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『狭すぎた門』の令嬢を、多神教教祖ババ様が救済します

作者: 空秤ユウリ
掲載日:2026/09/26

俺が救いたいのは、幸福を拒み、狭い門ばかり探している、あの令嬢なんだ――!


伝われ……!

この愛……!

(ヨガパワー発動中)


 私はババである。


 職業は教祖。


 宗派は特にない。


 神は多ければ多いほどよい。


 一柱で全部やらせるのは、神にも労働基準法的によろしくない。


 私はそう考えている。


 手元には一冊の本。


『狭すぎた門』


 母親の破綻した結婚を見て育った敬虔な少女が、幼なじみとの幸福を罪だと思い込み、自分から恋を捨てようとしている小説だ。


「…………」


 私は泣いた。


 そして立ち上がり、床にシャンクタヤーをして、右手で額に第三ラーナを描いた。


 どれが何の宗教なのかは重要ではない。


 風が吹いた。


「なるほど」


 宇宙が答えたのだ。


 金色の光に包まれる。


 ◇


 さて。


 すべてを理解した。


 目の前の少女はアリッサ。


『狭すぎた門』のヒロインである。


 彼女の思い人、ペローヌと二人で徳を高め、神へ近づこうという段階はとうに過ぎている。


 ペローヌとの幸福そのものが執着ではないかと疑っている。


 さらには禁欲そのものが目的化しており、美しいもの、文学、知性まで疑い始めている。


 なるほど。


 ラーナが足りない。


 これはもう明白である。


 何が明白なのかは私にも分からない。


「あの……」


 アリッサは困惑していた。


 当然である。


 庭に突然、金色に発光したインド人が出現したのだ。


「アリッサさん」


「……はい」


「あなたには、幸福を拒絶するカルマが付着しています」


「カルマ……?」


「かなり付いている」


 私は彼女の周囲を一周した。


「…………」


 二周した。


「あの……」


 三周目で止まり、地面に耳を当てた。


「やはり」


「何がでしょう」


「あなたはペローヌを愛していますね」


 彼女の顔が強張った。


「……それが、何か」


「なぜ捨てるのです?」


「捨てるのではありません」


 声が少し強くなった。


「私は、彼を愛しているからこそ――」


「シッ」


 二人で黙った。


 鳥が鳴いた。


 風が木々を揺らした。


 私は目を閉じた。


 アリッサもなぜか黙っている。


「…………」


「…………」


「…………」


「……あの」


 私は目を開いた。


「続けなさい」


「…………」


 少し調子を崩されたらしい。


「私は……彼を愛しています。だからこそ、彼の幸福を願っているのです」


「うむ」


「二人で幸福になることだけが、愛ではありません」


「然り」


 アリッサが少し驚いた。


「地上の幸福を求めることで、もっと大切なものを失うかもしれない」


「その通り」


「でしたら――」


「だが、娘よ」


 私は彼女の目を見た。


「なぜ神は、あなたにペローヌを愛させた?」


「…………」


 止まった。


 ここだ。


「捨てさせるためですか?」


「それは……」


「苦しませるため?」


「…………」


「試すため?」


「…………」


「宇宙は、あなたの愛を恐れるほど小さいのですか?」


「ババ様」


「私ならもっと有意義な奇跡を起こします」


「そういう話ではありません」


「雨の少ない地方に雨を降らせる」


「ですから――」


「マンゴーを増やす」


「ババ様」


「牛を健康にする」


「聞いてください」


「聞いています」


 私は彼女の両手を取った。


 アリッサが息を呑んだ。


「あなたは、愛を捨てれば神へ近づけると思っている」


「……はい」


「美しいものも?」


「時には、私たちの心を――」


「喜びも?」


「…………」


「幸福も?」


「…………」


「では神はどこにいる」


「え?」


 私は空を指差した。


「空か?」


 地面を指差した。


「大地か?」


 木を指差した。


「木の中か?」


 自分を指差した。


「私の中か?」


 アリッサを指差した。


「あなたの中か?」


「…………」


 ペローヌのいる方角は知らないので、適当に西を指差した。


「ペローヌの中には?」


 アリッサの唇が震えた。


「……います」


「ならば、なぜ逃げる」


「…………!」


 私は両腕を大きく広げた。


「ラーナサンクチャヤー……!」


 鳥が一斉に飛び立った。


 偶然である。


 アリッサが空を見上げた。


「すべては宇宙の中にある」


「愛も!」


 胸を叩く。


「恐れも!」


 もう一度叩く。


「ペローヌも!」


 西を指差す。


「あなたも!」


 アリッサを指差す。


「マンゴーも!」


「マンゴー……?」


「今はマンゴーのことは忘れなさい!」


「はい!」


 よい返事だった。


 グルーブが生まれている。


「あなたは狭き門を通ろうとしている!」


「はい!」


「そのために自分を削っている!」


「…………はい」


「愛を削った!」


「…………」


「喜びを削った!」


「…………」


「美しいものまで削ろうとしている!」


 アリッサの目から涙がこぼれた。


「では最後に、その門を通るのは誰だ!」


「…………!」


「あなたがいなくなってしまうではないか!」


 風が吹いた。


 アリッサの髪が揺れる。


「門を狭くするな!」


 私は叫んだ。


「魂を小さくするな!」


 アリッサの頬を、涙が伝った。


「神はあなたより大きい!」


「…………」


「あなたの恐れより大きい!」


「…………!」


「あなたの愛よりも大きい!」


 アリッサが泣いていた。


 もう言葉はいらない。


 私は静かに近づいた。


「娘よ」


 両腕を広げる。


「もう、自分を罰するのはやめなさい」


「…………」


「愛してよい」


 アリッサの肩が震えた。


「幸福になってよい」


「…………はい」


「美しいものを、美しいと思ってよい」


「……はい」


「ペローヌを愛してよい」


「はい……!」


 アリッサが胸元へ飛び込んできた。


 私はその細い身体を受け止めた。


 父が娘を抱くように、その背中へ手を置く。


「よく苦しみましたね」


「……はい」


「もうよい」


「……はい……!」


 泣き声が胸元から聞こえる。


 私は空を見上げた。


 シャンクタヤーよ。


 宇宙よ。


 私はやった。


 ペローヌ。


 お前は何年かけた。


 私は三分でここまで来たぞ。


 いや。


 勝ち負けではない。


 危ないところだった。


 彼女を救い、最終的にはペローヌと結婚させる。


 それが私の使命である。


 やがてアリッサが顔を上げた。


「ババ様」


「なんです」


「私、分かりました」


「うむ」


「もう自分の心から逃げません」


「それでよい」


「愛を恐れません」


「それでよい」


「幸福を拒絶しません」


「素晴らしい」


 アリッサは涙を拭った。


 そして、晴れやかな顔で言った。


「ババ様。私と結婚してください」


「…………」


 おかしい。


 宇宙の意志と違う。


 ◇


「私は妻が三人います」


「構いません」


「構いなさい」


「愛を恐れてはいけないのでしょう?」


「ペローヌへの愛です」


「ですが今、私の魂はババ様を――」


「それは一時的な第六ラーナです」


「第六……」


「非常に危険です」


 アリッサの顔が青ざめた。


 効いた。


「それに私の妻たちは嫉妬深い」


「私は覚悟しています」


「第一夫人は怒ると七日間しゃべりません」


「耐えます」


「第二夫人は七日間ずっとしゃべります」


「耐えます」


「第三夫人は何も言わず笑います」


「…………」


「私は第三夫人が一番怖い」


「それでも――」


「あと全員、強い」


「何がです?」


「物理的に」


 アリッサは黙った。


「ペローヌにしなさい」


「ですが」


「これは第八ラーナです」


「先ほど第六までしか――」


「今増えました」


 宇宙とは常に膨張している。


 ラーナも同じである。


 ◇


 後日。


 アリッサが怪しいインド人グルに騙されたらしい、という知らせがペローヌのもとへ届いたという。


 それはよいことだと思う。


 怒れ、ペローヌ。


 迎えに来い。


 今度は私がお前を、愛への道へ導く。


 そして数日後。


 アリッサから手紙が届いた。


 ◇


 私は、それがマーサハーラなのだろうと思った。


 けれど、そう認めてしまうことが怖かった。


 なぜなら、マーサハーラを得るためには、何かを手放さなければならないと、ババ様がおっしゃったからだ。


 何を手放すのかは、教えてくださらなかった。


「それは自分で見つけるものです」


 そうおっしゃった。


 たぶん、ババ様も知らなかったのだと思う。


 それでも、その言葉は私の中に残った。


 ペローヌへの愛なのか。


 幸福への恐れなのか。


 あるいは、幸福を恐れている自分への密かな誇りなのか。


 私は分からなかった。


 ただ、その夜。


 窓辺に立っていると、不意に胸の奥が静かになった。


 風に揺れる木々を見た。


 美しいと思った。


 そして、美しいと思った自分を責めなかった。


 これがマーサハーラなのだろうか。


 そう思った。


 しかし翌朝、ババ様に尋ねると、


「それは第二ラーナです」


 と言われた。


 違ったらしい。


 ◇


 私は手紙を閉じた。


 第二ラーナ。


 そんなものはない。


 マーサハーラもない。


 だが、アリッサは以前より少しだけ幸福そうだった。


「なるほど」


 私はシャンクタヤーに跪いた。


「これがプルーナ・スワラータか……」


 もちろん、それもない。


 宇宙とは、そういうものである。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


ババ様の教義は、だいたい宇宙とその場の勢いでできています。

ラーナが足りたかどうかは、私にも分かりません。


また別の作品で、救われてほしい誰かのもとに妙な人を送り込むかもしれません。

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作者さま、アリッサを助けてくれてありがとう
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