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ウォレン・シューストンは優秀な男だ。
どれくらいかというと、次期国王の側近を、わずか二十一歳で務めるほど優秀だ。ちなみにミリアの通っているユヴェルト学院は通常十二歳から十七歳の五年が就学期間だが、三年で飛び級し、士官学校へ再入学し、さらにそこを首席で卒業するくらい優秀だった。文武ともに優れるが、今は将来の宰相と目されて王太子の側近として宮仕えをしている。
よって、超・多忙だ。
暇とか休みなんてないんじゃないか、というくらいの仕事量だと、父マーノクがこぼしていたのをミリアは耳にしたことがある。
そんな男を、うっかり趣味に気を取られて待たせたりしたら。
きっとミリアはあらゆる人から恨みを買ってしまうに違いなかった。ので、持てる技術と人員を総動員して、なんとか見られる格好にしてもらい、応接室に走――るのは許されなかったので、速足で向かった。
先導の侍女が、扉を開いた先には。
ちょうど振り向いた、ウォレン・シューストンがいた。
薄い茶色の髪と、そして。
ミリアと目が合って、ふっと目元を和ませて微笑まれれば、ついつい見惚れてしまう。
――いつ見ても、美しい翠玉が、二つ。
綺麗ですね、なんて言葉がかすむ。ウォレンの瞳より惹きつけられる宝石なんて、この世にあるかしらと思ってしまうほど。
誘われるように全部忘れて、ミリアはウォレンのそばへ歩み寄った。
遠くても、近くても。ミリアを捕えて離さない。頭一つ以上、身長に差があるから、最後は星を見上げるように首を仰向けて、映りこむ自分を確認できたところで……自然と笑みが浮かんだ。
「久しぶりね、ウォレン」
「お嬢様!」
挨拶に、小言が飛んだ。むっとして振り返ると、眉根を寄せたディアナがいた。後ろで、笑いかみ殺す気配が漏れる。息を吸って、反論を飲み込んでから……一歩下がって慎ましく一礼をしてみせた。
「失礼いたしました、シューストン様。遅れましたことをお詫び申し上げますわ。ミリア・ハースでございます」
気取っているのがありありと分かる自己紹介に、明らかに笑いをこらえながら……ウォレンが右手を差し出した。
「お気になさらず、ハース伯爵令嬢殿。出来るなら私に、あなたの名前を呼ぶ権利をいただけないだろうか」
「もちろんですわ。どうぞ、シューストン様のお気持ちのままにお呼びください」
「ではミリア。私の事はウォレン、と」
「ウォレン様」
出された右手に答えれば、指先に口元が近づく。触れずに、離すのが「挨拶」だが……いたずらに乗っかったウォレンは軽く触れてきた。
お互いに、にっこりと笑う。
とどめに、どうだとばかりにディアナを振り返れば、頭を押さえて見ないふりをしていた。こうなればもう、小言は飛んでこない。
メイドの用意した茶菓子とともに、ソファへと腰かける。
「うちの侍女がごめんなさい、ウォレン様。素晴らしい侍女なんだけど、時々頭が固いのよ」
「なかなか楽しかったよ」
慣れた仕草でカップを持ち上げる姿に、ミリアはまたも一瞬動きが止まる。
ディアナもそうだが、ウォレンにはそれに輪をかけて、動作一つに品がある。まさしく「貴族然」として雰囲気が。
剣を扱うといっても、ウォレンは逞しくもないし、どちらかと言えば細身なのだろうけれど、これで途方もなく強いのだと父が褒めていた。
誰よりも何よりも、その切っ先が鋭く速いのだと。
側近になる前はやや日に焼けていた肌は、室内仕事が増えたのか、すべらかに白い。
時々発掘現場に行って日焼けをしてしまうミリアよりも……もしかしなくても、ずっと、肌がきれいだ。
こういうところが駄目なんだろうなあ、と少し遠い目をしてしまう。その視線の先に、渋面なままのディアナがいて、慌ててミリアは正面を向いた。
「気にしないでいただける?」
「構わないよ、ミリア。侍女は正しい。もう、子供ではないからね」
成人は十六だ。すでに「大人」になって五年のウォレンと、取り巻く環境が変わったばかりのミリアとでは、慣れに差があることぐらいは分かっている。
「そうね…つい、やってしまう私が悪い……とは思うんだけど。ここはハースの家の中よ?」
「いつもやっていないと、本当に必要な時に失敗するかもしれないだろう? 賢い君なら、そうそう下手なことをしないとは思うけれどね」
正しく諭されて、ひとまずミリアはええ、と頷いた。ウォレンとディアナが正しい。もちろん、知っている。
ただ……と思ってしまうことが、単なる我がままなのだと、理解はしているのだ。
ふるふると首を振って、思考を追い出した。今日の本題を切り出さないといけない。
「あの、今日はこの前の手紙の事で、いらしたんでしょう?」
「あーうん。そうなんだけど……ミリア。その前に」
らしくなく歯切れが悪い切り出しに、ミリアは首をかしげた。あまり会えなくなってしまったから、共通の話題なんてないはずだった。
「なんでしょう?」
「……君、本を出しただろう?」
あら? と今度こそ声に出た。別に隠してはいないけれど、公表している事でもない。どうしてウォレンに話が……と考えて、一つ思い当たった。
「もしかして、お父様が?」
「いや違う……もしかして、知らないのかな?」
「知らない?」
「ミリアの『ヨシュアルにおける貴石に関わる一考察』。社交界じゃ読んでいない人間の方が少ないと思うけど」
「…………」
ミリアは黙った。
そんな馬鹿な、と言いたいけれど、ウォレンが嘘なんてついたってなにもいいことはない。ただ瞬きを繰り返して、信じられない気持ちをどうにか飲み込もうとしてみた。
悪くないはずの記憶力を叩いて動かし、以前言われた発行日程を思い出す。
「でも……本が出てから、十日くらいしか経ってないはずよ?」
「それでも、だよミリア。君はもともと『有名』だったしね」
「……」
暇な人が多いのかしら、とこぼせばウォレンがくすりと笑った。
内容はそれほど大層なものではない。ミリアが気ままに書き留めた、このオーディアの首都、ヨシュアルで観察した宝石についての散文がもとになっている。
切っ掛けは、ハース伯爵が運営する地方商会の長・ブランに、首都の貴族を訪問するにあたり、何か話のタネはないかと――要は商売の切り出しにあたる――招いた食事の席で問われたことだ。
父の助けになるならと、いくつか夜会で見た宝石の話をしたところ、いたく気に入られ、もっとないか、もっとないかとせがまれることになった。
困惑するミリアをよそに、面白いと父と二人で盛り上がり――ワインの影響は少なくなかったと思っている――どんどん話が膨らみ、ついにはミリアが雑記帳のように纏めていることまで話が及ぶと、あっというまに出版話にまで発展してしまったのだ。
気の早い商人は、もちろん行動力もある。
ミリアが断りを入れるより早く、あっちこっちの伝手を頼りに準備を整え、あとは原稿を待つのみとなってしまっていた。
こうなっては……引くに引けず、また父も大して反対もしないため、押し流されるように、人の名前や日付をある程度ごまかし、思うまますぎる文章に手を入れ、取り留めのない形は直らない、直さないまま、「原稿」としてブランの手に渡った。
完成品が届いたのは数日前だけれど、ミリアはその前後に届く予定だった橄欖石の事で頭がいっぱいで、本の事なんて記憶から消えてしまっていた。