彼らのいない日々(1) 遭遇
歩くのもやっとの険しい山道を彼らは行く。
まだ昼間だというのにあたりは薄暗い。それは晴れたり曇ったりを繰り返すはっきりしない天候のこともあるが、多くは、その僅かばかりの日差しさえ遮る木々のせいだ。しかもそれは進むほどに密度を増している。
「本当にこの道でいいのかい?」
さすがに不安になったセリムが、先頭に立つ大きな背中に問いかけた。その男──クレイグは道を〈歩く〉というよりまるで〈作る〉ように、茂みを巨大な鎌で刈り取りながら、何処とも知れぬその場所を目指す。
「ああ……間違いねえ。この先にきっと何かある」
それには根拠などない。彼が言うところのただの〈勘〉である。
確かに、10年にもなる潜伏生活の中で、彼の勘によって救われた場面は少なくなかった。
同じ年の子どもがまだ学校に通っている頃から、武器を手に戦場を駆け回っていたクレイグ。その豊富な経験によるものか、若しくは生来持った野性的なものか──ともかく、鋭い感性の持ち主であることは事実である。
「なら、いいんだけど……」
進むべき道を、ハルトによって順序立てて説明されることに慣れてきたセリムは、それを訝しく思ってしまう。
そのハルトはここにはいない。彼のみならず、〈予言の勇者〉3人は「強くなるために」と言い残し、それぞれ別の地へと旅立っていった。3ヶ月後には必ず戻ると約束して──。
「こうなってみると、寂しく感じるものですね」
隣を歩くルシアが、セリムに話しかけた。以前のようにぴったり寄り添うようでもなく、ごく自然なその距離感。
先の騒動によって思うところがあったのか、彼女は彼を護る意識を、彼は彼女に護られる意識を、少しだけ改めた。見た目には広がった2人の距離だが、心のそれは以前より縮まっているようだ。
「うん。それくらい、彼らは僕たちにとって大切な仲間になったっていうことだろう」
セリムたちは現れたときと同じように、突然いなくなってしまった彼らを想う。
彼らに出逢ってからというもの、彼を取り巻く環境は目まぐるしく動いた。
強い決意はあったにせよ、アースガルド帝国を復興させるという彼の願いは、それまでは遠く儚い理想でしかなかった。それが今や、具体的に形になるところまで来ているのである。
「ええ。それにどうやら、〈個人的〉にも変化が起きているようです」
ルシアは、同じくここにはいない妹たちのことを言っているのだが、遠回しな表現でそれを解するには、皇子はまだ若かった。
世が平穏ならば、18歳を迎えると成人と見なされるこの世界。しかし戦時には、それが15歳まで引き下げられる。
それは戦で減った人手の確保という悲しい理由によるものだが、その慣習に従えばセリムはもう大人だ。この悲劇の皇子にも、運命をともにする伴侶が現れるのだろうか。
何としてもそれを見届けたいと──自身のことを棚に上げたまま──彼女は母親のような、優しい目で若き皇子を見つめたのであった。
「オヤジ。いい加減、認めたらどうだい」
クレイグの部下──いや、息子同然の3人衆のうち、年長者のハロルドが言った。彼はいつも頭にバンダナを巻いている。
「ハルト君は『ウェルブルグは真正面から攻めてくる』──確かそう言ってましたよね。こんな山道じゃなく」
続けてラルス。端正な顔立ちの彼は、手の中で魔石をゴロゴロと遊ばせていた。
「つまり──道に迷った、と」
重そうな槍を右から左の肩に担ぎ直しながら、フーゴ。背が低くがっしりとした体型の彼は、口数は少ないが意外と鋭いところを突いてくる。
いつの間に書いたのか、彼らが決戦までの3ヶ月間にすべきことを、ハルトは書面に纏めていた。目的地の近い彼だけは、時々戻ってその進捗を確認するという。
それに従って、彼らはウェルブルグとの国境に沿って進んでいた。戦場となり得る、その各所に点在する関所、砦、要塞──それらすべてを確認して回るためだ。
「俺様が信じられねえのか。確かにあいつはそう言ったが、『そう易々と潜入を許す国じゃ困る』とも言ってたはずだぜ。そのルートを見極めて手を打っておく──それも大事なことだとは思わねえか?」
クレイグは突然「こっちが怪しい」と道から外れ、彼らをこんな山奥まで誘ったのだ。
道なき道に入り込んでから、もう随分歩いた。さすがに疲れを感じた彼らは、果敢に先頭を行く彼の気が変わってくれないかと願い始めてさえいたのだが──。
果たして、その〈勘〉は正しかった。
「うおっ。もごごご……ふがっ!」
唐突に足を止めたかと思うと、その巨体を震わせながら奇声を発するクレイグ。
「オヤジ──?」
まさか敵襲か──ハロルドが右から、フーゴが左から、視界を塞ぐクレイグの先を窺う。
しかし鬱蒼と生い茂る草木以外には、何も見えなかった。2人がそのまま、訝しげに古傷まみれの顔を覗こうとしたそのとき──。
何かが空気を切り裂いた。
それは──まさに間一髪。瞬時に身を翻した彼らの髪と肩当てを、少し掠めただけで済んだ。
クレイグが唐突に、手にした大鎌を振り回したのだ。
「クレイ──」
その名を呼ぼうとしたセリムは、ルシアによって抱えられ、跳び退いていた。ハロルドたち3人も素早く彼から距離をとり、三方から囲むような態勢になる。
「何をする!」
「うへ……うへへ」
ルシアの鋭い問いかけに、クレイグは不気味に反応した。その口はだらしなく開かれて涎を垂らし、目の焦点も合っていない。
明らかに彼は錯乱していた。
「オヤジっ! 一体どうしたんだ」
「だから……やたらと物を拾って食うなと、あれほど言ったのに」
ルシアは真剣な顔でそう言った。食べてはならないキノコか何かを、彼が食したと思ったようだ。
「いや、ルシアちゃん。いくら何でもそれは──」
「やむを得ん。殴って正気に戻そう」
野戦経験の豊富なクレイグが、毒にあたるキノコや野草など口にするはずがなかった──のだが、ルシアはまったく聞いていない。彼女の手が剣に伸びる。
不意に、またしてもクレイグは大振りの一撃を放った。狙いは適当だが何しろその馬鹿力から繰り出される一撃だ。その軌道上にあった近くの木が、いとも簡単に真っ二つになった。
そこはかなりの傾斜で、落ち葉や泥濘んだ土壌もあって、足場としては悪い。確かに気絶させてでも止めないと、彼らに──そして彼にとっても危険である。
しかし、彼らの中で最高戦力たる2人がぶつかれば、何が起こるか分からなかった。それを察したハロルドは、納剣したままそれを手にするルシアの前に立ちはだかると、フーゴとラルスに目配せする。
「ここは俺たちが」
「しかし──」
戦争孤児たる彼らを拾い、育ててくれたのは他でもないクレイグだ。彼らにとっては親も同然。そんな彼に刃を向けることなど──。
「行け!」
ラルスの投げた魔石が、クレイグの眼前で炸裂した。それに目が眩んだ隙をついて、フーゴが槍を横薙ぎに払う。長い柄の部分が横腹を捉え、大男の頭が下がった。
そこへ、弓をまるで棍棒のように構えたハロルドが飛び込み──そのまま、容赦なくクレイグの後頭部へと叩き落とした。
「なっ──」
あっという間の出来事。
まるで申し合わせたかのような見事な連携だった。だが長年ともに戦ってきた彼らにそれは容易い。
ルシアが意外に感じたのは、それが確定的な行動だったことだ。彼らは微塵も躊躇することなく、クレイグを攻撃したのである。
昨日は味方だった者が今日は敵──そんな戦場を、当たり前の光景として過ごした経験を持つ彼ら。それが親、兄弟であることも決して珍しくはなかった。
そして、その中で生き延びる術を彼らに厳しく教えたのは、他でもないクレイグである。彼らは、相手がその彼であっても、忠実にそれを実践したに過ぎない。
そのあたりは、潜伏中に幾多の敵と相見えたとはいえ、直接は戦争を経験していない彼女との、明確な〈違い〉であった。
だが、それを言うならクレイグはさらにその上をいく。身を守る本能に従って、味方たる彼らをあっさりとその手にかけたとておかしくない。
困ったことに、頑丈過ぎる彼は、その一撃を喰らってもまったく錯乱から醒めてはいなかった。動きこそ止まったが、手を抜いた攻撃では気絶するどころか、地に倒れることさえなかったのである。
ゆっくりと上半身を起こすと、彼は大鎌を握り直す。はっきりと敵意を示しているわけではないものの、放置するにはあまりに危険な力の持ち主──やはり何としてでも止める必要があるだろう。
「うがが……もげ。がるばら?」
歴戦を窺わせる傷だらけの顔を苦悶に歪めて、彼は何やら意味不明な言葉を吐いた。そして武器を味方に向けるその手を必死に抑えるかのように、小刻みにその巨体を震わせる。
それは意識下で何者かに抗い、彼らに対して懸命に何かを訴えているようにも見えた。
「そうか──ひと思いに〈やれ〉と言うのだな?」
それに気付いたルシアが剣を抜く。
「がががっ! ひぐ、ひぐ。もべろ!」
「安心しろ。一撃で送ってやる」
手と首を激しく振り抵抗するクレイグ。低い姿勢から剣を突き出すように構えるルシア。
「よせ、ルシア!」
セリムの制止命令が逆に合図となった。
「〈刹那の銀世界〉!」
突然ルシアが消えた。彼女のいた場所を起点に、銀色に輝く閃光がクレイグのすぐ横を貫く。そしてその先にいたひとつの〈影〉を捉えると、それはすぐさま角度を変えた。
そのまま一直線に進んで別の何かとぶつかり、反射するようにまた逆側へと飛ぶ──それは瞬きもできぬうちに三角形の軌跡を描き、その終点で一際大きく輝くと、再びルシアが姿を現した。
一瞬の間を置いて、まだ残像の消えぬ三角形の頂点で、それぞれ崩れ落ちる何者かの姿。それは黒装束に身を包む、見るからに怪しげな男たち。
「油断したな。初めは上手く気配を殺していたようだが、途中から殺気はおろか、衣擦れの音まで聞こえたぞ」
セリムは目を見張った。潜伏中を含めルシアが戦う姿は幾度となく見たが、彼女が闘気を使うのはごく稀なこと──何が起こったのか分からないほどにそれは疾く、美しかった。
「やっぱり敵だったか」
「何者でしょう」
一方、彼がルシアの動きに目を奪われている間に、ハロルドたちもひとりずつ〈敵〉を仕留め終えていた。自分の仲間ながら、彼は驚嘆せずにはいられない。
しかし、主らしく彼らを労う余裕は無かった。敵はまだいたのだ。
「おかしいですねえ」
遥か頭上から聞こえたその声。セリムが見上げると、10メートル近い高さの木の枝に──ちょこんと老人が座っている。
それは子どもほどの身の丈しかなく、全身を黒いフード付きのローブで覆っていた。それによって白く長い口髭が、異様なまでに際立つ。
「確かに乱舞蝶の鱗粉を撒いたのですが。それもたっぷり10人分ほど」
「お前の仕業か!」
ハロルドが素早く矢を射る。しかし老人は、その見た目からは予想だにしない俊敏さでそれを躱すと、別の木の枝に飛び移った。
「ちっ」
軽い舌打ちとともに放たれる矢の連射。だが再び、それをまるで嘲笑うかのように避ける老人。
木々の上を飛び回るその姿は、小型の猿そのものだ。
「無駄ですよ。そんな物、何度やっても当たるもんですか」
「何度もやらねえよ」
ハロルドはニヤリと笑ったのみ。指示されずともラルスが進み出た。
「〈逆天降矢〉!」
指先で弾いた魔石が赤い光を放つと、空に消えていったはずの矢が綺麗に反転し、矢じりを下に向けて一斉に降り注ぐ。
それは、対象物を吸い込む魔法をハロルドの弓攻撃と組み合わせてアレンジした、彼オリジナルの魔法である。
「くっ」
猿のような老人はさすがに慌てた。今度は上からの矢を躱すべく跳躍する。
「最後とも言ってねえ」
だが注意が逸れた下方から迫る1本の矢──それを老人は避けることができなかった。腕に突き刺さったその衝撃によって、体勢が乱れる。
その下では既にフーゴが技の構えに入り、タイミングを待っていた。狙いが定まった彼はそれを発動する。
「〈狼牙・乱れ突き〉!」
老人はなおもそれを避けようと足掻く。が、狙いは老人ではなかった。次の足場にと目論む枝が、そこへ辿り着く前に悉く砕け散ったのだ。フーゴによる闘気の連撃──それは槍本来の間合いなど無視してそこに届く。
足場をすべて失った老人はもはや成す術もない。
「ぬわっ」
ようやく猿が木から落ちた。
老人はすぐに起き上がり、態勢を立て直そうとするも──既にその足首が掴まれている。クレイグだ。
「よぐぼ……やっでくでたな」
「よくもやってくれたな」──それは敵に対してか、それともハロルドたちに向けた言葉か。
彼らが敵と交戦している間、体内に回った毒に四肢の自由を奪われ、地面に這いつくばっていたクレイグ。だが、自制できるくらいに意識を取り戻し、言葉の方も何とか聞き取れるレベルにまで回復している。
「ぜんぶ……すいごんでやった……ざまあびやがれ」
老人は耳を疑う。彼は確かに『全部吸い込んだ』と言った。
「10人分の鱗粉を──? 常人なら錯乱するどころか精神が崩壊し、あっという間に死に至るはず」
その存在に気付いたクレイグは、セリムたちを護るため、超人的な肺活量でそれをやってのけたのだ。それでいて、死に向かうどころか既に回復し始めている。
「生憎、その人は常人じゃないんだよ」
ラルスが爽やかな笑みさえ浮かべて言った。クレイグが足首を持つ力を強めると、老人は苦悶の声を上げる。
「あぎゃああっ」
「まだ──ころさねえ。どこのだれだか……はかせてからだ」
闘気が体内を巡り、毒素を中和していく。それは彼の生命力を表すかのように強大で、溢れ出た分が白い煙となってその巨体を包み込んだ。
「くそっ、くそっ!」
老人は鉤爪を彼の身体に突き立てるが、それはまるで鉄の塊のようにビクともしない。「この先には猛毒が仕込んであって、掠めただけで──云々」と自慢げに言いながら使うはずだったそれ。
何度めかの試行であっさりと折れる。
「バケモノ──」
ぶしゅ、と嫌な音とともに握り潰された足首。金切り声と鮮血をあたりに撒き散らし、老人は地面を転がり回る。
それでも、望まぬ方法ながら足枷が解けた老人は、手足をばたつかせ逃亡への執念を見せた。
だが──ものの数歩そこから離れただけで、唐突にそれは止まる。
高鳴る鼓動が彼らにも聞こえた気がした。
……ン、……クン、ドクン!
「あ──」
苦しみの形相のまま固まる老人。
「おい──まさか」
彼らは一斉に駆け寄ったが──老人は既に事切れていた。
「何てこった。まだ何も吐かせてないってのに」
彼らは呆然と、この哀れな老人を見下ろすしかなかった。
勿論、同情などない。これで何かの謀略がひとつ防げたのは事実だろう。
だが死なれてしまっては、敵が何者で、これから何かをしようとしていたのか、それとも既にそれを終え、良からぬ情報を持って帰還する最中だったのか──それさえももはや知る術はない。
誰にも聞こえぬ声で、ぼそりとルシアが呟く。
「似ている……」
彼女にとって思い出すのも忌まわしい、狂黒の乱。
父の最期の働きによって知らされたそのカラクリ──同士討ちを誘う手口と、そして帝都の近衛兵にしか使うことを許されなかった上級魔法。
「〈死の制裁〉──」
不吉な影がこれで拭い去れたとは思えなかった。




