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割って入ったのは、つい先日も近くで聞いた声だった。良く響く、けれど決して声高ではない。自然と人を惹きつける言葉だ。
「このような場所にいらしては、評判に傷が付きますよ」
確かに、人気のない場所にいるというのは、見られるとそれだけであらぬ噂のもとになる。ミリアだって本当は、ただ通り過ぎるだけのつもりだった。さすがに、学院の庭に、きれいな石が落ちていたりはしないのだから。
頭を振って、ぼんやりとする思考を振り払う。軽くお辞儀をした。
「カロリーナ様。ご指摘、恐れ入りますわ」
「あなたは呼んでないのに……悪役令嬢なんて」
ミリアと違い、アンネはただそっぽを向いただけだ。低く呟いたセリフは、ミリアにだけ聞こえた。その意味を理解する前に、こちらに向き直った。
「あなた!」
「はい?」
「やり直してって言ったじゃない!」
「はあ……」
「モブなんでしょ。呼んでくる役目でしょ、あの男をっ」
相変わらずよく分からない。
それよりも、ミリアは今日のカロリーナの腕輪が気になった。
見事な金剛石だった。学院にさらりとこんな良いものを身に着けてくるなんて、さすがはチェストン公爵家だ。ぜひ、彼女の収集物、もといアクセサリーも見せてほしい。
カロリーナと目が合った。微笑むと、呆れ返った表情が返って来る。どうしてだ。
「ちょっと!」
地面を蹴った音がして、ミリアは振り返る。何かしゃべっていたようで、息が上がっていた。
「聞いているの!?」
「いいえ?」
「はあっ?」
真正面から向き合う気には、到底なれない。色々なことがありすぎる。頭が全然働かないし、痛いような気もする。
ミリアは、偽りは嫌いだった。それに、理不尽は大嫌いだった。
「アンネ様」
「なによ」
「失礼ですけれど……おとといおいでになってくださる?」
「なっ」
絶句したアンネに、よかった、とようやく少し安心した。
「意味は通じるんですね。さすがは元庶民の方」
「馬鹿にしてんのっ」
「いいえ。ただの事実ですけど。さっきからお言葉が全然理解できなくて、ちょっと心配だったんです。ねえ、カロリーナ様」
「え、ええ。そうね……」
急に話を振られたせいか、カロリーナがあいまいな表情で同意した。アンネは、と言えば、当然怒りのせいで頬が紅潮していた。カロリーナがさっと動いてミリアを背後に回し、アンネとの間に入った。
「あなた、下がって」
「下がる?」
「いいから」
声には、切迫感があった。理由は相変わらず不明だ。けれど、大人しく後ろ歩きで距離を取る。カロリーナの肩越しに、アンネが首を垂れて、両手をきつく握っているのが見えた。とても、貴族らしくない。
不可思議な状況は、別の方向から唐突に裂かれた。
「何を、している」
空気が、切られた。ミリアにはそう感じられた。その一言は、大きくも鋭くもなかったのに――何かを、変えた。
そう、確信する。
加えて、それを行ったのは、とてもよく知る、決して間違うことのない声。振り返った先には、もちろん。
「ウォレン、様」
「シューストン先生」
先生、と続いた敬称に、思わずカロリーナを見上げてしまった。見上げて……あら、と気づいてしまった。
ほんの少し、染まった頬。まっすぐに見つめる眼差し。それから、慌てて目を伏せるまでの流れを。
ウォレンは、アンネを一瞥し、カロリーナに目を止めて……ミリアに、はっきりと動揺した。が、まるで仮面のように表情を変え、冷ややかな「先生」となってアンネに向き直った。
「アンネ・ラフェル。また君か」
「そんな……私は、なにもっ」
睨まれたせいか、急にしおらしくうなだれたアンネに、ミリアはきょとん、としてしまった。これも、空気が変わったせいだろうか。
まるきり別人のようだ。
「わ、私は……なにも。ただ、あの人が――」
指を向けた先には……ミリア、がいた。たぶん。カロリーナではないはずだ。そう言われれば、まあ、先ほど非があるようなないようなことをした。
が、ウォレンは明らかに、全く信じていない。見たことのない怖い表情で少女を見下ろしている。綺麗な顔は、怒ると怖いのね、なんて場違いなことをミリアは考えてしまった。アンネはそのまま、顔を上げずに萎れていた方が幸せだ。
怪物と目が合った瞬間に石になる――なんて伝説を思い浮かべてしまうくらいだから。
ウォレンを怪物にするわけにはいかないので、あの、とミリアはカロリーナの後ろから顔を出した。
「その方は悪くありませんわ、ウォ……シューストン、先生?」
色々疑問を持ちつつ、話しかけた。振り向いたウォレンは、険しい表情だが怪物ではなかった。良かった、と胸をなでおろす。
「私がいつものように間違えてしまっただけですわ」
ぱっと反応したのは、アンネだった。なぜか目を見開いて凝視される。
的外れなことを言ったのではない。これはミリアの癖を熟知したウォレンにだけ通じればいいセリフで、予想通り、目元が和らいだ。ミリアが誰かとの会話で暴走してしまうのは、よくある事なので。実害はないと遠回しに伝えれば、ウォレンも言葉に乗り、大げさに肩を落とした。
「……君はもっと賢い女性だと思っていたのに、残念だよ」
「大変申し訳ありませんわ」
気を付けます、と棒読みにならないように言うのがコツだ。ウォレンは、アンネに向かって、こちらで指導するので教室へ向かうようにと指示を出す。意外にも、彼女は大人しく従った。相手が先生だからかしら、と先ほどまでのやり取りを思い出して遠い目になった。止めに、すれ違いざまに「あてうまもぶ」と言われた。侮蔑だけが感じ取れた。
さて、とミリアは二人を交互に見た。面識はありそうだ。何しろ、上位貴族の子息令嬢同士。しかもカロリーナは……と考えていたが、真っ先に口を開いたのは、どちらもミリアに対してだった。
「あなた、もしかして……」
「ミリア嬢、君は」
お互いに重なった声に、顔を見合わせる。ウォレンがその場を譲った。
「どうかしまして、カロリーナ様?」
「伺いたいのですけど」
「はい」
「あなた、シューストン先生の婚約者でしたの?」
あらまあ、とミリアは驚いた。
「初耳ですわ、カロリーナ様。シューストン先生に婚約者がいらっしゃったなんて」
どうして教えてくれなかったの、という思いでウォレンを見たら、額を押さえて苦い表情になった。
「もちろん、君は知らないだろうね、ミリア嬢……いない存在の話は出来ないよ」
「……どういう耳をしているのよ、あなた」
「ごめんなさい、カロリーナ様。少し動揺しましたの。だってウォ……シューストン、先生は」
今度の夜会に出席する、とうっかり口が滑りそうになった。聞かれてもいない個人情報を話すのは、二人に対しての非礼だ。成人としての行動がうまくできないのは、目の前にウォレンがいるせいか。
「えーとえーと……てっきりお仕事と結婚するものだと思っていましたから」
「……」
「……」
ごまかそうとしたら、またとんでもないことを言ってしまった。いや、事実、そう考えていたのだけれど。本音って怖い、と、修正案を考えながら戦慄した。
が、ミリアより早く、もういいわ、とカロリーナが止めてくれた。良かった、と安堵する。これ以上失言したくなかった。
「……授業に行きます。失礼いたしますわシューストン先生」
「無理をしないように」
何に対して、だろうか。どことなくウォレンもカロリーナも憂い顔だ。楚々とした後姿を見送ってから、はっとした。ミリアにだって授業がある。
「あ、あの……ウォレ、じゃない、シューストン先生?」
「……ミリア」
あっという間に、ウォレンがすぐ近くにいた。この距離感は、いつもと同じ……どころか、背中には腕が回って抱き込まれていた。
一瞬体が強張る。けれど、優しく囲われながら心臓の音が聞こえる距離にいると、その温かさに安心してしまった。
温もりの中で、ごめんなさいと漏らせば、腕の力が強くなった。
きっと、何かが起こったのだ。ミリアには把握できない、とても大変なことが。
知らずに巻き込まれ、だからウォレンはミリアをとても心配している。今更、カロリーナの忠告を思い出した。彼女は、その賢さと地位をもって、現状を知っているのだろう。
それが、あのアンネが関わる事なら、ユミルもまた、何かを知っているはずだ。情けないことに、ミリアは情報を受け取るのがいつも最後だった。ユミルにきちんと説明を求めていればよかったと後悔する。
聞きたいことは沢山ある。先生と呼ばれているのはどうしてか、一体あのアンネは何者なのか、今何が起こっているのか。
同時に、迷いもあった。尋ねれば、関わり合いになるのは必至だ。ミリアはウォレンやカロリーナと違って、権力や貴族間の政治にはほとんど関与しないし、まるで無知だった。ずっと石の事や宝石の事、領地や家族の事、身の回りにだけ目を向けていたのだから。
「……」
目を閉じて、暗闇の中で一つ深呼吸した。
囲いの腕を、ゆっくりと優しく叩く。大丈夫、と伝えるために、何度も。しばらくして、ウォレンが背中を伸ばした。見上げる翠玉が、差し込んだ午後の光に照らされて、美しい。
出来るだけ明るく、ミリアはにっこりと笑ってみせた。
「さあ、ウォレン。何があったか教えてくれる?」