ある少女の飼育法
靴を履いているのに石畳の床は冷たさを反射させている。壁も石でできており、冷たい空気を作り出している。それに反して大人たちの視線は熱を帯びていた。固定された木製のベンチが四つほどあり客はみなそこに腰掛けている。蝋燭の明かりしかないためお互いの顔を窺い知れない。
主人が売り物をつれ部屋に入ってきた。売り物は手錠をつけられており、鎖でそれぞれの手錠が繋がっていた。まだ幼い子供も混じっていた。売り物はみな衣服を身に着けていない。それが売り物とぼくらの唯一の違いだろうか。
売り物のなかにとても美しい少女がいた。少女の白い肌は蝋燭の灯りを妖艶に反射していた。ぼくはしばらく彼女の綺麗な肌を見ていた。すると、なんだか頭の奥のほうが暖かくなっていた。
主人が売り物を叩き、客が声を上げる。次々と売り物は飼い主を得てゆく。ついに少女の飼い主を決める番になった。主人が少女の髪をわしづかみにし、客に問う。少女の短い悲鳴のような声が聞こえた。
ぼくはなんとなく父が少女を買うのではないかと思った。それはなんとなく思っただけのことで、特に根拠のない想像だった。しかし、隣に座っている父は声を上げることはなく、代わりに声を上げたのは別の客だった。闇の向こうから熱のこもった薄気味悪い含み笑いのような声がする。声には聞き覚えがあった。声の主は妻も子もいなく、大勢の使用人と暮らしている資産家であった。彼がこのようなところに来ていると使用人たちが知ったらどう思うだろうか。彼は少女をどうするのだろうか。いや、わかりきっている。ぼくと年がたいして違わないだろう少女は彼の相手をさせられる。そしていつしか飽きられ、捨てられるのだろう。もしかしたら殺されるかもしれない。それは罪ではない。だって少女はすでに人間ではないのだから。そのことをぼくはどうしても許せなかった。
父に体調が優れないので先に帰ると告げぼくは部屋を出た。そして隣の小屋へと向かった。飼い主を得た売り物は鎖からはずされこの小屋に入れられる。
月明かりを頼りにぼくは小屋の扉を探り、鍵を壊した。小屋の中はすさまじい臭いが充満していた。これは家畜の臭いだろうか。
小屋の中には少女以外にもたくさんの売り物がいた。逃げ出そうと思えば逃げ出せるだろうに、売り物たちは逃げることをしない。それは逃げたところで生きてはいけないからだろう。
小屋の奥に少女を見つけた。彼女は膝を抱え、体を震わしていた。寒いのだろうか。いや、違う。怖いのだろう。何かに怯える少女を見てぼくは彼女を救うことにした。少女を盗むことにした。奪うことにした。
ぼくは少女の手を握り、ひたすらに走った。誰にも見つからないよう祈りながら。少女の手は思いのほか暖かかった。いや、ぼくの手が冷え切っているのか。ぼくらは闇夜へととけていった。
少女はぼくの部屋で飼うことにした。まさか父に言うわけにもいくまい。ぼくは父にとって完璧な息子であり、父にとって不都合なことは何もしない都合のよい息子なのだから。
部屋の電気をつけ、ベッドに腰掛ける。息を吐く。しばらく息をしていなかったような感覚。
少女は床に腰をおろし、ぼくを見ていた。どうしたものか。ぼくは動物の類を飼ったことがなかった。本棚から該当する書物を探す。ある本が目にとまり、ページを開く。どうやら愛犬家は犬に名前をつけるらしい。ぼくは少女に名前をつけることにした。
ポピュラーな愛称で彼女に呼びかけてみたが気に入るものがないのか、返事はなかった。
そこでふと彼女が裸であることに気がついた。ぼくはクローゼットから白いシャツを取り出し、彼女に着せた。サイズが合わないだろうと思ったが、ぼくとたいして変わらない体型のようだ。
名前を考えるのはまた今度でいいか。夜も遅いし寝ることにする。少女をベッドに入れ、ぼくは部屋の電気を消した。窓からこぼれる月明かりはベッドだけに光をあてていた。それはまるで月明かりが彼女を映し出しているようだった。少女の肌は色を失い妖艶な雰囲気は微塵も感じられなかった。少女の白い肌には赤が似合うだろうとぼくはなんとなく思った。しかし赤い服を持っていなかった。今度使用人に赤いドレスを買わせよう。きっと似合うに違いない。
ぼくは床に寝ることにする。ぼくは三日に一度ほどの割合で、床で寝たくなるという特殊な趣味を持った人間だった。しかし床で寝るのは初めてであったため結局一睡もすることはできなかった。
ぼくは学校へ行かなければならなかった。少女を一人部屋に置いていくのは心配ではあったが仕方がない。少女には誰かが部屋に入ってきようとしたらクローゼットの中に隠れるよう言っておいた。彼女はうなずくわけでもなく、僕の顔を凝視していた。
ぼくはため息を漏らしつつ、彼女に背を向けた。扉のノブを握ったところで後ろから声がした。まぎれもなく少女の声だろう。彼女の声は歌うようで、それでいて透きとおるような澄んだ声だった。ぼくは少女に声をかけ部屋を出た。
ぼくが学校から帰ると、少女はベッドの上にちょこんと座っていた。少女のまわりには様々な本が乱雑に並べられていた。どうやら字が読めるらしい。少女の知的好奇心というものは凄まじくぼくが学校に行っている間にかなりの量の本を読んだようだった。しかし、読んだ本は本棚に戻すことを教えたほうがいいようだな。
面倒なことは後回しにするとしよう。ぼくは少女の隣に腰掛け、散らばった本の中から一冊の絵本を手に取った。この絵本は父が唯一買ってくれた嗜好品であった。彼が何を思ってこの絵本をぼくに買い与えたのか。それを知る術はない。
ぼくは少女にこの絵本を読み聞かせることにした。壁に背をもたれると、彼女も同じようにぼくの肩に寄りかかった。ほのかなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。彼女の髪を撫でてみた。髪は滑らかで、指が引っかかることなく通る。彼女は嬉しそうな笑みを浮かべていた。
少女に本を読み聞かせていると、廊下の方から誰かの足音が聞こえる。使用人が買い物から帰ってきたのかもしれない。しかし、厨房はこちらではない。
どんどん足音は近づいてくる。重い、ズシリとした足音。女性のものではない。どうしよう。どうしよう。心臓が口から飛び出しそうだ。ぼくは急いで心臓を飲み込む。
ぼくが勝手に少女を飼っていることが父に知られてしまう。父に知られればもう生きていくことはできない。生きてはいけない。生かしてはおけない。
足音はしだいに大きくなる。そしてドアの前で音が消える。ぼくは急いで少女をクローゼットに押し込んだ。ドアがノックされる。ぼくは息を整え、ノックの主を部屋に招きいれる。そこにいたのは父だった。
父は散乱している本を見ると軽蔑した目をこちらに向けた。本を片すべきだった。ぼくは反射的に目を強く閉じた。父に叱られてしまう。しかし父はぼくを叱りつけることはなかった。ぼくが恐る恐る目を開けると、彼はおもむろにクローゼットを開けていた。もちろん少女の姿が消えるということはなく、そこには確かに少女がいた。
怯えていた。あの日のように。自分の腕で自らを抱きしめていた。
怯えた目でぼくを見ていた。
父ではなくぼくを見ていた。
大人が怖いのだろう。少女がどのようにいままで生きてきたかは知る由もなかったが、だいたい予想はつく。この怯え方は異常だ。この後自分がなにをしなければならないか知っている目だ。もちろん父がそのようなことをする人間ではないことは知っているが、少女は知らない。いままでの男たちと父との違いなんて少女にはわからないだろう。
ぼくは救うことにした。あの日のように、少女を救うことにした。
ぼくはポケットからナイフを取り出し、両の手でそれを握り、わき腹に向かってナイフを突き刺した。
肉の感触がした。ズブリと、ナイフが肉に刺さる。滑らかに刺さることはなかった。硬い肉の感触だった。学校のうさぎを殺した時の感触にどこか似ていた。
ナイフを引き抜くと真っ赤な血が噴き出した。鮮血。真っ白なシャツは真っ赤に染まった。少女の白い、白い肌は鮮血に染まった。たすけてと、少女はぼくにすがるように言った。辛いだろう。
ぼくは少女を救うことにした。
汚い大人に汚されないように。
ぼくは少女を盗むことにした。
誰の色にも染まらないように。
ぼくは少女から奪うことにした。
幸福を知る前に終われるように。
ああやっぱり。
やっぱりきみには赤が似合う。
ぼくは初めてきみに会った時から、きみの真っ白な肌を真っ赤な血で染めたかったんだ。
少女は言う、助けてと。
ぼくはそれに応えるようにもう一度、少女にナイフを突き刺した。
読んでくださってありがとうございます。
初めての投稿なのですが感想などいただけると、うれしいです。