

「……あれ」

 しかしスライムは今いるマスの上から一歩も動くことなく、誰もいないマスへと向かって攻撃を開始した。無人のマスに、ぶくぶくと水が沸き起こる映像が投影される。一応地面に投影された僕と葵の体力ゲージを確認してみるけれど、先程と変わらず満タンのままだ。

「あいつあの場から一歩も動けないんだよねー、ザコだから。もちろん、私達と同じように自由に動き回る敵もいるよ。だけど、あのスライムは動かないんだよねー、ザコだから」

「……」

 僕はずっと同じ位置に留まり続けることしかできないスライムを、なんとも言えない表情で見つめた。初心者用ってことでそうプログラムされてるんだろうけれど、ちょっと可哀想に思えてきた。

「よーし、それじゃあ私のターンだ!」

 葵はそう宣言すると、スライムの右側、二マス離れた位置へと移動した。そして銀色の剣をすっと持ち上げて、持ち手の部分に存在していた画面に触れて位置確定を行う。すぐ下のマスが翻り、現れたパネルには『防御力UP!』と記されていた。

「本当は必殺技とか見せられたらいいんだけどねー。残念ながら、私まだ取得できてないんだー。というわけで、通常技でいくよ」

 葵はそう呟きながら親指を動かしてコマンドを入力すると、すっ、と剣を体の前に構えた。そして右、左、上、の順で大きく剣を振り下ろす。するとその動きに合わせてスライムには銀色の鎌鼬のようなものが迫り、体力ゲージがごっそり減少した。

「さあ、楓のターンだよ!」

「う、うん」

 攻撃を終えた葵にくるりと顔を向けられ、僕は銃を手に考えを巡らせた。スライムの位置は戦闘開始から変わっておらず、僕は今の位置から一歩も移動せずとも攻撃が可能だ。だけど僕はあえて一歩下がったマスへと移動し、位置確定を行った。一度めくったマスは空になるとさっき葵が言っていたから、APを1消費して新しいマスをめくることにしたのだ。そうしてぺらりと翻ったマスには、『防御力UP!』の文字が記されていた。むむ。スライムの間近のマスにいない限りは攻撃を受けることはないはずだから、これは正直意味のない効果だ。つまり、APを1無駄にしてしまったというわけだ。

 だけどまあ、済んでしまったことはしょうがない。僕は次に、コマンドについて考え始めた。残りAPは7だから、先程のように一度きりではなく、何回かボタンを押すことができるはずだ。葵のさっきの攻撃を見る限り、APの消費が大きいほど強力な技が使えるのではないだろうか。

「……コマンドって、どう選べばいいのかな」

 僕は葵に顔を向け、助言を求める。ぱっと思いついたのはXとYのボタンの組み合わせだったけれど、例えばAP消費量1のAボタンを七回押すことも可能だ。どちらのほうがいいのか、僕にはまったく判断がつかない。

「適当でもいけるけど、ボタンの組み合わせによっては技が発動できるよ。必殺技はまだ取得できていないから、通常技だね。時計の画面でデフォルトの通常技が確認できるよ」

 葵の言葉を聞いた僕は、左腕を持ち上げて腕時計の画面を確認してみた。指でスライドさせると、『通常技』と書かれた項目が出現する。そこにはいくつかのボタンの組み合わせと共に、技名とその効果が記されていた。僕はそれをざっと眺めて、AP消費7以下、そして体力は満タンなので回復技ではないものを選ぶことにした。入力したコマンドは、『ABX』。『火水光弾』という名前の技だった。さらにAPが1余っていたので、最後にAボタンも追加することにした。

「よし」

 画面上のコマンド確定の文字に触れた僕は、人差し指で思いっきり引き金を引いた。するとドォン! という銃声と共に虹色の光弾が現れ、スライムが後ろへと仰け反った。さらにもう一度引き金を引くと、今度は赤色の光弾が飛び出した。そしてそれがスライムにぶつかったとき、ドオオォォン……! という地鳴りのような低い音が鳴り響いた。それと同時にスライムの体は小さな青色の粒子となり、空気中へと溶けて消えていった。

 ピコン! という音に気付いて腕時計の画面を除くと、そこにはいつの間にか『3ポイントゲット!』と表示されていた。そして一面に広がる緑色のマス目にはでかでかと『YOU WIN!』の文字が投影され、辺りにはファンファーレのような陽気な音楽が響き渡った。

「あは、初勝利おめでとー」

 葵は銀色の剣を腰に提げた鞘の中へと収めながら、てくてくと僕の方へ近づいてくる。投影されていたマス目は跡形もなく消え去り、そこは何の変哲もない普通の地面に戻っていた。

「……すごいね。モンスターを倒すことでも、ポイントがもらえるんだね」

「そーそー。ま、微々たるものだけどね。でも、このポイントはかなり重宝するんだよ。学園内のお店で使えるってことももちろんだけど、ステータスを強化するアイテムを買ったり、新しい武器を買ったりね。えーっと、タブレットのほうが画面大きくて見やすいかな……」

 葵はそう言うと、肩から斜めに提げていた茶色のショルダーバッグの中からごそごそとタブレット端末を取り出した。ピッ、ピッ、と人差し指を使って操作する葵の隣で、僕も画面を覗き込む。

「これが私のステータス画面。素早さとか攻撃力とか防御力とか、そういうのが数字で設定されているんだ。もちろん、楓には楓のステータスが存在するよ」

「え、そうなの?」

 僕もごそごそと、バッグの中からタブレットを引っ張り出した。葵に教えてもらいながら画面を操作すると、たしかに僕の名前の書かれたステータス画面が出てきた。そして二つの画面を見比べてみると、葵の数値よりも僕の数値のほうが若干低いようだった。

「初期数値はみんな低いんだけど、アイテムを使って数値を上げることができるんだよ」

 葵は僕のタブレットのステータス画面を閉じると、新たに『ショップ』と書かれた画面を呼び出した。商品一覧を見てみると、『能力強化石』なる怪しい名前のものや、『伝説の剣』といった武器と思われるものが並んでいた。そして値段の単位は、学園内通貨であるポイント。もちろんこれらのアイテムは生活必需品ではないため、0ポイントのものは存在しないようだった。

「とまあこんな感じで、ポイントというのはいくらあっても足りないくらい大事なものなわけだ。……だけどまあ、ポイントを消費せずとも強くなれる方法がないわけではないけどね」

「?」

 僕が画面から顔を上げると、突如目の前をヒュンと高速で何かが横切った。思わず一歩後ずさった僕の目に飛び込んできたのは、再び銀色の剣を構えた葵の姿だった。

「それは、武器レベル! 同じ武器を使えば使うほど、その武器レベルが上がって強くなれるんだ! さらにバトルを何度も繰り返すうちに、必殺技が取得できることもある! つまりまとめると、戦え、少年! ってことだよね!」

「な、なるほど……」

 ビシィッ! と剣先を突きつけられちょっと面食らいつつも、僕はこくこくと頷く。するとその反応に満足したのか、葵は剣を鞘へと収めてくれた。

「よーし、じゃあ楓。次はもっと奥の方へと行ってみようか! 凶悪なモンスターはあと二匹残っていることだしね!」

「え? あ……うん!」

 その言葉で僕は、公園に来たばかりのときに見た腕時計の画面のことを思い出した。葵曰くザコだというスライムを一匹倒しただけでも僕には大仕事のように感じたけれど、まだあと二匹倒さなければならないのだ。公園の奥へと伸びるアスファルトの道を歩き始めた葵に続いて、僕もタブレットをバッグへとしまい足を踏み出した。


 ドオオォォン……という音と共に黄緑色をしたスライムが空気中に溶けて消えたのを見届けると、僕は腕を下ろして腰に付けたホルダーの中に黒い銃を収めた。辺りには陽気なファンファーレが鳴り響き、左腕に嵌めている腕時計型端末からはピコン! と音がした。『5ポイントゲット!』と表示されている画面に指で触れると、今度は初めて聞くメロディが流れた。画面には『クエストクリア』の文字が浮かび上がり、『30ポイントゲット』の文字も表示された。

「やったね! クエストクリアだよ!」

 少し離れた所から葵がこちらに歩いて来て、すっと右手を挙げた。僕も同じように右手を挙げて、イエーイ、とハイタッチを交わす。公園内はいつの間にか夕日でオレンジ色に染まっていて、僕達の足の先からは黒い影が長く伸びていた。

「どうだった? 初めてクエストやってみて」

「楽しかったよ。最後のスライムは、ちょっと動くようになってたし。僕ゲームとかほとんどしたことなかったけど、こんなにすごいものだったんだ、って思った」

 僕が正直に感想を述べると、葵は嬉しそうに微笑んだ。そしてクエストの為に公園のだいぶ奥の方まで来てしまっていた僕達は、入り口のある方向へと向けてどちらともなしに歩き始めた。

「今回のはモンスターフルボッコ系だったけどさー、謎解きとかクイズとか、頭使わないと解けないようなクエストもあるんだよ。あと一人じゃ無理で、何人かで協力しないとクリアできないようなやつとかね」

「へえ、そうなんだ? じゃあ、今回のはわりと単純なものだったんだね。それでもすごく楽しかったから、そういうのだとますます面白味がありそうだね」

 夕暮れに染まる道を、葵と二人並んで歩く。公園には木が多いこともあって、すぐ近くからは時折カラスの鳴き声が聞こえてきていた。いつもだったらあまりいい気持ちにならないところだったけれど、今はなんだか心地よく感じた。

「ふふ、だからさー、もしそういうクエスト見つけたときには、また楓のこと誘っていい?」

「え」

 そんな中葵がさらっと告げた言葉に、僕は一瞬固まってしまった。足を止めそうになるのをなんとか堪え、平常心を心がけて葵の隣を歩き続ける。

 正直、嬉しかった。葵が色々なことを教えてくれるのもそうだし、これからも僕と関わろうとしてくれているということが。

「もちろん。……って言っても、僕じゃあんまり役に立てないかもだけど……」

「あはは、身構えなくていいってー。ただ一緒に楽しいことしようって言ってるだけだよー」

 葵はそう言うと、丸まり気味になってしまっていた僕の背中をばしばしと叩いた。い、痛! 結構力強いな……。

「ん?」

 するとそこで葵は何かに思い当たったのか、そんな呟きを漏らして背中を叩く手を止めた。どうしたのだろうと思って僕が顔を向けると、葵の表情が若干曇り気味になっていた。

「そういえばさー、今日の放課後こんだけ一緒にいたのに、楓一度も私の名前呼んでくれてないよね」

「え、あ」

 そうだっけ? と思ってここ数時間の記憶を辿ってみるけれど、たしかに葵のことを口に出して名前で呼んだことは一度もなかった。意図的にそうしていたつもりはないけれど、なんだろう、無意識にやっぱりちょっと恥ずかしいという気持ちがあったのかもしれない。

「学食で教えたよね? それとももう忘れちゃった?」

 逆光の中、若干拗ねるように口を尖らせる葵を見て、僕は心を決めた。

 ……忘れてないよ。

「……葵」

 ぼそりと呟くと、急に顔全体が火でも出るんじゃないかというくらいに熱くなった。や、やばい。会話の中でさりげなく呼ぶのと違って、こうやって問い詰められて呼ぶのは思った以上に恥ずかしい。そもそもさりげなく呼ばなかったから、今こういう目に遭っているんだけど。

「わっ」

 もう葵のほうを見ないようにして顔を俯けることしかできなかった僕の頬が、ぎゅむっと引っ張られた。思わず顔を上げると、すぐ目の前には満面の笑みを浮かべる葵がいた。

「よくできました」

 葵はそう言うと、尚もうねうねと僕の両頬をこねくりまわす。

 ……きっと僕の頬は赤くなっているんだろうけれど、それは夕日のせいってことになっているといいなあ……。

 そんな願いを密かに抱きつつ、僕はしばらくされるがままとなっているのだった。


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