14
黙り込んだミリアに、再度相手は名乗った。
「ジルと申します。ジル=ディラント」
「大変失礼いたしましたわ、ディラント様」
「どうぞ、名をお呼びください、ミリア嬢……今宵は不躾ながら、どうしてもあなたにお会いしたくて参りました」
なんだろう、と目の前の青年を見上げる。おそらく年はウォレンと変わらないくらいだろう。ディラント家はハースと同じ伯爵家で、代々官僚を輩出する家柄だが、辺境領主とは縁がない。そのため、続けて「かの夜会にて、私の同伴者になっていただけないだろうか」と言われても、首をかしげるしかなかった。
「……私を、伴って……?」
なんだそりゃ、とこぼしそうになった。発掘現場にいる作業員や商人の中には、平民も多く、ミリアの知らない砕けた言葉をたくさん教わった。が、ここでうっかり口にしては大変だ。ぐ、と扇の先を口元に当てる。
「ええ。ぜひ、あなたと共に参りたいのです。出来るなら……その指を飾る石を贈る許しをいただきたい」
「……」
また指輪だ、とつい先日のウォレンとのやり取りを思い出す。けれど、相手が彼でないならば……ミリアはすうっと目を細めた。ジルの装飾品に、ミリアが感心する宝石はなく……目を止めるべきはまた別にあった。
練習した――正確には、ディアナにさせられた、が正しい――社交用の微笑を浮かべる。努めて上品に、声も高くなり過ぎず、けれど低くならないように。
「私の欲しいものは、絶対に手に入らないものですから」
「……つれない事をおっしゃらないでください。ミリア嬢」
ごく自然な仕草で、ジルの手はミリアの指先をとらえていた。あっという間もなく、口元に持って行かれて急いで引き抜く。
別にじらす意図はない。どちらかというと、怒らせないように気を付けているのだ。
「ご無理は良くありません。お家のためになりませんから」
「そんな……無理、とは?」
一瞬、ジルがたじろいだ。やっぱりね、とミリアは納得する。もしかしたら、と父親から以前、話があったが、本当に起こるとは思っていなかった。
ハースの家を、成金まがいと謗る一方で、その恩恵を目当てに近づくものがいる、だなんて。
「指輪を作るなんて、無駄な出費はなさらない方が良いかと存じます。良い職人をお抱えのようですから、ガラスも見事に映えていらっしゃるようですけれど」
恐らく、以前は本物を持っていたのだ。ガラスではなく、蒼玉であれば、記憶を刺激される指輪がある。けれど今は、指輪もタイピンも、宝石とは異なる輝きだと、はっきりしていた。
少し暗い場所であっても、はっきりと分かるほどに、ジルの顔色は真っ赤になった。あ、しまった、と慌てて言葉を探す。
「あの、ガラスですけど、もちろんとても美しいし、手が掛かっていると思いますし、好きですわ。けれど、偽りは嫌いですの。真実を踏まえてこそ、本当に綺麗なものが見え……」
えーとえーと、と先が消える。なぜなら、明らかに、さらに機嫌を損ねたジルがいるからだ。
無遠慮に一歩踏み出されて、反射で同じだけ下がった。まずい、と思ったのは、さらに暗い方へと進んでいたから。逃げる隙もなく、手首を強く掴まれた。
「……っ」
のどの奥で声が潰れた。痛い、いや、熱い。違う――これは。
逆光の中で黒くなった影が、腕を振り上げた、その時。
「――なにをしているのかしら」
鋭い声が、掛かった。ミリアの肩が跳ねる。声は確かに高い女性の物。けれど、とても強く、逆らえない威光が確かにあった。
「何をしているのかしら、と訊いたのよ、ディラント家の次男様?」
かつ、とヒールの音がする。さらり、とドレスの衣擦れが後に続いた。ゆっくりと……ジルが振り返る。その肩越しに、ミリアも声の主を見た。
――カロリーナ・チェストン。
公爵家の、至高の華。いや、まだ蕾に近いが、ほころび咲き掛けた美しさは、間違えようがない。その視線は、まっすぐにミリアの手首にかかった男の手に向いていた。
「弁明は無いようね、あなた?」
「……それ、はっ――」
「まあ? 我が公爵家の客人に無礼な働きをしたというのに、言い訳が立つはずがないけれど」
ジルが息を呑んだ。それだけの効力が、カロリーナの一言にはあった。下手をすれば、彼だけでなくディラント家自体に処罰が下される。
すい、と扇の先がジルへ突き付けられた。
「出ていくか、つまみ出されるか選びなさい」
「……」
ミリアの手が、解放される。屋敷の中ではなく、庭の奥へとジルは消えた。闇に紛れた背中を、しばらく睨みつけてから……カロリーナの目が、ミリアに向いた。
視線が、合う。
噂通り、美しい紫紺色。紫水晶のように透き通っている。けれど、どこか……影があるように見えるのは、照明のせいなのか、それとも理由があるためか。
「……無礼よ、あなた」
考え事をしていたせいで、思った以上に見つめてしまったらしい。ふいと顔を背けながら指摘され、慌ててミリアは謝った。
「ご、ごめんなさい。あまりにも綺麗で、つい……菫青石にも似ているなと。それに、御髪は琥珀より……」
思ったことを口走ってから、またしても後悔した。社交用の口調も何もかもが剥がれ落ちてしまった。髪の色を黄色金剛石に喩えられて、嬉しい人は少数派だ。
カロリーナ本人に目が行ってしまったが、彼女の指輪も首飾りも、かなり良質だった。アリアナに合わせたのか同じく黒い宝石で統一されている。もちろん、赤を基調としたドレスとの相性もいい。ただし、こちらは輝きが違うことから、黒玉だろう。魔除けとして有名で、別名を黒琥珀と呼ばれて……
「あなた、大丈夫? 先ほどから動かなくなっているけれど」
「え? ええ、と……だい、じょうぶ、ですわ」
どうも、思考が逃避のためか宝石の方へと寄ってしまう。頭を振って、現実を見なければと呟く。
「連れはどなた? 確か、ハースの名前を呼ばれていたわね?」
「はい。ミリア・ハースと申します。カロリーナ様のお名前はかねがね……」
「挨拶はいらないわ」
その口ぶりが、アリアナとよく似ていた。いつの間にかすぐ近くにいて、ミリアの手に目を落としていた。見れば、爪の後が手袋にくっきり残っている。
途端に、背筋が寒くなった。
「……ベントは起こ……はず……」
「はい?」
「なんでもないわ」
小さく漏れた声に、訊き返してもはぐらかされた。つい、と扇の先が手袋を指して、なんだろう、と思う間もなくぱしりと軽くはたかれた。
「……そちら、捨ててしまいなさいな」
「はあ……」
「部屋を用意させましょう……ネスター」
振り返って呼びかけた先には、男がいた。一目で上等とわかる上着に、徽章はないが騎士服と似た仕立て。おそらく、公爵家の私設護衛団の一人だ。体格が良く、どことなく目つきが鋭い。
「へいへい……勝手に行かれちゃ困りますよ、お嬢様」
「品のない言葉を改めなさいな。ミリア嬢についていなさい」
「いや、俺の仕事はお嬢の護衛で」
「部屋を用意させるだけよ」
反論を許さず、困り顔の男の隣をすり抜けてカロリーナが会場の奥へと消えた。あらあら、とミリアは残された者同士、顔を見合わせる。
「ごめんあそばせ、ネスター様? 私のせいでご迷惑が」
「いやいいですけどね……あ、でも。ハースの魔女と二人きりになったと知れたら、ウォレンに怒られそうだ」
途端に渋面になった意外と表情豊かなネスターの口から、幼馴染の名前が出てきて、ミリアはうれしくなった。さすがは有名人だ。
「まあ。そんなことで怒られたら、割に合いませんね」
「ええまあ。同じ釜の飯、じゃなかった。えーと」
「分かるわ。仲間、ね?」
「ああはい。そんな感じで。あなたのお話は時々聞いてましたよ」
ふうん、とミリアは意外に思った。いったい何を話すことがあったのだろうか。宝石姫と知り合い、とか? と考えても、話題性があるとは思えない。今はたまたま、本を出版した時期のため、注目度も高くなっているが。
一応、心配ないと伝えるため、ミリアはにっこりと笑ってみせた。
「ご懸念には及びませんわ。とても良くしてもらったと、ウォレンにはちゃんと言っておきますから」
「いやそれ、逆効果……」
ぼそりと呟いたネスターの一言は、ミリアには届かなかった。
カロリーナの指示を受けた侍女が現れ、ネスターとともに、案内された一室には父親もいて、普段は血色のいい顔を青白くさせていた。すでに公爵家の人たちとは話が済んでいて、このまま帰宅が許されたという。
ネスターにはお礼を告げて別れ、ハース家の馬車に乗り込んだところで、先ほどの侍女から箱を渡された。
中身は、ミリアがはめたものと同じ形の手袋。捨てろと言っていたので、代わりの新品、ということだろう。
確かに、と座席で外した手袋をつまみながら、ため息を吐く。これをもう一度はめる気には、どうしてもならない。
カロリーナは何も悪くないし、むしろ助けてもらったミリアだが、きっと主催者としての矜持だろう。上質の絹の手触りは、今の手袋の何倍か、という値段だ。少し迷ったが、ありがたく受け取ることにして、その底にカードが潜んでいることに気づいた。
『身の回りの変化に、気を付けて』
不思議な忠告に、夜道を進む間、思考に沈むことになった。