【間章】そこに座す者
その男が決して玉座に座らないことを、アーベルはいつも不思議に思っていた。
そこはいつも空席で、謁見を受ける際も彼は必ず立ったままなのである。それも主がいないはずのその席を、傍で護るかのような位置で。
近習たるアーベルは、謁見を終えた彼が退室する際、必ず玉座に一瞥することを知っていた。まるでそこに誰かが座っていて、謁見の一幕について何か言葉を投げ掛けているような、そんな気さえしたのである。
だがそんな目で彼を見ていることなど、決して知られるわけにはいかなかった。アーベルがこの王宮に仕えてはや5年、彼の気性は充分過ぎるくらいに承知している。
彼の発する一言で、大袈裟でも何でもなく、何千、何万という人の命が左右されるのだ。アーベルにとって彼は主君ではなく畏怖そのものであった。
「リザリー南部の砦を攻略したと、早馬が届きました」
「モルトナ王国が遂に降伏に応じたようです。こちらの要求どおり、王妃を人質に差し出すとのこと」
今日も部下たちが忙しく報告を上げている。聞こえてくる内容は、彼の覇業が順調そのものであることを告げるものばかりだ。
20を越える国家が乱立するこのアースガルドで、彼は既にその3分の1を手中に治めている。
充分な武力、国力を持つ抵抗勢力はまだ複数あるものの、それらは互いに争い、手を結ぶことを知らない。彼がこの大陸に覇を唱えるのも、もはや時間の問題と言えた。
しかし彼は〈新生アースガルド帝国〉の最高権力者でありながら未だ皇帝ではない。それは名目上とはいえリーザ皇女であり、彼は摂政の立場である。
もっともその皇女も戴冠を拒否し続けており、正しくはそれは〈皇帝不在の帝国〉なのである。
かといって、それが椅子に座らない理由ではないとアーベルは考えている。
狂黒の乱から10年が過ぎ、大勢も決した今、皇女を次代に立てて脆弱な体制を翻す──〈富国強兵〉などという大義名分に、もはや意味がないことは自明の理であった。リーザの命が他国の懐柔にどれだけ効果があるのかも今となっては疑わしい。彼が堂々と皇帝を名乗ったからと言って今さらデメリットなど無いはずだ。
何より、部下の報告など体裁を必要としない場面でも彼は玉座には座らない。
何故、皇帝を名乗らないのか。何故、その椅子に座らないのか。アーベルにはそれが疑問だった。
しかしこの日──。
長い戦乱の歴史の中ではほんの些末なことだが、それが覆される事件が起きた。
「申し上げます。エルゼ・ドールと申す御方が、閣下にお目通りを願い出ております」
取り次ぎ役の近衛兵が彼の前で膝を着き、申告した。
「エルゼ? ……聞かぬ名だ」
「何でも、あのドール家のご令嬢とか」
ドール家と言えば、〈あの〉で通じる程の貴族の名家である。アーベルも耳にしたことがあった。
「通せ」
「──はっ」
短いやり取りだけでそれは許された。
暫くして、謁見室に足を踏み入れたのは、気品漂うひとりの女性。
「お初にお目にかかります。エルゼと申します。今日は、閣下に父からの伝言を預かって参りました」
彼女は恭しくドレスの裾を持ち上げ、礼を尽くす。その動作には一分の隙もない。
しかし──。
彼にはその声がまったく聞こえていなかった。目の前の優雅な女性を見つめたまま、ただ石のように固まってしまったのである。
「あの……閣下?」
間に堪えきれなくなり、エルゼが恐る恐る呼び掛けた。
「……サラ」
「え?」
そして彼は、一直線にエルゼのもとへ歩みより、両の肩をがっちりと掴む。
「……痛っ」
「サラ! 生きていたのか」
堰を切ったように、喜びの感情を表す彼。毎日その傍らに控えるアーベルでさえ、彼のそんな姿を見るのは初めてのことだった。
──と、その時。
鈍い音と共に、鮮血が飛び散った。
アーベルの位置からは、彼の背中しか見えない。その背中から血が吹き出したのである。
「か……閣下!」
「動かないで!」
慌てて飛び出そうとした、アーベルを始め近習の者たち。それを女性の声が鋭く制した。
「まさか、こんなに上手くいくとは……。亡くした細君のことが忘れられないという話は、本当だったようね」
エルゼがニヤリと口角を上げた。
「謁見に武器のチェックだけなんて……油断し過ぎじゃないかしら? 閣下!」
彼女は彼を突き放した。その両手が白く輝いている。
「ま、魔法?」
アーベルは叫んだ。彼女は魔法士だったのだ。
続けて彼女は新たな魔法を唱える。アーベルたちが駆け寄るより早く、それは幾筋かの光となって、さらに彼の身体を貫いた。
その衝撃で近習たちが方々に散る。
「うわああっ、閣下!」
別室に控えていた近衛兵たちも参じ、そして絶叫した。
「……サラ……?」
呼び掛ける声と共に、彼の口から血が滴り落ちる。
「私はサラじゃないわ。エルゼでもないけど。──皆の仇、取らせてもらうわよ」
そう言った瞬間、彼女の顔が変わった。表情が、ではない。まったく別人のそれになったのだ。
「──〈擬態〉魔法?」
部下たちの驚きは頂点に達した。それは扱える者が少ない上級魔法である。
先の〈溜め〉の短さといい、彼女はかなりの腕を持つ魔法士のようだ。
「〈氷槍・散〉」
再度、彼女はあり得ないスピードで魔法を放つ。今度は氷の刃が四方に飛散し、
「〈集〉」
一斉に彼を突き刺した。
余りの出来事に、アーベルは腰が抜けたように身動きが取れない。アーベル以外の者たちも同様だ。
彼の周りには彼女に抗える程の腕を持つ者は配備されていなかった。それは一重に、彼自身の戦闘力の高さ故である。
だが──それは誤算ではなかった。
身体に刺さった氷が瞬時に溶ける。そして彼の身体から、黒く、禍々しい〈闘気〉が立ち上ってゆく。
「……あの男の差し金か」
ゆっくりと、彼は顔を上げた。
「ジルヴェスターの差し金かと聞いている」
先程までの喜色は完全に消え失せ、彼の眼が憎悪に揺れる。それはもはや狂気と呼べるほどに制御を失い、睨まれただけで死を確信させる程に不吉だった。
「あの天才軍師? ──知らないわよ、会ったこともない」
その迫力に怯えながらも彼女は気丈に答えた。その間にも、彼の〈闘気〉は留まることを知らぬかのようにひたすら増大し続ける。
「ぬうっ」
彼は剣を抜いた。しかしそれを高く翳すだけで微動だにしない。
彼女にとっては絶好のチャンスであるはずだったが、その隙が却って彼女を狼狽させた。
理解を超えた言動、闘気、そして存在そのもの。この日の為に幾度となく繰り返した想定を、それは遥かに上回る。
「どうせ……初めからこの命は捨てている」
感じたことの無い恐怖と戦い、それでも彼女の想いはそれに勝った。魔法の〈溜め〉に入る。
「喰らえ、爆──」
だがそれが彼女の最期の言葉となった。
彼が眼を見開いた瞬間、黒い〈闘気〉が彼女を呑み込み、一瞬で跡形もなく消してしまったのだ。
「サラ……」
そしてそれは、収まるどころかさらに拡大し、大蛇のようなうねりとなって、周りにいた近習や近衛兵たちをも呑み込み始めた。
「うわあっ」
「ひいい」
逃げ惑う彼らを黒い大蛇は容赦なく捕らえていく。
通りすぎた跡に塵ひとつ残さず、轟音とともに部屋中を暴れ回り──そして遂に、アーベルの眼前までそれは迫った。
結局どこの誰だったのかさえ分からぬ女魔法士。彼女が触れた逆鱗。それによって、アーベルの短過ぎる生涯が終わろうとしている。
視界が黒く塗り潰される寸前、アーベルは確かに見た。大蛇が誰かを呑み込む度に彼の傷が回復していく。
まるで彼らの命を吸い取るかのように。──彼らの命など、初めからこの為だけにしか存在し得なかったかのように。
彼の視界から、すべての命が消えた。
唯一神であるかの如く、彼はひとり、部屋の真ん中に残された。そして剣を収めると、何事も無かったかのように歩を進める。
「何もかも、もう……戻らぬ」
彼──ルーファウス・シュトラーは、ゆっくりと玉座にその身を沈めた。