17
その一報が入ってきたのは、休日の昼下がり。午後のお茶を嗜みながら、お気に入りの収集物をうっとりと眺めていた時だった。
「……まあ、碧天石が?」
「ええ。真っ二つだそうでございます」
共に休日を過ごしていた父親が、慌ただしく出ていった理由にミリアはきらきらと瞳を輝かせた。マーノクは中央管理や役職に就く立場ではないが、非常事態に貴族の一員として招集が掛かったのだが。
「真っ二つなんて……割れた石を見せてくれると思う?」
素敵ねえ、とでもこぼれそうな好奇心溢れる笑顔に、そばで聞いていたディアナは目を閉じて頭痛を堪えた。
繰り返しになるが、非常事態なのだ。国宝が損傷したのだから、国難であり、事態によっては重罪人が出てもおかしくない。詳細は聞こえてこないが、ディアナとしては不安でひどく落ち着かなかった。
だというのに、この「宝石姫」ときたら。
「お嬢様、それよそで言わないでくださいね。絶対に、ですよ」
「分かっているわ」
本当ですか、と念を押すのを、すんでのところで堪えた。ここ最近、一番の笑顔で、いそいそとノートのページをめくったり、違う石を引っ張り出してきたりと、ミリアは忙しい。
「お嬢様……不謹慎ですよ」
「そうかしら? でも、碧天石は、とても割れやすい石だもの。もしかしたら先月急に晴れた日が続いたから、乾燥してしまったせいかもしれないし」
「国宝なんですよ、お嬢様。しかも管理を行っているのは王太子様。継承権の問題に発展しかねません」
「そんなひどいことを現王陛下がおっしゃるの? 石倉にガラスで囲っておくだけじゃ、たとえ王城であっても割れるときは割れてしまうのに」
「お嬢様っ」
不敬罪の文字が浮かぶ言葉に、ディアナが怖い顔になった。内心で両手を上げてミリアは降参する。
「ごめんなさい。もう言わないわ」
「……お気を付けください。誰かの耳に入ったら、それこそ……」
先を、ディアナはぐっと飲みこんだ。ごめんなさい、とミリアがもう一度謝る。事を重大に受け止めきれないのは、石にばかり重点を置いてしまうせいだ。手元には、形は違えど碧天石。手のひらに乗る大きさで、この石は黒を基調とながらも、青や緑の不可思議な模様が波のように入っている。
美しい色合いは、優美で繊細だ。けれど、例えどんなに希少であろうと、石が割れただけで一国の未来が変わってしまうなんて、度が過ぎるとミリアは思う。
石は、石だ。そこに人の入る余地はない。先行きを告げることも、誰かを戒めることも、正義を唱えることもしない。
それをするのは、己の信念を何かに投じてまで成し遂げたい、人間だけだ。
けれど、政治の世界では、そのような「切っ掛け」とやらが、重要視され、利用されるのかもしれない。
――美しいものを、ただ愛でるだけに止めておいてくれればいいのに。
嫌ね、と今度はため息を吐いた。
屋敷の玄関の方が騒がしくなった。様子を伺いに行くと、帰宅したマーノクと顔を合わせた。ミリアを見るなり、何とも言えない、微妙な表情になったのはどうしてだろうか。
「なにか? お父様」
「いや」
「進展はありまして? 碧天石が……」
「済まない、ミリア。まだ何も」
「王太子様の継承権には、差しさわりないでしょう?」
う、とマーノクが息を詰める。手からは渡そうとしていたステッキが落ちた。からんからん、といい音がする。執事であるサミュエルが、慌てて拾いあげた。
「……ミリア」
何か悪いことを言っただろうか。きょとん、とマーノクを見上げると、しばし目が合った後に、ため息を吐かれた。ハースの魔女か、と呟いたが、説明はなかった。
あまり話せないけれど、と前置いて、大丈夫だよとマーノクが告げる。
「陛下は、此度の事をさほど重要視する必要はないとお考えだよ。それに……」
「それに?」
「いや……ほとんどは、その意見に賛同したんだ。略式だが、王令を発布して、国民に知らせることになったから」
「正装に着替えが必要なのね」
数は少ないが徽章や飾りの多い正装は、着衣に時間がかかる。邪魔をしてはいけないと、ミリアは自室に引っ込んだ。廊下から聞こえる、侍女たちの忙しく働く音を耳にしながら、きっと城に詰めているだろう、ウォレンの事が頭に浮かんだ。
学院で偶然出会ったのは、三日前のことになっていた。
あの時には結局、ミリアはウォレンから何も教えてもらえなかった。動揺を見せたはずの彼は、ミリアから離れた後は、とても冷静な「先生」になっていた。はっきりとした説明を求めるも、上手くかわして授業へと行くように促した。正論を言われているだけに反論が出来ず、うやむやのままだ。
頭では分かっている。ウォレンが正しいのだと。
けれど、ああして線引きをされて「大人」の対応をされたのは、初めてだった。
手紙ばかりが増えて、数年は会う機会が減っていた。
ひと月の間に二回も顔を見て、さらにひと月半後にも出かける約束をしているなんて、驚くくらいの頻度だ。まあ、筆まめなウォレンは、数日に一度で手紙が届いていたから、離れていたという印象はなかったけれど。
それでも、昨年はお互いの誕生日さえも手紙と贈り物で終わっていた。だからだろうか。瞼の裏に、冷たい表情の「シューストン先生」が張り付いて、どうしても離れてくれない。
「……だめね、こんなんじゃ」
ずっと変わらないでいられると思っていたのは幻。ウォレンもまた、家の事情が変わると共に離れていった人々と同じだと……つい考えてしまう。
子供じみた、拗ねた考えだ。幼稚で我儘。ウォレンに知られたら、呆れられてしまうか、もしくは苦笑いを返してくれるか。
広げていた収集物の中から、目についた藍銅鉱を手に取る。濃い青は、日暮れ前の空に似ている。一日のうち、わずかな時間に現れる色と同じように、この鉱石は時をかけて 緑色の孔雀石へと変化していく石でもある。永遠に同じ色のままでは、いられないのだ。
どちらも、ミリアにとっては綺麗で素敵な石で、どんな変化も面白い。
けれど、人の変わりようは、時に辛いことがある。
ミリアの脳裏に、あの美しいカロリーナが浮かんだ。翠玉も紫水晶も、誰もがほめそやす至高の石だ。並べておくのに、ふさわしいもの。
「……いかがなさいましたか、お嬢様」
着替えを手伝い終えたディアナが、ミリアの元に戻ってきた。どこか思案顔にミリアが、振りむいてあのね、と口を開く。
「私、やっぱりあの夜会はお断りしようかな、と……」
「はい?」
「出来の悪い妹分がいたら、ウォレンにお嫁さんが来ないかもしれないし」
「……」
碧天石より、ディアナにとっては深刻な問題が降ってきたせいで、優秀な侍女は一時停止を余儀なくされた。めまいがする。なんだってこのおとぼけは――とのど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「お嬢様、そのようなご配慮は不要です」
「どうして? だって変な虫がついてたらチョウチョは来ないと思わない?」
とても的を射た意見なのだが、根本が間違っている。
「ウォレンさまは、蝶より変な虫の方が好きですよ」
「ディアナ、ウォレンはそんなに虫取りが好きじゃなかったわ。毛虫を渡したら叫ばれちゃったし」
いつの話だ。なんで通じない。ていうか毛虫を渡したのはミリアの方なのか。
突然の婚約(?)危機に、ディアナは何とか体勢を整えるべく、深呼吸をした。
「虫の話はもういいです。というかですね、お嬢様。あの、お手紙を――」
お読みになりましたか? という質問は、唐突に響いた派手に物の割れる音に、かき消された。