ハローハロー応答願います
ひらひらと落ちて行く一枚の真っ白い紙は、空気抵抗を受けながら茶色いグランドに落ちていく。
先程まで飛行機の形を成していたそれは折り目がついていた。ふうわりふうわり私の掌をかわして空を舞うのだ。
後悔という言葉で終わらせることで心が晴れやかになると言うのなら私は幾らでも後に悔いたことだろう。
時計の右腕と左腕を左方向へと回す方法があれば私はどこまでも探しに行った。
彼を取り戻すためならきっと何をも厭わなかったろう。
願うことで起きた現象なのかはたまた、別の力が働いたのか解らない。ただ、大きな後悔を受け入れられなかった。それだけが確かなこと。
白と黒の世界。幼い時よく遊んだ部屋は啜り泣きが鳴り響いている。恰幅の良かった隆のおじさんは一夜にしてやつれていた。おばさんは目を真っ赤に充血させて涙をこぼしている。
母に連れられ、数年ぶりに幼馴染の家へと向かった。いつもは着崩している制服のブラウスを第一ボタンまで止め、スカートも膝小僧が隠れる長さにして。
写真に収まっている隆はいつも見ていた彼よりも少し幼く、笑顔でいた。
白い布が貼られている細長い箱に彼は収められているらしい。損傷が激しかったらしく箱の蓋は閉じられていた。
母の震える声も、気丈に声を取り繕って出すおばさんの声もまるでテレビを見ているようで現実味が欠けた。
一昨日、隆は死んだ。高い高いビルの上から飛び降りたと言う。皆、口を揃えまだ若いのにと話しているが私は知っている。彼は自ら死んだのではない。殺されたのだ。
唯一の幼馴染が命を落としたと言うのに真実を告げる勇気がない。そんなことをしたら次は私が飛び込むことになるかもしれない。
漫画の主人公は勇気を持って困難へと立ち向かっていくが私にそんなものは備わっていない。
ただの観客として一つの胸糞悪い物語をただ見ていただけだ。隆が何も言わないのをいいことに、状況を傍観していた静かなる加害者でもあった。
だから、涙を零すことなど許されない。決して許されないのである。
隆は中肉中背でどこにでもありふれている高校生だった。押しに弱いお人好しで、我儘な私はいつも彼を困らせていた。
仕方がないなあと笑う顔が好きだった。どこまでも甘やかす彼の許容範囲を知りたくなった私は、結構な態度を取っていた。
しかしそれすらをも見透かし、決して怒ることなく静かに諭す隆は私よりもずっと大人だったのだろうと今では思う。
悪いことには目を瞑っていればいつか終わると根拠無く信じ、日に日に元気をなくしていく彼をそのままにしていた。
性質の悪い遊びは標的を変え続いてくだろうが、隆でない者に移ればそれで良かった。
私と彼以外がどんなに苦しい思いをしたとしても私の世界は平和だ。きっとそんな悪い考えが透けて見えていたのだろう。目の前にいる彼はは物言わぬ人と成り果てている。二度とその口を開くことはない。
明日には高い温度で燃やされて白い骨しか残らなくなる。隆が私に笑いかけてくれることはもう一生無い。
その可能性を潰したのは他でも無い私だ。
「佳奈ちゃん。きてくれてありがとね。きっとあの子も喜んでるわ」
泣いて泣いてそれこそ全身の水分を全て出し尽くす程涙を零したおばさんは言う。
私は返事のしように困って、黙りこくる。彼は喜んでなどいないだろう。居るはずがない。
徹頭徹尾関わらなかった私を恨むこそすれ嬉しいと感じること等ある筈がない。
「おばさん、隆の部屋見に行ってもいいかな。最近行ってなかったから」
居心地の悪さを覚え、話題を変える。おばさんは二つ返事でこくこくと頷いた。
「高校に入ってから、あの子ったら全然部屋に入れてくれなくなったのよ。てっきり思春期だと思っていたのだけれど、こんなことになるなら無理矢理にでも話を聞けば良かった」
二階にある彼の部屋へと案内しながら彼女は深い後悔を滲ませそんなことを口にした。
年の割には若いのよ、が口癖だったおばさんの顔は泣き通しだったためかむくんでいて実際の年齢よりも老けて見えた。
階段から上って一番奥にある隆の部屋。茶色いドアを開ければ鼻腔に彼の匂いが香った。
「ごめんなさい、ここに入るの辛いの。まだ下で弔問に来てくれた人の相手もしなきゃならないし。悪いんだけれど一人で見てもらっても良いかしら。帰るときに声かけてくれれば構わないから」
「こちらこそ、すみません」
「良いの。寧ろこちらこそごめんなさい」
そう言って、おばさんはまた込み上げてきたのだろう涙を拭いドアを閉めて行った。
私は、一人になり隆のベッドへと腰掛ける。彼の匂いがする。ふと机の方を見遣ると、中学の修学旅行で買ったキーホルダーがふたつぶら下がっていた。
当時私が好きだったキャラクターのご当地ものだ。自分の好きなものを隆にも同じよう好きになって欲しくて半ば強引に買わせたそれは決して彼の鞄にはつけられなかったけれど取っておいてくれていたのだと思うと胸が妙に痛んだ。
優しい人だった。身体全体からお人好しが滲み出ているような人だった。些細なことで悩む私の話を辛抱強く聞いてくれる、そんな男の子だった。
失って漸くその存在の大きさに気付く私はなんて浅はかなのだろうか。本当に馬鹿げた話だ。
自分大事にと保身に走っていた癖、惜しむだなんて。調子が良いにも程がある。それでも自分勝手な心は傷付いていて、悲鳴をあげている。
隆がどんな仕打ちを受けていたのか全ては知らない。けれども、いつだかに回ってきた動画は人の尊厳を奪うような所業だった。
虐めを積極的に行うグループは素行の悪い者の集まりだと思っていたが私たちの学校で横行するそれを先行しているのは優等生だった。
外面は良く、教師の覚えも目出度い男。クラスの中心人物だ。明るく虫も殺せぬ顔をしてえげつない遊びを思いつく。言葉巧みに周りを動かしまるで駒回しのように隆を徐々に孤立させていった。
初めのうちはクラスのSNSを使ってからかいの言葉をそこに乗せる。すると何人かが便乗し、徐々に過激になっていく言葉。流石に隆がやめてくれと言うと愛ある弄りだと軽い感じで謝罪を乗せ、またからかい始める。何度か繰り返していくうち今度はノリが悪く詰まらないと言い出し、無視が始まっていく。そこからは転がるように状況が悪くなっていき、過剰な暴力行為はないものの、口にするのもおぞましいやり方で精神的に追い詰めていくのだ。
動画を見た時、あまりのえげつなさに吐き気を覚えた。画像の荒い動画。周りははしゃぎ立てていて、その中には聞き覚えのある女子の声も混じっていた。
カチャリカチャリとベルトを外す音、囃し立てる声。顔の筋肉一つ動かさない隆の横顔。それからしばらくしてグッと呻いた彼の声と嘲りの色を含んだ歓声が響いた。
どうしてこんなことになったのか、そもそも何故あの男が隆に目をつけたのかは解らない。
けれども集団でいることにより、罪の意識が浮薄になって結局こんな結果になったのだ。
私は、個人的に隆と連絡を取り合ったりしていたものの彼の受けている虐めには一切触れなかった。
隆も学校では話しかけないようにと、普段の彼からは想像も出来ないほどの口調で私に言った。
何も知らない。何も解らない。何も考えたくない。思考を止めた私は早くこの嵐が去ってからやしないかと心から願った。
けれども願ったところで神様なんていやしない。いたとしたならばなんと無慈悲なのだろう。
整理整頓された綺麗な隆の部屋。ベッドに腰をかけていたが、彼の存在をもう少しだけ感じたくてその布団へと寝転んだ。
大きく息を吸い込んで、慣れ親しんだ彼の匂いに少しだけ安堵する。残り香など脱け殻みたいなもので、生身の彼は動かないというのに。
彼の死を知ってから眠ることを忘れた私の身体は仮初めの安心だと理解していているのにも関わらず、強張っていた身体が弛緩して行く。
ついで強烈な眠気がやって来た。こんなところで眠るなんて場違いもいいとこだろう。
身を起こそうとするがまるでいうことをきかない。脳からの指令が頭から下へと行かず瞼もだんだんと重くなる。
まずい、焦燥感が覚えるがそれすらも深い眠りが飲み込んで落ちていく。薄れ行く意識の中、最後に目にしたのは風もないのに揺れるキーホルダーだった。
「佳奈、佳奈ってば」
気持ちよく眠っていたと言うのに肩を揺さぶられ、起きろと言わんばかりに繰り返し名前を呼ばれる。
漸く眠れたのだからもう少し寝かせてくれと言わんばかりに、肩に感じる他人の手を振り払う。
「相変わらず、寝汚いな。起きてよ」
なおも諦めない声の主にやや苛立ちを覚えながら薄目を開ける。
「やっと起きた。なんで僕の部屋で寝てるのさ。母さんもいないし、どうやって入ったの?」
「どうやってって、普通におばさんに入れてもらったんだよ」
言葉を返してから、異常な状況に気付き一気に覚醒した。聞き慣れた、けれども二度と聞くことの出来ない声。
「りゅう?」
「寝ぼけてんの? 僕の部屋なんだからそれ以外考えられないでしょ」
そう言って苦笑いを浮かべる彼。驚愕のあまり言葉を失う。どうして、何故。夢を見ているのだろうか。自分にとってあまりにも都合が良すぎる夢を。
「どうしたの? 豆鉄砲食らったみたいな表情して」
「何で、いるの? だって」
「だから、ここは僕の部屋だって。珍しく訪ねてきたのに寝ぼけちゃって。また夜更かししてたんでしょう。今日だって知らないうちに帰ってるし」
「隆」
混乱を極めた脳は何か指令を出していたが解らない。本物かどうか確かめなければと、先ほどまで私の肩を揺すっていた彼の掌を強い力で掴む。
指先が温かい。そのままぺたぺたと自身のそれで短く切り揃えられた爪や手の皺、ゴツゴツと骨ばった甲に触れる。
突然の行動に驚いた隆は固まって石みたいに動かなくなった。私は彼の見開かれた顔を見る。瞳には私の姿が映っていて、今にも泣きそうな顔をしていた。
ずっとこんな顔をしていたのかとどこか他人事のように思う。
「隆」
ゆっくりと味わうように彼の名を紡げば様々な感情が綯い交ぜになって一気に発露した。
彼の死を悲しむなど自分勝手だと、我慢していた涙がぼろぼろと溢れていく。
夢か或いは奇跡か。これが消えてなくならないものならば何でも良い。
「どうしたの? 何かあった?」
「ごめん、見て見ぬ振りばかりして。追い詰められていること知っていたのに。私は自分のことばっかりで」
「そのことか。僕が言ったんだ、関わるなって。もし、佳奈にとばっちり行ったら僕は死んでも死に切れない。良いんだよ。今更何をしたってもう変わらないよ」
隆は諦めたように笑って驚く程平坦な声で言った。先程私に見せた心配そうな顔はすっかりなりを潜めていた。
「私はどうすればいい?」
「何にもしなくて良いよ。寧ろ関わらないで。距離を置いて、幼馴染だなんて解らないようにして。幸いなことにうちの学校に進学した中学の子は居ないし」
「だめだよ。関わりは切れない。思考停止して隆の言うとおりにして取り返しのつかないことになったら、私はきっと一生後悔すると思う」
「僕は佳奈を巻き込んだら一生後悔する。今日君が家に来てくれて嬉しかった。でも万が一クラスの人に見つかったらやり切れない」
絶対に譲らないと言わんばかりの様子で一向に意見を変えるような素振りは見せない。けれどもここで彼の意思を曲げなければ、虚しい白と黒の未来が待っているのだ。
時間の逆行なのか並行世界なのか、はたまた全く異なる現象であるのかは良く解らない。
今やらなければならないのは、隆が生きているという目の前の現実を受け入れて彼の死を阻止することだ。
未来を変えられるのならば、この現状を作り出したのが神様でも悪魔でも構わない。
ゲームのようにミスは許されない。一つ間違えればまた私は喪失感を味わうことになる。それは初めに感じたものよりも更に大きくなることは明白だ。
「それでも、私は隆を放って置けない」
「きっと後悔するよ。足を突っ込んだら最後底無し沼の様な悪循環に嵌まってく。実際受けている本人が言うんだ間違ってない。安易に手を伸ばせばその指先から真っ黒に染まっていくよ。それに今更だ。佳奈一人で何が変わるって言うの。馬鹿馬鹿しいよ」
隆は吐き捨てるように言って、目を逸らす。私はどうにもしようがない感情をどうすれば良いのか解らなくなって黙り込んだ。二人の間には重苦しい空気が漂っていた。
彼が近くに居て呼吸をしているのにも関わらず私はただ見ているだけしか出来ないのか。
高い高い屋上から身を投げ、消えていくのを私は止められることすら出来ないと言うのか。
自身の無力に唇を噛む。彼の後ろ姿は西日に照らされオレンジ色に染められていた。
「隆」
「さっきの話、打ち止めだと言うならそちらを向くよ。でも押し問答を再開すると言うのなら出て行って欲しい。誰にでも触れられたくない場所はあるでしょ。土足で入ってこないで」
「解った。言わない。それより明日、土曜空いてる? どうせ暇でしょ。出掛けようよ、久しぶりに二人で」
「あのさあ、さっきまでの僕の話聞いてた? 距離を置きたいって言ったばかりだ」
「自分の意見ばかり通ると思うのはおかしな話じゃない? 学校では隆の言う通りにするよ。でも私がやりたいことを邪魔する権利は無いんじゃない? 言うこと書きなさいよ」
居丈高に返せば、一つの長い溜息を吐かれた。私のわがままを了承した返事の代わりだ。隆の厳しい顔付きが困ったそれに変化した。
「誰にも会わないって約束出来る?」
「早く行けば大丈夫。電車に乗るし学校の近くじゃないから」
「解った。それじゃあ明日楽しみにしてるよ」
明日への約束を交わした私は自宅に帰り自分の部屋に籠った。どうにかして未来を変えなければならない使命感に燃えていた。
けれども小さな頭で考えれば考えるほどドツボに嵌っていく。そもそもこのめちゃくちゃな状況がいつまで続くのか、皆目見当もつかなかった。
そもそもの始まりは隆の通夜で彼の部屋に入り眠ったことからだった。再びあの時のよう寝入ってしまったら最後の好機は、あぶくとなって消えてしまいやしないだろうかと恐怖する。
まだ何もしていない。私の声は彼の精神に届いていないのだ。先程交わした会話を思い出し、憂鬱な気分になる。
安全なところにいてほしいという隆の主張を聞いてしまえば、以前と同じ最悪な結末に真っしぐらだ。
自分の保身を棄ててでもあんな思いはしたくない。例え後に悔いることになっても、彼が死ぬこと以上の後悔はやってこないだろう。
頭を抱え込んで何か有効な手段は無いかと考え込むがあまり時間が経たないうちに堂々巡りとなった。
「未来を変える、なんて。まるでどこかの主人公みたい」
一人自嘲気味にごちる。付け加えるならば勇気も無く思いやりもない、内弁慶で他人の顔色をつい窺ってしまう私はどう考えたってヒーローの柄じゃない。
けれども止めなくてはならないのだ。自分が失いたくないからと言う利己的な理由で隆のことすら考えていないのかもしれないが、二度目の喪失を味わうのは真っ平御免だ。
彼は賢くて、同じ年の癖に落ち着きのある雰囲気を持っていた。空気のようにいつだって私の側に居てくれる人。
手放せない、手放したくない。身の内から叫びだしたくなるような感情が溢れ、私は唐突に理解する。
ああ、馬鹿だ。何故解らなかったのだろうか。私には彼が必要なのだ。柔らかく笑むところも、我慢強く話を聞いてくれるところも、困った顔すら。
当たり前過ぎて気付きもしないなんてこの十数年間何をしていたのだろう。
自分の身が一番可愛い、厄介ごとには関わりたくない、嵐が過ぎ去るのをただ待つのみ。そうやって面倒を避けてきたがもう逃げるのは止めだ。
苦しくても立ち向かわなければならないのだ。どんなに情けなくて臆病者でも。不意に訪れた機会を無駄にしたら一生笑って過ごせない。
明日は第一歩だ。理不尽に立ち向かうことが出来なくとも、連れ出して逃げ出すことは出来る。根拠の無い希望が湧き、なけなしの勇気に火が灯った。いつ終わるのか解らないやり直しの時間のことを見ぬふりをして。
眠ってしまえば隆がいなくなってしまう、そんな恐怖を抱いていたからなのか私の身体は布団の中に入り込んでも一切眠気を感じなかった。
延々と彼のことを考え、空が白んで来るのを待つ。目覚まし時計の短針が四と五の間を指し示した時、身体を起こし、服を着替えた。
まだ夜の匂いが濃い朝。東の空には今生まれたばかりの太陽が赤々と燃えている。
役目を終えて西に沈むそれとの色合いは似ているのにどうして感じる気持ちは違うのだろう。
前者は今日が始まる希望を感じさせ、後者は死の気配を含んだ寂しい気分にさせる。昨日隆の部屋で見た西陽は当にそれだった。
今は身体の内側から込み上げてくる活力が溢れ出んばかりに満ち満ちていた。未来を変える、それだけを考えて。
元来頭を使うことが得意ではなかった。幼い頃は我儘を通していた私だ。脳が指令を出すよりも早く反射的に口が動く、良くも悪くも感情に素直な子供だった。
年齢を重ねるうちに場面場面で繕えるようになったが、三つ子の魂百まで。結局本質は変わらない。
付け焼き刃的な態度を取ったとして、隆に不審がられることはあるこそすれ懐柔されることはないだろう。彼は一番近くにいた最も親しい他人なのだ。下手をすると私よりも私の操縦に長けている。
鬱々と考え込むことが阿呆らしく思えてきた私は、鏡の中でにかりと笑みを作った。今日がどんな日になるにしろ、私は彼の前で能天気に笑おう。幼いと言われども最近押し隠していた感情をありのままに伝え出すことを決めた。
「始発って冗談かと思ってた」
まだ眠たそうに目を擦りながら隆は言う。夢の住人から半分も抜け出せていない様子だ。そんな彼の腕を引っ張って今来たばかりの電車に乗り込む。
「始発じゃないよ。それは五時前に出るもん。今は六時近く。予想以上に隆が起きないからタイムロスが起きた」
「佳奈が寝坊すると思って。昨日は遅くまで起きてたんだ。テストも近いし」
「お生憎様。テストは赤点取らなければいいと思ってるから。それに来年からは文系コースに進むつもりだし。苦手な教科はぎりぎり取れてれば問題ないんだよ。優等生とは違ってね」
「学生の本分は勉強だってのに相変わらずだね。近くなってもノートは貸さないからね」
「頭の固い先生みたいなこと言わないでよ」
テスト期間と口にされ思わず言い返す。けれども私は知っている。私が体験した未来では彼はそのテストを受けることなく命を落とした。
昨日は混乱していることも相まって日にちを計算することも怠っていたが、通夜が行われた日にちまで後一週間も無かった。つまり一刻の猶予も残っていないのだ。
彼の決意がいつ固められたのかは知らない。あの時の私は彼を意識的に避けていた。主にSNSで連絡をしており直接顔を合わせることなど殆ど無かったのだ。
良くもそこまで知らん顔が出来たものだと自分のことながら苛立ちを隠せない。
都合の良い時ばかり頼って、後は無しのつぶて。これじゃあ本当に虐めを行なっている奴らと変わらない。思わず自嘲する。
「どうしたの? 神妙な表情しちゃって。それよりどこ行くのさ。こんな時間に出るなんて結構遠出する感じ?」
「そうだね。どうせなら行ったこともないところ行こうと思って」
「良いけど、お金足りんの? 僕は平気だけど」
「隆と出かけるって言ったら母さん、多めにお小遣いくれた。ちゃんと言うこと聞くのよって、まるで隆を保護者扱い。同じ歳なのに」
「お小遣いも計画的に使えてないじゃん。月末はいつもすっかんからん。おばさんは間違ってないな」
「週刊漫画って発売ペース早いんだもん。でも休み中にバイトした分は最近入ってきたから平気」
「もう小さくないんだからさ、ちゃんと管理しなくちゃ駄目だよ。この先必要でしょ」
「隆が一緒の時は任せれば良いし、そのうち直すよ。そのうちね」
そんな風に言えば、彼は口元をぎこちない三日月型にして返事をしなかった。私はその様子に違和感を覚えたが何も口にしなかった。
言わずとも理解していた。もう隆は決意を固めているのだと。見慣れた柔らかい笑みを浮かべていてもどこかしら苦いものが混ざっている。
隆が私のことを知っているように、私もまた彼のことならある程度解る。自己犠牲の強い傾向にあること、自分さえ我慢すれば良いと思っているのだ。
だから昨日も私を拒絶した。苛烈な虐めを受けるのは自分だけで良いと決めつけているのだ。
「覚えてる? 小さい頃にこうやって電車乗ったよね」
「ああ。おばさんと喧嘩した佳奈が家出するって特急乗ってさ、全然止まらないから泣きべそ掻いてたよね」
「隆は妙に冷静だったよね。降りて車掌さんところに行こうってさ。普通子供だったらパニックになって当然の状況だと思うんだけど」
「父さんが乗り鉄だから。慣れてたんだよ。休みの度に電車乗り継いでさ、母さんは呆れてた」
「そうなんだ。おじさんの趣味、全然知らなかった」
「ぽけっと見えて結構忙しい人だからね。子供の頃は休みの日も出勤する父さん見て、駄々こねてた。運動会もお遊戯会は勿論、遊園地や動物園も一緒に行くことなんて滅多になかったから。佳奈のお父さんが羨ましかったよ。公園で遊んだり、車で海まで連れて行ってくれたりしてさ。あの頃は楽しいことばかりだった気がする」
「うちは母さんの方が忙しいからね。締め切り守らなきゃって言うんで、家事とか父さんに任せきり。まあ破れ鍋に綴じ蓋夫婦で丁度良いんだけれどね」
「楽しくて好きだよ、佳奈の家族」
穏やかな声に安心した私は昨日一睡もしなかったことも相まって次第にうつらうつらとしてくる。
一定のリズムで揺れる電車と隣に居る隆から感じる体温。色んな要素が混じり合って意識が飛びそうになった。
「眠ったら引っ叩いてでも起こして」
寝てしまったらば何にも出来ずに元に戻ることになってしまう。起きたら彼がいないなんて言う展開は万が一でも避けたい。
「でも、目が蕩けそうだよ。昨日寝てないの? どうせ乗り換えなんて考えていないんだろ? 佳奈が眠ってる間本でも読んでるから、寝なよ。起きた時点で降りる駅を考えよう」
抗いがたい甘い誘い。まるで悪魔の囁きの様だ。けれども駄目だ、胸の中で警鐘がなっている。ここで隆から目を離したらこの元の木阿弥、何も変わらない。
眠気を散らすために自身の手の甲に爪を立て思い切り抓った。じんとした痛みに幾らか頭がはっきりする。隆は僅かに瞠目すると私の掌を彼のそっと包み込んだ。
「見てて痛いことするの止めてよ」
苦言を呈す彼の言うことを聞かず尚も力を込め皮膚を抓る私に骨ばった指先が無理やりに引き剥がし、行為をやめさせた。
「赤くなってる。爪の跡までくっきり残ってるじゃん。昨日から変だよ。いきなり泣いたり、眠りたくないってぐずったり。どうしたの?」
「だって折角隆と一緒にいるんだよ。一瞬だって無駄にしたくない」
切羽詰まった口調で言葉にし見遣ると彼は僅かに瞠目し、それから重ねられていた掌を強く握った。
「次の駅で一度降りよう。自販機があればそこで缶珈琲でも買って眠気を覚まそう。お願いだから自分を傷つけるようなことしないで」
たっぷり時間が経ってから漸く口を開いた彼の提案に私は二つ返事で頷いた。
「でも過保護だよ。爪の跡くらいどうってことないのに」
「嫌なんだよ。君が傷つくの見るの。どんな小さなことでも、嫌なんだ」
それならどうして何も告げずに身を投げたのだ、思わず咽喉から飛び出そうになった言葉を寸でのところで飲み込んだ。
今の隆を責めたとして詮無きことであるし、実際飛び降りた彼を詰る資格は私に無い。理解して尚、遣る瀬無い気持ちが去来する。
傷付けたくないと言われて嫌な筈がない。心配してくれるその表情を私の一挙一動で引き出せるのかと思うと嬉しくなる。
けれども彼は自ら私を最も傷付ける行為を行う決意をしているのだ。そんな決意は放り投げてしまえと思うのに、決めたら中々意思を曲げない彼はきっとこのままいけば実行に移すのだろう。
だんだんと思考が後ろ暗くなって行く。そもそも私は彼にとってどんな存在なのだろう。大切にされていることは自覚しているが、恐らく本当の意味で信頼はされていない。
手のかかる妹とでも思われているのが関の山だ。私の今までの子供っぽい行動のせいで安心して弱音を吐けるほどの度量ではないと判断されたのかもしれない。
私は彼を止めることが出来るのだろうか。猶予がない中で焦燥感ばかりが募り、大きく溜息を吐いた。
次の駅で降りて買ったブラックのホット珈琲は苦いだけでまるで私の心情を表しているようだった。
自宅の駅から鈍行列車に揺られること三時間と少し。景色に枯れ草色と、白、それから黄緑色ばかりが目立つようになった。
コンクリートジャングルと呼ばれている私たちの住む街は便利であったが自然とは縁遠いところだった。
眠らない街、夜になっても決して明かりが消えない其処は娯楽の宝庫であったが、人が沢山いるはずなのにどこか孤独で空しい場所だった。
それは学校にいると感じる寂しさと似ている。友人と呼ばれる者たちと遊んでいるのに見ているのは携帯ばかりで直接顔を突き合わせるよりも、機械を介した文字で会話をすることの方が多い。
私はいつも違和感を覚えていて、いっそ携帯など手放してしまいたいという衝動に駆られることがしばしば起きる。けれどもこの小さな機械を失くしてしまえばあっという間に友人も消え失せるに違いないと思っている。
私たちは結局一人にならないために一緒にいるのであって好きだから行動を共にしているわけではない。一人になるのが怖いから集まっている筈なのに余計に孤独を感じるのは皮肉なものだった。
けれども今感じるのは、解放感。取り囲むのは灰色でなくて穏やかで緩やかな風景とつんと冷えた匂い。息を大きく吸って肺の奥まで新鮮な空気を取り込んだ。
駅から見えた丘にある建物を目指し歩く。高低差のある道のりは思いの外きつく、建物の近くに着いた頃にはじいわりと汗を掻き、足の裏が痛くなっていた。
休憩しようと言う、隆の一声で腰を落ち着けられる場所を探す。
幸いなことに目指していた建物は公園内の施設だったらしく特段苦労することなくベンチを見つけた。
私たちは近くの自販機で飲み物を買い、隣り合って腰をかけた。その距離はこぶし二つ分よりも遠く、まるで彼の心情を表しているようだった。
「随分遠くまで来た気がする。たった三時間でこんなに違うものなんだね」
「飛行機なら北海道だって一時間だよ。それに修学旅行じゃもっと遠い京都に行ったじゃないか」
「それは新幹線ででしょ。情緒ないなあ。家から一本の電車なのに全然違うから感動するんじゃんか」
「気持ちは解らなくは無いけど。ここに住むとなったら大変だよ。佳奈の好きな漫画だって本屋まで行くの面倒そう」
「論点ずれてない? 別に住むわけじゃないじゃん。便利は良いけどさ、たまには緑が綺麗とか空気が美味しいとか感じたくなる時ってあるじゃん。それに、ここなら私たちのこと知ってる人誰も居ないよ。面倒がなくて良い」
「意外。そんなこと言うとは思わなかった。君は上手くやってるもんだとばかり思ってたから」
「表面上は上手くやってるよ。けど中々グループって面倒なの。会話する為にテレビ見たりとか、動画見たりとか。写真アップしたりとかしてさ。私、興味なかったから。人に合わせるって難しいよ。こんなこと言っちゃいけないんだろうけどさ。中学までの友達とは違う。みんな大人。ふざけていても笑っててもどこか冷静な自分がいる。時々考えるよ。本当に楽しいって何だったっけって。ただ一緒に居れば何でも楽しかったはずなのに計算してる。どうしたら嫌われない立ち位置に居られるだろうって」
「今まで聞いたことなかった」
「そりゃそうだよ。私も最近になって感じたんだから」
「以前より雰囲気変わったよね。少し前まではそんな風に苦しい表情していなかった」
一日でおじさんがやつれたように私もまた、隆の死を目の前にして変わったのだと思う。後悔と罪悪感、それから胸にぽっかりと空いた喪失感。
変わらない筈がない。最後に見た姿すら思い浮かべられなかった。笑っていたのか苦しそうだったのかそれすらも解らない。
思い出せるのは「平気だよ」と表示された文字だけ。私はいつから彼を見なくなったのか、何故素知らぬ態度を取れていたのか。
「私だって嫌だよ。苦しいの。辛いのも、嫌。けど今向き合わないと私、押し潰される。この先明るい見通しなんてきっと立てられない」
「何を焦ってるのか解らないけど、佳奈の未来は明るいよ。悩んだ分だけこの先良いことがある。今は、きっと僕の近くに居るせいで嫌なものばかりが目に付いてるだけだよ。ごめんね、こんなことになって」
「なんで謝るの?」
柔らかな表情をした隆はまるで自分の責任だと言わんばかりの言葉を口にする。けれども本当に悪いのは彼を虐めている奴らだ。陰湿に狡猾に人を追い詰めていく人でなし達のせいだ。
そして火の粉がかからないように傍観している無関心を決め込んでいた私のたちのせいだ。
「何怒ってるの?」
「どうして何も言ってくれないの。そりゃ私は隆に比べたら全然人としてなってないよ。勇気のない意気地無しだ。隆が笑わなくなって、屑みたいな仕打ち受けて、それでも見ていただけだったのは私。何にも考えないで、早く違う人に標的が移らないかななんて最低なこと考えて、傷付かないわけないのに。会いもしないで、話も聞かないで悪い夢が早く醒めてくれないかななんて思って。謝るのは私の方なのに」
「言いたくなかったんだ。それに会いたくもなかった。佳奈には見られたくなかったんだよ。何も出来ない無力な自分を見せたくなんてない」
「それで消えたら意味が無い。さっき私に傷付いて欲しくないって言ったよね? 良いよ、傷付けてよ。八つ当たりしてよ、話してよ。情けなくなんてない。確かに現状が変わるわけじゃないし、私に力なんてないけど。でも嫌だ。もう見ているだけなんて出来ない。私が一番傷付くのは隆が居なくなることだ。気付いたの。解ったの。別に思いを返して貰おうとは思わない。だけど勝手に私から離れて、消えようとしないで。消えちゃうのが一番怖い」
叫ぶように感情を吐露し、泣き出す私に隆は苦さが混じった笑みを消した。
「憎いよ。遊び半分で人をおもちゃみたいに扱うあいつら見ると吐き気がする。僕は佳奈が思っているよりも出来た人間じゃないんだ。虐められるようになって、頭や胸、身体全体が真っ黒になってる気がする。殺してやりたいとすら思ってる。毎日毎日否定の言葉ばかり聞かされて、最低な人生だ。けれど君にだけは知られたくなかった。心配してくれていたのは知ってる。僕と関係があるなんて知られたらどんなことになるのか。君も真っ黒になるなんてそんなのは絶対に嫌だった。だからこそ話したくなかった。幻滅されたくない、困らせたくない。君は僕なんかより本当はずっと優しいから。嫌なんだ。僕だって嫌なんだ。君も見たよね。拡散されていたから。あの動画、気持ち悪かっただろ、滑稽だったろ。もう、終わりだって思ったよ。終わりだと思ってたのに、何でか部屋にいるし、眠ってるし。どこか行こうなんてここ最近言わなかったこと言ってくるし。何なんだよ。しかも、昨日から泣いてばかりだ。そんな顔、殆ど見たこと無かったのに」
隆は普段の穏やかさをかなぐり捨てて語気を荒めた。私はその姿が苦しく見え、それでも漸く心のうちを見せてくれたことに安堵する。
「嫌いになんかならない。幻滅なんかしない。何年幼馴染やって来たと思ってるの。あんなもの、撮った奴を軽蔑しただけ。隆自身を嫌いになることなんて、きっと天地がひっくり返ったって有り得ない」
「佳奈」
「やっと応えてくれた」
「うん。僕も漸く言えた」
彼が私の名を繰り返し呼ぶ。距離を開けて座っていた間がだんだんと近づいていってあっという間にゼロになった。
私は驚くほどすんなりと馴染む彼の体温を間近で感じ、背中に手を回した。
二人とも顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、お世辞にも綺麗なものとは言い難かったけれど、私は確かに彼の深いところに触れることが出来た。
これで未来が変わったと楽観視は出来ないけれど一歩は踏み出したのだ。以前の私が尻込みしたその道へ。
隆が私に感情を吐き出したからと言って事態がいきなり好転するわけが無い。私は通夜の日に戻りたくなくって、家に帰った後、睡眠を必死に拒否した。
眠ってしまえば、彼との抱擁も、涙も、その後に笑い合った時間も全てが夢になって失われてしまう気がした。
しかし、努力も虚しく疲弊していた身体は私を心地よい眠りの世界へと引き込んでいく。嫌だ、と訴えているのに重たくなっていく身体。せめてもの抵抗にと指先を動かそうとしたが鉛のように重たく、ピクリともしない。次第に意識も曖昧になり完全に瞼が閉じた。そこからはもう何も考えられず、深い眠りの中へと落ちていった。
目覚めると自室ではなく隆の部屋にいた。私服を着て眠っていたはずなのに、制服を着ている。嫌な予感がした。
顔を上げれば、机にはキーホルダーが二つぶら下がっていて窓から西陽が差していた。部屋には誰も居ない。私の名を呼んで起こしてくれた声の主は、その匂いだけを残して消えている。
夢だったのだろうか。私の願望が作り出した長い夢で、やはり現実は変えられなかったのか。
確かめずにはいられなくなって、部屋を飛び出し階段を駆け下りる。すると驚いたおばさんが声をかけてきた。
「佳奈ちゃん、どうしたの? まだあの子帰って来てないけど」
おばさんは喪服を着ていなかった。顔もむくんで居なくて、泣いてもいない。やはりあれは夢ではなかったのだ。
「隆どこにいるか知ってますか?」
「解らないわ。学校じゃないの? あの子の部屋で待ってる?」
「いや、良いです。すみません、お邪魔しました」
挨拶もそこそこに飛び出し、彼が飛び降りたという駅の近くにある雑居ビルへと走り出した。
心臓が嫌に大きくどくどく鳴る。嫌な予感が止まらない。
隆は温和そうにしてその実、頑固だ。決めたことは余程のことがない限りやり通す。
ましてや、彼が「殺してやりたい」と口にする程苦しんでいたのだ。苦しんで、苦しんで死を選ぶ程に。
全速力で目的の建物へと向かい、エレベーターのボタンを連打する。普通であれば屋上など入れないものだがここのビルの管理は甘い。
はやる心を抑え、息を整えながら最上階のボタンを押した。程なくしてチン、と音とともにドアが開く。
私は音を立てるのも構わず屋上へと向かう階段を一段飛ばしで駆け上がり、立て付けの悪いドアを思い切り開いた。
まず視界に入るのは今沈まんとしている太陽だった。遮るもののない屋上は夕陽に照らされ真っ赤になっていた。すると、聞き慣れた声が私の名を呼ぶ。
「佳奈?」
「りゅう」
荒い呼吸を何とか抑えながら彼の名を口にした。我ながらに情けない声だったが、彼に届いたようでコツコツと足を鳴らしながらこちらは近づいてきた。
「なんでこんなところに? しかも走ったの? 髪酷いことになってるよ」
「隆こそ、こんなところで何してるの?」
「夕陽見てただけ。今帰ろうと思ってたところだよ」
「嘘、こんなところ滅多に来ないよ。そこから飛び込もうとしてたんじゃないの。私言ったよね、隆が居なくなるのが一番傷付くって、なのにやっぱり駄目なの? 私じゃ支えにもならない? もうどうすれば良いか解らないよ。確かに私が味方したところで状況は変わらない。でもこの前みたいに連れ出すことは出来る。どうしたって嫌ならどっか遠くに、逃げることだって。私、お小遣いも要らないしちゃんとする。だから、お願いいなくならないでよ」
突然現れていきなり泣き出す私に彼はひどく驚いた顔をして、それからいつものように柔らかく笑った。
「落ち着いて。大丈夫。佳奈が何でそんな勘違いをしたか解らないけれど、全然違うんだ。確かに君が思っているようなこと考えたことあるよ。でも言ったじゃないか。どんな小さなことでも君を傷付けたくないって。それは勿論僕も対象だ。居なくなんてならない。君を置いていなくなるなんてもう考えない。君が覚悟を決めたように、僕も決めたんだ。負け犬と呼ばれるかもしれないし、臆病だと言われるかもしれないけど」
「居なくならないで。もう、ごめんなの。哀しい思いは嫌」
私は昂りに昂っていて、酷く辿々しくまるで幼児のようにその言葉を繰り返した。そんな様子に彼は一つ息を零して両腕を突き出して私の身体を包み込む。
「正直言って、死にたいってずっと思ってた。多分今も少し思ってる。でも諦め切れなかった。きっと君だからだ。君が嫌わないって、泣いてくれたから。もう絶望なんかしない。だって周りが敵ばかりでも君は味方なんだろう」
優しくあやすような声には最早苦みは滲んでいなかった。私はそれに安堵し、彼の身体を思い切りに抱き締める。
「側にいて」
「いるよ。君が望むならずっと側に居る」
甘やかな言葉は更に涙腺を刺激し、土曜日以上に涙を零した。真っ赤に染まっていた屋上が夜の闇に包まれるまで私は彼の身体から離れようとしなかった。
それから少し経ってから隆は学校を辞めた。おじさんやおばさんに事情を話したところすんなり承諾され、寧ろ何故今まで黙っていたのかと涙ながらに怒られたと柔らかい笑みを浮かべて教えてくれた。
私はと言うと、相も変わらず学校に通っている。虐めていた連中達も何事も無かったよう過ごしており、隆の存在など初めからなかったみたいに通常運転だ。
奴らにしてみれば取替え可能な玩具がひとつ姿を消しただけのことなのだろう。辞めた途端に隆の名前を口にするものは居なくなって、最早誰も興味を持つ者もいない。
私はそんな状況に違和感を覚えるが口にしない。結局のところ私も何ら変わっていないのかもしれない。
隆の死が回避されたことで私の世界は守られた。この先他のクラスメイトが彼と同じようになったとして必死になることはないだろう。きっといつかと同じように傍観を決め込むだけだ。
私は聖人でも超人でもない。掌に収まるほどの勇気しか持ち合わせていないし、博愛主義でもない。隆だったからこそ執着したのだ。それだってあの不可思議な現象が無ければどうなっていたのか解らない。卑小で弱い人間なのだ。
しかしながら、幸いなことにまだ新たな標的は定められていない。水面下で画策しているかもしれないが実際のところは解らない。係わり合いを持てばリスクを背負うことになるので極力接触を避けている。
虐めていた奴らを一生許せないだろうと隆は言う。復讐はしないのかと問えば、首を左右に振りながら幸せになることが一番の復讐だと応えた。
私は釈然としない気持ちを抱いたが彼が何もしないと言うならばそれで良いと思っている。経験した本人が言うのだ。苦しみの欠片も理解できない私が口を挟むことじゃない。
無論、奴らに制裁が下ってほしいと願っているがああいう類の連中は社会の海を上手に泳いで行くことだろう。力のある者に追随し、意見を玉虫色に変えて。
時々何故時間が戻ったのかを考えることがある。思考を巡らせば巡らせるほど、今の現実すら夢の一部であって実際は何も変わっていないのかもしれないと思いに駆られ、不安で堪らなくなってしまう。
そんな時は決まって隆に会いに行く。そして彼が柔らかな笑みを浮かべて迎えてくれる姿を見て安堵するのだ。
今日もまたベッドにだらしなく寝転びながら勉強中の彼に話しかける。声を聞いて夢でないと確認し、その背中に縋り付いた。私の不安定さを案じた彼は動かしていたシャープペンシルを置いて受け入れてくれるのだ。
私は知っている。彼が一種の罪悪感を覚えていることを。極度に失うことを恐れる私はどこか可笑しいのかもしれない。
彼の負い目に附け込んで甘える私は卑怯で狡い。けれどもきっと一度知ってしまったこの捩じくれた喜びを手放すことなどできないだろう。
「隆」
「何?」
「側に居てね」
私たちの世界は今日も平和で穏やかだ。




