スリーパー
僕には記憶が無かった。
僕には過去が無かった。
スリーパー。つまりは、コールドスリープで『過去』から『今』へやって来た一方通行のタイムトラベラー。それが僕だった。
スリーパーの八割は記憶喪失で、僕は多数派だった。
だから記憶が無くて過去が無い。
そんなわけで起きたばかりの僕は自分の名前すらなく、ここが僕の生きた時代から五百年後だと聞かされても、特に何も思えなかった。
まぁ、そんなものだ。記憶が無いから、過去が無い。過去が無いのだから、今よりも前に『僕』は存在しない。今が一年後だろうが、五百年後だろうがあまり変わらない。
トウジ。
それが今の僕の名前だ。名付けたのは僕の担当官であるユーリ。
美しい肉食獣。そんな言葉が良く似合う彼女はこの時代の僕の親であり、先生だ。僕の担当官なので、兵科は当然、歩兵。年齢は僕と五百歳差の十九歳。つまり、生きた年数は僕と同じだ。ママは同級生というわけだ。どうしよう。薄い本が厚くなりそうな字面だ。
……自分の名前すら忘れた癖に、こういう言い回しを覚えているということから、僕という人間がどういう人物かを察して欲しい。
兎も角。僕の事は兎も角として、だ。
そんなユーリ曰く、『トージ』では無く『トウジ』。そこが大事なポイントだとのこと。非常に残念だが、僕には良く分からない。分からないの、だが……うっかり『成程』とか言ってみたところ、ユーリのテンションが凄いことになってしまったので、取り消すに取り消せず、訊こうにも訊けなくなってしまった。何時か分かる様に祈ろうにも、どの神様に祈ったら良いのか分からないので諦めた。
こういう時、唯一神を信仰している方々は迷わなくて良いな、と思う。典型的な日本人であった僕はその辺りが雑だ。
日本人。
そう、僕は日本人だった。少なくとも五百年前は日本に住んでいた。だから漢字も書ける。先週の休みはノートに自分の名前を書いて暇を潰してみたりもした。果たして僕の名前は『藤次』なのだろうか『東司』なのだろうか、いや意表をついて『冬至』かもしれない。そんなことを考えるのは結構楽しかった。
訓練はそれなり程度には、辛い。息抜きは大切なのだ。
まぁ、そんな感じで僕は五百年後の今を生きている。
それなりに楽しいという事を、顔も覚えていない両親には報告しておこう。