神保町にて
神保町から秋葉原にかけて、歴史のあるカレー屋や定食屋、喫茶店が数多くあります。このあたりは古くから学生街でしたから、安くて、早くて、満足感が得られるカレーは彼らにぴったりの食事であったことでしょう。現在でも、カレーの他にラーメン屋や定食屋なども多く見られますが日本の学生の食文化というものは、時代を経ても意外なほど変わらないものです。
昼から1人で喫茶店でカレーを食べる老婆がいる。喫茶店を見渡せば、他にも1人で昼食をとる者はいたが、若いサラリーマンや学生ばかりで、女性客は彼女の他にいないようだった。
彼女の座る窓際のテーブルは、その周りだけ空気が止まったかのように、独特の雰囲気を醸し出している。賑やかでせわしない昼間の臨場感から隔離され、まるでモノクロ映画のような世界が、そのテーブルに広がっていた。顎が弱いのか、それとも考え事をしているのか、彼女は口にスプーンを運んだ後、どこか遠くを見ながら口を小さく動かし続けている。彼女がその小さな一口を飲み込むまでに、カウンターの奥の時計の秒針は半周は進んでいた。そんなふうだから、彼女の皿の底が半分見える頃には、すっかりカレーは冷めてしまっていた。それでも彼女は、粘土のようになってしまったカレーを黙々と口に運んでいく。
彼女がようやく食べ終わると、年老いたマスターが珈琲を一杯持ってきた。彼女はマスターに軽く会釈をすると、それにミルクを入れ、一口すすった。彼女は珈琲をもう一口飲むと、今度はポーチから古い岩波文庫を取り出し読み始めた。昼食をとっていた客が各々の仕事や教室に戻り、若さのエネルギーに満ちていた店内がようやく落ち着いた頃、最後の珈琲を飲みこんだ老婆は、マスターに笑顔を見せながら
「今日もありがとう。」
と言って、伝票の下に千円札を置いて帰って行った。
店の外の看板には、小さい文字で「ランチタイム珈琲サービス」と書かれている。