夢の終わりは異世界の始まり
バラバラになった記憶の欠片が少しずつ集まり、ほんの数瞬前までいた別の世界を塗り潰していく。
覚醒とは、思い出すこと。そして忘れること。夢を必ず見る彼にとって、それは世界が入れ替わる瞬間でもあった。
いつもより寝覚めは早い。後ろ髪を引かれつつも、高揚感がそれを上回ったからだ。
ソーマは目を開けた。
「うわ……すげえ」
辺りを見回し、思わず唸る。
そこは疎らに木々が生い茂る森の中だった。陽はまだ高く、枝葉の隙間から心地よい日差しが降り注いでいる。
音といえば遠くで鳥が囀ずる程度で、静寂と表現しても差し支えない。そこは余りにも長閑であり、時間の流れが違うと言われても信じてしまいそうな、喧騒とは無縁の空間。
これといった特徴の無い風景であるが、ソーマには感嘆するだけの理由があった。それらがすべて〈リアル〉であることだ。
光彩によって変わる幹や枝の複雑な色合い。一枚一枚が微妙に異なる葉脈。手を付く地面の冷たい感触。
どうやらここで一晩を過ごした〈設定〉らしく、近くに焚き火の跡があった。そこにも半分だけ燃え残った枝があるなど、何とも芸が細かい。
「何もかも、本物と変わんねえ」
違和感が無いことこそがソーマにとっては違和感であり、そしてそれは初めての経験でもあった。
知らない場所、しかも外で寝ていたことを、ちゃんと気持ち悪く感じることができた。初めて目にする光景を、〈作り物〉ではなく、ごく自然に森の中と認識することができた。
肌を撫でる風さえも……彼にはそれが新鮮なのだ。
異世界体験型ゲーム、〈アースガルド・レクイエム〉。ここはプレイヤーが擬似的にその世界を体験できる、ゲームの中の世界である。
周りの風景は勿論、ソーマ自身でさえ実体はそこに無く、彼の脳がそれと認識しているに過ぎない。
オンライン化にはまだ至っていないが、同じゲーム機でなら、友人とその世界を共有することさえも可能である。
「ようこそ、アースガルドへ」
未だ感動に浸るソーマは、背後から声を掛けられた。振り返った視線の先に、爽やかな微笑を湛えた少年が佇む。
「ようこそって……お前も一緒に来たんだろうが」
尤もな声を上げるソーマに対し、言われた本人はまったく気にする様子もなく、その表情を崩さなかった。
「誘ったのは僕だからね」
かなり明るめの金髪に、中性的で整った顔立ち。平均より少し痩せてはいるが、そのわりにどこか堂々とした態度からか、ひ弱な印象は与えない。
彼の名は遥人、ゲームの中ではハルト。ソーマと同じ高校、クラスの悪友だ。そしてその隣にもう一人。
「ふん。それにしても、よくできているな」
野太い声、坊主アタマに四角い顔。目は開いているのか判別できない程細く、おまけにタレ気味である。一方、百九十センチを超える身長と、鍛え抜かれた筋肉を持つ。
ハルトとは対照的なこの少年もソーマの同級生で、大輝──ダイキという。
「ああ。リアルを通り越して、もはや〈普通〉だもんな。石の下にダンゴ虫とかいたりして」
ソーマは手近な石を退けてみた。そこには本当に虫がいた。
「確かに、クオリティはこれまでに発売されたゲームの比じゃないね。感覚的にも現実世界と何ら変わり無い。さすが〈アーク〉が社運を賭けたとまで言い切る新作、と言ったところかな」
体験型ゲーム自体は既に幾つも経験済みであり、今回もかなりの予備知識を持って挑んだはずのハルトである。
その彼でさえ驚愕させる程の、まさに圧倒的なクオリティ。それが業界最大手〈ノアズアーク〉が放つ最新作だった。
その需要の高さと注目度から、体験型ゲーム業界は今最も熱い市場だと言える。一方で、それはまだ黎明期の域を出ず、高度な技術力を要する故に、クリアすべき課題が依然として多いのも実状だ。
各社が手探り状態で開発を進める中、これだけの作品を商品化する段階にまで持ってきた同社は、他社にとっては脅威以外の何物でもないだろう。
「ところで、どうだった? 〈オープニング〉」
ハルトが2人に〈夢〉の感想を求めた。
「ああ、あれ……何か、可哀想だったな」
「…………終わり!?」
決して興味が無いわけでも、馬鹿にしているわけでもなさそうだが、ソーマのそれはまるで小学校低学年の読書感想文だ。
単に表現力が乏しいのだろう。ハルトは呆れて両手を広げた。
「いや、実に見事だった。何と言ったか──あの武人。彼こそ漢の中の漢。いつか手合わせ願いたいものだ」
不甲斐ないソーマをフォローしたつもりなのか、感慨深そうにダイキが続く。いつものことだが、彼の感想もすぐに〈そっち〉へいく傾向がある。
「手合わせ? 何だよそれ。お前、実はこっちの世界の住人なんじゃねえの?」
けらけらと笑うソーマ。確かにダイキは少し──かなり変わった話し方をする。話す内容もだ。
しかしソーマに笑われるのだけは心外だっただろう。
「……やれやれ。お前らに聞いた僕が馬鹿だった」
ハルトは深く溜め息をついた。
「あのね。あれ、かなりいろいろな情報が詰まってたんだよ? 世界情勢とか、登場人物とか──僕らがこれから挑むゲームのさ」
〈アースガルド・レクイエム〉は、中世ヨーロッパをモデルにした架空の世界、アースガルド大陸で、戦乱を勝ち抜くゲームである。プレイヤーは大小様々な勢力からひとつを選び、それを大陸統一に導くことを目的とする。
物語の舞台がとてつもなく広い上に、登場人物の数も多い。従って、いち早くこの世界に馴染めるよう、選んだ勢力ごとにオープニングが用意されていた。
マルチエンディングならぬ、マルチオープニング。中にはゲームをクリアする為に重要な情報もあり、そういう意味では既にゲームは始まっていたのである。
「今はあれから10年後という設定なんだ」
ハルトは相変わらず微笑を浮かべたまま続けた。
「その分、だいぶ情勢が変わってるところもある。だけどそのへんは、ゲームを進めればちゃんと説明されると思うよ。
それから彼──ラインホルトね。明確な描写こそ無かったけど、残念ながら死んじゃったから、戦うのは無理」
「むう、そうなのか」
ダイキは本当に残念そうだ。彼とて同じように〈見ていた〉のだから、あの状況でラインホルトが生き残れるとは思えないはずだが。
「でもゲームだろ? 生き返らせる方法とかあるんじゃねえの?」
「無い」
即答するハルト。
「このゲームじゃ、基本的に死んだ人間は生き返らない」
「〈基本的〉に?」
その単語に、ソーマは妙な引っ掛かりを覚える。
「うん。難易度を上げる為か、緊張感を出す為か知らないけど、基本的にはそう──なんだけど、死者を甦らせることが、ゲームを進める上で何か重要な鍵になるらしいよ。わざわざタイトルに〈レクイエム〉とか付くぐらいだし。
ただ、天下統一が目的のゲームでそれがどう絡んでくるのか、雑誌の先取り特集やネットでも話題になってたわりに、詳しくはまだ明らかになってないんだ。ゲームの核心に触れるからかな」
そう言うと、ハルトはふと真顔に戻る。
「ひとつだけ確実なのは、プレイヤーが死んだらその時点で〈ゲームオーバー〉ってこと。それが僕ら3人のうち、誰でもね」
一瞬考え込んで、ソーマが言った。
「なら、パーティ構成が重要だな」
ハルト程では無いにしろ、この手のゲームの、最低限の知識はソーマにもある。
「どんな設定なんだ、俺たち」
初期設定はすべてハルトに任せきりだったために、彼はこのゲームでは自分が〈誰〉なのか知らなかった。
「職業のこと? このゲームには明確な職業ってのは無いんだけどね。確かに得意な武器は選べるし、初期パラメータを振って指向性は決められるから──敢えて言うなら、ソーマが剣士、ダイキは格闘家かな。当然、僕は軍師」
さらりとハルトは言った。ぎょっとした顔で、ソーマは堪らず抗議する。
「ちょっと待て、何だそれ。あり得ねえ、普通は攻撃、補助、回復だろ」
RPGの要素を持つゲームでは、それぞれの役割が重要になる。パーティの人数にもよるが、それをバランスよく配置することが理想とされる。
特に安全を重視するなら、そこに最低でもひとりは回復役が欲しいところだ。物理的な戦闘要員2人と軍師では、それが居ないどころか余りにバランスが悪い。
「だって、本人のイメージと違うから」
何でも無いことのようにハルトは言う。
「でも死んだら終わりなんだろ。せめて回復役は──」
「いや待て。攻撃、攻撃、攻撃というのも捨てがたいぞ。先手必勝、攻撃こそ最大の防御なり」
ソーマを遮って力説したのは、拳を握りしめ、不敵に笑うダイキだ。
「やかましい、この筋肉馬鹿」
「何だと?」
互いに詰め寄る両者。身長差から、どうしてもソーマが見上げる形となる。
「まあまあ。戦記モノとはいえゲームだから、個の力が重要なのは事実だけど──ずっと決まった人数だけで戦うわけじゃない。政治や経済の要素だってあるんだから、足りない分は仲間を集めて補強するんだよ」
ハルトがまるで他人事のように仲裁に入る。ソーマは睨む相手を変えた。
「お前のその〈軍師〉っての、魔法とか使えるのか? ちゃんと戦えるんだろうな」
「まさか」
ハルトは飄々とした姿勢を崩さない。とにかくマイペースな少年である。
「僕の役目は主に作戦立案。荒事はお前らに任せるよ」
はあ、と大きく溜め息をつく。ゲームの世界に来てさえブレないこの少年に、ソーマは感心するしかなかった。
──その時。
甲高い音と共に、突然、目の前の空間に何かが表示される。
「言ってる間に、読み込み完了か」
ハルトの声に2人は幾分緊張した。ゲームではお馴染みのセーブ、ロードなどのメニュー項目である。
それらは背景が透けて見え、さらに視界を遮らぬよう端々に配置されていた。いよいよ本格的にゲームが始まるのだ。
「何か、少なくねえ?」
ソーマは項目の少なさに違和感を覚える。思わずキョロキョロするが、メニューは視点に対して固定されており、後ろを向いても表示は変わらない。
「ステータスは全部、隠しデータなのさ」
予想どおりの反応を楽しむかのように、やや意地悪そうな笑みを浮かべてハルトが説明する。
それによると、通常プレイヤーに知らされることが多いレベル、HP、攻撃力などのステータスは、一切空間モニターに表示されないとのことだった。
「リアルさに欠けるだろ。戦う前から『あっ、こいつ自分より強い』とか、『HPが半分になったから回復させよう』とか。そういうことができなくなってるんだよ。あくまでも普通の方法では、だけど」
「──あ? どういう……」
含みを持たせたその台詞に、ソーマが間の抜けた声を発したのと、ほぼ同時だった。
「きゃああっ!」
女性の悲鳴。そしてつい先程まで無かったはずの人の気配。それも複数が入り乱れ、ただならぬ様子だ。
「早速始まったみたいだね。さ、助けに行くよ」
ポカンとするソーマとダイキ。その背中を〈軍師〉が押した。