『狭すぎた門』の令嬢を、多神教教祖ババ様が救済します
俺が救いたいのは、幸福を拒み、狭い門ばかり探している、あの令嬢なんだ――!
伝われ……!
この愛……!
(ヨガパワー発動中)
私はババである。
職業は教祖。
宗派は特にない。
神は多ければ多いほどよい。
一柱で全部やらせるのは、神にも労働基準法的によろしくない。
私はそう考えている。
手元には一冊の本。
『狭すぎた門』
母親の破綻した結婚を見て育った敬虔な少女が、幼なじみとの幸福を罪だと思い込み、自分から恋を捨てようとしている小説だ。
「…………」
私は泣いた。
そして立ち上がり、床にシャンクタヤーをして、右手で額に第三ラーナを描いた。
どれが何の宗教なのかは重要ではない。
風が吹いた。
「なるほど」
宇宙が答えたのだ。
金色の光に包まれる。
◇
さて。
すべてを理解した。
目の前の少女はアリッサ。
『狭すぎた門』のヒロインである。
彼女の思い人、ペローヌと二人で徳を高め、神へ近づこうという段階はとうに過ぎている。
ペローヌとの幸福そのものが執着ではないかと疑っている。
さらには禁欲そのものが目的化しており、美しいもの、文学、知性まで疑い始めている。
なるほど。
ラーナが足りない。
これはもう明白である。
何が明白なのかは私にも分からない。
「あの……」
アリッサは困惑していた。
当然である。
庭に突然、金色に発光したインド人が出現したのだ。
「アリッサさん」
「……はい」
「あなたには、幸福を拒絶するカルマが付着しています」
「カルマ……?」
「かなり付いている」
私は彼女の周囲を一周した。
「…………」
二周した。
「あの……」
三周目で止まり、地面に耳を当てた。
「やはり」
「何がでしょう」
「あなたはペローヌを愛していますね」
彼女の顔が強張った。
「……それが、何か」
「なぜ捨てるのです?」
「捨てるのではありません」
声が少し強くなった。
「私は、彼を愛しているからこそ――」
「シッ」
二人で黙った。
鳥が鳴いた。
風が木々を揺らした。
私は目を閉じた。
アリッサもなぜか黙っている。
「…………」
「…………」
「…………」
「……あの」
私は目を開いた。
「続けなさい」
「…………」
少し調子を崩されたらしい。
「私は……彼を愛しています。だからこそ、彼の幸福を願っているのです」
「うむ」
「二人で幸福になることだけが、愛ではありません」
「然り」
アリッサが少し驚いた。
「地上の幸福を求めることで、もっと大切なものを失うかもしれない」
「その通り」
「でしたら――」
「だが、娘よ」
私は彼女の目を見た。
「なぜ神は、あなたにペローヌを愛させた?」
「…………」
止まった。
ここだ。
「捨てさせるためですか?」
「それは……」
「苦しませるため?」
「…………」
「試すため?」
「…………」
「宇宙は、あなたの愛を恐れるほど小さいのですか?」
「ババ様」
「私ならもっと有意義な奇跡を起こします」
「そういう話ではありません」
「雨の少ない地方に雨を降らせる」
「ですから――」
「マンゴーを増やす」
「ババ様」
「牛を健康にする」
「聞いてください」
「聞いています」
私は彼女の両手を取った。
アリッサが息を呑んだ。
「あなたは、愛を捨てれば神へ近づけると思っている」
「……はい」
「美しいものも?」
「時には、私たちの心を――」
「喜びも?」
「…………」
「幸福も?」
「…………」
「では神はどこにいる」
「え?」
私は空を指差した。
「空か?」
地面を指差した。
「大地か?」
木を指差した。
「木の中か?」
自分を指差した。
「私の中か?」
アリッサを指差した。
「あなたの中か?」
「…………」
ペローヌのいる方角は知らないので、適当に西を指差した。
「ペローヌの中には?」
アリッサの唇が震えた。
「……います」
「ならば、なぜ逃げる」
「…………!」
私は両腕を大きく広げた。
「ラーナサンクチャヤー……!」
鳥が一斉に飛び立った。
偶然である。
アリッサが空を見上げた。
「すべては宇宙の中にある」
「愛も!」
胸を叩く。
「恐れも!」
もう一度叩く。
「ペローヌも!」
西を指差す。
「あなたも!」
アリッサを指差す。
「マンゴーも!」
「マンゴー……?」
「今はマンゴーのことは忘れなさい!」
「はい!」
よい返事だった。
グルーブが生まれている。
「あなたは狭き門を通ろうとしている!」
「はい!」
「そのために自分を削っている!」
「…………はい」
「愛を削った!」
「…………」
「喜びを削った!」
「…………」
「美しいものまで削ろうとしている!」
アリッサの目から涙がこぼれた。
「では最後に、その門を通るのは誰だ!」
「…………!」
「あなたがいなくなってしまうではないか!」
風が吹いた。
アリッサの髪が揺れる。
「門を狭くするな!」
私は叫んだ。
「魂を小さくするな!」
アリッサの頬を、涙が伝った。
「神はあなたより大きい!」
「…………」
「あなたの恐れより大きい!」
「…………!」
「あなたの愛よりも大きい!」
アリッサが泣いていた。
もう言葉はいらない。
私は静かに近づいた。
「娘よ」
両腕を広げる。
「もう、自分を罰するのはやめなさい」
「…………」
「愛してよい」
アリッサの肩が震えた。
「幸福になってよい」
「…………はい」
「美しいものを、美しいと思ってよい」
「……はい」
「ペローヌを愛してよい」
「はい……!」
アリッサが胸元へ飛び込んできた。
私はその細い身体を受け止めた。
父が娘を抱くように、その背中へ手を置く。
「よく苦しみましたね」
「……はい」
「もうよい」
「……はい……!」
泣き声が胸元から聞こえる。
私は空を見上げた。
シャンクタヤーよ。
宇宙よ。
私はやった。
ペローヌ。
お前は何年かけた。
私は三分でここまで来たぞ。
いや。
勝ち負けではない。
危ないところだった。
彼女を救い、最終的にはペローヌと結婚させる。
それが私の使命である。
やがてアリッサが顔を上げた。
「ババ様」
「なんです」
「私、分かりました」
「うむ」
「もう自分の心から逃げません」
「それでよい」
「愛を恐れません」
「それでよい」
「幸福を拒絶しません」
「素晴らしい」
アリッサは涙を拭った。
そして、晴れやかな顔で言った。
「ババ様。私と結婚してください」
「…………」
おかしい。
宇宙の意志と違う。
◇
「私は妻が三人います」
「構いません」
「構いなさい」
「愛を恐れてはいけないのでしょう?」
「ペローヌへの愛です」
「ですが今、私の魂はババ様を――」
「それは一時的な第六ラーナです」
「第六……」
「非常に危険です」
アリッサの顔が青ざめた。
効いた。
「それに私の妻たちは嫉妬深い」
「私は覚悟しています」
「第一夫人は怒ると七日間しゃべりません」
「耐えます」
「第二夫人は七日間ずっとしゃべります」
「耐えます」
「第三夫人は何も言わず笑います」
「…………」
「私は第三夫人が一番怖い」
「それでも――」
「あと全員、強い」
「何がです?」
「物理的に」
アリッサは黙った。
「ペローヌにしなさい」
「ですが」
「これは第八ラーナです」
「先ほど第六までしか――」
「今増えました」
宇宙とは常に膨張している。
ラーナも同じである。
◇
後日。
アリッサが怪しいインド人グルに騙されたらしい、という知らせがペローヌのもとへ届いたという。
それはよいことだと思う。
怒れ、ペローヌ。
迎えに来い。
今度は私がお前を、愛への道へ導く。
そして数日後。
アリッサから手紙が届いた。
◇
私は、それがマーサハーラなのだろうと思った。
けれど、そう認めてしまうことが怖かった。
なぜなら、マーサハーラを得るためには、何かを手放さなければならないと、ババ様がおっしゃったからだ。
何を手放すのかは、教えてくださらなかった。
「それは自分で見つけるものです」
そうおっしゃった。
たぶん、ババ様も知らなかったのだと思う。
それでも、その言葉は私の中に残った。
ペローヌへの愛なのか。
幸福への恐れなのか。
あるいは、幸福を恐れている自分への密かな誇りなのか。
私は分からなかった。
ただ、その夜。
窓辺に立っていると、不意に胸の奥が静かになった。
風に揺れる木々を見た。
美しいと思った。
そして、美しいと思った自分を責めなかった。
これがマーサハーラなのだろうか。
そう思った。
しかし翌朝、ババ様に尋ねると、
「それは第二ラーナです」
と言われた。
違ったらしい。
◇
私は手紙を閉じた。
第二ラーナ。
そんなものはない。
マーサハーラもない。
だが、アリッサは以前より少しだけ幸福そうだった。
「なるほど」
私はシャンクタヤーに跪いた。
「これがプルーナ・スワラータか……」
もちろん、それもない。
宇宙とは、そういうものである。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ババ様の教義は、だいたい宇宙とその場の勢いでできています。
ラーナが足りたかどうかは、私にも分かりません。
また別の作品で、救われてほしい誰かのもとに妙な人を送り込むかもしれません。




