重 -synchronicity- 【御礼小話@ひろかな兄夫婦】
都内某所、夜8時。
ジャスティナ・ブロードは、塾の帰り道にあるコンビニエンスストアで、陳列棚をぼんやり眺め歩きながら彼を待っていた。
ふと目についた店員お手製のPOPと共に、綺麗に並べられた新作らしいカップ麺に目が止まる。そうして思わず腹部に手を当てたところで、入店チャイムと共に革靴の足音が聞こえ、はっと顔を上げた。
「英一さん」
スーツ姿が板についた長身の彼――高遠英一は、いささか慌てた様子でこちらに歩み寄ってきた。
「ごめん、遅くなって」
「そんな。むしろわざわざ来ていただいて……すみません」
そうして30分あまり前のやり取りを思い出す。
今日は、いつも一緒に帰っている友人が塾を休んだ。そのことを、帰り際に何の気なしに彼に伝えたのだが。
「女子高生を夜に一人で帰らせるなんて出来ないからね」
直後に送られてきたメッセージとまるきり同じ言。自分を心配し、急いで仕事を切り上げて駆けつけてくれた、そのこと自体がとても嬉しかった。
「それに」
「それに?」
どうやら何か言い足りないらしい。少し言い出しにくそうな、戸惑っているような気配が覗き、ジャスティナは小首をかしげて続きを待った。
「その……俺の奥さんを……危ない目に遭わすわけにはいかないから」
耳の後ろに手をやり、視線を外してぼそっと呟くその表情。途端胸がきゅんと踊り、鼓動が早まってきたのを自覚して、ジャスティナは胸元を押さえた。
「ジャス? どうしたんだ」
「英一さんてば……」
身悶えになんとか耐えて語尾を濁らせ、熱くなった頬に両手を当ててうつむく。反応に心情を察したのか、彼の方も言葉をとぎらせたため、もどかしい空気がしばし二人の間に降りた。
ぐぅ。
「あっ」
そのとき、低いうなりと小さな叫びが耳に届いた。はっとして顔を上げると、彼が顔を赤くしてばつが悪そうに腹部を押さえていた。
「ジャス、腹減ってないか?」
「え」
「もしよかったら……ちょっと夕飯には遅いかもしれないが、どこかで食べていかないか」
思いがけない誘いに、嬉しくなってすぐさま返事をーー
くうぅ。
「えっ」
「あ」
慌てて両手を腹に当てる。耳まで真っ赤になりながらそっと窺うと、彼がぷっと小さく吹き出し、笑顔を見せた。
「よかった。ジャスのおなかの虫も賛成みたいだ」
「もうっ、からかわないでくださいっ」
ぷくっと頬を膨らませてみせると、彼が一層表情を崩した。普段よく見ている、キリッとして凛々しいそれとのギャップに、一瞬でほだされてしまう。
「やっぱり、ずるいです」
「ん?」
「な、なんでもありませんっ!」
「そうか。ところで、なにか食べたいものはあるかい?」
問われ、少し考えこむ。そうして傍らの棚に並べられたそれに目が行った。
「ラーメン」
「え」
「そうだ、ラーメンを食べたいです。この間塾の友達に『帰りに食べに寄ろうか』って誘われたんですけど、その時は用事があって叶わなくて。一度食べてみたいなって、ずっと思っていたんです」
「そうか。それなら丁度いい。この近くに美味い店が出てるはずなんだ。そこでよければ行ってみようか」
「はい、是非!」
言い回しに少々の引っかかりを覚えたが、それもすぐに掻き消える。
「じゃ、行こう」
そうして歩き出した彼を追い、ジャスティナもまた早足で店の外へと向かった。
*
「前にこのあたりで飲み会があってね。その帰りに教えてもらった店なんだ」
歩道を進みながら彼が言う。そうですか、と返しながら、ジャスティナはコンビニから最寄りの駅までの風景を思い起こした。数百メートルほどの道のりに、ラーメン屋などあっただろうか。と言っても、テレビで見るようなごくごく一般的な店舗のイメージしかないため、あてにはならない記憶だが……とそこまで考え至ったとき、彼が突然自分の手を掴んできた。
「こっちだよ」
駅前の交差点を左に折れ、線路沿いの道を進んでいく。まだ人通りのある中で手を繋がれていることに、ジャスティナは少し恥ずかしくなった。強く、優しく握ってくる大きな手、そして広い背中。それだけで充分に意識させられてしまい、心臓が壊れそうなくらいに高鳴っている。
つい数週間前、お互いに一目惚れをして結ばれた仲ではあるが、今更ながら彼への恋心が追いついた気がして、ただひたすら全身に熱を灯らせたままついていった。
「ああ、居たな」
やがて見えてきた公園。その駐車場の一角に灯された明かりと、浮いた影の輪郭を見やって驚く。
「屋台」
「そう、屋台だよ。出ている日の方が少ないから、居るかどうか不安だったけど……ジャスはきっと初めてだろう?」
正真正銘、リヤカー式の古式ゆかしいラーメン屋台。初夏の風になびく赤い暖簾がなんとも風情があって、ジャスティナの好奇心は一瞬にして煽られた。
「こんばんは。開いてますか?」
暖簾の角を捲り上げた彼が、顔を突っ込んで問う。「いいよ」という奥からの返事の後でおいでと招かれた。
「いらっしゃい」
よく聞くラーメン屋の気風いいイメージとはかけ離れた穏やかさ。もう随分な高齢だろう店主は、裸電球の下でにこにこと愛嬌ある笑顔を見せた。
「おやおや、今夜の口開けのお客さんが、こんなかわいいお嬢さんだとはねぇ」
長椅子に座ったところに冷やを出しながら、なおも目を細める。
「彼女、ラーメンを食べるのも屋台も、どちらも初めてなんですよ」
「そうかい。そりゃあ光栄なことだなァ。とはいっても、うちは醤油一本なもんで、選びようもないんだが……それでいいのかい?」
「是非お願いします。親父さんの一杯をご馳走したいんです」
熱のこもった言いように、主人は照れくさそうに笑ってから背を向け調理の準備を始めた。
「ここのラーメンは絶品だよ」
「そうなんですか」
「その辺の店とは違う。麺自体も香りが豊かで美味いんだけど、なんと言ってもスープが……」
にわかに始まった解説。普段冷静沈着な彼が、これほど熱心に語るのだ。味覚の重なる自分にも、きっと満足いく味であるに違いない。
でも、今はそれよりも。
楽しそうに、そしていかにも美味しそうに語る姿にうっとりする。ジャスティナは初体験の味を待ちながら、膨らむ期待感に両手でそっと腹部を押さえた。
「はいよ、おまちどぉさん」
そうしてしばらくの後、もうもうとした湯気を上げる一杯が目の前に差し出された。
「なんて……きれい」
どんぶりの中を覗き込み、いの一番にそんな感想が漏れた。透き通る飴色のスープ、その中に浮かぶ細麺。ネギに焼豚、メンマ、なるとと、オーソドックスな具。渾然一体となった旨味を容易に想起させる香りを吸い込んで、さっそく箸を取った。
「いただきます」
「はいどうぞ、召し上がれ」
最後に店主のひと押しを得て、いざ目の前の獲物に挑む。
最初はスープから。
そして。
「英一さん」
レンゲですくい上げたひとくちを飲み下して、向き直る。
「どうだい?」
「凄く、美味しいですっ!」
腹の底から湧き上がってくる高揚感と共に感想を放つと、彼の面に――全身に安堵がともった。
「よかった」
言うなり緩やかに微笑む。心底嬉しそうな、幸せそうなそれに、どきん、とジャスティナの胸が大きくはずんだ。それを知ってか知らずか、彼もまたウキウキした様子で手を合わせる。
「いただきます」
スープをすすり、麺を含む。口に運ぶ箸の動き、器を持ち上げる動作。初めて見る、いつもより幾分か粗野なそれに目が引き寄せられる。
「ん?」
視線に気づいたのかこちらを窺ってくる。なんでもありませんと答えて、再び目の前の一杯に意識を戻した。
ああいう姿も、これからは、すべて。
思わず緩みそうになる表情を、慌てて引き戻す。そうしてすぐ隣で繰り返される気配に重ね、ジャスティナは自分の内側が一口ごとに満たされていくのを感じた。
「すごく、美味しい」
「ジャス」
いつの間にか夢中になっていたのだろう、突然の彼の声に驚いて顔を上げると、スープの上に焼豚が一枚追加された。
「これ、良かったら」
「そんな、いいですよ。英一さんが食べてください」
「折角だし、ジャスには美味いものをたくさん食べて欲しいんだ」
「じゃあ、英一さんにもあげます」
「俺はいいよ」
「だめですっ。私のを一枚あげますからっ」
「それじゃあ結局同じことじゃないか」
「いいんですっ」
「なぁ、ちょっと聞いてもいいかい」
押し問答を自然に遮る形で、丸椅子に腰かけた店主がふと聞いてくる。
「もしも間違っていたならゴメンよ。あんたらもしかして……新婚さんなのかい?」
え、と二人同時に声を上げる。
「年はずいぶん若いようだがね、表情てぇか……気づいちゃ居ないかもしれないが、笑うタイミングと表情の生まれ方がな、まるっきり同じなんだよ」
その言に思わず顔を見合わせる。
「それこそ長年連れ添ってるみたいにねぇ。あんたたちはよっぽど相性がいいんだなぁ。こっちがあてられらぁな」
言いながらよっこいしょと立ち上がり、おもむろにタッパーを取り出して。
「これはおっちゃんからのお祝いだ」
そうして目の前のスープの中に、煮たまごがひとつ静かに落とされる。
「いつまでも、仲良くな」
いかにも味の染みたあめ色の艶に、そっと彼をうかがって。
「英一さん」
「ん?」
「あのですね……はんぶんこ、しましょうか」
「ああ」
申し入れに、穏やかな表情が返ってくる。ジャスティナはれんげで卵をすくいあげ、箸でふたつに割った。半分をそのまま残し、もう一方のそれを、彼のスープの海の中へとそっと落とす。
「なかよく、食べましょうね」
「ああ」
そうして同時に微笑みあった。
全ての初めてを、これからはあなたと共に。
そして。ふたつでひとつを、いつまでも。
そんなふうに願いながら。