帝都の陥落(1)
歪に揺らめきながら、めらめらと高く──決して届かぬ天へと手を伸ばすかのように、火焔は立ち上る。
しかし神は遠かった。
その苛立ちは、眼下に展開される理不尽な狂騒へと落とされる。
叶うことのない望みならば、せめてそれを灼き尽くそう。刹那に煌めく光こそが、暗闇に命を与える。
そしてすべてを──女神のもとへ。
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イシュトリアは燃えていた。
制御を失った火焔はもはや誰にも止める術が無く、まるで伝え聞く東洋の竜であるかのように古い街路を這う。
それは狭い路地に殺到した人々の行く手を遮り、瞬く間にそれを呑み込んだ。
慌てて横道へと反れ、難を逃れたひとりの男。彼は自らの幸運を神に感謝し、小さく息を吐くと、すっかり変わってしまった街の様相を嘆く。
一面に広がる赤と黒の混乱。
石や煉瓦による建築が主のこの街である。もともと延焼しにくい上に、風も無い。
だがそれは、治まるどころか拡大の一途を辿り、まるで幼児が気儘に振る軍配に従うかのように、あらゆる秩序を灼いた。
炎だけではない。悲鳴。怒号。建物はガラガラと崩れ、馬蹄が狂ったように石畳を叩く。
音という音が一切の方向性を持たず、不規則に、しかし決して鳴り止むことなく続いている。
男にはそれが「ただの火事ではない」と警告を発する声に聞こえた。
耳を塞ごうとも容易に貫くそれに彼は震え上がり、やがてひとつの想定、いや事実に行き着く。そして愕然とする。
──戦争。
痛みを伴わずにその言葉を思い出すには、6年という歳月は余りにも短過ぎた。
思わずその場に踞まり、脳裏に過ったばかりのそれを否定しようと、男は激しく首を振る。
だが気付いたのは彼だけではなかった。人々はたちまち恐慌に陥り、それは僅かな時間で街中へと広がっていく。
〈帝都〉イシュトリア。古都であり、200年を越える統一戦争に終止符が打たれた後、再び都がおかれた国家の中枢。
このアースガルド大陸において、最も古い歴史を持つ街は今、血に塗れた戦場だった。
男は遠目に、背を向ける者にまで襲いかかる非情な凶刃を見た。その傍らでは、古より伝わる魔の法が弾かれ、火の手から逃れた筈の者たちを炎に包む。
いったい何故。またそれは何者によって。
どれくらいの生命が、そんな疑問符を抱いたまま、あまりに突然の終焉を押し付けられていったことだろう。
そしてどうすれば、重なり合った阿鼻叫喚が奏でる、耳障りな不協和音が聞こえなくなるだろう。
男は教会へ行くことを閃く。そうすればきっと、この凄惨な現実から救われるに違いないと。
信仰の篤いことで知られるこの街の人々は、日々の礼拝を欠かさない。彼もその中のひとりだった。
昨日もそこを訪れ、自分や家族、友人はもとより、すべての人々にとって平穏な暮らしが守られることを祈ったばかり。それに対して神が加護を授けぬはずが無いではないか。
男は体を起こすと、すぐさま駆け出した。もはや目を閉じてさえそこへ辿り着けると言わんばかりに、彼の足は軽快さを取り戻す。
そしてようやく、目指す建物らしきものが見えたとき──その視界が急転した。
「不条理などというのは、人間の都合を言い換えただけの言葉なのですよ」
何処からか流れて来た1本の矢。
「大局的に見れば、それはほんの些細なこと。我々の運命など、世界に揺らぎのひとつも与えはしない」
男の体を、それが貫いていた。
「我らが出来ることは祈ることのみ。あとは神の御心のままに」
彼を狙ったものではない。彼の進路、矢の行方、そして時間軸──たまたまそれらの座標が一致した、ただそれだけのこと。
言葉だけが先行して記憶から呼び起こされた。誰のものかと追考すると──それは向かっていた教会の司祭である。
他にもたくさん聞いたはずだが、それ以外は何故か思い出せなかった。
闇に沈みゆくまでのほんの僅かな間。彼の意識を満たしたのは悲しみではなく、怒り。
──反撃に転じる筈の英雄たちはいったい何をしているのか。
薄れゆく意識の中で、男は無理な体勢から街の中心部を仰ぎ見る。
そこにあるもの。あったはずのもの。この地に住む者ならずとも、長きに渡り人々のアイデンティティーを支え続けた、象徴的な存在──王宮ローゼンハイン。
彼は知らなかったのだ。あろうことか、最初の火の手はそこから上がったのだということを。
およそ千年の昔、その偉業が暦の起点ともなった、偉大なる王の名を冠する建造物。
長い歳月と、それに纏わる幾多の物語によってしか醸し出すことが叶わぬ、かつての威厳。
それはもはや見る影もなく、今、まさに陥落しようとしていた。