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忘却の唇




 それは、いつの間にか


 俺から、奪われていた









+++



 ついに、一ヶ月が終る。

 俺は、卓上にある暦を見ながら指折り数え、それを幾度か繰り返してから溜息を吐いた。

 俺がいるのは、俺の父親の住居である方の館にある、『息子』の部屋。

 俺が別宅にある部屋からここへ移って、もうすぐ一ヶ月が経つ。

 母さんが親父を独占する期間が、また終る。

 それは、俺に訪れる心臓に悪い一ヶ月が始まるのだということを示している。

 爪と指と掌と拳と言葉と。

 俺と俺の異母兄弟は、実の母親から放たれるそれを代わる代わる受け止めているのだ。


「……さて、と」


 息を吐き出して、俺は立ち上がった。

 一ヶ月が終るならば、やらなくてはならない事が一つある。

 これは俺と異母弟に共通することで、片方のそれにもう片方が付き添うのがいつもの事だった。

 使い女が用意していた、彼女の見立てたマントを羽織って、俺は足を動かす。緋色の軽い布が、ふわりと揺れた。

 そしてそのまま、別宅へと向かう。

 この間と同じように庭の垣根から別宅の裏庭へと侵入して、拾い上げた小石を狙いの窓へと投げる。

 すると窓が開いて縄梯子が垂らされ、そこからヒョウセツが降りてきた。

 着地に少しよろけたのを、肩を貸して支える。


「大丈夫か?」


 そう言って覗き込んだ顔は白く、結構な状態になっていた。

 目元が青黒く鬱血して、唇も腫れ、その端には赤いものがこびり付いている。血だ。


「生きてるから、平気だ」


 そんな事を言って、ヒョウセツは笑った。

 大丈夫、と続く言葉に、そうか、と頷いて、歩き出したヒョウセツに合わせて足を運ぶ。

 母さん達が振るうのは自分達の手と言葉ばかりで、俺達はまだ一度も、その力を使われたことがない。

 いくらなんでも、それでは死んでしまうからかも知れないからだ。

 俺達が死んだら親父に嫌われてしまうからとか、そんな事を考えているんだろう。


「……さっさと、ヒョウガキ様の所へ行くぞ」


 俺は囁く。

 今日、俺達は<氷王>様のところに行かなくてはならない。

 治療を得意とする水一族の中で、最も力の強いあの方の所へ行かなくてはならない。

 一ヶ月まともな治療をしていない身体の、あちらこちらに刻まれたもの達を消してもらうためだ。

 もしも万が一親父に見られたら、もしかしたら母さん達が責められるかも知れないから。


「風の精霊、呼ぶか」


 館の敷地を抜けてから、俺はヒョウセツに尋ねた。

 歩き方がおかしい。捻っているようだ。


「別にいらねぇ」


 呟いて顔を逸らしたヒョウセツは、けれどすぐにうめいて立ち止まった。

 右足を庇っている様子にゆっくりと息を吐き、俺は緋色のマントを外した。

 そして、少し乱暴にヒョウセツを座らせて、その頭からマントを被せる。

 行きずりの相手に、顔の傷まで見せる必要は無い。


「おい?」


「いいから、顔隠せ。何も反論すんじゃない」


 もがく異母弟へと言い置いて、辺りを見回した。

 精霊達はみんな、それぞれこの世界で役割を果たして生きている。

 水の精霊達なら傷を癒すし、土族の人々は食べ物や植物を育む。それに近い系統の人々は、それに近い事を。

 そして、風の一族が担う仕事の端には、移動の項目があった。

 広いこの世界で、他人や物を風に乗せて運んでくれるのだ。

 呼べば、近くを通りかかっていた風一族の誰かがやって来てくれる。

 俺は、手頃な大きさの石を拾い上げた。

 平たくて、掌より少し余る。左手の人差し指にだけ炎を灯し、それを押しつけて焦げ跡で印を刻む。

 風の意味を持つそれを焼き終えてから、もと在ったあたりへとぽんと投げ落とした。

 こうすれば、すぐに風一族の誰かが来てくれるだろう。

 振り返ると、ヒョウセツは素直にマントを被り、右足を押さえていた。


「足、痛いか?」


「……当たり前だろ」


「だよな。……他は?」


「顔。と、背中」


 それから肩かなと、返された呟きに眉を寄せる。

 ヒョウセツの母親は氷の精霊だ。黒くて艶やかな長い髪の、綺麗な人だった。肌の色も白く、清楚な雰囲気を持っていた。

 俺の母親とは違う物静かなあの瞳が、そこまで激情を浮かべるのが不思議だ。

 大体、どうして親父がああも好かれるのか、それも全く分からない。

 やれやれと軽く首を振った時、不意に、そよぐ風と共に声が落ちた。


「やあ、おはよう」


 低い、男の人の物だ。

 仰ぐと、そこには大柄な男の人が浮いていた。

 風の精霊だ。

 俺は、目を丸くした。


「……セイクウ様」


 <風王>セイクウ。

 風一族の長であり、<王>である、親父の親友の一人。

 その人が、何故かそこにいた。

 おかしいじゃないか、人や物を運ぶのが風一族の仕事だと言っても、それをするのは下っ端の役目のはずだ。

 俺の視線にその疑問が含まれたのか、セイクウ様は微笑んで口を開いた。


「ちょっと、この子の散歩ついでにね」


 セイクウ様の手が動き、そこに抱いていた小さな子供を見せる。

 その子はきょとんと目を丸くして、俺を見下ろした。


「……ご子息ですか?」


「そう。フウキっていうんだ」


 何処か嬉しそうに笑って、セイクウ様はその子を俺へと差し出した。

 そっと手を伸ばし、抱かせてもらう。

 若葉色のふわふわした髪の毛に、大きな深緑色の瞳と、突付きたくなる白い頬。

 まだ歯も揃っているか怪しいその子は、知らない奴である俺に抱かれていても泣きもせずにこちらを見ていた。

 手に伝わる温もりに、そっと微笑む。

 それに気付いて、小さな子供も笑った。


「……可愛いですね」


「ありがとう」


 差し出して返すと、セイクウ様は宝物を抱くようにそっと、フウキという名前らしいその子を腕の中へと抱き込んだ。

 優しい仕草が眩しくて、少しだけ眼を眇める。

 純粋に、羨ましい。


「さて、呼んだのは君だね? カルライの息子」


 青い空と同じ色の瞳が、俺を映した。

 その言葉が少しばかり俺の心を抉ったということなど、この方は絶対に気付かない。


「……はい。僕と、そっちの子を、ヒョウガキ様のところまで」


 セイクウ様は、ちらりと緋色のマントに顔を隠したヒョウセツを見たけれど、詮索などはせずに、ただ、分かったよと笑った。




+++




「どんな喧嘩をしたんだ、お前は」


 ヒョウガキ様が、ヒョウセツの顔を見て眉を寄せた。

 ここは、<水王>様の館の一室。

 ヒョウセツの怪我は全て『知り合いとの喧嘩』によるものという事にして、俺とヒョウセツはヒョウガキ様の前にいる。


「だって、一対多数だったんですよ?」


 ヒョウセツが作り話を呟いて、触れてくる指に顔を顰める。

 ヒョウガキ様は鼻を鳴らして笑い、服を脱げと命じた。

 応じたヒョウセツが、上着を少しばかり苦労しながら脱ぐ。


「……で、返り討ちにはしたんだろうな?」


「一応は。でも、あんまり怪我させられませんでした」


「それで良い。喧嘩は先に脅かしてやった方の勝ちだ」


 そんな会話を交わす二人の声を聞きながら、俺はヒョウセツの背中を見つめた。

 引きつれた火傷の跡が残る、小さな背中だ。

 背中一面にあるそれを、ヒョウセツへと刻んだのは、俺だった。

 本当はヒョウセツの身体のほぼ全てを覆っていたそれが、ここまで治っているのはヒョウガキ様のおかげだ。

 ヒョウガキ様の治癒の力でも、コレ以上にはならなかった。

 精霊は、相応しい役割を持っている。

 水の精霊は治癒を施し、土の精霊は作物を育て、風の精霊は風を運ぶ。

 そして、炎の一族の役割は戦いだった。

 争いを抑えたり、争いに勝利をもたらしたりする。

 精霊の世界であろうと諍いはあるし、時折現れる魔物もいる。それらを止め、勝たせ、倒し、精霊達を守る。

 だから、そのためには強くならなくてはならなかった。

 長になるなら、尚更だ。

 思い出すのは、黄金色の腕輪。

 力を暴いて引き摺り出し、放たせる為の道具だったそれを、俺とヒョウセツは腕へ填められたことがある。

 どちらが強いのかを競わせるために戦わされたあの日、俺は『次代』と呼ばれるようになり、ヒョウセツはその身体を焼き爛らせた。

 加減など、一切出来なかった。

 恐ろしい程の消耗で息を切らせて、でも抑える事の出来ない力が異母弟を焼いた。

 殺してしまうかと思った。

 失うのかと、思った。


「……おい、カエン」


 眺めていた背中が、ふと呼び掛けてくる。

 そして傷だらけの顔がこちらを向いた。


「部屋出てろよ、恥ずかしい奴め」


 熱視線を送ってくるんじゃないと続けられ、舌を出してやる。

 それからヒョウガキ様に頭を下げて、大きなその部屋から出た。

 出たそこは、左右へ続く長い廊下だった。

 とても静かで、綺麗な輝きに満ちている。

 扉をきちんと閉じて、ゆっくりと壁に寄りかかった。

 俺の名を呼ぶ唯一の存在が治療を受けている部屋を、じっと見詰める。

 あいつの治療が終ったら、さっさと帰ろう。歩きも良いかも知れない。飛んだ空は良い天気だったから。

 つらつらとそんな事を考えていたら、静寂の中に靴音が響いてきた。

 見やると、俺の左方を、人が歩いていた。

 長い髪と、魚のヒレみたいな耳。細い肢体の小さな子供だ。水の精霊だろう。

 男の子だろうか、女の子だろうか。

 その子は、目元を白い包帯で覆い、壁に手を付けて歩いていた。両目を怪我したらしい。

 何となく見つめていた視界の中で、その子が転ぶ。しかも頭からだ。

 痛そうな音がして、慌ててその子へと駆け寄った。


「大丈夫?」


 手を貸して助け起こすと、その子は申し訳なさそうに笑った。


「あ、ありがとうございます」


「ああ……」


 目の見えていないその子を、とりあえずは床に座らせる。ぶつけたんだろう、額が赤い。


「痛くないですか?」


 言って赤い額を撫でた。白い肌に、この赤は痛々しい。


「ええ、大丈夫」


 その子は、俺の手をそっと掴んだ。その指の間には水掻きがある。

 そう言えばヒョウガキ様の手にもあったなと、それを見て思い出した。


「あの、中に父はいましたか?」


 その子はそう尋ねた。


「えっと……?」


「あ、その、あと13歩くらい先にあると思うんですけど。そこの部屋に、父はいました?」


 言われて振り向く。

 見えるのは、ヒョウセツのいる部屋の扉だけだ。

 そして、そこにはもう一人、館の主がいる。


「……もしかして、ヒョウガキ様のことですか」


「あ、はい。……えっと……」


 俺の問いに頷いて、そしてその子は少し戸惑って首を傾げた。


「あの……もしかして、お客様ですか?」


「はあ……まあ」


 気付いていなかったのかと思ったところで、その白い包帯が目に付く。

 見えなければ気付きようがない。


「すみません、私、あの」


「いや、大丈夫ですよ。ヒョウガキ様ならそこの部屋にいらっしゃいます」


 自分の目を示そうとするのをやんわり止めて、ゆっくりと立ち上がらせた。

 少しおぼつかない足取りの子供を誘導し、扉の方へと向かう。


「今、僕の弟が治療を受けてるんです。急ぎのご用事なんでしょうか?」


「いえ、それなら待ってからで大丈夫です」


 会いに来ただけだからと、子供は言って微笑む。

 穏やかな瞳があればとても愛らしいだろうその笑みの中で、目元を覆った包帯の白が眼に痛い。


「あの……私、<氷王>第二子の、ヨウスイです」


 少し黙ってから、彼女がそう自己紹介をした。多分、沈黙が怖いんだろう。

 もしかしたら、その視界が閉ざされているからなのかもしれない。


「第二子ですか。上にもお一人いらっしゃるんですね」


「はい、兄が」


「そうなんですか……」


 それはきっと、ヒョウガキ様に似た子供に違いない。

 俺は微笑んだままヨウスイの顔を見詰めていた。

 ヨウスイが、見えない目をさ迷わせるようにして俺を見る。


「それで、貴方は?」


「え?」


「貴方の、お名前は?」


 問われて、ヒュッと変な音がそれにかぶさった。

 それは俺の喉から発された音で、俺が目を丸くする程のその音は、けれどヨウスイには届かなかったようだった。

 呼吸が、し辛い。

 苦しくて、そっと己の胸元を掴む。

 名前。

 そうだ、俺の名前を訊ねられたのだ。


「俺、は……」


 口の中が乾く。

 何だ? どうしてだ。

 こんな事が、どうしてこんなにも。


「終ったぞー」


 黙りこんだ俺とヨウスイの間に割り込むように声を掛けて、ヒョウセツが扉を開いた。

 それに気付いて、ヨウスイがその見えない視線を外す。


「あれ? この子、誰?」


 緋色のマントを手にしたまま、こちらへとやって来ながら、ヒョウセツがヨウスイの顔を覗き込む。

 その気配に、ヨウスイが微笑を浮かべた。


「ヨウスイです。貴方は?」


「俺? ヒョウセツ」


 あっさりと名乗る、その声が、とても近くで響く。

 それにとてつもない衝撃を感じて、俺はその場から走り出した。


「あ、おい、カエン?!」


 追いかけて来る声にも、振り返ることが出来ない。

 名前。

 俺の名前。

 それを唇から放つ事が、どうしてこんなにも恐ろしいのだろうか。

 それすら分からないまま、俺は逃げ出していた。




+++






 それは、何時の間にか

 俺から奪われていた

 


 口から放つのも躊躇われる程に


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