誤算
ジェラルド・ルーベルク大公は、従者の手を借りゆっくりと玉座に身を沈めた。
既に真夜中。本来ならもう謁見など臨めぬ時刻だが、この国の将来を揺るがすほどの事態だと聞けば、それも仕方がないだろう。
大臣の同席が決まりとなっているものの、予定外のことであるから、彼らとてすぐに参上できるはずもない。
ラナリア正規軍の演習に顔を出し、それを激励するという公務のため、そもそも彼は今この城に居る予定ではなかった。しかし弱った足腰の状態が思ったより悪く、やむ無く直前になってそれを取り止めたのである。
もともと人手が足りておらぬ上、軍の視察に多くの要人が参加しているこの状況下では、たとえ万全の体調で無くとも、彼が自ら不測の事態に対処する他なかった。
「大公殿下。お加減はいかがですか」
どこかで聞きつけたのか、そこへセリムが顔を出した。ジェラルドの表情が自然と緩む。
「おお、まだ起きておられたのかセリム殿。しかし殿下はやめていただけぬか。儂は兄上の忠臣と呼ばれる方が好きでな──今でも」
近習に聞こえぬよう、声を落とすそれを聞いてセリムも微笑んだ。思いがけず今日1日、彼らはたっぷりと談笑する時間を持つことができたのである。
そこで改めて知った大公の人柄──それは「そうであってほしい」という予てからの願望を見事に叶えるものだった。反対に、大公にとってのセリムもそうだったのだが。
「では閣下。僕も同席して宜しいでしょうか」
「無論じゃ。慣れぬことでひとりでは心細いと思っておった」
大公は正直に吐露し、もっと傍に来るよう促す。
「本当に──よく似ておられる。尤も、似ているのは顔だけではないようじゃが」
セリムは苦笑した。急な公務のキャンセルよって生じた、昼間のひと悶着について言われているのだ。
「どうかその件はもうご容赦を。今は僕も頭を冷やしましたから」
大公の不参加が決まった時、セリムは自分も城に残ると言い出した。視察の予定は1週間。彼はせっかく会えたのに、まだろくに話もできていない大公と離れたくなかったのである。
ならばとルシアも不参加を表明した。そこで彼らは再び衝突したのだ。
その過剰な庇護から解放されたかったセリムは、昨日の今日でさすがにムキになり、渋るルシアを半ば強引に行かせた。2人がこれほどの距離を置いたのは、この10年で初めてのことである。
「一度言い出したら聞かぬあたり、まさに兄上とそっくりじゃ。またそれに振り回されながらも、結局言うとおりにしてしまう周りの者たちも──まるでかつての〈煌国の四神〉のようじゃったわ」
かつてよく見た光景を思い出し、それを懐かしむように破顔するジェラルド。
だがちょうどその時、使者の来訪が告げられ、慌てて口許を引き締めた。
程なく、足早に鎧姿の男が謁見室の中央まで進み出て、恭しくその膝を着く。そのただならぬ様子に、和やかな部屋の空気が一変した。
「帯剣ひらにご容赦。また、このような時間にご足労いただき、誠に申し訳ございません」
「戦時の習い故、構わぬ。して、この国を変えるほどの事態とは一体何事じゃ」
大公は緊張した声で問うが、ここで妙な間が空く。傍に控えるセリムがはっと鋭い視線を送ると、上目遣いに顔を上げた男と目が合った。
「それは──今から直接ご覧になるが宜しいかと」
使者はニヤリと嗤い、そしてその剣に手をかけた──。
──────────
「だからね、ああいうのを〈野暮〉っていうんだよ」
ハルトは苦いものでも食べたような顔で、黙ってそれを聞いていた。
「ダイキはリゼットと2人で行きたかったんでしょ。リゼットだってまんざらでも無さそうだったし──宛てがあるとかないとか、そういうことじゃないんだよ」
隣を歩く赤髪のジュリア。長い左右のツインテールが今日も美しく揺れる。
姉のルシアは母譲りの銀髪、一方彼女のそれは父と同じということだった。
「ハルトはさあ……アタマ良いのに、そのへんのことはからっきしダメなんだよね」
「うるさいな」
ついにハルトは反論した。彼とてそんなことは分かっている。
しかし何しろ人手が足りないのだし、目的だけを考えれば彼とダイキの思惑に矛盾もない。こうするのが一番効率が良かったのだ。
「何でついてきたんだよ。ジュリアも軍の視察に行けばよかったのに」
「だって……軍隊の知識なんて無いし、つまんなそうだったから。あたしがいたらそんなに邪魔?」
急にしゅんとなってジュリアは目を伏せる。ハルトは慌てて、
「あ、いや。そんなことはないさ」
しかし顔を上げたジュリアは、満面の笑み。
「あははっ、引っ掛かった。ハルトって分かりやすいよね」
「むっ……」
さすがのハルトも、完全にジュリアのペースに呑まれていた。
「ちゃんとリゼットの先生に相応しい人を紹介したんだ。もういいだろ」
「だから、2人きりで探したかったんだってば。……ま、人助けしたんだから、今回は大目に見てあげる」
ダイキとリゼットは教会に残ったから、2人きりというなら今の彼らがまさにそうだ。街中とはいえ、もう随分遅い時間。彼ら以外の人影は殆ど無い。
いったんそれを自覚すると、彼はドキドキするのを抑えられなくなった。ぶんぶんと首を振り、むりやり別のことを考えようと、人差し指を口許に当てる。
(僕が考えているとおりだとすると……セリムの正体がバレたことで、パルマ家とゼルギウスが動く。普通に考えればセリムの排斥──恐らく〈死神〉を使おうとするだろう。
でも先んじて仲間にするフラグは立てたし、ルシアさえ傍にいればセリムの身は安全だ。それより問題なのは──)
ロイの報告。ひとりで誰かと話す彼。
逃げ足が速いとか、隠れるのが上手いこと以上に、その場面に遭遇した運のよさこそを、ハルトは評価する。
ロイの〈成長〉はA。今後、ハルトには欠かせない斥候として伸びていくだろう。
(怪しい独り言か。別に魔法士ってわけじゃないんだ。スキルだってそれらしいのは持ってない。普通の人間がそうする状況を考えろ。話したり止まったり──例えば、復唱)
初めにそれを聞いた時、直感で出した答え。それは改めて考察した今でも変わらなかった。
(あとは証明だけか。ロイなら上手くやってくれるだろうけど、アレだけじゃ無理だ。となると──)
そこでふとハルトは立ち止まり、ジュリアの顔をまじまじと見つめた。彼女は少しだけ赤くなる。
「な、何よ」
「ジュリアなら……女心が分かるよね」
一瞬唖然としながらも、すぐに彼女は胸を張った。
「トーゼンでしょ。何か悩みがあるなら、聞いてあげるわよ?」
「例えばさ……大好きな人から〈手紙〉をもらって、そこに何か良からぬ秘密が書いてあったとしよう。その最後に『読んだら燃やせ』って指示があったら、どうする?」
ハルトのように人差し指を口許に当てながら、ジュリアは「うーん」と唸る。そして星さえ出ていない暗い夜空を見上げて、ぼそっと呟いた。
「人にもよると思うけど、燃やせない……かな。だって大好きな人からの手紙でしょ。秘密を共有した証でもあるから、少なくともすぐには無理なんじゃない?」
(やっぱりそうか)
ハルトはニヤリと口角を上げる。
(攻めるならそこだ。後はソーマか。あいつが襲われるかどうかによって、すべての道が確定する。
ボッシュ家の視察は5日間あるから、無事に辿り着いていれば、何食わぬ顔で合流すればいいし、もしそうじゃないなら──)
「ねえハルト」
心配そうなジュリアの声に、彼の思考は中断させられた。
「いくら軍師を目指してるっていっても、あんまり秘密主義は良くないよ。何か考えてることがあるなら──ちゃんと話して。
何でもひとりで抱え込む必要なんてないんだから。仲間でしょ、あたしたち」
「ジュリア──」
日頃からハルトは意識的に微笑を崩さず、意図を読まれないように努めていた。それはゲームを始める前、現実世界からずっとそうなのである。
ハルトは初めてそれを指摘されたことに驚く。
「……で、誰に送ろうとしてるの? ラブレター」
そしてズルっとこけそうになった。それから暫くの間、ジュリアの攻勢を躱すのに苦労することになったのである。
「──おや、あんたたち。遅かったわねえ」
関係者専用の城の出入り口まで来た彼らは、思いがけずグレースの出迎えを受けた。
「グレース。まだ起きてたんだ?」
「いやね……何だかお城の中が騒がしくなったかと思ったら、急に静かになっちゃって。妙な胸騒ぎがしたものだから、表に出てみたんだよ」
「何かあったのかな?」
ジュリアがハルトに聞くが、勿論分かるはずがない。
「あんたたちは朝早く出たから知らなかっただろうけど、実はまだセリムがいるんだよ。でもさっき覗いたら部屋が空っぽで。大公閣下のところだと思うんだけど、さすがにこんな夜中に訪ねるわけにもいかなくてさ」
「何……だって?」
視察に出掛けたはずのセリムと大公がまだ城に居る──それはハルトにとって、完全に想定外だった。
「ルシアは?」
「視察に行っちゃったよ。あの子たち、出発前にまたケンカしちゃってねえ」
(まずい……!)
ハルトは走り出していた。ルシアたちを伴って視察に出掛けること、それこそが彼らの身の安全を保証する前提だったのだ。
目下の敵は外ではなく内にいる。そっちにはまだ何の手も打てていない。つまりそれは、敵に絶好の機会を与えたのと同じこと。
彼の考えが正しければ──。
「戦えるかジュリア」
「え……うん、勿論!」
ついて来たジュリアに、振り返ることもなく彼は訊く。少しの戸惑いを交えながらも、返事は明瞭だった。
「頼む、間に合ってくれ──」
謁見の間──事を起こしやすい場所と言えばそこだ。確証は無かったがハルトは一発で彼らを探しあてた。しかし──。
彼らは絶句する。辺りに充満する血の臭い。積み重なる死体の山。そしてその凄惨さをより強調するかのような、静寂という名の効果音。
「ルーベルク大公──セリムも!」
その中で、彼らは玉座にぐったりとなったまま動かない大公と、その傍らで剣を握り締め、血の海に倒れるセリムを発見したのだった。




