【間章】御伽話
アースガルド大陸にはある〈御伽話〉が流布している。世界に終焉を齎す魔神と、それを倒した4人の英雄の物語。
それは、アースガルド統一という大偉業に挑む、煌国の四神を神格化するための作り話であったという説が有力である。つまり誰もが畏れ戦き、戦場に現れるだけで敵の戦意を挫くよう、故意に流されたというのである。
だから彼らが一線を退いた後は、英雄譚と言うよりも、聞き分けのない子どもに「魔神が拐いに来るぞ」と戒めに使われる程度の話に過ぎなかった。
だが事実は違うのだ。〈それ〉はあった。それも、統一が成ったその後で。
「参謀閣下、見えて来ました」
「魔力濃度は?」
「依然として、極めて高い数値を示しています」
大陸中央に位置するオシピオス海。広大なそれは海と呼ばれているが、実際には淡水湖である。
その中にぽっかりと浮かぶ島国、クバン。彼らはそこを目指して航行中であった。
参謀総長ジルヴェスター・ベルハイム。将軍ウォーレン・ハイドフェルド。ディオニア教の教皇に就任したばかりの、魔法軍特別顧問オーランド・ブラックストーン。そして辺境部隊総司令官兼、黒葬騎士団団長のルーファウス・シュトラー。
味方なのだから呉越同舟という表現はおかしいのだが、そう言っても差し支えがないほど、彼らが同じ船に乗ることは極めて異例である。
「クバンの避難状況は?」
「それが……魔力の源が、神殿のあるダラムルーファ島ということで、彼らは女神の御意志であると頑なにそこを動きませぬ」
「──やれやれ」
ジルヴェスターは溜め息を付く。本土で多くの国が信仰するディオニア教とは違う、彼ら独自の女神崇拝。
ダラムルーファ島が神事以外では立入禁止だったことが、せめてもの救いだった。
「クバンの結界四十四士に指令を出せ。動かぬなら、せめて本島に結界を張っておけと」
「了解しました。直ちに」
部下は小走りに去って行く。入れ替わるように眼窩に片眼鏡、白を基調にした法衣に身を包むオーランドが彼の元へ。
「信徒とは頑固者で無ければ務まらぬもの──信じる神が違っても、そこだけは何ら変わりませんね」
「教皇猊下の言葉とは思えんな」
軍師はニヤリと笑う。オーランドは4人の中で唯一、帝国の人間ではない。
彼はディオニア教国の出身であり、同教の保護を条件に、帝国の〈客将〉として共に戦った間柄である。宗教上の立場はむしろ皇帝より上。だが彼らは、同じ皇帝に惚れ込んだ戦友同士であった。
「どう思う、この魔力」
「稀代の天才軍師に意見を求められるとは──光栄の極み」
「茶化すな。〈稀代の大魔導師〉の目に、どう映るのかを聞いておる」
博識で知られるジルヴェスターだが、人にものを尋ねるのは珍しいことではない。入手できるものは情報であれ考え方であれ、まず何でも脳内に叩き込む。
そして次に口を開いたとき、大抵それは提供者を驚嘆させる〈別の何か〉に変わっていることが常であった。
何やら嫌な予感がしたオーランドは少し逡巡し、しかし正直にそれに答える。
「かつて感じたことが無いほど強大な魔力。そしてとても攻撃的です。正直なところ、私より上──でしょうね」
「ふむ。では〈稀代の魔法研究者〉に重ねて訊こう。そのオーランドを上回る可能性がある者を挙げるなら、誰だ?」
意味は──すぐに理解出来た。だがオーランドにはそれを認めることが憚られ、自然と遠回しな表現を選択させる。
「現代には居りますまい。素質のある者が覚醒したのだとしても、これ程の魔力を突然、その前兆すら感じさせず発することなど、まずあり得ませんから」
これまでに出た調査隊は、誰ひとりとして戻っては来なかった。
現時点で分かっているのは、ある日突然、途轍もない魔力がその島に生まれたこと。そしてその源と思われる生体反応が、僅かにひとつ存在することのみ。
「ならば〈別の世界〉からやって来た何者か、或いは──」
「会えば分かる。そのための〈神眼〉であろうが」
会話に入って来たのはウォーレン。彼は既に、愛剣に手を掛けていた。
「船を直接ダラムルーファへ向かわせろ。奴が、我が剣の錆となった後で、好きなだけ検証するがいい」
終戦から2年が過ぎ、皇帝も次代へと継がれた今、生じた気の緩みなのか。
得体の知れぬ者が相手なら、初めから自分が出向くべきだった──武骨なこの軍人には、自分が許せぬのだろう。
ジルヴェスターが行く手に目を向けると、船首から、目的の島をじっと見詰める男の背中が見えた。もうひとりの四神、ルーファウス。
細君を亡くして1年余り、彼が公に姿を見せるのは久しぶりのことだ。
「〈彼女〉の死は貴方のせいではありませんよ」
その想いに気付いたオーランドに肩を叩かれ、振り返るジルヴェスター。彼の唇は強く噛み締められていた。
自分を許せぬというなら、彼もきっとそうであるに違いない。
「行くぞ」
そして彼らは、クバンから僅か数キロの小島、ダラムルーファへ上陸する。四神以外は船で待機、戦争中ですら一度も無かった、彼らだけの戦い。
そこで彼らの──人生は変わる。
「酷いな……」
目指す神殿はすぐに目の前に現れた。既にボロボロの廃墟と化しており、地元民の篤い信仰心の証など、欠片ほども残されてはいない。
戦略的要素が皆無の破壊活動。それは、幼児が駄々をこねて崩した積木の城に似ていた。
瓦礫に混じって、先遣隊の亡骸が散在している。その横を、歩を休めずに進む4人の男たち。
畏怖でも悲嘆でもない。遺体をひとつ目にするたび、彼らの肩に積まれていくのは〈責任〉の2文字のみ。
そして──。
「あははっ!」
廃墟に座したまま空を見上げ、周囲の雰囲気にまったくそぐわぬ嗤い声を上げる青年と、彼らは出逢う。
20歳そこそこだろうか、髪は金髪で美青年と言っていい。大陸にまで届く魔力の源泉──それがこの青年であることは間違いなかった。
しかし明らかに様子がおかしい。信じられぬ程の魔力を身に纏い、それを帯びた光を、ただ触手のように振り回して遊んでいるのだ。
時折、建造物の名残を残す柱や壁に光が触れると、それらは一瞬で塵と化す。
「言葉が通じる雰囲気ではありませんね」
「構わぬ、問答に来たわけではない。〈神眼〉は?」
部下を喪ったウォーレンは、青年を敵としか見ていなかった。それは斬り捨てる前の、半ば形式的な問いだったのだが──。
「名と齢が見えぬ」
軍師が溢した言葉に、他の3人は思わず沈黙する。
〈神眼〉は相手を選ばない。例えば記憶を失った相手であっても、情報が──まして最も基本的なそれが読み取れないことなど、考えられないことだった。
「名が無いということか」
「いや。名前だけならともかく、年齢が無いということはあり得ぬ。初めてのケース故、断定は出来ぬが──恐らく、奴の中で何らかの矛盾が生じているか、それらがまだ確定していないか」
ジルヴェスターが口に出す以上、それは推定ではなく事実だ。この僅かな時間で、彼がすべてを繋げるロジックを完成させつつあると3人は理解したが、続きを待つ時間は無かった。
何の前触れもなく、彼ら目掛けて振り下ろされた光の触手──。
「なっ──」
眩いばかりの閃光が弾け飛ぶ──だがそれは魔法ではなかった。〈魔力そのもの〉だ。
「どういう……ことだ」
ウォーレンが張った闘気の壁によって、難を逃れた彼ら。4人が同時に、同じ疑問を抱く。
闘気と違って、魔力はそのままでは扱いが難しく、攻撃に向かない。いや、むしろ効率という点において悪手だ。本来はそれをエサに〈事象〉または〈生物〉を召喚するためにある力である。
これ程の力があれば、上位魔法も簡単に召喚出来るだろう。なのにそれをせず、一方で明らかな敵意を持って攻撃してきた──その矛盾は歴戦の彼らをも狼狽させる。
「ジル殿、彼は──」
「ユリウスではないと決め付けるには、まだ早かろうぞ!」
オーランドの言葉の先を読み、否定するジルヴェスター。
「結界を張れ。その中に奴を閉じ込める」
「承知!」
どんな資料を読み解いても、歴史上、自分の上をいく魔力を持った魔導師などユリウス・キルシュタインをおいて他に考えられない。だが彼は400年も前の人物。ならば当然、目の前にいるのは──新手の誰か。
最上級の結界を張り巡らせながら、オーランドは尚も自説の正しさを主張する。ジルヴェスターに対して反論は無力であると知りながら──それでも到底信じられないのだ。
「彼は国葬によって送られた。何万という人間が彼の死を証明しています。それに、彼の享年は80を越えていたはず」
「〈既に死んだはずの人間〉というだけなら反証にはならんぞ。直接見て分かった。ユリウスと同じ純血統のヴァレル族──既に絶えた一族だ。奴は歴としたアースガルドの人間。この地でこれ程の魔力を持つ者の存在を、儂は他に知らぬ」
一方、結界などお構い無しに斬り掛かっていたウォーレンとルーファウス。
青年はそれにまったく反応しない。
「獲った!」
ウォーレンが胴を、ルーファウスが首を、それぞれ捉え、あっさりと勝負が着いた──かに思えた。
「──此奴!」
無傷。接触した瞬間に時が止まったかのように、世界最強の剣士が2人、仕留める気で同時に斬り付けた成果は〈無〉であった。
青年はにっこりと微笑み、逆に至近距離から放たれる魔力の光子。
「ぐっ──」
思いがけない事態に、2人は完全に虚を突かれた。しかし彼らもまた、簡単な相手ではない。
瞬時にそれをガードし、そのまま結界の外へと逃れる。
「まさか──〈神装体〉か!」
一切の外的攻撃を受け付けぬ、神技のひとつ。これまでその存在を示唆されながら、使い手の記録は皆無。
だが、あの2人の攻撃を受けて平然としていられるなど、他には考えられなかった。オーランドはそれを叫び、同時にジルヴェスターを見る。
〈神眼〉で見えないのは名前と年齢だと彼は言った。ならばスキルは読めたはずだ。何者であるかまったく見当も付かないが、いよいよ青年はユリウスではあり得ない。
しかしあくまでも、軍師の見方は彼に反した。
「彼の肖像画は晩年の作が多い上に、400年も前のもの──宛てにはならぬが、確かにあの姿とは似ても似つかぬ。そして持っていたはずのスキルを持たず、持っていないはずのスキルを持つ。故に奴は当時のユリウスではあるまい。
一方、今は絶えたヴァレル族の血を引き、常軌を逸した魔力を持ちながら、魔法が使えぬ。そして突然ここに現れたという事実」
「どういう……ことですか?」
「彼自身が予言していたであろう、〈死者の復活〉を。それが肉体のピークで起こる現象だとしたら、どうだ?
20歳当時の彼は〈神眼〉も〈神の描く筋書き〉もまだ持ってはいなかった。高度な魔法を身に付けたのも後年。だが人並み外れた魔力だけは既に有していた──そんな歳の頃だ。
彼が彼自身を蘇らせ、その後の無防備な体を〈神装体〉で守るよう仕組んでいたのだとしたら、現状はすべて説明が付く。名前や年齢に混乱が生じていることもな」
「──何だと?」
鋭く反応したのは──ルーファウスだ。
「数百年も前の人間が……蘇った?」
「あくまでも可能性の域を出ぬ。だが、もしそうなら──非常にまずい」
ユリウスの予言はこうだ。死者が次々と蘇り、戦乱の世に蠢く──そしてその戦乱とは、〈予言の勇者〉が鎮めるものを指す。
それは、他の予言の時系列から、「アースガルドが2度目に統一された後」の出来事だとされているだけで、それ以上の時期を特定できる情報が含まれない。もしそれが始まったのなら、平和になったばかりのアースガルドが、再び戦禍に呑まれることになる。
「つまり奴は本当にユリウスなのか、それを突き止めることが極めて重要になる。──捕縛するぞ」
「どうやって──」
オーランドが口を開いたとき、既にウォーレンが動いていた。解放された桁外れの闘気が、あっという間に小さな島中に拡散する。
「私が時間を稼ぐ。その間に策を立てろ」
どんな攻撃も効かない相手。それは一見、無謀な突撃であった。
だが、その後ろ姿を見た彼らから狼狽が消える。世界最強の男が本気で戦いに臨む──例え攻撃が効かずとも、決して負けもしない。それは最高に贅沢な時間稼ぎとなるだろう。
「外的攻撃は無効。ならば内側から仕留めるしかない」
「精神攻撃でいきましょう。復活の影響か、彼は正気を保っているように見えない。それはつまり、精神面には〈神装体〉が働かない可能性を示します」
オーランドは最上級の結界を維持したまま、ウォーレンを援護しつつ、さらに別の魔法を練り始める。
彼もまた四神のひとり。数万はいる魔法士の中でも、そんな芸当ができるのは彼しかいない。
「〈永久の夢殿〉──」
「〈斬り裂かれる危機〉!」
同時──否、青年はオーランドの魔法発動から僅かに遅らせたタイミングで、魔法を使った。
まるで剣による斬撃。それは一度掛かれば二度と目覚めぬ最上級の睡眠魔法を、そして事前に張った結界をも容易く切り裂き、彼らの元へ──。
「──馬鹿な!」
反撃を想定していなかった彼らに、もう防御は間に合わない。だが確定的な死の瞬間は、間に飛び込んだ暗黒剣士によって払われていた。
右腕を──その代償として。
「ルーファウス、お主……」
その背後にはオーランドだけでなく、ジルヴェスターも居た。細君を喪ったことで、彼を恨んでさえいるはずのルーファウスが、身を呈してそれを守ったのだ。
「何を呆けている。まさか、一手防がれた程度で手詰まりとでも言うつもりか。そう何度も好機は与えてやれん──次は決めろ」
そして鮮血を流しながらも眉ひとつ動かさず、隻腕に剣を携え、青年に斬り込む。その姿はまさに通り名の〈不死身の暗黒剣士〉そのものであった。
ジルヴェスターはオーランドと困惑した目を合わせ、しかしすぐに面を引き締める。
「ねえ、彼女は何処?」
青年は初めて、意味のある言葉を発した。ウォーレンとルーファウス、どんな手練れでも防ぐことなど不可能なはずの攻撃を、その身に受けながら。
「いくら待っても、来てくれないんだ。君たちのせいなの?」
爆炎、氷結、地裂、風殺──相反する属性魔法が乱れ飛ぶ。どれかに特化しなければ、それは本来、習得することさえ困難なはずだ。
そのどれもが最上級の破壊力。しかしウォーレンの闘気もそれを通さない。
ジルヴェスターは、その生涯でたった数回目の混乱に陥っていた。青年に魔法が使えるなら、論じたばかりの推理は成り立たなくなる。
「ユリウスでは──ない?」
「ジル殿、迷っている暇はありませんぞ」
「うむ……」
単純な捕縛はもはや不可能。オーランドに促され、軍師は幾多の引き出しからすぐさま別の作戦を選択する。
「オーランド、奴を回復させられるか。ルーファウスではない、敵の方だ」
「──えっ?」
「奴は僅かだが体力を消耗しておる。攻撃は効かぬが、もし回復が効くなら──〈あれ〉も効く。奴を封じるにはもうそれしかなかろう」
指事語で意味が通じる相手である。オーランドは激戦の合間を縫って、何度目かに回復を成功させた。
「ジル殿!」
「よし。ウォーレン、ルーファウス。奴の動きを止めろ。今から1分後、10秒でいい」
今度は具体的に軍師の指示が飛ぶ。ウォーレンはそれに笑みさえ見せて、
「相変わらず、簡単に言いよるわ」
「俺が先にいく。右腕の礼だ」
闘気を全開にするルーファウス。片手で剣を振り回し、彼の持つ最大級の技を惜しみ無く放つ。
暗黒剣、蛇神道。〈女禍ノ刑戮〉!
激震とともに立ち昇る、怒りの蛇神。青年は抵抗を試みるが、それは繰り出された魔法ごと呑み込み、やがて巨大な黒柱が天と地を繋ぐ。
「ぐ……わああっ!」
その中で青年は苦悶の声を上げた。しかし本来、すべてを灰燼と化すはずの技で、ダメージを与えるどころか傷ひとつ負っている様子は無い。
「どうやら、それなりの攻撃なら痛み位は感じるらしいな」
吸い上げた力によって、失った腕が再生していく。ルーファウスは尚もその力を強め、標的を絞り上げた。
そしてそこへ、もはや伝説と化したウォーレンの〈覇剣〉が追い討ちをかける──。
歪の太刀──覇界、〈捻り斬る贖罪の首〉!
迸る闘気が重力崩壊を起こし、周囲の空間を歪ませた。十字の軌跡を描く剣閃──その中心に捕らえた青年を捻り斬るかのように、そのまま座標軸が回転する。
叫ぶ声さえ外には逃がさぬ。それでも尚、青年の体は攻撃に耐えた。しかし遂に、その動きが完全に止まり──。
「今だ、オーランド!」
「はい! 『病める躯よ。蝕まれし魂よ。いざ浄化の時を、汝に与えん──』」
「……来い、〈地獄の最下層〉!」
オーランドの魔法は、突如として解放された恐るべき力に妨げられた。黒き破壊の波動、そして折り曲げられた空間をさらに内側から突き崩す──禁忌の呪法が無差別に拡散する!
「ぐ……うワアアッ!!」
天地が逆転し、白黒は反転し、生と死までも混濁させた。最強の黒魔法──〈地獄の最下層〉。
「邪魔は──させない。僕はこの世界のすべてを捧げてでも、彼女を手に入れる」
明確な殺意──いや、破滅の強制。それはウォーレンを、ルーファウスを、そして離れていたジルヴェスターとオーランド、四神すべての自由を奪い、引き裂くような力を加えながら、彼らを混沌へと引きずり込む。
「な──んだ、これは!」
「これ程……か」
何者かすら定かでない者に四神が負ける。彼らの後に続く者はまだいない。
青年が放つ圧倒的な破壊の衝動──ここで彼らが敗北することは、この世の終焉そのものと言い換えることが出来るだろう。
「く……そっ」
ジルヴェスターでさえ世界の存続を諦めかけた、その時。
「ぬううっ!」
両手に剣を握り、魔力の源へ飛び込む闘気の塊。無尽蔵とも言われるそれを際限なく発揮し──最強の〈魔〉に立ち向かうのは、最強の〈闘〉ウォーレン・ハイドフェルド。
「無茶だ、ウォーレン!」
「構えを解くなオーランド。機は必ず──来る!」
それは奇跡としか呼べぬだろう。薄笑いさえ浮かべる青年にその刃が届く前、それは天からやって来た。
青天の霹靂。
落雷が青年の体を貫いたのだ。〈神装体〉を持つ青年にはそれさえも効かない──だが青年はそれに驚き、直後の攻撃をまともに受けた。
ウォーレンの、渾身の一撃──。
それでも尚、青年にダメージは無かった。だがウォーレンの狙いもそこには無い。その体は待ち構えるオーランドの前まで飛ばされ、漸く生まれた最初にして最後の隙。
「〈躯魂剥離!〉」
オーランドの詠唱に誘われ、突如として空間に現れた何者かの右手、そして左手が、青年の腕を両側から掴む。それらは反発するように、互いに逆のベクトルへと動く。
青年はそれを振りほどこうとするが、まるで力が入らない。痛みは無く、意思に反して体がそれを受け入れるのだ。
そして、まるで分身するように──青年は2つに割れた。
それは肉体が耐えきれぬ苦痛に襲われた時、或いは精神が何かに憑かれた時──その2つを一時的に切り離す〈治療術のひとつ〉である。
対象に負の効果を及ぼすことを意図していないことから、それには〈神装体〉の能力が及ばない。青年の肉体から、精神が剥がされたのだ。
「精神を──封印せよ」
ジルヴェスターの、悲鳴にも似た指令。常人なら疾うに尽きているはずの魔力、だがオーランドもまた常人ではなかった。
「〈隔絶する世界〉!」
〈神装体〉が守るのは肉体のみ。それは正しかった。
結界魔法が効果を顕し、精神──つまり魂を封印することに、遂に成功したのだ。
どの位の時間か──。
暫くして、世界はやっと正常な空間を取り戻す。
だが、轟音が鳴り止んでも静寂は訪れなかった。四神全員が負傷し、肩で息をしたまま──青年の魔力は色濃くその余韻を残し、壮絶なバトルの証拠を至る所にばら蒔いている。
そして彼らは見た。終わりではなく始まりを。真に悍ましきものを。
封印され、ひとつの暗い光に収縮した魂が、ゆらゆらと何かを呼ぶ。それに呼応するように、主なき体が、もぞもぞと地を這い、それに近付いて行くのである。
「〈躯魂剥離〉で切り離された体と魂は、やがてひとつに戻ります。ですが魂を封印した以上、それは起こり得ません──」
ならば、この現象は何だと言うのか。
「魂が──既に封印を解き始めています。体が反応しているのも、そのため」
「──どの位持つ?」
「このまま放置すれば、恐らく3日……」
オーランドの言葉は、他の3人からあらゆる言葉を奪った。それが、落雷の直撃という〈奇跡〉の恩恵を受けて、漸く得た結果なのか。
「術式を絶えず書き換え、封印を掛け続ける。それしかあるまい」
やがてジルヴェスターが重い口を開く。
「残念ですが、同時には……」
「書き換えだけなら儂にも出来る。お主は結界の維持に集中してくれ。絶えず〈情報共有〉でそれを送る」
「ならば、これは私が何処かに縛り付けておこう。壊せぬ体に動き回られては困る」
ウォーレンが青年の体を持ち上げた。ジルヴェスターは溜め息をついて頷く。
「術式と同時に、対策についても早急に手を打つ。だが、もはや公務も儘なるまいな。後のことは──お主に任せたぞ、ルーファウス」
自らの策により細君を奪われた男。しかしつい先程、その命を救ってくれた男。
それは決して「賭けなどではない」と自分に言い聞かせるように、軍師の立場を捨て、ジルヴェスターは友人として後事を託す。
「……ああ。分かった」
小さくそう呟いたルーファウスの瞳は、歪に揺れる何者かの魂を見詰めたまま、暫く動くことが無かった。




