6
「ミリア……」
見慣れた、ようやく見慣れた、ふわりとした微笑を浮かべたウォレンに、ミリアは間違っていなかったと確信する。
そっと手が取られると、手のひらは硬かった。出会ったころはミリアの方が大きかったけれど、当然、今すっぽりと覆われるのは自分の手の方だ。
「本当に? 僕でいいのかい」
「ええ。もちろん。ウォレン以外と行くはずないもの」
「じゃあ、指輪を贈っても?」
「指輪?」
「そう。君の好きな宝石でいいから」
「好きな……」
「あるだろう?」
「……」
もちろん、ある。見上げた先に、長いまつ毛に縁どられた翠玉が。
どれ、と尋ねられれば、間違いなく一番先に思い浮かぶ答えだけれど、それはきっと、ウォレンの望む答えではないだろうから。
あとは……と考えて。
「藍輝石がいいけれど……ほとんど幻だから」
「ああ。君の本に載っていたね。不思議な力が宿る石って」
「どうしても外せなくて、実物を見たことがないけど原稿に入れたの……だから指輪は」
「探すよ」
いらない、と断るはずが、柔らかい調子なのに不思議と遮った声に鋭さを感じて、続きが喉の奥で消えた。
声が近かった。もちろん、ウォレンもとても近かった。体温を感じるほどの、距離。
さっきまでずっと遠いと感じていたはずなのに。
「君の望む物を探すよ。ミリア」
切られてしまいそうなほど真剣な声に、思わず息をのんで……それから苦笑した。
「ありがとう、ウォレン。でも、そんな無理をしなくても、私も一緒に探すから」
「さがす……? ミリアも藍輝石を探すの?」
「いいえ。ウォレン、藍輝石を見つけるなんて、お金も時間も運も必要なのよ。二か月後には絶対間に合わないと思うわ」
それこそ、年単位、下手をすれば十年単位の時間が必要だ。
だから指輪はいらない、とミリアはすっぱりと言い切った。
「えっと……じゃあ、何を……」
そこはかとなく嫌な予感を抱えつつウォレンは明るい笑顔のミリアに問いかけた。
「なにって……もちろん、大事なウォレンの結婚相手よ?」
「――」
「今度の夜会には、国中の人が集まるから、きっといい人が見つかると思うの」
「……」
「こんな機会は滅多にないし、次があるかもわからないし」
「…………」
「今回ばかりは宝石はなし、見るのは人間にするわ!」
「……………………」
ね? と問いかけた後には、埃の落ちる音が聞こえそうな、沈黙が落ちた。
身じろぎもできなくなったウォレンと、疑問符を浮かべる少女の後ろで、最初に動いたのは優秀で聡い侍女。あまりの事にしわの寄って固くなった眉間を指でほぐした。
――そうじゃない。そうじゃないだろう! ディアナは心の中では盛大に突っ込んでいた。
叫べるものなら、淑女の仮面を投げ捨ててちがーう! と叫んでいた。伯爵家での失態は自分の家の失態につながってしまうため、実行は出来なかったけれど。
ぎこちなく、ウォレンが動き出したのは、かなり経った後で。
「待ってミリア。多分君は……誤解して……いや、理解してない、のが正しいか……」
「?」
後半は独り言のようでミリアには届かなかった。
再度黙り込んだウォレンに、ミリアはミリアで一応考えていた。何かを間違えたらしいとは察している。とすると、大抵は根本的に間違っていることが多い。
となれば。
「結婚相手を探しに行くんじゃないのね?」
「それはその……」
「もしかして、お父様に何か言われたのね? 相手が必要なのは、ウォレンよりも私の方で、だから連れて行くように頼まれたんじゃなくて?」
一番有り得そうな修正だった。なにしろ、変わり者の伯爵令嬢に近づく男はまずいないし、同学年の子女なら婚約者がいるのが当たり前。結婚をするために学院を去った人すらいるし、卒業後は花嫁修業が一般的だ。
最終学年なのに、どれにも当てはまらないミリアが嫁き遅れになるのは、必然だった。
けれど。
「違うよ……」
力なく否定された。項垂れてしまったウォレンをよく分からないままにミリアはそっと抱き寄せる。ディアナが見ないふりをしてくれているので、肩に頭が乗ると、手が届くので軽く叩いた。子供だった頃なら、理由を尋ねないまま、ただ体温で慰めるなんて、当たり前だったのに。大人になると、不便が多くて困る。
「ミリア……君はあの夜会を、どんなところだと思っているの?」
「お見合い夜会? 素敵な相手を探しに行くところでしょ?」
「………間違っては、いないんだけど……」
首をかしげるミリアに、どうやらやっぱり「知らなかった」のだとウォレンは痛感する。
気が逸って勝手に早とちりをしてしまったのが、悪いといえば悪いが……となれば、反応が芳しくなかったのは。
「君は、僕が誘わなかったら、夜会に行かないつもりだったの?」
耳のそばで、ウォレンが囁くように尋ねた。なんだか泣きそうだとミリアは長年の付き合いで感じるけれど、嘘をついてもどうにもならない。
「そうね。あんまり」
「どうして? あちこちに顔を出すって話を聞いているよ? 好きだから行くんだろ」
子供がむくれた時と同じ調子に、思わずくすりと笑みがこぼれた。どうやら噂話を拾っていたのはお互い様らしいことも、笑いたくなった理由だった。
行きたくなかった訳は、いくつかあるけれど。
「ウォレン、私が好きなのは?」
「宝石」
「そう。だからなの」
「好きだから、夜会に行くのに、好きだから、今度の夜会には行かない」
「その通り」
「……意味が分からないよ」
「王太子付き、次期宰相候補でも?」
「君の思考は特殊すぎるんだ」
「十年近くずっとそばにいるのに?」
「……」
髪が首筋をくすぐった。反対の方を向いたのは、きっとちょっと意地悪な質問をしたせいだろう。体を起こして向き合ったウォレンの翠玉が、蕩けるようにミリアを映していた。
「……分からないよ。だから教えて、ミリア」
こつん、と額が付いてすぐに離れた。
降参の合図に、そんなに難しいかしら、と思いつつ種明かしをする。
「ウォレンは夜会に行くとき、どうやって服を決める?」
「制服」
「……」
やっぱりお仕事人間ね、という感想はひとまず横に置く。確かに、王宮勤めの人にはそれは見事な「制服」が渡されるため、地位を現すあの「制服」で夜会に来る人は少なくないのを、ミリアも知っていた。
「普通は、服を選ぶか作るかして、その上で宝石を選ぶでしょう」
「そうだろうね」
「でもね、身に付けるものを決める時って、必ずしも自分一人で決めるものじゃないわ」
「まあ……仕立て屋とか流行を気にするだろうね」
「それから、両親のもとにいれば、二人の意見も」
「……ああ」
この辺りで、どうやら悟ってくれたようだった。
「流行もいいけど、型通りに収めた方が、評判には響かない、か」
「そう。若い人はあまり冒険しないのよ」
よって。
「『宝石は面白くない』んだね?」
見事に声が重なった。その通りだと頷く。
「これがチェストン公爵夫人辺りになると、宝石に合わせてすべて一式あつらえるのよ? ドレスにガウン、帽子まで」
「馬車も作ったって言ってたよ」
「それは初耳」
公爵夫人は、それこそ流行を作る側の人間だ。彼女はいつも細い道の最先端を踵の高い美しい靴で歩いている。
同じ人の、同じ後姿が浮かんだと確信し合って、ふっと笑う。それから、不意にウォレンが真顔に戻った。
「ねえミリア。君が行きたくないなら、無理強いはしない」
「ウォレン?」
「行かなくていいから……僕と結婚してくれる?」
まあ、とミリアは驚いた。やっぱり、ウォレンは結婚願望があるようだ。それとも実家から見合いでも迫られて、忙しい彼は困っているのかもしれない。何しろ、厳格なことで有名なシューストン侯爵家だ。彼は次男だけれど、相応に責務があるのだろう。
そうね、とミリアは考えた。
「ウォレンとずっと一緒にいられるのはとても嬉しいわ……」
「えっ」
驚いて目を丸くするウォレンに、でも、とミリアは続けた。
元「お姉さん」として、ここを譲ってはいけないだろうから。
「大事なことだから……手近なところで決めてしまう前に、まずは広い視野を持つ方が良いと思うの」
「……」
「だから、一緒に夜会に行きましょう?」
ね? と同意を求めたミリアに、返事はなかった。