ぼくは、りかいした。
そうだ
よく考えれば それは
とても
とても、簡単なことだったんだ
+++
<氷王>様の館から飛び出して、湖の畔を駆け抜けて、森へ入って。
それでもひたすらに走って、どうにか辿り着いたのは見晴らしの良い丘の上だった。
肩で息をする俺の頬を、優しく吹き抜けた風が撫でる。
俺は、なだらかなその丘の斜面に座り込んだ。
丈の短い草達が、風に擽られて音を立てている。
膝を抱えた俺の前にあるのは、なだらかな斜面とそこから続く広い森、そしてその上を陣取る青い空だ。
降り注ぐ日の光は暖かくて、俺はゆっくりと目を閉じた。
丘を走り抜ける風は、俺の髪を柔らかに揺らしていく。
異母弟の怪我を治してもらいに行ったヒョウガキ様の館で、ヒョウガキ様の子供に名を問われたのは、ほんの少し前のこと。
名前を聞かれたのは久しぶりだった。
俺は親父と似た顔つきをしていて、嬉しくないことに成長するごとにその傾向は強まっているらしい。
そして親父は『四大精霊』と呼ばれる四人の<王>の中の一人で、だから誰もが親父の顔を知っている。
どこを歩いたって誰と会ったって、『カルライ様の』息子だと、『<炎王>様の』子供だと、みんなが認識するのだ。
呼び名は大体が親父の名前を先に置いた『子息』や『息子』だったし、それ以外にしたって、<炎王>をいずれ継ぐと決められた俺に与えられるのは『次代』という呼び名くらいだった。
誰も、俺に名前を聞くことはない。
だから、俺はずっと前から、名乗るという行為を忘れていた。
膝を抱えた手に、力を込める。
だって、恐かった。
例えば、名乗って。
なのに、その名前を呼んでくれなかったらと、思ったら。
いつの間にか、そんなことが恐くなっていた。
ヒョウセツは、名乗っていた。
なのに俺は、せっかく名前を聞いてくれたあの子から逃げ出したのだ。
恐くて恐くて、仕方なかった
「……っ」
息を詰めて、それからゆっくりと吐く。
それに合わせるように、がさりと後ろから声がした。
振り返ると、そこには俺とそう年の変わらない子供が立っていた。
その手にはスケッチブックを持っていて、きっとそれが風に煽られて先程の音を立てたのだろう、と思う。
その子供には、見覚えがあった。
黒い髪黒い瞳、その顔の左半分を隠す白い包帯。
『チノ』だった。
チノは、丘の上に先客がいることに驚いたのか、目を丸くしたままそこに立ち竦んでいた。
「あの……」
そっと、声を掛ける。
すると、幼いその子は弾かれたように後退った。
妙だと思って体の向きを変えると、その距離は更に開いた。
何かに怯えた、夜色の瞳が見える。
『あの子は、分相応をわきまえているからね』
ふと、ウテン様の言葉を思い出した。
忌まわしいと称される子供。
一体何人が、この小さな存在に汚い言葉を吐き掛けたのだろう。
それはきっと、目には見えない部分をずたずたにするのだろうと、そう思って眉を寄せた。
「……こんにちは……えっと……チノ、さん?」
でもきっと、俺よりはマシだ。
「ここ、気持ちの良い場所ですね」
俺は微笑みを浮かべ、チノを手招いた。
「良かったら、こっちで一緒に座りませんか?」
チノはかなり迷い、俺の誘いを断れずにおずおずと頷いて、ゆっくりとこちらへやって来た。
その顔には戸惑いが浮かんでいる。
あまり、こんな風に声を掛けられたりしないのかも知れない。
じりじりと動いたチノがどうにか腰を下ろしたのは、俺から少し離れた位置だった。
間に横たわる距離は、大人が三人並んで座れるくらい。
きっとチノの譲歩だろうそれを縮めることはせずに、その距離越しに、俺はチノを眺める。
チノは、かち合った視線の先で困ったように目を伏せて、それから慌ててスケッチブックを開いた。
膝を立ててそこに立て掛け、小さなその指がクレヨンを取り出す。青いクレヨンだ。
そして、それでスケッチブックに何かを描き始める。
写生に来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。
チノの濡れた烏羽色の瞳は、白い紙面しか見ていない。
チノはクレヨンを変えなかった。
その手は何かを描いていたけれど、その動きを見ても、何を描いているのか分からなかった。
手以外を動かさないチノから視線を外し、俺は草の上に横たわる。
その分チノに近付いてしまって、チノがびくりと反応したのを気配で感じた。
クレヨンが紙を擦る音が止まって、数拍経ち、そしてまた聞こえ出す。
チノが握っているのは、青い青いクレヨン。
それと同じ色の空が、俺の目の前に広がっていた。
そこは広い。
そして、深い。
明るすぎるそれに目を眇めて、そして寝返りを打つ。
草の潰れた青い匂いがして、けれどそれらはすぐに、風にさらわれて消えた。
横倒しになった視界では、チノが絵を描いている。
「チノ……さん」
そっと呼び掛けると、その手が止まった。
戸惑いばかりを満たしたその右目が、スケッチブックの向こうから、こちらを窺った。
「チノ、さん」
忌まわしいと蔑まれた子供。
でも、チノは『母親』を持っている。
それは、とても羨ましいことだった。
転がったまま、こちらを見ているチノへと、手を伸ばしてみる。
すると、チノは座ったまま、少し退いた。
決して触れられたくないと、その瞳には怯えを湛えている。
その様子に更に手を伸ばすことは阻まれて、俺は手を下ろして体を起こした。
すると、先程動いた分だけ、チノが体を戻す。
「チノさん」
声を掛ける。
チノは答えない。
そういえば、一度もチノの声を聞いたことが無いと、ふと気付いた。
もしかしたら、声が出せないのだろうか。
「……しゃべれないんですか?」
率直に訊ねた。
それに僅かに目を丸くしたチノが、首を横に振って否定する。
そして、その白い手がスケッチブックを捲り、チノはクレヨンを黒に変えた。
その手が、新たに開いた紙面に何かを書き、そしてこちらへとそれを向ける。
そこには、文字が書かれていた。
『話してはいけないから』
声の代わりのそれは、とても丁寧な書体だった。
俺は、首を傾げる。
「どうして?」
俺の言葉に、俺と同じようにチノが首を傾ける。
そして、その手がまた字を書いて、再び紙面がこちらへ向けられた。
『だって、イヤでしょう』
「何が?」
『僕は忌み子だから』
感情が無いというよりも、無垢な、まっさらな目で、チノは俺を見た。
文字が言葉を続ける。
『石も無い』
ああ、そういえば、チノの額には魔法石が無い。
精霊なら必ずある筈のそれが無い。
それが忌まわしいと言われる所以だと、母さん達は言っていた。
『力も無い』
俺が炎を生じるように、ヒョウセツが氷を生み出すように、当たり前に精霊が出来ることが、チノには出来ないということだろうか。
『種族も無い』
そう言えば、『忌み子』は親無し子だと聞いたことがある。
そうして<地王>ウテン様が拾ったのだとか、教えられた覚えがある。
『呪われた子供だから』
当然のことだと言うように、チノはそれを綴った。
『気味が悪いでしょう』
淡々と、そう書いた。
確かに、一部の大人達がそう言っているのを、俺は知っている。
親父がそう言わないから親父に遠慮して口をつぐんでいるだけで、実はそれは『一部』では無いのかも知れない。
触れられたら呪われるだとか、声を聞いたら腐るだとか。
そんな馬鹿らしい噂は俺も聞いたけれど、あんまりに馬鹿らしくていつも聞き流していた。
俺や親父は炎の精霊だ。
この世界を脅かすものへ攻撃を仕掛ける存在だ。
もしも、『忌み子』というのが本当にそんな存在だったとしたら、俺達に確実に始末されている。
だから、ただの馬鹿馬鹿しい噂なのだ。
それでも、僅かな嫌悪と凶暴な嗜虐心が、チノを虐げているのだろうと、俺はそう認識している。
沈黙する俺の前で、チノはゆっくりと俺へ向けた字を眺め直し、何故か改めて書き直す。
その指の動きを、じっと見つめた。
ああ。
ああ、そうだ。
チノは虐げられ続けた。
その度に、ただひたすら、傷付けられた。
だから、なのだ。
沈黙したままの俺の方へと、書き終わったチノが、紙面を向ける。
『気持ち悪いでしょう』
だからチノは、諦めたのだ。
どれだけ傷付けられようとも、『忌み子』なのだから仕方ない、と。
「……っ」
意味も無く泣きそうになって、息を詰める。
沸き上がったのは同情とか、哀れみとか、そんなのじゃない。
俺の顔を見たチノが、戸惑っているのが分かった。
『どうしたの』
黒いクレヨンが、気遣いを示す。
何が『どうしたの』だ。
思い出すのは、ウテン様の顔だった。
穏やかで優しい笑みを浮かべたあの人だ。
何故、チノはこんな無意味な絶望に浸ってるんだろうか。
あんなにも穏やかで優しい、母親からの心を、愛情を与えられている癖に。
浴びてなお余るほどに、飲んでなお溢れるほどに、俺が乾き求めている物を得ている癖に。
なのに。
なのに、どうして。
「……んで……!」
震える声を絞り出す。
「……何で……!!」
哀れみでも同情でもない、沸き上がるこの感覚は、憤りだった。
「何で!!」
言葉以上に溢れた心が、雫となって頬から伝い落ちる。
熱を持ったそれは痛いばかりの怒りに満ちて、草を掴む手の甲へ降り注ぐ。
責めるように、俺はチノを睨んだ。
チノは、何も言わない。
ただ、スケッチブックとクレヨンを傍へ置いて、少し俯いて。
それでも、逃げることなくそこに座っていた。
やがて俺が顔を伏せても、少し身動いだ気配はあっても逃げ出す様子すら無い。
嗚咽が漏れて、声の代わりに吐いた息が掠れる。
顔が、熱い。
突然噴き出て止まらない憤りが、ぐるぐると頭の中を回っている。
それを声にせずに吐き出す為に、嗚咽に阻害されながら、どうにか長く息を吐いた。
少しばかり時間を掛けてそうしていると、やがて、激しく渦巻いた感情がゆるゆると鎮火していく。
目から流れていた涙が止まったのに気付いて、もう大丈夫だろうと鼻を啜り、目を擦りながら顔を上げた。
「……!」
そして目の前に座っていたのは、とても小さな子供のように、膝を抱えたチノだった。
顔を僅かに顰めて、強く目を閉じて、まるで泣きたいと言いたげに寄った眉の下で、それでも睫毛は乾いていた。
俺の動きに気が付いて、チノがこちらを見る。
俺をじっと見る黒い瞳はやはり乾いていて、ただ俺の顔を反射した。
痛々しい程に無垢な視線は、まるで虐げられた子供のようだ、と思った。
ただ相手の一挙一動を見つめて、見守って、怯えて。
大人から口々に罵詈雑言を投げられる時のチノはきっとこんな風なんだろう。
でも、ここにはチノと、俺しかいない。
なら、俺が虐めたのだろうか。
思って、考えて、血の気が引く。
その通りじゃないか。
自分が勝手に感じた憤りを、俺はチノへとただぶつけたのだ。
そんなのは、ただの八つ当たりだ。
「……あ……」
『次代』だなんて呼ばれて、期待されて、捕まって。
その束縛だってけっして憎悪からきたものではなかったけれど、とてつもなく重たい。
そうだ。
与えられる物の全てが、受け止められるものじゃない。
それが、例えば、チノにとっては、ウテン様からの『愛情』だったとしたらどうだろうか。
これは仮定だ。
けれど、忌み子とまで呼ばれ続けたチノは、きっと<地王>様に引き取られるまでは、あの笑顔とは無縁の生活だったはずだ。
なら、例えば自分が今まで受け取って来なかったものを突然与えられたとして、それをどうして簡単に受け取れるだろう。
疑心暗鬼になるんじゃないだろうか。
受け入れてしまっても、すぐに取り上げるんじゃないかと。
ただひたすらに与えられるのはつらいし、重い。
そう、重いのだ。受け取れない程に。
俺はよく、それを知っているはずなのに。
「…………っ」
強く、唇を噛んだ。
気持ちを押しつけたのは、俺も同じだ。
恵まれている癖に、と思った。
優しい母親の愛情を得ている癖に、と思った。
羨ましかった。
なのに、チノは自分を『忌み子』なのだと言う。肯定する。否定することすら、諦める。
それに怒ったのは、俺。
だけどそれは、勝手な感情の押し付けだ。
チノには、責められる謂われもないことだ。
自分が目の前の相手をひどく傷付けてしまったのではないかと、そう思ったら目尻に僅かに残っていた涙すら引っ込んだ。
「……チ、チノ、さん」
そっと呼びかけながら、少しだけ近寄る。
チノは動かない。
先程は、少しでも近付いたらすぐに退いていたのに。
更に近付いて、普通の友人が並んで座る程度の場所まで寄って、もう一度名前を呼ぶ。
「チノさん」
チノはただ、俺を見つめている。
その無垢な視線に、ふと、思い付いた。
どうだろう。駄目だろうか。
駄目で元々なのかも知れないけれど。
でも、出来れば、どうか。
小さく深呼吸をして、願いながら口を開く。
「……僕……俺、カエンって言います」
どうか。
そうして、チノは、望みを叶えてくれた。
+++
「何処行ってたんだよ、カエン」
夕方。
家にたどり着くなり、大きな作りの館の門前で、待っていたらしい異母弟が声を掛けてきた。
何の用かと思ったら、緋色のマントを押し付けられる。朝、俺が着ていった奴だ。ヒョウガキ様の館に忘れていたらしい。
「怒られたらどうするんだよ」
まったく、と溜息を吐くその様子を、俺はじっと眺めた。
黒い髪をして青い目を持つ、俺と同じ顔の弟。
マントは腕に掛けたままで手を伸ばして、同じ高さにある顔の頬を抓み、口角を引き上げてみた。
「!? 何すんらよ!?」
「笑ってみろ」
「は!?」
ヒョウセツにとっては意味不明なんだろう、俺の言葉に、目の前の顔は怪訝そうに歪んだ。
手を振り払われて、警戒の目が向けられる。
でも、それで怯むような心は、今の俺には無い。
腕を伸ばして、同じ大きさの体をぎゅっと抱き締める。
「………苦しい苦しい苦しい苦しい!!」
無理矢理肺から息を吐き出させられたヒョウセツが慌てて暴れて、すぐに引き剥がされた。
少し息を荒げたヒョウセツは、すごく気味悪そうに俺を見ている。
「……お前、カエンか? 魔物とかが化けてるんじゃないだろうな」
そこまで言うことだろうか。
心外だと口を尖らせてから、大きく手を広げる。
腕に掛けていた布が落ちたけれど、気にするものか。
「笑ってろ、ヒョウセツ。俺、今凄く色々振りまきたい気分なんだ」
「何それ病気?」
「…………」
本当に、俺の弟は酷い。
首を振って、ヒョウセツを指差した。
「とにかく、笑え。笑ってろ」
俺の命令口調に、ヒョウセツはますます変な顔になる。
その顔をもう一度抓んで、無理矢理笑わせた。
「笑っててくれれば良いんだよ」
とりあえずは、その笑顔で満足しておいてやる。
言い置いて、俺はヒョウセツの横をすり抜けた。
走り出して、目指すのはあの館の一番奥だ。
「……何だ、あいつ」
呆然とマントを拾いながらヒョウセツが呟くのも、俺には聞こえなかった。
頭は、他のことで一杯だった。
早く早くと気が急く中で、一生懸命に走り続ける。
廊下を駆け抜けて、目の前に大きな扉が現れて、ようやく足を止める。
扉の前で荒い息を整えて、それから扉を軽く叩いた。
返事は無い。
だから、そっと開いた。
薄暗いそこは、母さんの部屋だ。
親父は入っちゃいけないことになっている、母さんだけの部屋。
母さんは、その中央にあるベッドの上で眠っていた。
よほど眠りが深いのか、近付いても起きない。
ベッドのそばに立って、その寝顔をじっと見下ろす。
土色の、滑らかに波打つ長い髪。少し浅黒い、柔らかそうできめ細かな肌。長い睫毛。ぷっくりと膨らんだ唇。紫色の瞳は、今は見えない。
艶やかに綺麗なその人は、やっぱり、『母親』というよりも、『女の人』だった。
それでも、俺とっては『母親』だった。
「……母さん」
手を伸ばして、そっと抱き付く。
まだまだ小さい俺の体はそんなに重くも無いのか、母さんは身動きもしない。
この人が、いつだって俺を殴ってたわけじゃない。罵ってたわけじゃない。
ずっと、見ていたんだ。
気紛れにでも与えてくれるものを何一つ取り零さないように、ずっとずっと、見ていたんだ。
「母さん」
綺麗に艶やかに軽やかに柔らかく、笑う人。
「……笑ってて」
親父にしかほとんど向けてはいなかったけれど。
幸せそうなその笑顔が、大好きなんだ。
いつでも笑っていて欲しかった。
俺が我慢すれば、笑ってくれるだろうかと、そう思った。
例えば俺には向けられなくても。
どうか、と、願っていた。
いつも、いつも。
「笑ってて……」
願うのは、簡単に果たせそうな、こと。
それ故に難しいこと。
幸せに、笑っていて欲しい。
貴方が幸せだと俺は嬉しい、なんて、きっと親父だって母さんに囁いたことないだろう。
「……ん……」
不意に、母さんが動く。
驚いて俺が退くより早く、母さんの腕は俺を捕まえた。
慌てて窺ったけれど、起きた様子は無い。
きっと、寝惚けて、親父と間違えてるんだ。
だったら抵抗するのも変だろうと体の力を抜いて、腕に身を預ける。
親父なら、多分そうするんだろうから。
力が緩んだら抜け出そうと、そう思いながら抱き締められる。
そっと、掠れた母さんの声が寝言を紡いだ。
「…………カエン………」
小さな声に、目を見開く。
本当に小さく、でも、確かに母さんが、呼んだ。
それは紛れもなく、俺の名前だった。
驚きのあとに、どうしようもない嬉しさが湧き上がってきて、小さく息をつめる。
「……っ」
こんなことで泣くなんて馬鹿みたいだと思ったけれど、涙は止まらなかった。
+++
「……僕……俺、カエンって言います」
そっと名乗った俺に、チノはスケッチブックと黒いクレヨンを手にして答えた。
『キレイ。炎の名前だね』
優しい文字が、俺を見つめるように白い紙の上に並んでいた。
きっと、チノ自身すら気付いていないだろう。
その顔には、とても小さな笑みがあった。
チノは、はっきりと、俺を見てくれた。
ヒョウセツ以外で、親父の名前すら出さずに『俺』を見てくれた、初めての一人だった。
嬉しかった。
嬉しかったんだ。
とても、嬉しかったんだ。
+++
そうだ
よく考えれば それは
とても
とても、簡単なことだったんだ
どうして こわいのか
どうして かなしいのか
どうして いやなのか
認めてしまえば それは
とても 簡単で 単純なことだったんだ
俺は この人が あの人が あいつが あの子が
みんなが
とても
とても
大好きだったのだ
どうしようもなく
だから、『俺』を見て欲しかった
END