皇帝の面影
謁見の間は豪奢な大聖堂のようだった。
床や柱には大理石が惜しみ無く使われ、壁一面に宗教画が飾られている。城の中央に位置するため窓はなく、昼間にしては薄暗い。しかし周囲に煌々と焚かれた火が、却って広間を幻想的な空間に演出していた。
やはり財政的には豊かな国のようだと、一見しただけでハルトは確信する。
全員でぞろぞろ謁見するわけにもいかず、この場には彼の他にセリムとルシア、マティアス、ソーマの5人だけが顔を揃えた。
一方、ラナリア側は軍務大臣のミュラー、政務大臣のゼルギウスという男が彼らとともに大公を待つ。
ある南方貴族の名を偽名として使ったことが、この待遇になったのかと彼らは考えたが、そうではなく、謁見はただ大公が彼らに興味を持っただけであり、大臣はそれに同席する決まりがあるとのことだった。
(まさかいきなり大公に会うことになるとはね……セリムの正体がバレなきゃいいけど)
土地を追われたある貴族とその従者──それはもともと、必要に応じてセリムたちが使っていた設定だった。敗戦国の貴族が野に下ることなど珍しくないし、一見ちぐはぐな組み合わせの彼らを、最も自然に見せることができると考えてのことである。
それは既に先方にも伝えていたから、今さらセリムを謁見のメンバーから外すわけにもいかなかったのだ。
「いやいや、すまない。待たせてしまったかな」
暫くしてひとりの老人が、奥から従者を伴い現れた。玉座から正面の入り口まで延び、塵ひとつ落ちていない深紅の絨毯の中ほどで、彼らは揃って跪拝する。
付き添いが必要なほど足腰が弱っているようだが、それでもゆっくりと歩を進めると、彼は静かに玉座へと落ち着いた。
「山賊たちから村を救ってくれたとか……このジェラルド、心から礼を申す」
名乗る前にまず遅延を詫び、彼らを労った老人──彼こそがジェラルド・ルーベルク大公である。
白い立派な髭を蓄え、如何にも〈王様〉といった風貌ではあるものの、それはまったく威圧的なところがない。
「身に余るお言葉──恐悦至極に存じます」
一同を代表して、彼らの中央、一歩前に膝を着いていたセリムが恭しく返礼を述べた。
「そう畏まらずともよい。大公などもはや名ばかりの老いぼれ。隠居を待つ身の上じゃからな」
そう言うとジェラルドは声を上げて笑った。自虐ではなく本当に愉快そうな、気持ちのいい笑い声だった。
「確かイレギオン地方の、貴族家の者とか」
「は……マリオス・レイノールと申します。新生帝国の侵攻により祖国を追われ、貴国へと逃れて参りました」
事前に打ち合わせたとおりの設定をセリムは騙った。特に、共通の敵をアピールする為に「新生帝国に追われた」くだりが重要である。
本名のレイアースにたまたま似たその貴族は実在し、新生帝国によって一族が離散したことも事実であったから、調べられてもそう簡単に足はつかないはずだ。
「そうか……奴らに。さぞ苦労したことであろう。だが、そのような身の上でありながら異国民である我が民を守ってくれた──儂はそれに惜しみ無い賛辞を送ろうぞ。
どれ、まずは英雄たちの顔を拝ませてはもらえぬか」
その瞬間、彼らに緊張が走った。
大公と初対面なのはソーマとハルトの2人だけである。大勢の内のひとりとして、遠目に会ったことがあるだけのマティアスはともかく、セリムとルシアは彼と直接対峙したことがある。
もっともセリムはまだ年端もいかぬ幼児期、ルシアも仕官学校に通っていた頃の話で、それから10年以上が経過しているから、見た目で素性がバレる心配はまず無いと彼らは考えていた。
とはいえ、やはり万一ということがある。どこから情報が漏れるか分からない以上、彼らとしては、時が来るまでどうしてもそれを知られるわけにはいかなかった。
セリムは未だ新生帝国から命を狙われる身である。彼の存命とその所在までが知られるとなると、彼らがたちまち危険な立場に晒されることは確実だ。たとえ新生帝国による直接的な攻撃でなくとも、彼の首を持って寝返ろうとする輩が現れないとも限らない。
誰が味方で誰が敵なのか──それをはっきりさせ、且つそれに対して防衛策を張るまでは、セリムがセリムであることは伏せておきたかった。
恐る恐る、遠慮がちに彼らはその面を上げる。
するとふと──ジェラルドの笑みが失せた。そしてみるみる、その目が大きく見開かれていく。
「すまぬが……人払いを」
彼は傍に控えていた近衛兵たちにそれを告げた。しかし彼が振り向くことさえしなかった為に、彼らはそれが自身への命令であることに気付かなかった。
「人払いじゃ」
再度、今度はそちらに向けてやや鋭く彼は命じた。兵たちは慌てて敬礼すると広間を後にする。
だが、同席が決まりだからか、大公の言動を不審に思ったのかは不明だが、2人の大臣は怪訝な面持ちでその場に残った。ジェラルドももうそれには構わず、正面に低く控えるセリムの顔をまじまじと見つめ直す。
(まさか……)
ハルトの心配はすぐに現実のものとなった。少し前屈みになりながら、大公は口を開く。
「セリム──?」
短くもはっきりと、彼はそう言った。
「お主──いや、貴殿はセリム殿ではないか?」
そして玉座から離れると、よろよろした足取りながら、ひとりでセリムの元へ歩み寄る。
そのセリムは唖然とし身動きひとつできない。
「──間違いない。若かりし頃の兄上に瓜二つ。まさか、こんなことが……」
「……大叔父……様」
万一の場合はシラを切り通す手筈だった。しかし大公のあまりに真摯なその姿に、思わずセリムがそう応じてしまった。
ジェラルドが震える手を伸ばすと、彼はもはや嘘はつけぬとばかりに、それを両手でしっかりと握り締める。
「おお、やはり。このジェラルド、今日ほど神に感謝した日は無い」
大公はその目を潤ませ、その奇跡が本物であることを確かめるように、セリムの頬にそっと指で触れた。
それに何かを返そうとするがセリムも言葉にならない。自然にひとつ、ふたつと涙がこぼれ、それがジェラルドの手に伝う。
「それに、そちらにいるのは──もしや、セノールの……」
さらに大公はルシアにも声を掛けた。セリムが認めてしまった以上、もう誤魔化しは利かない。彼女は驚いたように肩を震わせたが、ここは正直に名乗るしかなかった。
「──はっ。ルシア・セノール……近衛師団長、ラインホルトの娘です」
(最悪だ)
ハルトは唇を噛んだ。大公は弱々しい足取りからは想像もできぬほど、優れた記憶力を有していた。
初代皇帝に生き写しらしいセリムはまだしも、立場的にルシアは、公の場で数回挨拶を交わした程度であるはずだ。可能性はあったにせよ、これは完全に誤算の範疇である。
「閣下。いったい──何がどうなっているのです」
堪りかねたように、政務大臣のゼルギウスが割って入った。
口にはしていないものの、彼らが本来単独で会うはずだった軍務大臣のミュラーも、まったく同じ疑問をその表情で語る。
(何て記憶力なんだ、あのじいさん。せめて彼ひとりだったら──)
どう切り抜けるか──ハルトの中でまだその考えが纏まらぬうちに、マティアスが大声を張り上げた。
「恐れながら申し上げます! これはすべて、彼のジルヴェスター・ベルハイム閣下の仰せに従ったこと」
一言でこの状況を説明できるはずなどない──のだが、その名を出した効果は魔法のように絶大だった。
誰もが知る天才軍師の名を口にすることで、聴衆はまず以て耳を傾ける。そして例え理解し難いことが目の前で起こっていようとも、その人物の考えに基づくのならばと、納得する構えが出来上がる。
マティアスは声のトーンを落として続けた。
「……失礼致しました。私の名はマティアス。かつてベルハイム閣下の下にいた者です」
「──あの、元参謀閣下の?」
「御意。あの、忌まわしき反乱の折、皇子と我々は閣下の用意されていた方策によって難を逃れることができました。そこから追手を避けつつ、南部の険しい山々を越え、近頃ようやくこの地に辿り着いたのです。
しかし万一のことが起こった場合でも、その身の安全が確約されるまで、軽々しく素性を明かしてはならぬと……以前閣下が」
語尾の「以前閣下が」は恐らく方便であろう。しかし大公と2人の大臣は、それを聞いてようやく事態を呑み込む。
「そんなことが……いや、しかし……」
理解は出来ても、俄には信じられぬ話。だがそれが真実であったのなら、今、目の前にいるのは大公の上をいく本家の跡取りである。「そうですか」とも「それはおかしい」とも言えず、ミュラーは言葉を濁すしかなかった。
それを察したのか、マティアスがセリムに向かって静かに告げる。
「セリム様、〈魔煌石〉を」
思い出したように、慌ててセリムはそれを懐から取り出した。それこそが大公の記憶や彼らの言い分などとは違う、客観的な証拠──皇族の秘宝である。
それは魔石だった。但し通常、一度の魔法効果で壊れてしまうそれとは違い、何度でもリユースが可能なレアメタル。
魔煌石は、発掘前から何らかの魔力を帯びた天然魔石よりさえ稀少で、且つ皇族が手にする物は、その血族以外では使用することができないように発動条件が組まれている。
セリムはそれを手に静かに祈った。
ぼんやりと光を放ち始める魔煌石。そしてセリムがそれに込める力を強くした瞬間、何も無かったはずの空間に突如として〈鏡〉が出現した。
それは膝あたりの高さに現れ、割れること無く床に落ちる。
大公たちは目を丸くした。それは初めて見るソーマたちも同様だ。
「〈時空魔法〉──!」
それは魔法師団長でもあるミュラーが発した驚愕の言葉。そう、今注目すべきは鏡ではなくその〈現象〉である。
〈時空魔法〉は、最上級と言ってもいいほど難易度の高い魔法であり、例えば何かを別空間に送ったり、反対にそこから呼び寄せたりすることを可能にする。
尤もセリムは魔煌石を操作しただけで、その魔法自体が使えるわけではなく、しかもストックを呼び出すことしかできなかった。
だが、その力を他ならぬ彼がそこから引き出したという事実が、この場合重要なのだ。
「おお……それはまさしく、皇位継承権を持つ男児にしか持つことを許されぬ〈次元石〉」
その存在を知識としてだけでなく、直接目にしたことがあるジェラルドの発言によって、〈マリオス・レイノール〉なる貴族が〈セリム・レイアース〉であることが証明されたのだった。
「このことが公になれば騒ぎになりましょう。そうなれば事がどう転ぶかまだ予測がつかぬ故、時が来るまでどうかご内密に願います」
マティアスはまるで天才軍師を代弁するかのように悠然と言上し、見事にこの予想外の事態を収束させてみせた。
(バレないのが一番──でもバレるなら中途半端に疑われないよう、皇子である証明が必要だった場面。それを実践して、且つ最低限の口止めも果たした。今回はあいつのおかげ……か。悔しいけど)
心の中でハルトは素直にそれを認めた。さぞかし得意気な顔をしているだろうと、それとなくマティアスの様子を窺うと──彼はただ静かに目を閉じているだけだった。




