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ごきげんよう、と交わされる挨拶の中に、ミリアは入れなかった。そつのない笑顔を浮かべていても、さも自然な振りをして隣や後ろの人へ挨拶されれば、意図は知れるというものだ。けれど、ここまで露骨だったか、と問われれば首をかしげるしかない。
確かに遠巻きにされることの方が多かったが、友人もいたし、同じ授業を受ければお喋りもするし、何となくでも親しみを感じる相手だっていた。宝石の事は話し過ぎなければそれなりに喜んでもらえた。
それに、ハースの家は今でこそ陰口を叩かれることもあるが、歴史ある伯爵家で、初代オーディア国王の側近の一人が始祖にあたる。権勢や領地の大きさは中の中で目立たないが埋没もしない。よってあからさまに敵にするような貴族はいなかった。
本来なら本家筋以外にも分家があってもおかしくないのだが、二十年ほど前に流行り病が領地を席巻し、あわや廃絶の憂き目にあっていた。マーノクが領地経営に苦しむことになった、最も大きな原因でもある。人が減り、土地が荒れたのだ。今でこそ安定をしているが、まだまだ課題が多いと領主の仕事は多かった。
父親が深刻な病気でなければいいと、もろもろ踏まえて考えていたミリアは、うっかり席を通り過ぎてしまった。
「あら、席をお忘れかしら、ミリア・ハース?」
「……いえ、ちょっと考え事を……」
「考え事ね……新しい本の事かしら?」
振り返った先にいた、鮮やかな赤いドレスと、胸元の黄水晶に、ああ、と納得する。
「いいえ。大したことではありませんわ、ジュリア様」
「……どこを見ているよ、あなた」
ちょっと小柄なミリアは、踵の高い靴をいつもはいているジュリアとは頭半分ほど高さが違う。一応同じ伯爵家だけれど、うっかり家名は忘れてしまった。
今度はちゃんと目を合わせて微笑んだのに、どう見ても機嫌がいいとは言えない。
そして、そこまで仲がいい……わけでもない。
「学院を疎かになさるなんて、ハースの家も落ちたものね」
「その通りですわ」
「同じ伯爵家として、嘆かわしいわ」
「ええ、本当に」
「どうしていまだに、陛下はハースを貴族名簿にお残しになるのか」
「不思議でなりませんわね」
「まさしく」
「……」
「……」
「……」
ミリアは一言もしゃべっていない。ジュリアと、その後ろにいた、名前を忘れた令嬢二人の会話になる。誰だったかしら、と思い出そうにも、特に宝石も衣服も覚えがない。奥の一人、きらりと光ったピンキーリンクに興味をそそられてじっと見ていた。
しびれを切らしたのは、ジュリアの方だ。
「聞いているのっミリア・ハース」
「もちろんですわ。素敵な指輪ですのね、天青石なんて」
「――」
「え、ええ……?」
「とても加工の難しい宝石なのに……良い職人がいらっしゃる。地金の細工も素晴らしいわ」
「そ、そうですね……わがオートン家お抱えの中では随一かと……」
「オートンの……西側の海路に良い伝手をお持ちなのかしら。原石の入手はそちらから?」
「……おそらくは」
実は全然聞いていなかったミリアは、オートンという家名から、相手の名前を思い出してとてもすっきりした。
「珍しい石ではないけれど……技術は一級ね。サーナ様、天の空と同じ色の指輪は、きっとどこにもないですわ」
にこにこと褒めちぎるミリアに、サーナは少し俯いた。有名な「宝石姫」は、すべての石に賛辞を贈るのではない。出された本の中では、際どい批判のような文章もあった。
ちらりとジュリアを伺えば……もちろん、怒りで頬が赤くなっていた。無視されたから、だけではない。
「ちょっと!」
「ジュリア様。どうしまして?」
「どう、じゃないわよ! どうしてサーナの指輪を褒めて、我がギスレイ家の家宝をけなすのよ!」
「あら? その素晴らしい黄水晶をけなすなんて、そんなことしませんわ」
「なんですって!?」
「古い時代よりある稀な大きさを残す逸品です。ただ、ちょっと不純物が多いので、輝きは王冠の側石にあるものよりは劣りますけれど」
「褒めてるつもりなのっ」
「もちろんですわ。あれは百年に一度あるかどうか、の奇跡ですから。至高の方々にこそふさわしいと思いません?」
ジュリアは黙った。ミリアは楽しい話に笑顔のままだけれど、反論が出来なくて悔しいのは明らかだった。
丸く収まるなら今だったのだが。
「ですが鎖と装飾は変えられた方がいいですわ。古風ではありますけれど、切れかかっているのはよくありませんし、ギスレイ家の管理能力を問われてしまいますから」
明らかに……明らかに、ミリアは踏んではいけないところを踏んだ。ジュリアは感情が高ぶって言葉がない。さっと高く上がった手が、そのままミリアの頬に……
ぶつかる前に、止まった。
はっと三人が目を見開いて、すぐに背中を向けてミリアから遠ざかっていく。追いつけず瞬きしているうちに、ミリア、と後ろから細い声に名前を呼ばれた。
「ユミル。ごきげんよう」
「ごきげんよう。やっぱり遅刻してきたわね、常習犯さん?」
「……今日は致し方ない理由があるの」
とても線の細い少女だった。海に浮かぶ氷と同じ色の瞳、透けて輝く白金の髪。儚げで、風が吹けば花びらのように飛ばされそうな美しさ。同い年だけれど、いつも少し年上にみられるユミルが、ミリアは少しうらやましい。
「あの人たち、私を見て……お逃げになられたわね」
話し方も、淑やかで慎ましい。小さな鈴が大きく響かなくても聞こえるような、ころりころりとした声だ。時々、うっかり聞きほれてしまう。今回も、ちょっと反応が遅れた。
「えーと……それは失礼ね」
「いいえミリア。当然よ」
薄い唇にほんの少しの弧を描いて描かれた微笑はとても綺麗だ。
ただ。
「手の下りた瞬間が、人生の終わりだもの」
どちらかというと、人ならざるモノ、の美しさに近く、永遠の冬山に住むという美しい女性をミリアに連想させた。
さらりと言葉にした内容は、もちろんただの事実である。
覇気とか気迫とか、強い力なんて雰囲気はまるでなく、風のような囁きであっても、だ。
ユミルはゴーイル侯爵家の末娘で、兄が三人いる。父親も含め、ゴーイル家の一族は政治に大きな影響力のある関わる高官に就き、一人娘はことさらに可愛がっているという話だ。もちろん、領地も広大である。
そしてもう一つの侯爵家、シューストンと派閥を二分する大貴族である。大半の貴族はこの二つのどちらかの派閥に与し、例外は王家と側近い公爵家チェストン家のみだ。
ただ、ミリアのハース家も、なぜかはっきりとどちらに付いていると言えない状況がある。領地がどちらかというと辺境で、しかも商人なんてしているせいかとミリアは思っているのだけれど。
とにかく、ふふふ、と楽しそうに口元に手を当てる美少女は……一部の人に、とても恐れられていた。