じいさんと百の運命
# じいさんと百の運命
## 第一章 鋼の指先
砂を含んだ風が街の隅々まで舞い上がり、サンクトリアの朝を告げていた。
孝吉は古びた作業台の前に座り、緻密なネジを慎重に指先で回していた。七十五歳の手だが、その動きには若者にも負けない正確さがあった。彼の目の前には分解された古い機械式時計が広がっている。デジタルなら安価で正確な時計が手に入る時代に、こんな骨董品を修理する者など、もはやこの街では孝吉一人だけだった。
「うーむ」
薄暗い工房に低いつぶやきが響く。窓から差し込む朝日が、彼の白髪を金色に染め上げていた。背筋をまっすぐに伸ばした姿勢は、年齢を感じさせない。ただ、左頬の小さな傷跡だけが、彼が生きてきた長い道のりを物語っていた。
「おはようございます、孝吉さん」
扉が開き、朝の光とともに若い男が入ってくる。市民委員会の連絡係だ。
「ほう、カズだな。おはよう」孝吉は作業から目を離さずに応えた。「今日は何か用かね?」
「委員会からの連絡です。新しい技術共有センターの開設について、ご意見を伺いたいそうです」
カズは孝吉の前に立ち、デジタルタブレットを取り出した。瞬時に三次元ホログラムが立ち上がり、建物の設計図が浮かび上がる。
「さて」孝吉は時計を置き、眼鏡を直した。「技術共有か...時代は変わるものだな」
カズは熱心に説明を始めた。「最新のナノテクノロジーを誰もが使える施設になります。特に低所得区域の子どもたちのために」
孝吉は黙って設計図を見つめていた。彼の表情からは何も読み取れない。「伝えておくがよい。古い技術も継承する場所を作るべきだと」
「でも、孝吉さん。そういった技術はもう—」
「時代遅れだとでも言いたいのかね?」孝吉の声は穏やかだったが、カズは言葉を飲み込んだ。「歴史を忘れた民は、同じ過ちを繰り返す」
カズは少し居心地悪そうに足を動かした。「わかりました、お伝えします」
孝吉は立ち上がり、棚から古い紙の本を取り出した。「これを持っていくがよい。技術の原理は変わらないことを記した本だ」
カズは驚いた様子で本を受け取った。紙の本など見るのは初めてだろう。「ありがとうございます」
孝吉は軽く頷くだけで、再び時計の修理に戻った。カズが去った後、工房はまた静寂に包まれた。
孝吉の指が再び動き始める。壊れたものを修復する作業は、彼にとって呼吸のように自然なことだった。しかし、自分の中の壊れたものは、いまだに修復できないままだった。
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午後になり、孝吉は工房を閉め、外に出た。サンクトリアの中央区域に向かって歩く。彼の姿は、落ち着いた色の古い制服を着た細身の老人だが、その歩みには威厳があった。
技術革新が進むサンクトリアの街並みは、美しくも冷たかった。建物の表面はすべて太陽光を吸収する素材で覆われ、無駄なエネルギーを消費しない設計になっている。歩道は歩行者の動きを感知して最適な明るさに自動調整され、街路樹は遺伝子改変されて四季を通じて花を咲かせていた。
「孝吉さん!」
振り返ると、通りの向こうから手を振る女性がいた。由紀だ。五十代半ばの彼女は、大きな瞳と柔らかな表情が特徴的で、その笑顔には見る者を温かな気持ちにさせる力があった。一見すると普通の中年女性だが、その瞳の奥には何か秘めた強さが感じられた。
「やあ、由紀さん」孝吉は彼女を見て、珍しく表情を和らげた。
由紀は買い物袋を片手に小走りで近づいてきた。「久しぶりですね。お元気でしたか?」
「変わらんよ。相変わらず古いものに囲まれて暮らしておる」
「それがいいんじゃないですか」由紀は微笑んだ。「今日は何をしているんですか?」
「さて、歴史公園に行くところだ。少し付き合ってくれんかね」
由紀は嬉しそうに頷いた。「もちろんです。私も久しぶりに行きたかったんです」
二人は並んで歩き始めた。孝吉は自分より二十歳も若い由紀と話すとき、どこか安心感を覚えた。彼女は数少ない、孝吉が心を許せる相手の一人だった。
「新しい技術共有センターの話、聞きましたか?」由紀が尋ねた。
「ああ、今朝方聞いたところだ」
「私、あそこで教えることになったんです」由紀は少し誇らしげに言った。「子どもたちに古い歌を教える係です」
孝吉は驚いて彼女を見た。「ほう、それは良いことだ」
「あの...実は私、昔は歌を歌っていたんです」由紀は恥ずかしそうに言った。「大したことないんですけど」
「そうだったのか」孝吉は特に驚いた様子もなく言った。「いつか聞かせてくれるかね」
由紀は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑顔を取り戻した。「はい、いつか...機会があれば」
二人が歴史公園に着くと、そこには戦争記念碑が建っていた。大戦から五十年が経過したが、記憶を風化させないために建てられたモニュメントだ。孝吉はその前で立ち止まった。
「由紀さん」彼は低い声で言った。「私はこの戦争で家族を失った」
由紀は静かに孝吉の横に立った。「知っています」
「今でも夢に出てくるよ」孝吉の声は穏やかだったが、その目は遠くを見ていた。「妻と、生まれたばかりの息子を守れなかった」
「孝吉さん...」
「しかし、過去は変えられん」孝吉は深く息を吸った。「できるのは、同じ過ちを繰り返さないよう、次の世代に伝えることだけだ」
由紀は孝吉の腕に優しく手を置いた。「だから古い技術を大事にするんですね」
「技術は道具に過ぎん。大切なのは、それをどう使うかだ」孝吉は記念碑に刻まれた名前を見つめた。「人の心が技術に追いつかなければ、また同じ悲劇が繰り返される」
彼らが黙祷していると、突然、公園の向こうから大きな音が聞こえてきた。振り返ると、若者たちのグループが最新型のホバーボードで空中を飛び回り、記念碑の周りを荒々しく旋回していた。
「おい!」孝吉は思わず声を上げた。「ここは静かにすべき場所だ」
若者たちは一瞬立ち止まり、老人を見下ろした。その中の一人、リーダー格の少年が不敵な笑みを浮かべた。
「何言ってんだ、じいさん。ここは公園だぜ?」
「礼儀を知らんのか」孝吉の声は低く、しかし厳しかった。
少年は仲間に目配せし、さらに大きな音を立ててホバーボードを操作した。砂埃が舞い上がり、記念碑を覆った。
その瞬間、孝吉の目に何かが宿った。彼は静かに手を挙げ、少年のホバーボードに向けた。突然、ボードから火花が散り、機械が異音を発して急降下し始めた。
「なっ、何だよこれ!」少年は驚いて叫んだ。
孝吉は何も言わず、ただ静かに立っていた。ホバーボードは完全に動かなくなり、若者たちは慌てて逃げ出した。
由紀は驚いた表情で孝吉を見つめていた。「今のは...」
「ただの偶然だよ」孝吉は平静を装った。「機械は時々故障するものさ」
由紀はそれ以上何も言わなかったが、彼女の目には疑問が残っていた。二人は再び静かに記念碑を見つめた。
「さて、そろそろ帰るとしようか」孝吉は空を見上げた。「雨が降りそうだ」
実際、空には一片の雲もなかったが、彼らが公園を出てから十分もしないうちに、突然の雨が降り始めた。
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夕暮れ時、孝吉は自宅の古い椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。雨はすでに上がり、街には湿った空気が漂っている。彼の住まいは技術センターから最も遠い旧区域にあった。自動化された現代的な住居ではなく、昔ながらの手作業が必要な古い家だ。
孝吉は目を閉じ、今日のことを思い返していた。若者たちのホバーボード...あれは偶然ではなかった。彼には「修復」の能力がある。物を直すだけでなく、壊すこともできる。精神エネルギーを物質に転移させる特殊能力だ。かつての戦争では、この能力が多くの命を救った。しかし同時に、多くの命を奪うことにもなった。
彼は古い木製の箱を取り出し、開けた。中には家族の写真があった。笑顔の若い妻と、生後間もない息子。今なら五十歳になっていたはずだ。
「俺にはもう何も残っていない」彼はつぶやいた。「だが、まだやるべきことがある」
彼が箱を閉じようとした時、突然ドアをノックする音がした。こんな時間に誰だろう?孝吉は重い体を起こし、ドアに向かった。
開けると、そこには由紀が立っていた。彼女の顔は青白く、震えているように見えた。
「由紀さん?どうしたんだ?」
「孝吉さん...助けてください」由紀の声は震えていた。「市民委員会が...私を捜しています」
孝吉は一瞬躊躇したが、彼女を中に招き入れた。「何があった?」
「私の過去が...明らかになったんです」由紀は震える手でコートを脱ぎながら言った。「彼らは私が反体制歌手だったことを知ったんです」
孝吉はじっと由紀を見つめた。「反体制歌手?」
「はい...戦後の混乱期に、政府の政策に反対する歌を歌っていました」由紀は目を伏せた。「それが理由で投獄されそうになり、身分を変えて逃げたんです」
「なぜ今になって?」
「新しい技術共有センターの審査です」由紀は悲しそうに微笑んだ。「皮肉ですね。子どもたちに歌を教えるはずが...」
孝吉は黙って考え込んだ。「さて、どうするか...」
「一晩だけ匿ってもらえませんか?」由紀は懇願するような目で彼を見た。「明日には別の場所に移ります」
孝吉は深いため息をついた。「ここにいるがよい。追手が来ても、私が何とかする」
「本当にいいんですか?」由紀の目に涙が浮かんだ。「危険なことになるかもしれません」
「危険など、もう慣れたものさ」孝吉は珍しく微笑んだ。「それに、友人を見捨てるほど冷たくはなっていないつもりだ」
由紀は感謝の言葉を口にしようとしたが、突然、外から車の音が聞こえてきた。二人は窓の外を見た。市民委員会の巡視車が停まり、数人の警備員が降りてきた。
「来たか...」孝吉は静かに言った。
「どうしましょう」由紀の声は震えていた。
孝吉は彼女の肩に手を置いた。「心配するな。私の能力を信じてくれ」
その瞬間、彼の目に特別な光が宿った。古い修理工の手には、百の運命を変える力が眠っていた。
## 第二章 眠れる記憶
ドアを叩く強い音が部屋中に響き渡った。
「市民委員会警備部だ!開けろ!」
孝吉は由紀に小さく頷き、彼女を奥の部屋へと促した。「隠れていろ」と小声で言うと、ゆっくりとドアに向かった。
「はいはい、今開けます」孝吉はわざと老人らしくぼそぼそと言いながら、ドアを開けた。「こんな夜遅くに何の用かね?」
警備員が二人、制服姿で立っていた。先頭の男は四十代前半、厳格な表情で孝吉を見下ろしている。
「孝吉さん、お邪魔します」男は機械的な声で言った。「由紀という女性を探しています。この近くで目撃されました」
孝吉は困惑したような表情を作った。「由紀?ああ、時々話す近所の女性かね。今日は見てないが」
男は孝吉の顔を注意深く観察した。「中を調べさせてもらえますか?」
「うーむ」孝吉は考え込むふりをした。「令状はあるのかね?」
「緊急時には不要です」男は冷たく言い、同僚に目配せした。「入るぞ」
二人が強引に中に入ろうとした瞬間、孝吉は静かに手を上げた。その動きは警備員には単なる老人のしぐさに見えただろうが、次の瞬間、先頭の男が持っていた通信機から火花が散った。
「なっ!」男は驚いて通信機を床に落とした。
「おや、機械の調子が悪いようだね」孝吉は穏やかに言った。「最近の機械は信頼性に欠けるものだよ」
もう一人の警備員が通信機を拾い上げようとしたが、触れた途端、彼も手を引っ込めた。「熱い!」
「さて、私に用がないなら帰ってくれんか」孝吉は静かに言った。「年寄りは早く寝ないとな」
警備員たちは困惑した様子で顔を見合わせた。先頭の男が再び孝吉を見た。「わかりました。しかし、何か情報があれば必ず連絡してください。この女性は危険人物です」
「もちろん、市民の義務だ」孝吉は従順に頷いた。
警備員たちが去った後、孝吉はしばらく窓から彼らを見届けてから、奥の部屋へ向かった。
「もう大丈夫だ」
由紀が恐る恐る出てきた。「すごい...どうやったんですか?」
「古い技術を知っているからね」孝吉は曖昧に答えた。「機械は構造を理解していれば、ちょっとした工夫で動かなくできるものさ」
由紀は信じているようには見えなかったが、それ以上は追及しなかった。「ありがとうございます。命の恩人です」
「大げさな」孝吉は少し照れたように言った。「さて、お茶でも飲むかね」
二人はキッチンに移動し、孝吉は古風な方法で湯を沸かし始めた。由紀は彼の動きを興味深そうに見つめていた。
「電子レンジや自動調理機を使わないんですね」
「機械に頼りすぎると、いざという時に困る」孝吉は淹れたての茶を二つのカップに注いだ。「それに、手間をかけた方が味わいがある」
由紀は微笑んでカップを受け取った。「孝吉さんは変わっていますね」
「年寄りの頑固さだよ」
二人はしばらく静かに茶を飲んだ。沈黙の中、孝吉は由紀の表情を観察していた。彼女の目には深い疲れが見えた。
「由紀さん」孝吉が静かに口を開いた。「本当のことを話してくれんか。なぜ市民委員会はそこまであなたを追うのだ?」
由紀はカップを置き、深く息を吸った。「実は...私の歌には特別な力があるんです」
「特別な力?」
「はい。人々の心に...何というか、希望を植え付ける力です」由紀は恥ずかしそうに言った。「戦後の混乱期、私の歌を聴いた人々は勇気づけられ、行動を起こしました。それが当時の暫定政府を脅かしたんです」
孝吉は驚いた様子で彼女を見つめた。「精神エネルギーの操作...」
「そう呼ぶ人もいます」由紀は頷いた。「私には制御できないんです。歌うと自然に出てしまう」
「なるほど」孝吉は納得したように言った。「それで身を隠していたのか」
「はい。でも最近、技術共有センターの計画を知って...子どもたちに何か残せるかもしれないと思ったんです」由紀の目に涙が浮かんだ。「愚かでした」
孝吉は静かに立ち上がり、窓の外を見た。雨上がりの夜空には星が輝いている。「由紀さん、私も君と似たようなものだよ」
「どういう意味ですか?」
「私にも...特殊な能力がある」孝吉は自分の手を見つめた。「物を修復する力だ。壊すこともできる」
由紀は驚いたように孝吉を見た。「あの若者たちのホバーボード...」
「ああ」孝吉は小さく頷いた。「私がやった」
「なぜ今まで言わなかったんですか?」
孝吉の表情が暗くなった。「この能力は...多くの命を奪った。戦争中、私は武器として使われたんだ」
由紀は静かに孝吉の横に立った。「それは...あなたのせいではありません」
「いや、私は従った」孝吉の声は低く沈んでいた。「命令に従い、敵の武器を壊し、時には...人間の体内の機能を停止させた」
二人は再び沈黙した。時計の音だけが静かに部屋に響いていた。
「孝吉さん」由紀が静かに言った。「私たちは似ています。二人とも過去に囚われて、本当の自分を隠して生きてきた」
孝吉は由紀を見つめた。彼女の目には優しさがあった。「そうかもしれないな」
「明日、私はここを離れます」由紀は決意を込めて言った。「でも、逃げるのはもう終わりにします。自分の力を恐れるのではなく、正しく使う方法を見つけます」
「一人で大丈夫なのか?」
由紀は微笑んだ。「一人じゃないです。あなたがいる」
孝吉は何も言わなかったが、彼の目には長い間見せなかった感情が浮かんでいた。
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翌朝、孝吉は早くに目を覚ました。リビングのソファで寝ていた由紀はまだ眠っていた。彼は静かに朝食の準備を始めた。
古い調理器具を使って、米を炊き、味噌汁を作る。手間のかかる作業だが、孝吉にとっては瞑想のようなものだった。すべて手作業で行うことで、彼は過去の記憶と向き合い、そして少しずつ受け入れていくことができた。
「いい匂い...」
振り返ると、由紀が目を擦りながら立っていた。朝の光が彼女の髪を明るく照らしている。
「朝だ。よく眠れたか?」
「はい、久しぶりに安心して眠れました」由紀は微笑んだ。「手伝います」
二人は静かに朝食の準備を続けた。時折、視線が交差するとお互いに微笑み合う。二人とも言葉にはしなかったが、この穏やかな朝の時間が、孤独だった彼らの心に何かを灯したようだった。
食事を終えた後、由紀は決意を込めた表情で孝吉を見た。「行き先を決めました」
「どこへ行くつもりだ?」
「古い音楽院がある東区へ」由紀は言った。「そこなら私の能力を制御する方法を学べるかもしれません」
孝吉は考え込んだ。「東区は監視が厳しい。市民委員会の本部に近いぞ」
「だからこそです」由紀は自信を持って言った。「彼らが最も警戒していない場所...彼らの目の前です」
「大胆だな」孝吉は感心したように言った。「しかし、一人では危険だ」
「だから...」由紀は躊躇いながら言った。「孝吉さんにも一緒に来てほしいんです」
孝吉は驚いた表情を見せた。「私に?」
「はい。あなたの能力と私の能力...二人なら何かできるかもしれません」由紀の目は真剣だった。「それに...」
「それに?」
「一人は寂しいです」由紀は素直に言った。
孝吉は窓の外を見た。長年住み慣れたこの家を離れる覚悟はあるだろうか?しかし、ここにいても何も変わらない。過去の記憶に囚われたまま、残りの人生を終えるだけだ。
「わかった」孝吉は静かに言った。「行こう」
由紀の顔が明るくなった。「本当ですか?」
「ああ」孝吉は頷いた。「しかし、市民委員会の監視の目を逃れるには工夫が必要だ」
「どうするんですか?」
孝吉は小さく微笑んだ。「私の古い友人を頼ることにしよう」
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その日の午後、孝吉と由紀は裏路地を通って街の北側へと向かった。孝吉は昔ながらのキャップを被り、由紀はスカーフで顔を隠していた。
「この先に、昔の仲間が住んでいる」孝吉は小声で言った。「市民委員会の目が届かない場所だ」
二人が曲がり角を過ぎると、古い倉庫街が広がっていた。かつての工業地帯で、今はほとんど使われていない。自動化された新しい工場が建設されて以来、この地域は忘れ去られたようになっていた。
孝吉は特定の倉庫の前で立ち止まり、特殊なノックを三回した。
しばらくして、小さな窓が開き、一つの目が二人を観察した。
「誰だ?」低い声が聞こえた。
「古い時計を直してほしい」孝吉は暗号のように言った。
窓が閉まり、重いドアがゆっくりと開いた。そこには七十歳ほどの痩せた男が立っていた。彼の顔には深いしわがあり、片目は白く濁っていた。
「孝吉...」男は驚いたように言った。「まさか来るとは思わなかった」
「久しぶりだな、ネオ」孝吉は静かに言った。
ネオは由紀を警戒した目で見た。「彼女は?」
「信頼できる友人だ」孝吉は由紀を前に出した。「由紀さん、こちらはネオ。かつての戦友だ」
由紀は丁寧に頭を下げた。「はじめまして」
ネオは疑わしそうに彼女を見たが、二人を中に招き入れた。「入れ。外は安全じゃない」
倉庫の内部は外見からは想像できないほど整然としていた。古い機械と新しい技術が融合した不思議な空間だった。壁には戦争時代の地図や写真が飾られ、作業台には半分組み立てられた機械が並んでいた。
「何が必要だ?」ネオは直接的に尋ねた。彼の話し方は短く、ぶっきらぼうだった。
「東区へ行く必要がある」孝吉は説明した。「市民委員会の監視を避けて」
ネオは鋭く笑った。「馬鹿な。なぜ敵の巣窟に行く?」
「音楽院がある」由紀が答えた。「私には...必要なんです」
ネオは由紀をじっと見つめた。「お前...歌手だな?」
由紀は驚いた表情を見せた。「どうして?」
「声の響き方だ」ネオは説明せずに言った。「特別な能力を持つ歌手か...」
「彼女を助けたい」孝吉は静かに言った。「私にも責任がある」
ネオは二人を交互に見つめた後、深いため息をついた。「いいだろう。だが条件がある」
「何だ?」
「成功したら、私を訪ねてくる」ネオは真剣な表情で言った。「話したいことがある...五十年前のことだ」
孝吉の表情が一瞬硬くなった。「わかった」
ネオは作業台に向かい、小さな装置を取り出した。「これを持っていけ。IDシグナルを一時的に変更する。しかし、効果は48時間だけだ」
由紀は装置を不思議そうに見つめた。「これで私たちは別人に見えるんですか?」
「システム上ではな」ネオは説明した。「街中のセンサーは別のIDとして認識する。だが、人間の目は騙せない。注意しろ」
孝吉は装置を受け取り、ポケットにしまった。「助かる」
「それと...」ネオは奥の棚から古い箱を取り出した。「これも持っていけ」
箱を開けると、中には古い拳銃があった。
「いらん」孝吉はきっぱりと言った。「もう二度と武器は持たない」
「時代は変わっていない」ネオは厳しい目で言った。「お前の能力が使えなくなったとき、これが必要になる」
孝吉は黙って首を振った。「私の決意は固い」
ネオは諦めたように箱を閉じた。「いつも頑固だな」
準備を終えた二人は出発の時を待った。日が暮れるのを待ち、夜の闇に紛れて移動する計画だ。
「ネオさん」由紀が静かに声をかけた。「どうして孝吉さんを助けてくれるんですか?彼と何があったんですか?」
ネオは暗い目で由紀を見た。「彼は私の命を救った...そして、憎むべき相手でもある」
「どういう意味ですか?」
「彼が話さないなら、私も話さない」ネオは短く言った。「過去は過去だ」
由紀はそれ以上追及しなかったが、孝吉とネオの間にある緊張感は明らかだった。何か深い因縁があるのは確かだ。
夜になり、二人は出発の準備を整えた。ネオは彼らに市民委員会の警備パターンを説明し、東区への最も安全なルートを教えた。
「気をつけろ」ネオは最後に言った。「東区には過去の亡霊がうようよしている」
孝吉は黙って頷き、由紀の手を取った。「行こう」
二人が倉庫を出ようとしたとき、ネオが孝吉を呼び止めた。「孝吉...」
「何だ?」
「お前の息子のことは...まだ諦めるな」ネオの声には珍しく感情が込められていた。
孝吉は一瞬動きを止めたが、何も言わずにドアを開けた。夜の闇が二人を包み込み、東区への危険な旅が始まった。
## 第三章 東区の影
夜のサンクトリアは昼間とは全く異なる顔を見せていた。高層建築物の表面は無数の光点で彩られ、空中には広告用ホログラムが漂っている。地上からは見えないが、街全体は監視ドローンによって常に見守られていた。
孝吉と由紀は人目につかないよう、路地を選んで東区へと向かった。ネオから受け取った装置は二人のIDを一時的に変更し、監視システムから身を隠すことを可能にしていた。
「ここを右に」孝吉は小声で言った。「大通りは避けるんだ」
二人が角を曲がると、突然、若者のグループと鉢合わせた。彼らは最新型の拡張現実ゴーグルを装着し、目には見えない仮想の世界で遊んでいるようだった。
「おっと、すみません」由紀は彼らにぶつかりそうになって声をかけた。
若者たちは一瞬だけ二人を見たが、すぐに自分たちの仮想世界に戻っていった。彼らにとって、年配の二人組など目に入らないのだろう。
「技術の発展は素晴らしいが、人と人との繋がりを薄くする」孝吉はつぶやいた。
由紀は微笑んだ。「でも、新しい形の繋がりも生まれてるんですよ。私の生徒たちは、拡張現実を使って離れた場所の友達と一緒に歌を作ったりしてました」
「そうなのか」孝吉は少し驚いた様子で言った。「時代についていくのは難しいな」
二人は会話を続けながら、東区への道を進んだ。街の景観は徐々に変化し、よりモダンで整然とした建物が増えていった。東区は市民委員会の本部があるエリアで、最も先進的な技術が集中している区域だった。
大きな広場に出ると、そこには巨大なモニュメントが立っていた。「平和の塔」と呼ばれるその建造物は、戦争終結を記念して建てられたものだ。
「美しいですね」由紀は上を見上げて言った。
「表面的な美しさだ」孝吉の声は冷たかった。「この塔が建つ前、ここは最後の激戦地だった。多くの命が失われた場所だ」
由紀は静かに孝吉の腕に手を置いた。「記憶を保つことも大切です。でも、前に進むことも必要ではないでしょうか」
孝吉は深いため息をついた。「そうかもしれんな」
二人が広場を横切ろうとしたとき、突然、警報音が鳴り響いた。
「検問だ!」孝吉は素早く状況を把握した。「この先、警備員が集まっている」
由紀は焦った表情を見せた。「どうしましょう?」
「別ルートを取ろう」孝吉は周囲を見回した。「あそこの小道を通れば...」
しかし、彼らが動き出す前に、複数の警備員が広場の出入り口を封鎖し始めた。アナウンスが流れる。
「市民の皆様、安全確認のため、全員のID確認を実施します。その場で待機してください」
孝吉は由紀の手を強く握った。「落ち着け。ネオの装置があれば大丈夫だ」
人々が列を作り始め、警備員は一人ずつIDスキャンを行っていた。孝吉と由紀も仕方なく列に並んだ。
「心配いりません」由紀は自分自身に言い聞かせるように小声で言った。「大丈夫です」
列が徐々に進み、二人の番が近づいてきた。前の若い女性がスキャンを受け、通過していく。
「次」警備員が呼んだ。
孝吉が前に進み、IDスキャナーの前に立った。警備員は彼を無表情で見つめながら、スキャナーを操作した。緊張の瞬間だった。
スキャナーから緑色のライトが点灯した。「通過」
孝吉は自然を装って前に進んだ。次は由紀の番だ。彼女も同様にスキャンを受け、無事に通過した。二人は安堵の息をついた。
「うまくいった」由紀は小声で言った。
しかし喜びも束の間、彼らが数歩進んだところで、後ろから声がかかった。
「すみません、もう一度確認させてください」
振り返ると、先ほどとは別の警備員が立っていた。この男はより年配で、鋭い目つきをしていた。
「何か問題でも?」孝吉は落ち着いた声で尋ねた。
「システムに小さな不具合がありました」男は二人を注意深く観察しながら言った。「再度スキャンをお願いします」
由紀の手が震え始めた。孝吉は静かに彼女の背中に手を置いた。
「もちろん」孝吉は従順に言った。
警備員が新しいスキャナーを取り出したとき、孝吉は一瞬だけ集中した。その瞬間、警備員の後ろにある街灯が突然激しく明滅し始めた。
「何だ!」警備員は驚いて振り返った。
その隙に、孝吉は由紀の手を引いて人混みの中へと消えていった。
「急げ!」孝吉は小声で言った。「あと数分で装置の影響が切れる」
二人は広場から離れ、小さな路地を駆け抜けた。後ろから叫び声が聞こえるが、振り返らなかった。
「あそこ!」由紀が指さした。
古い石造りの建物が見えた。東区音楽院だ。二人は最後の力を振り絞って建物に駆け込んだ。
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音楽院の内部は静寂に包まれていた。夜間はほとんど人がいないようだった。古い木の床が二人の足音を優しく受け止める。
「どこへ行けばいいですか?」孝吉は小声で尋ねた。
由紀は少し考え込んだ。「私の古い恩師...マエストロ・リンが生きていれば、彼女なら助けてくれるはず」
「彼女がいる場所は?」
「わかりません...」由紀は悲しげに言った。「二十年以上会っていないんです」
二人は廊下を進み、大きなホールに出た。そこには数十台のピアノが並んでいた。壁には著名な音楽家たちの肖像画が飾られている。
「まるで時間が止まったようですね」由紀はホールを見回した。「私が学生だった頃と変わっていません」
孝吉は窓から外を確認した。「警備員はまだ見えないが、長くは持たないだろう」
由紀は決意を固めたように一台のピアノに向かった。「リスクを冒します」
「何をするつもりだ?」
「リンが生きているなら、私の歌を聴けば気づくはずです」由紀は静かに言った。「私の歌には...特別な印があるんです」
孝吉は心配そうに周囲を見回した。「危険だぞ」
「他に方法がありません」由紀はピアノの前に座った。「もし警備員が来たら...逃げてください」
「君を置いていくつもりはない」孝吉はきっぱりと言った。
由紀は微笑んだ。「ありがとう」
彼女の指がピアノの鍵盤に触れ、静かな旋律が部屋に広がり始めた。それは孝吉が聞いたこともないような不思議な曲だった。単純なメロディーながら、聴く者の心に直接響いてくるような力を持っていた。
そして由紀が歌い始めた。
最初は小さな声だったが、徐々に力強さを増していった。言葉は古い方言のようで、孝吉には意味がわからなかったが、その歌声には不思議な力があった。聴いているうちに、体が軽くなり、心が開いていくような感覚を覚えた。
由紀の周りに薄い光が見え始めた。幻覚だろうか、と孝吉は目を擦った。しかし、光は消えず、むしろ強くなっていった。由紀の歌声が高らかに響き渡る中、その光は部屋全体に広がっていった。
突然、ホールの奥のドアが開いた。
孝吉は素早く立ち上がり、由紀を守る姿勢を取った。しかし、そこに現れたのは警備員ではなく、一人の老婦人だった。
白髪を優雅にまとめ上げ、姿勢よく立つ小柄な女性。その目には鋭い光があった。
「その歌声...」老婦人は静かに言った。「由紀...本当に君なのか」
由紀は演奏を止め、驚いた表情で立ち上がった。「マエストロ・リン!」
二人の女性は無言で見つめ合い、次の瞬間、由紀は走り寄ってリンの手を取った。
「生きていたんですね」由紀の目には涙が浮かんでいた。
「私こそ、君が生きていると知って驚いているよ」リンは温かな声で言った。「君の歌声...変わらないね」
孝吉は二人を見守りながら、窓の外を確認し続けた。「申し訳ないが、再会の喜びは後にしてもらえないか。今は危険だ」
リンは孝吉を注意深く観察した。「あなたは?」
「孝吉です」由紀が説明した。「私を助けてくれている方です」
「孝吉...」リンの目が細くなった。「あの伝説の修復者ですか?」
孝吉は驚いた表情を見せた。「私のことを知っているのか?」
「噂で聞いたことがあります」リンは静かに言った。「さあ、ここは安全ではありません。私の住居へ行きましょう」
三人は裏口から音楽院を出て、近くのアパートメントへと向かった。リンの住居は音楽院のすぐ裏手にあり、質素ながらも上品な調度品で満たされていた。壁一面が本棚になっており、古い楽譜や本が整然と並んでいた。
「座ってください」リンは二人を居間に招き入れた。「お茶を入れます」
「リン先生」由紀が切り出した。「私は...」
「話は全て聞いています」リンは静かに言った。「市民委員会があなたを探していることも」
「では、なぜ私を通報しないんですか?」
リンは静かに微笑んだ。「私も委員会とは...意見が合わないことが多いのです」
孝吉はリンを注意深く観察していた。「あなたもまた、特殊能力者なのか?」
「そう言えるでしょう」リンは優雅にカップを置いた。「私は人の才能を見抜く能力があります。特に音楽に関連した才能を」
「それで音楽院の教師になったんですね」由紀は理解を示した。
「そうです」リンは頷いた。「しかし、市民委員会は最近、私たちのような能力者を...管理したがっています」
「管理?」孝吉が尋ねた。
「能力登録制度です」リンは説明した。「すべての特殊能力者は登録を義務付けられ、委員会の監視下に置かれます。表向きは安全のためですが...」
「実際は統制のためだ」孝吉は暗い表情で言った。
「そうです」リンは頷いた。「だからこそ、由紀のような強力な能力を持つ者が見つかれば...」
「利用されるか、排除されるか」由紀は静かに言った。
三人は沈黙した。窓の外では、パトロール車のサイレンが遠くで鳴り響いていた。
「由紀」リンが静かに言った。「あなたは何を求めてここに来たのですか?」
「私の能力を...制御したいんです」由紀は真剣な表情で言った。「そして、正しく使いたい」
リンは深く頷いた。「立派な目標です。しかし、それには時間がかかります」
「時間はあります」由紀は決意を込めて言った。「もう逃げるのはやめます」
「私も協力するよ」孝吉が口を開いた。「彼女には借りがある」
リンは孝吉を不思議そうに見た。「どういう関係なのですか?あなたたちは」
「彼女は...私に再び生きる意味を与えてくれた」孝吉は静かに言った。
由紀は驚いた表情で孝吉を見つめた。彼がそんな風に思っていたとは知らなかった。
「さて」リンは立ち上がった。「まずは二人とも休みなさい。明日から本格的な訓練を始めましょう」
---
翌朝、孝吉は早くに目を覚ました。リンのアパートの客間で一晩を過ごした彼は、窓から朝日が差し込むのを見つめていた。
「お早うございます」
振り返ると、リンが静かに立っていた。彼女は既に身支度を整え、手には二つのカップを持っていた。
「お茶です」リンはカップを差し出した。
「ありがとう」孝吉はカップを受け取った。
「由紀はまだ眠っています」リンは窓の外を見ながら言った。「長い逃避行で疲れているのでしょう」
「そうだな」孝吉も窓の外を見た。「彼女は強い女性だ」
「あなたも...強い方ですね」リンは静かに言った。「あなたの能力については聞いたことがあります。物を修復する力...」
「そして壊す力だ」孝吉は苦い表情で言った。
「能力自体に善悪はありません」リンは優しく言った。「それをどう使うかが問題なのです」
孝吉は無言で茶を飲んだ。
「あなたは何を恐れているのですか?」リンの質問は直接的だった。
「...」孝吉は言葉に詰まった。「私は...自分自身を恐れている」
「なぜですか?」
「この能力で...多くの命を奪った」孝吉の声は低かった。「戦争中、私は武器だった」
「それは命令だったのでしょう?」
「いや」孝吉はきっぱりと言った。「私には選択肢があった。しかし、家族を守るため...私は従った」
リンは静かに頷いた。「そして、結局家族を失った」
「ああ」孝吉の目には深い悲しみが浮かんでいた。
「しかし、今あなたは別の選択をしています」リンは窓際から離れ、孝吉の前に立った。「由紀を助け、再び自分の能力を使おうとしている」
「彼女には...特別なものがある」孝吉は静かに言った。「希望を与える力だ」
リンは微笑んだ。「それが彼女の本当の能力かもしれませんね。人々に希望を与えること」
この会話の途中、由紀が部屋に入ってきた。彼女は眠そうな目をこすりながらも、爽やかな笑顔を見せた。
「おはようございます」
「ああ、起きたか」孝吉は穏やかな表情になった。
「今日から訓練を始めましょう」リンは由紀に向かって言った。「あなたの能力を理解し、制御するために」
三人は朝食を共にした後、音楽院の地下室へと向かった。そこは普段使われていない練習室で、厚い壁に囲まれた防音空間だった。
「ここなら安全です」リンは部屋の中央に立った。「由紀、まずはあなたの能力の本質を理解する必要があります」
「どうすればいいですか?」
「歌ってください」リンは静かに言った。「しかし今回は...感情を抑えて」
由紀は少し躊躇したが、深呼吸をして歌い始めた。その歌声は美しかったが、昨夜のような不思議な力は感じられなかった。
「次は、感情を込めて」リンは指示した。
由紀は再び深呼吸し、今度は目を閉じて歌い始めた。徐々に彼女の周りに光が現れ始め、部屋の温度が少し上がったように感じられた。
「見えますか?」リンは孝吉に尋ねた。
「ああ」孝吉は頷いた。「光のようなものが」
「これが彼女の精神エネルギーです」リンは説明した。「由紀の場合、それは歌によって増幅され、周囲の人々に影響を与える」
由紀は歌を止め、息を整えた。「どうすれば制御できますか?」
「まず自分の感情を理解することです」リンは由紀の肩に手を置いた。「あなたの能力は感情と直結しています。恐れや怒りから来る歌は人々を扇動し、愛や希望から来る歌は人々を癒します」
「だから反体制歌手と呼ばれたのか」孝吉は理解した様子で言った。
「そうです」リンは頷いた。「戦後の混乱期、彼女の歌は人々の怒りや不満を増幅させ、行動へと駆り立てました」
由紀は悲しげに言った。「私はただ...心から歌っていただけなのに」
「それが能力の難しいところです」リンは優しく言った。「あなたの純粋な感情が、時に予期せぬ結果をもたらす」
訓練は一日中続いた。リンは由紀に様々な感情状態で歌うことを教え、どのように精神エネルギーが変化するかを観察させた。孝吉も自分の能力について説明し、三人は能力の類似点について議論した。
夕方になり、三人はリンのアパートに戻った。由紀は疲れた様子だったが、目には新たな理解の光があった。
「進歩が見られます」リンは満足そうに言った。「あと数日で基本的な制御はできるようになるでしょう」
「ありがとうございます、先生」由紀は感謝の意を表した。
「しかし、問題があります」リンは真剣な表情になった。「市民委員会は能力者を探しています。この東区では特に」
「なぜだ?」孝吉が尋ねた。
「彼らは...能力者を使った特殊部隊を作ろうとしているようです」リンは低い声で言った。「表向きは社会の安全のためと言っていますが...」
「支配のためだ」孝吉は冷たく言った。
「その可能性があります」リンは窓から外を見た。「今夜、重要な情報を持った人物と会う約束があります。もしかしたら、あなたたちにも関係があるかもしれません」
「誰と会うんだ?」孝吉は警戒した。
「かつての教え子です」リンは曖昧に答えた。「彼は今、市民委員会の内部で働いています」
三人は夕食後、リンのアパートで静かに待機していた。時計が夜の10時を指したとき、軽いノックの音が聞こえた。
リンが慎重にドアを開けると、そこには30代前半の男性が立っていた。彼は厳格な表情をしていたが、目には優しさがあった。
「マエストロ・リン」男は静かに挨拶した。
「アキラ、来てくれてありがとう」リンは彼を中に招き入れた。
アキラは部屋に入ると、孝吉と由紀を見て一瞬驚いた表情を見せた。「客人がいるとは聞いていませんでした」
「彼らは信頼できる人たちよ」リンは二人を紹介した。「孝吉さんと由紀さんです」
アキラは二人に軽く頭を下げた。「アキラです。市民委員会安全保障部に所属しています」
孝吉は警戒心を隠さずにアキラを見つめた。「市民委員会の人間か」
「安心してください」リンが間に入った。「アキラは内部から情報を提供してくれています。彼も私たちと同じ考えなのです」
アキラはテーブルに座り、小さな装置を取り出した。それを起動すると、部屋全体に微かな振動が走った。
「盗聴防止です」アキラは説明した。「これから話すことは極秘事項です」
三人は緊張した面持ちでアキラを囲んだ。
「市民委員会は『プロジェクト・リバース』という計画を進めています」アキラは低い声で言った。「これは能力者を利用した...時間操作の実験です」
「時間操作?」由紀は驚いた声を上げた。
「はい」アキラは続けた。「彼らは特定の能力者を使って、過去に干渉する方法を研究しています」
「そんなことが可能なのか?」孝吉は疑わしげに言った。
「理論上は可能だと彼らは考えています」アキラは真剣な表情で言った。「そして彼らは...特定の能力者を探しています」
「誰だ?」
アキラは孝吉をじっと見つめた。「修復能力を持つ者と、精神増幅能力を持つ者です」
部屋に重い沈黙が落ちた。
「私たちを」由紀はかすれた声で言った。
「そうです」アキラは頷いた。「彼らはあなたたちの能力を組み合わせれば、時間の傷を修復できると考えています」
「時間の傷?」孝吉は混乱した様子で尋ねた。
「戦争中に起きた特定の出来事を変えようとしているのです」アキラは説明した。「彼らはそれを『歴史の修正』と呼んでいます」
孝吉は椅子から立ち上がった。「ばかげている。過去は変えられん」
「科学者たちは可能だと考えています」アキラは静かに言った。「そして、彼らはあなたたちを明日にも捕まえる計画を立てています」
「どうすればいい?」由紀は恐怖に震えた声で尋ねた。
「逃げるしかありません」アキラは断言した。「私は明日の朝、あなたたちを市の外へ連れ出す手配をしました」
孝吉はリンを見た。「あなたはどうする?」
「私は残ります」リンは静かに言った。「ここで情報を集め続けます。それが私の役割です」
「危険だぞ」孝吉は心配そうに言った。
「私は目立たない老教師です」リンは微笑んだ。「彼らは私に興味はありません」
アキラは立ち上がった。「では、明日の朝5時に裏口で待ち合わせます。それまでここから出ないでください」
彼が去った後、三人は再び沈黙に包まれた。
「時間操作...」由紀はつぶやいた。「そんなことが本当にできるのでしょうか」
「できるかどうかは問題ではない」孝吉は厳しい表情で言った。「そんな力を人間が持つべきではないんだ」
「同感です」リンは頷いた。「過去を変えれば、現在も変わります。それは危険な賭けです」
由紀は窓の外の夜空を見つめた。「でも...もし過去を変えられるなら...」
孝吉は彼女の言葉の意味を理解した。「家族を失わなかった世界を見たいか?」
由紀は静かに頷いた。「あなたも...そう思いませんか?」
孝吉は長い間黙っていたが、最後に深いため息をついた。「毎日だ...だが、そんな力は諸刃の剣だ。使えば使うほど、我々は人間でなくなる」
三人は明日の逃亡に備え、早めに休むことにした。しかし、孝吉の心には不安が渦巻いていた。時間操作...過去への干渉...そして彼の能力がその鍵となる可能性。全てが彼の心に重くのしかかっていた。
## 第四章 過去の足音
夜明け前の東区は不思議な静けさに包まれていた。通りには人影はなく、時折通過する清掃ロボットだけが沈黙を破っていた。
孝吉はリンのアパートの窓から外を見渡していた。まだ街灯が灯る薄暗い街並みは、まるで別の時代のようだった。
「準備はいいか?」孝吉は振り返り、小さなバッグを持った由紀に尋ねた。
「はい」由紀は小さく頷いた。彼女の顔には緊張と不安が混ざっていた。
リンは二人に熱いお茶を差し出した。「最後に温まっておきなさい。外は冷えています」
三人は黙ってお茶を飲んだ。時計の針が4時45分を指す。あと15分でアキラが来るはずだ。
「リンさん」由紀が静かに言った。「本当にここに残るんですか?」
「ええ」リンは穏やかに微笑んだ。「私の役割はここにあります」
「でも、危険です」由紀は心配そうに言った。
「年老いた音楽教師に誰が関心を持つでしょう」リンは軽く肩をすくめた。「それに、若い頃から逃げ回るのは体が持ちませんよ」
孝吉はリンをじっと見つめた。「あなたは...もっと知っているな」
リンは孝吉の鋭い洞察に少し驚いたような表情を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻した。「私たちは皆、自分の役割を持っています。あなたたちの役割は、彼らの手から逃れることです」
時計が4時55分を指した時、予定より早く軽いノックが聞こえた。三人は緊張した表情で顔を見合わせた。
リンが慎重にドアを開けると、そこにはアキラが立っていた。彼は普段とは違う作業服を着ていた。
「計画が変わりました」アキラは息を切らしながら言った。「彼らが動きを早めています。今すぐ出発する必要があります」
孝吉と由紀は急いで準備を整えた。リンは二人に小さなデバイスを手渡した。
「これは非常用の通信機です」リンは説明した。「本当に必要な時だけ使ってください。トレース不可能ですが、一度しか使えません」
由紀はリンを強く抱きしめた。「必ず戻ってきます」
「気をつけて」リンは彼女の背中を優しく叩いた。
孝吉はリンに向かって深く頭を下げた。「ありがとう」
「あなたたちを信じています」リンは二人を見送った。
アキラは三人を建物の裏口へと導いた。そこには小型の作業車が待機していた。
「これに乗ってください」アキラは扉を開けた。「荷物スペースですが、検問を通過するまでの辛抱です」
孝吉と由紀は狭い荷物スペースに潜り込んだ。アキラはその上に作業用の道具や部品を置いて二人を隠した。
「静かにしていてください」アキラは小声で言った。「30分ほどで検問所に着きます」
エンジンが始動し、車は静かに動き出した。暗い荷物スペースで、孝吉と由紀は互いの呼吸だけを感じながら黙っていた。
「どこへ行くんでしょうね」由紀が小声でつぶやいた。
「さあな」孝吉も小声で答えた。「とにかく市の外へ出ることが先決だ」
車は滑らかに動き、時折方向を変えた。二人は時間の感覚を失いかけていたが、突然車が減速し、停止した。検問所に到着したようだ。
二人は息を殺して耳を澄ました。
「おはようございます」アキラの声が聞こえた。「東区技術保守班です。南区の通信施設の修理に向かっています」
「IDを見せてください」別の男性の声がした。
しばらくの沈黙の後、「通過を許可します」という声が聞こえた。
車が再び動き出したとき、二人は安堵のため息をついた。しかし、その安心も束の間、突然車が急停止した。
「車両検査です」厳しい声が聞こえた。「荷物スペースを開けてください」
孝吉と由紀は凍りついたように動かなくなった。孝吉は由紀の手を強く握り、目を閉じて集中した。彼の能力が今、必要だった。
荷物スペースの扉が開く音がした。光が差し込み、二人は発見されるのを覚悟した。
「何も問題ありませんね」検査官の声がした。「通過を許可します」
扉が閉まり、車は再び動き出した。二人は混乱した表情で顔を見合わせた。どうして見つからなかったのか?
さらに30分ほど走った後、車は再び停止した。今度はアキラが荷物スペースを開けた。
「大丈夫です、出てきてください」
孝吉と由紀は疲れた体を引きずりながら外に出た。そこは市の外れにある古い倉庫のようだった。周囲には誰もいない。
「どうして見つからなかったんだ?」孝吉はアキラに尋ねた。
アキラは不思議そうな表情を見せた。「どういう意味ですか?」
「検査官が荷物スペースを開けたはずだ」孝吉は言った。「なのに私たちを見なかった」
アキラは首を振った。「いいえ、荷物検査はありませんでした。IDチェックだけで通過しました」
孝吉と由紀は驚いた表情で顔を見合わせた。孝吉の能力が知らぬ間に作用したのか、それとも別の何かが起きたのか...
「どこにいるんだ?」孝吉は周囲を見回した。
「ここは旧工業地帯です」アキラは説明した。「もう使われていない倉庫が多く、委員会の監視の目も届きにくい場所です」
「これからどうすればいいんですか?」由紀が不安そうに尋ねた。
アキラは小さな紙を取り出した。「この住所に行ってください。そこにはリンの古い友人が住んでいます。彼があなたたちを助けてくれるでしょう」
孝吉は紙を受け取った。「なぜそこまで私たちを助けるんだ?」
アキラは真剣な表情で二人を見た。「私も...能力者です。感情を読む能力を持っています。だから委員会の計画の危険性を理解しているんです」
「なるほど」孝吉は納得した様子で頷いた。
「これ以上一緒にいると危険です」アキラは急いで車に戻った。「気をつけて」
アキラの車が去った後、孝吉と由紀は紙に書かれた住所を確認し、歩き始めた。
「本当に彼を信用していいんでしょうか?」由紀は不安そうに言った。
「完全には信用していない」孝吉は正直に答えた。「だが、今は他に選択肢がない」
二人は古い工業地帯を抜け、徐々に住宅エリアへと入っていった。ここは市の中心部とは異なり、旧式の建物が多く、技術の進歩から取り残されたような場所だった。
数時間歩き続け、ようやく目的地に到着した。それは小さな木造の家で、周囲の建物とは明らかに異なるスタイルだった。まるで過去から持ってきたような伝統的な日本家屋だった。
孝吉は静かにドアをノックした。しばらくして、ドアが開き、60代と思われる男性が現れた。彼は長い白髪を後ろで束ね、穏やかな表情をしていた。
「やあ、待っていたよ」男は微笑んだ。「リンから連絡があった。私はハルキ。さあ、中へ」
孝吉と由紀は警戒しながらも家の中に入った。内部は予想以上に広く、古い本や骨董品が並んでいた。壁には伝統的な書や絵が飾られている。
「座りなさい」ハルキは二人を居間に案内した。「お茶を入れるよ」
二人が座ると、ハルキは台所から茶器を持ってきた。彼の動きは流れるように優雅で、年齢を感じさせなかった。
「リンからあなたたちのことは聞いています」ハルキはお茶を注ぎながら言った。「修復者と歌手...面白い組み合わせだ」
「あなたはリンとどういう関係なんですか?」由紀が尋ねた。
「私たちは...昔からの友人です」ハルキは微笑んだ。「同じ学校で学び、そして同じ戦場で戦った」
「あなたも能力者なのか?」孝吉は直接的に尋ねた。
「ええ」ハルキは頷いた。「私の能力は『記憶の保存』です。触れたものの記憶を読み取り、保存することができます」
「記憶?」由紀は興味をそそられた様子で尋ねた。
「そう」ハルキは古い茶碗を手に取った。「例えばこの茶碗...150年前に作られ、三代の家族に使われました。最後の持ち主は戦争で亡くなりました」
彼の言葉は単なる想像ではなく、確信に満ちていた。
「それで市民委員会に追われてないんですか?」由紀が尋ねた。
「私は...公式には死亡したことになっています」ハルキは静かに言った。「戦後の混乱期に、自分の死を偽装したんです」
孝吉はハルキをじっと見つめた。「なぜそこまでして隠れる必要があった?」
ハルキは深いため息をついた。「私の能力は...危険だとされたからです。人の記憶に触れることができるということは、国家機密にもアクセスできるということですから」
三人は静かにお茶を飲んだ。外では風が強くなってきたようで、窓を打つ音が聞こえた。
「さて」ハルキは茶碗を置いた。「あなたたちは市民委員会の『プロジェクト・リバース』から逃れてきたようですね」
「あなたもそれを知っているのか」孝吉は驚いた。
「ええ」ハルキは頷いた。「実は...私はそのプロジェクトの元メンバーでした」
孝吉と由紀は驚きの表情を見せた。
「なぜそんなプロジェクトに?」由紀が尋ねた。
「最初は純粋な科学的好奇心からでした」ハルキは正直に答えた。「過去の記憶を保存するだけでなく、実際に過去に影響を与えることができれば...どれほど素晴らしいことか」
「しかし、やめた」孝吉は察した。
「そうです」ハルキは暗い表情になった。「彼らの目的が単なる科学研究ではないことに気づいたからです」
「彼らは何を変えようとしているんですか?」由紀が尋ねた。
ハルキは窓の外を見た。「戦争の結末です」
「戦争の...結末?」孝吉は混乱した様子で尋ねた。
「ええ」ハルキは頷いた。「現在の市民委員会の指導部には、かつての敗戦を認められない人々がいます。彼らは歴史を書き換え、自分たちが勝利した世界を作ろうとしているのです」
「そんなことが可能なのか?」孝吉は疑わしげに言った。
「理論上は可能です」ハルキは真剣な表情で言った。「特定の『時間の結節点』と呼ばれる重要な出来事を変えれば、その後の歴史が大きく変わります」
「そして、その結節点を変えるために私たちの能力が必要なんですね」由紀は静かに言った。
「そうです」ハルキは頷いた。「孝吉さんの修復能力と由紀さんの精神増幅能力を組み合わせれば、時間の流れにある『傷』を修復できるかもしれない...それが彼らの理論です」
孝吉は深く考え込んだ。「しかし、それは危険だ。歴史を変えれば、現在の世界も変わる」
「その通りです」ハルキは真剣な表情で言った。「数百万、あるいは数十億の人々の運命が変わるかもしれません。今存在している人が存在しなくなり、存在していなかった人が生まれるかもしれない」
「恐ろしいことです」由紀はかすれた声で言った。
「だからこそ、私は彼らの計画を阻止しようとしています」ハルキは立ち上がった。「そして、あなたたちにも協力してほしいのです」
「協力?」孝吉は警戒した。
「プロジェクト・リバースの核心部、研究施設を破壊するのです」ハルキは言った。「それがなければ、彼らの計画は実現できません」
孝吉と由紀は驚いた表情で顔を見合わせた。
「破壊?」由紀は動揺した声で言った。「それは...暴力的すぎませんか?」
「他に方法はありません」ハルキは断言した。「彼らは既に実験段階に入っています。時間がないのです」
孝吉は静かに立ち上がり、窓の外を見た。「私は...もう破壊には関わりたくない」
「私も...」由紀も同意した。「別の方法があるはずです」
ハルキは二人を理解するように頷いた。「わかりました。では、提案があります」
彼は古い地図を取り出し、テーブルに広げた。「ここが研究施設です。サンクトリアの地下深くにあります」
「地下?」孝吉は驚いた。
「ええ、地上からはアクセスできない場所です」ハルキは説明した。「しかし、古い下水道システムを通れば近づくことができます」
「それで?」
「破壊ではなく、情報収集です」ハルキは提案した。「施設の詳細な情報とプロジェクトの進行状況を把握できれば、市民たちに真実を伝えることができます」
「民主的な方法ですね」由紀は少し安心した様子で言った。
「その通りです」ハルキは頷いた。「暴力ではなく真実で彼らと戦うのです」
孝吉はしばらく考え込んだ後、頷いた。「わかった。協力しよう」
ハルキは満足そうに微笑んだ。「では、準備を始めましょう。明日の夜に行動します」
---
翌日、三人は潜入計画の最終確認をしていた。ハルキは古い下水道システムの地図を詳細に説明し、各自の役割を確認した。
「孝吉さんは監視システムを無効化します」ハルキは言った。「由紀さんは必要に応じて警備員の注意をそらします。私は情報を収集します」
「どのくらいの時間がかかる?」孝吉が尋ねた。
「1時間以内に終わらせる必要があります」ハルキは言った。「それ以上いると、定期巡回に見つかる可能性が高まります」
由紀は心配そうに言った。「もし見つかったら?」
「その時は...即座に撤退します」ハルキは真剣な表情で言った。「絶対に捕まってはいけません」
三人は日没を待ち、暗くなってから家を出た。ハルキの指示に従い、彼らは人目につかないよう裏路地を通って移動した。
約30分後、彼らは古い下水道の入り口に到着した。それは使われなくなった排水溝で、錆びた格子が掛けられていた。
「これを開けて」ハルキは孝吉に言った。
孝吉は格子に手を当て、集中した。数秒後、錆びた金属が粉々に崩れ落ちた。
「見事だ」ハルキは感心した様子で言った。
三人は暗い下水道に入っていった。ハルキは小さな光源を持っていたが、その光は弱く、周囲をかすかに照らす程度だった。
「音を立てないように」ハルキは警告した。「音は地下では驚くほど遠くまで伝わります」
彼らは静かに進んだ。古い下水道は湿気が多く、時折不気味な音が聞こえた。由紀は恐怖を隠せない様子だったが、孝吉の背中をしっかりと見つめて前進した。
約20分後、ハルキは立ち止まった。「ここから先は新しいシステムです。監視カメラがあるはずです」
孝吉は前に出て、壁に手を当てた。「電気系統を感じる...ここから5メートルごとにカメラがある」
「無効化できますか?」ハルキが尋ねた。
「試してみる」孝吉は目を閉じ、深く集中した。
数秒後、かすかな「ジジッ」という音がして、通路の先にあったわずかな赤い点滅光が消えた。
「できたようだ」孝吉は静かに言った。「だが、一時的なものだ。急ごう」
三人は急いで前進した。通路は徐々に新しくなり、コンクリートの壁は金属パネルに変わっていった。
「ここだ」ハルキは金属の扉の前で立ち止まった。「この先が研究施設の外周部です」
扉には複雑な電子ロックが設置されていた。孝吉は再び手を当て、集中した。しかし今回は簡単には行かなかった。
「複雑なシステムだ」孝吉は汗を流しながら言った。「時間がかかる」
「警備員が来るかもしれません」由紀は不安そうに周囲を見回した。
「私に任せて」ハルキは由紀に言った。「もし誰か来たら、あなたの歌で気を逸らせることができますか?」
「はい...できると思います」由紀は不安げながらも頷いた。
孝吉は引き続きロックと格闘していた。彼の顔には深い集中力が現れ、手から微かな光が発せられているように見えた。
「もう少し...」孝吉はつぶやいた。
突然、遠くから足音が聞こえてきた。
「誰か来ます」由紀は小声で言った。
「孝吉さん、急いで」ハルキは焦った様子で言った。
「あと少し...」
足音はどんどん近づいてきた。由紀は深呼吸し、小さく歌い始めた。その歌声は不思議な力を持ち、周囲の空気を震わせているようだった。
「できた!」孝吉は声を上げた。
扉が静かに開き、三人は素早く中に入った。扉の向こうでは、由紀の歌に引き寄せられたのか、警備員が別の方向へ歩いていく足音が聞こえた。
彼らが入った部屋は、小さな倉庫のようだった。周囲には様々な機器や部品が積まれている。
「ここは周辺施設です」ハルキは説明した。「本体はさらに奥です」
三人は慎重に倉庫を抜け、廊下に出た。廊下は不気味なほど静かで、青白い光で照らされていた。
「この先です」ハルキは先頭に立って進んだ。
彼らは数分間歩き、最終的に大きな扉の前に到着した。扉には「プロジェクト・リバース - 立入禁止」と書かれていた。
「ここだ」ハルキは緊張した様子で言った。
孝吉は再び扉のロックに取り掛かった。今回はさらに複雑なシステムだったが、彼は前回の経験を活かし、比較的速やかにロックを解除した。
扉が開くと、そこには彼らの想像を超える光景が広がっていた。
巨大な円形の部屋の中央には、奇妙な装置が設置されていた。それは巨大な円環状の機械で、中央には青い光が渦巻いていた。周囲には複数のコンピューター端末があり、壁には無数の計算式や図面が投影されていた。
「これが...時間操作装置?」由紀は驚きの声を上げた。
「ええ」ハルキは厳粛な表情で言った。「彼らはこれを使って過去に干渉しようとしています」
孝吉は装置を注意深く観察した。「これは...単なる実験装置ではない。既に実用段階だ」
「そうです」ハルキは頷いた。「彼らは準備を終えています。あとは適切な能力者を...」
「私たちを」由紀が小声で言った。
ハルキは素早くコンピューター端末に向かい、データにアクセスし始めた。「情報を集めます。二人は周囲を警戒していてください」
孝吉と由紀は入口付近に立ち、警戒を続けた。部屋は不気味なほど静かで、装置から発せられる低いハム音だけが聞こえていた。
「ハルキさん、急いでください」由紀は不安そうに言った。
「もう少し...」ハルキは集中して画面を見つめていた。「これは...」
突然、彼の表情が変わった。「これは予想外だ...」
「何か見つかったのか?」孝吉が尋ねた。
「彼らの狙いは...」ハルキは震える声で言った。「特定の人物の排除です」
「排除?」
「ええ、彼らは過去に戻って...特定の人物が生まれないようにしようとしています」
「誰だ?」孝吉は緊張した様子で尋ねた。
ハルキが答えようとした瞬間、突然アラームが鳴り響いた。赤い警告灯が部屋中を照らし始めた。
「侵入者アラームだ!」ハルキは叫んだ。「急いで撤退を!」
三人は急いで部屋を出ようとしたが、廊下からは既に複数の足音が聞こえてきた。
「別の出口は?」孝吉が尋ねた。
「あそこだ!」ハルキは部屋の反対側にある小さな扉を指した。
彼らは急いでその扉に向かったが、開けようとした瞬間、廊下側の主扉が開き、複数の警備員が銃を構えて入ってきた。
「動くな!」先頭の警備員が叫んだ。
三人は凍りついたように立ち止まった。逃げ場はなかった。
「ハルキ...」警備員の後ろから声が聞こえた。人々が道を開けると、そこには高級な制服を着た中年の男性が立っていた。
「グレイ長官...」ハルキは冷たい声で言った。
「久しぶりだな、旧友よ」グレイと呼ばれた男は穏やかな微笑みを浮かべた。「そして...伝説の修復者、孝吉と反体制歌手の由紀...全員揃ったようだね」
「私たちを追っていたのか」孝吉は鋭く言った。
「もちろん」グレイは優雅に手を広げた。「ハルキが接触してくることはわかっていた。彼はいつも...予測通りの行動をする」
ハルキの表情が変わった。「あなたは...私を利用したのか」
「強い言い方だ」グレイは微笑んだ。「私は単に、あなたの性格を理解していただけだよ」
「卑劣な...」由紀は怒りを込めて言った。
「いいえ、必要な戦略です」グレイは冷静に言った。「さて、三人とも...抵抗せずに来てもらおうか」
孝吉は静かに前に出た。「どこへ連れて行く気だ?」
「あなたの力が必要なんです、孝吉さん」グレイは真剣な表情になった。「過去の間違いを正すために」
「過去を変えることはできない」孝吉はきっぱりと言った。「それは自然の摂理に反する」
「科学は摂理を超えるものです」グレイは熱心に言った。「私たちには変える権利がある。より良い世界を作るために」
「誰にとってより良い世界だ?」孝吉は冷たく問いかけた。
グレイは答えなかった。代わりに、彼は警備員に向かって頷いた。「連れて行け。実験の準備をしろ」
警備員たちが三人に近づいたとき、孝吉は静かに手を上げた。「待て」
彼の声には不思議な力があった。グレイも警備員も一瞬動きを止めた。
「私は...協力しよう」孝吉は静かに言った。
「孝吉さん!」由紀は驚いた声を上げた。
「条件がある」孝吉はグレイを見つめた。「由紀とハルキは自由にする。そして、あなたが変えようとしている過去...それが何なのか知りたい」
グレイは考え込んだように見えたが、すぐに微笑んだ。「よろしい。彼らは自由にしよう。そして、あなたには全てを見せましょう」
「信じないで!」ハルキが叫んだ。「彼は嘘をついている!」
「選択肢はない」孝吉は静かに言った。「これが最善の道だ」
グレイは満足そうに頷いた。「賢明な判断です」
警備員は由紀とハルキを解放する素振りを見せたが、孝吉が彼らから離れた瞬間、突然ハルキを床に押し倒した。
「約束は?」孝吉は怒りを込めて言った。
「ああ、約束は守ります」グレイは微笑んだ。「ただ、彼らが自由になるのは...あなたが私たちに協力した後です」
孝吉は罠にはめられたことを悟った。しかし、今は抵抗する時ではない。彼は静かに頷き、グレイについていくことにした。
由紀とハルキは別の警備員に連れられ、孝吉はグレイとともに別の部屋へと向かった。
「孝吉さん」グレイは歩きながら言った。「あなたは歴史を変える鍵なのです。それがわかれば、きっと協力してくれるでしょう」
孝吉は黙って歩き続けた。彼の心の中には、計画が形作られつつあった。時間操作...それは危険な力だ。しかし、もし彼がその力をコントロールできれば...
彼らが新しい部屋に入ると、そこには巨大なスクリーンがあった。グレイはコンソールを操作し、映像を表示した。
「これが私たちが変えようとしている過去です」グレイは言った。
スクリーンには、50年前の戦争中の映像が映し出された。そして、そこには若い孝吉の姿があった。
「これは...」孝吉は驚きの声を上げた。
「あなたの過去です」グレイは静かに言った。「そして...私たちが変えようとしている瞬間」
孝吉は映像を見つめ、その真実に震えた。彼がこれから知ることになる真実は、彼の人生を永遠に変えるものだった。
## 第五章 時の結び目
スクリーンに映し出された映像は、孝吉の心に深い傷を抉るものだった。そこには50年前の彼自身—若く、絶望に満ちた表情で廃墟の中に立つ姿があった。
「これは...最終戦の日だ」孝吉の声は震えていた。
「そうです」グレイは冷静に言った。「あなたが家族を失った日でもあります」
映像は進み、若い孝吉が瓦礫の中から何かを探している様子が映し出された。そして、彼が見つけたのは—破壊された建物の下敷きになった一人の女性だった。
「妻...」現在の孝吉は思わず手を伸ばしたが、それはただの映像に過ぎなかった。
画面の中の若い孝吉は泣きながら瓦礫を取り除こうとしていた。しかし、彼女はすでに命を落としていた。その隣には小さな赤ん坊が横たわっていた。
「息子...」孝吉の目から涙が流れた。
グレイは静かに映像を止めた。「この日、あなたは家族を失いました。しかし...実は違うのです」
「何だと?」孝吉は混乱した表情でグレイを見た。
「あなたの息子は死んでいなかった」グレイは静かに言った。「彼は救助隊によって発見され、孤児として育てられたのです」
孝吉は震える手で椅子をつかんだ。「それは...本当なのか?」
「ええ」グレイは頷いた。「そして、あなたの息子は成長し...重要な人物になりました」
「どこにいる?今どこに?」孝吉は切迫した声で尋ねた。
グレイは悲しげに首を振った。「残念ながら...彼は十年前に亡くなりました。病気です」
孝吉の希望は一瞬で砕かれた。彼は椅子に崩れ落ちた。
「しかし...」グレイは続けた。「私たちにはチャンスがあります。過去に戻り、あの日の出来事を変えるのです」
「どういうことだ?」
「あなたの能力で、あの瞬間の『時間の傷』を修復できれば...」グレイは熱心に言った。「あなたの妻と息子を救うことができるかもしれません」
孝吉は長い間黙っていた。彼の心は混乱していた。家族を取り戻せる可能性...それは彼が50年間夢見てきたことだった。
「なぜ...」孝吉はようやく口を開いた。「なぜ市民委員会がそんなことをする?個人的な悲劇など、彼らに何の価値がある?」
グレイは静かに微笑んだ。「あなたの息子...タカシは、重要な科学者になりました。彼は新しいエネルギー源の発見に近づいていたのです。しかし彼の死により、その研究は中断されました」
「息子が...科学者に?」孝吉は驚いた表情を見せた。
「ええ」グレイは頷いた。「彼の研究は世界を変える可能性を秘めていました。私たちはその可能性を取り戻したいのです」
孝吉は疑わしげに眉を寄せた。「それだけか?他に目的はないのか?」
「もちろん、他の...修正点もあります」グレイは認めた。「しかし、基本的にはより良い未来のためです」
孝吉は立ち上がり、窓の外を見た。彼の心の中で葛藤が続いていた。家族を取り戻す可能性...しかし、歴史を変えることの倫理的問題...そして市民委員会の真の目的は何なのか?
「由紀とハルキはどうした?」孝吉は振り返ってグレイに尋ねた。
「安全な場所にいます」グレイは答えた。「あなたが協力してくれれば、約束通り解放します」
「彼らに会わせてくれ」孝吉はきっぱりと言った。「それから決断する」
グレイは少し考えた後、頷いた。「わかりました。短い面会を許可しましょう」
---
孝吉は警備員に導かれ、施設の別の区画へと移動した。そこには小さな留置室があり、由紀とハルキが収容されていた。
「孝吉さん!」由紀は孝吉を見るなり駆け寄った。「大丈夫ですか?何があったんですか?」
「無事だ」孝吉は静かに言った。彼の表情は暗く、混乱していた。
「彼らは何を見せた?」ハルキが鋭く尋ねた。
孝吉は深いため息をついた。「私の息子...死んでいなかったらしい」
「何ですって?」由紀は驚いた表情を見せた。
「戦争で失ったと思っていた息子は生き延びて、科学者になったという」孝吉は静かに説明した。「しかし十年前に亡くなったそうだ」
ハルキは急に表情を変えた。「タカシ・ノムラ...彼があなたの息子だったのか」
「知っているのか?」孝吉は驚いて尋ねた。
「ええ...彼は有名な科学者でした」ハルキは頷いた。「新エネルギー研究の第一人者でした」
「グレイは過去に戻って私の家族を救いたいと言っている」孝吉は続けた。「そうすれば息子の研究が継続できると」
「嘘だ!」ハルキは強く言った。「彼らの真の目的は違う」
「何だというんだ?」
「彼らが変えようとしているのは...」ハルキは声を低くした。「戦争の結末だ。そして、それはあなたの家族の運命と絡み合っている」
孝吉は混乱した表情を見せた。「どういうことだ?」
「あなたの息子タカシは、単なる科学者ではなかった」ハルキは真剣な表情で言った。「彼は平和主義者でもあり、戦後の平和条約の重要な支持者だった。彼の科学的発見は、両陣営の和解に貢献したのだ」
「そして市民委員会は...」由紀が言葉を続けた。「その和解を望んでいないんですね」
「その通り」ハルキは頷いた。「彼らは過去に戻り、タカシが育った環境を変えることで、彼の思想も変えようとしているのだ」
孝吉の表情が暗くなった。「私の息子を...兵器開発者にするつもりか」
「可能性は高い」ハルキは悲しげに言った。「彼の才能を別の方向に導くことで、戦争の結末を変えようとしているのだろう」
孝吉は拳を握りしめた。「許さん...」
「でも、どうやって彼らを止めるんですか?」由紀が不安そうに尋ねた。「私たちは捕らわれています」
「私には...計画がある」孝吉は静かに言った。「だが、危険だ」
「何でもします」由紀はきっぱりと言った。「あなたを信じています」
「私も協力する」ハルキも頷いた。
孝吉は二人に近づき、小声で説明を始めた。「私はグレイに協力するふりをする。時間操作装置を起動させる。しかし、その瞬間に...」
彼の説明を聞いた二人は、驚きと恐れの混じった表情を見せたが、最終的には頷いた。
「リスクは高いですね」ハルキは静かに言った。
「他に選択肢はない」孝吉はきっぱりと言った。
その時、ドアが開き、警備員が入ってきた。「時間です。孝吉さん、グレイ長官があなたを待っています」
孝吉は由紀とハルキに最後の視線を送り、静かに部屋を出た。
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「決断は?」グレイは期待を込めて尋ねた。
彼と孝吉は再び中央の実験室に立っていた。巨大な時間操作装置は始動の準備が整っているようで、技術者たちが忙しく動き回っていた。
「協力しよう」孝吉は静かに言った。「家族を取り戻す機会...それを逃すわけにはいかない」
グレイは満足そうに微笑んだ。「賢明な決断です」
「だが、由紀も必要だ」孝吉は続けた。「彼女の能力があってこそ、私の力は最大限に発揮される」
グレイは少し考え込んだ後、頷いた。「その通りですね。彼女を連れてきましょう」
しばらくして、警備員に連れられた由紀が実験室に入ってきた。彼女は孝吉に向かって心配そうな視線を送ったが、彼は微かに頷いただけだった。
「準備は整いました」技術者の一人が報告した。
「では始めよう」グレイは命令した。
技術者たちは装置を起動させ始めた。巨大な円環状の機械が低いハム音を発し、中央の青い光が強くなっていった。
「孝吉さん、由紀さん、装置の前に立ってください」グレイは指示した。
二人は言われた通りに大きな円環の前に立った。
「これから過去のある瞬間—あなたの家族が危機に瀕した瞬間—にフォーカスします」グレイは説明した。「あなたたちは直接過去に行くわけではありません。精神的なエネルギーだけが転送され、過去の『傷』を修復するのです」
「理解した」孝吉は静かに言った。
「由紀さん」グレイは続けた。「あなたは孝吉さんの能力を増幅してください。歌によって」
由紀は緊張した様子で頷いた。
「始めます」グレイは技術者に合図した。
装置のハム音が大きくなり、部屋全体が青い光に包まれ始めた。由紀は深呼吸し、静かに歌い始めた。彼女の歌声は、実験室の緊張した空気を振動させ、不思議な波紋を生み出しているようだった。
孝吉は目を閉じ、両手を前に伸ばした。彼の手から微かな光が放たれ、それは徐々に強くなっていった。
「エネルギーレベル上昇中」技術者が報告した。「40%...50%...60%...」
グレイは興奮した表情で装置を見つめていた。「うまくいっている!」
由紀の歌声はさらに力強くなり、孝吉の体からの光も増していった。彼らの周りには不思議な光の渦が形成され始めた。
「70%...80%...」
「このまま続けて!」グレイは叫んだ。
孝吉はゆっくりと目を開けた。彼の目には決意の色が宿っていた。由紀との視線が交差し、彼女は微かに頷いた。
「90%...あと少しです!」
その瞬間、孝吉は急に方向を変え、両手を装置そのものに向けた。
「何をする!」グレイは驚いて叫んだ。
「修復ではなく...破壊だ」孝吉は低い声で言った。
由紀の歌声が急に変わり、その音色は鋭く、刺すようになった。孝吉の手から放たれる光は赤く変色し、装置に向かって集中し始めた。
「止めろ!」グレイは警備員に命令した。
しかし、時すでに遅し。強烈なエネルギーの波が装置を直撃し、システムに過負荷をかけた。警報が鳴り響き、制御パネルから火花が散った。
「危険です!システムが暴走しています!」技術者が叫んだ。
「避難せよ!」グレイは命令した。
しかし、孝吉と由紀はその場を動かなかった。彼らは計画通り、装置の破壊を続けていた。
突然、大きな爆発音とともに、装置の中央部が崩壊し始めた。青い光は赤く変わり、不安定に脈動していた。
「逃げろ!」孝吉は由紀の手を取り、出口に向かって走り始めた。
混乱の中、誰も彼らを止めようとはしなかった。全員が自分の命を守ることで精一杯だった。
孝吉と由紀は廊下を走り抜け、事前に打ち合わせていた場所—ハルキが収容されていた部屋に向かった。
「ハルキ!」孝吉はドアを壊しながら叫んだ。
中にはハルキが待機していた。「成功したのか?」
「ああ、だが時間がない」孝吉は急いだ。「装置は不安定だ。この施設全体が危険だ」
三人は急いで脱出ルートに向かった。施設全体がアラーム音と赤い警告灯で満たされ、パニックに陥った職員たちが走り回っていた。
「あちらです!」由紀が古い下水道への入口を指さした。
彼らは急いでハッチを開け、下水道へと降りていった。背後では爆発音が続いていた。
「急げ!」ハルキは先頭に立って暗い通路を進んだ。
彼らが十分に距離を取ったとき、背後で大きな爆発音が響き、通路全体が揺れた。
「装置が完全に崩壊したようだ」孝吉は立ち止まって言った。
「プロジェクト・リバースは終わりました」ハルキは安堵の表情を見せた。
三人は下水道を通り、市の外周部へと向かった。約1時間後、彼らは安全な地上に出ることができた。夜明け前の空が東の空を染め始めていた。
「さて、どうする?」由紀は疲れた声で尋ねた。「彼らはまた私たちを探すでしょう」
「ネオのところに行こう」孝吉は決断した。「彼なら匿ってくれるだろう」
「ネオ?」ハルキは驚いた表情を見せた。「彼はまだ生きているのか?」
「ああ」孝吉は頷いた。「変わらず頑固者だよ」
三人は人目を避けながら、古い工業地帯へと向かった。彼らの冒険は終わったわけではなかった。むしろ、新たな段階に入ったばかりだった。
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ネオの倉庫に到着したとき、すでに朝日が昇っていた。孝吉は特殊なノックを三回行った。
しばらくして、小さな窓が開き、白く濁った目が彼らを観察した。
「まさか戻ってくるとは...」低い声がした。
ドアが開き、ネオが彼らを中に招き入れた。彼は三人の疲れた姿を見て、何も言わずに奥の部屋へと案内した。
「座れ」ネオは簡潔に言った。「何があった?」
孝吉は出来事の全てを説明した—息子が生きていたこと、市民委員会の計画、そして装置の破壊まで。
ネオは黙って聞いていたが、タカシの名前が出た時、彼の表情が変わった。
「タカシ・ノムラ...」ネオはつぶやいた。「彼が君の息子だったとは」
「知っていたのか?」孝吉は驚いて尋ねた。
「ああ」ネオは頷いた。「彼の研究を...手伝ったことがある」
孝吉の目が大きく開いた。「なぜ私に言わなかった?」
「彼が君の息子だとは知らなかった」ネオは静かに言った。「彼は孤児として育ったと言っていた」
「彼は...どんな人間だった?」孝吉は震える声で尋ねた。
ネオの表情が柔らかくなった—孝吉が今まで見たことのない表情だった。「彼は...君に似ていた。頑固で、正義感が強く、そして才能に溢れていた」
孝吉の目から涙がこぼれ落ちた。彼は50年間、息子を失ったと思い込んでいた。そして今、息子が立派に成長したという事実を知り、しかも再び会うことはできないという現実...それは彼の心を引き裂いた。
由紀は静かに孝吉の肩に手を置いた。「孝吉さん...」
「大丈夫だ」孝吉は涙を拭った。「少なくとも、彼が生きて、意味のある人生を送ったことを知れただけでも...」
「彼はこれを残した」ネオは立ち上がり、棚から小さな箱を取り出した。「彼が亡くなる前、『もし彼に会うことがあれば』と言って」
「彼?」
「君だ」ネオは箱を孝吉に手渡した。「彼は父親を探していた。修復の能力を持つ男を」
孝吉の手が震えた。彼は箱を開けた。中には古い写真と小さなノートがあった。写真には若いタカシが、研究室らしき場所で笑顔を見せていた。
ノートを開くと、そこには孝吉へのメッセージが書かれていた。
『父へ—もしこれを読んでいるなら、ネオさんが私の願いを叶えてくれたのでしょう。私は長い間あなたを探してきました。修復の能力を持つ父を。母から聞いた話では、あなたは戦争で私たちを守ろうとしてくれたそうです。私が生き残ったのは、あなたの犠牲のおかげだと。
私は科学者として、世界を良くするために働いてきました。それがあなたへの恩返しだと思って。いつか会えることを願っていましたが、もしそれが叶わないとしても、私はあなたを誇りに思っています。そして、愛しています。—息子より』
孝吉は震える手でノートを握りしめた。「息子...」
部屋は静かな空気に包まれた。由紀は涙を拭い、ハルキは黙って頭を下げた。ネオでさえ、珍しく感情を表に出していた。
しばらくして、孝吉は深く息を吸い、顔を上げた。彼の目には新たな決意が宿っていた。
「私は...時間を変えようとは思わない」彼は静かに言った。「息子は立派に生き、自分の道を歩んだ。それを誇りに思う」
「賢明な判断だ」ハルキは頷いた。「過去を変えることは、彼の人生の意味を否定することになる」
「しかし、市民委員会は諦めないだろう」由紀は心配そうに言った。「彼らはまた別の方法を探すでしょう」
「その通りだ」ネオは厳しい表情に戻った。「彼らは執念深い」
「だから...私たちは彼らを止めなければならない」孝吉は決意を固めた。「市民に真実を伝えるんだ」
「どうやって?」ハルキが尋ねた。
「由紀の歌だ」孝吉は彼女を見た。「君の歌には人々の心を動かす力がある。それを使って真実を広めるんだ」
由紀は驚いた表情を見せたが、すぐに決意に満ちた顔になった。「やります。私の歌で...人々に希望を与えます」
「危険だぞ」ネオは警告した。「委員会は全力で君たちを探すだろう」
「だからこそ、我々は動かなければならない」孝吉はきっぱりと言った。「過去は変えられない。だが、未来は違う」
四人は作戦を練り始めた。彼らには市民委員会の強大な力に対抗するための資源も権力もなかった。しかし、彼らには真実があり、そして人々の心を動かす力があった。
「まず、証拠を集める必要がある」ハルキは提案した。「プロジェクト・リバースの真の目的について」
「私が持っている」ネオは棚から古いデータディスクを取り出した。「タカシの研究データだ。彼は市民委員会の真の目的に気づいていた」
「それから、人々に伝える場所が必要だ」由紀が言った。
「市民広場」孝吉は思いついた。「週末には多くの人が集まる」
「委員会の警備は厳重だぞ」ネオは指摘した。
「だからこそ、そこがいい」孝吉は静かな自信を持って言った。「彼らが最も恐れるのは、多くの目撃者の前での公開だ」
計画は形を成し始めた。各自の役割が決まり、準備が始まった。彼らは3日後の市民広場で真実を公開することにした。
その夜、孝吉は一人で倉庫の屋上に上がった。星空を見上げながら、彼は息子のノートを再び読んだ。
「タカシ...」彼はつぶやいた。「君の意志を継ぐよ。君が守ろうとした平和を、私も守る」
星々は静かに瞬き、彼の決意を見守っているかのようだった。長い間失われていた目的が、今、孝吉の心に再び灯されていた。
## 第六章 声の共鳴
サンクトリアの市民広場は週末になると、常に活気に満ちていた。様々な文化的イベント、マーケット、パフォーマンスが行われ、市民たちが集まる中心地だった。広場の中央には巨大なホログラム投影塔があり、重要なニュースや告知が常に表示されていた。
計画の日、孝吉たちは別々のルートで広場に向かった。リスクを分散するためだ。孝吉はネオと共に北側から、由紀とハルキは東側から接近することになっていた。
「緊張してるか?」ネオは孝吉に小声で尋ねた。二人は広場に向かって歩いていた。
「ああ」孝吉は正直に答えた。「だが、引き返すつもりはない」
「お前は変わったな」ネオは珍しく感慨深げに言った。「昔のお前なら、こんな無謀な計画には加わらなかっただろう」
「昔の私は...ただ生き延びることだけを考えていた」孝吉は静かに言った。「今は、生きる意味を見つけた」
ネオは黙って頷いた。二人は市民広場の入り口に到着した。すでに多くの人々が集まっており、様々なパフォーマンスが行われていた。警備員も数人見かけたが、通常の警備態勢のようだった。
「予定通り、中央噴水の近くで」孝吉は確認した。
ネオは頷き、二人は人混みに紛れて移動を始めた。
一方、由紀とハルキも東側から広場に入った。由紀は緊張で顔が引きつっていたが、決意に満ちた目をしていた。
「大丈夫ですか?」ハルキが心配そうに尋ねた。
「はい」由紀は小さく頷いた。「ただ...多くの人の前で歌うのは久しぶりで」
「あなたの歌には力があります」ハルキは優しく言った。「その力を信じてください」
二人は人混みを縫って進んだ。ハルキはさりげなく周囲を観察し、警備の配置を確認していた。
「予想より警備が少ないですね」ハルキは小声で言った。
「それは良いことでしょう?」由紀が尋ねた。
ハルキは眉をひそめた。「むしろ心配です。彼らが何か知っているのかもしれません」
二人は慎重に中央噴水に向かった。そこは広場の中心にあり、多くの人が休憩したり、待ち合わせをしたりする場所だった。
孝吉とネオはすでに噴水の近くに到着していた。二人は観光客を装い、周囲を見回していた。
「来たぞ」ネオが小声で言った。
振り返ると、由紀とハルキが近づいてきていた。四人は自然を装いながら合流した。
「準備はいいか?」孝吉が静かに尋ねた。
全員が頷いた。
「では、計画通りに」孝吉は決意を込めて言った。
ハルキは小さなデバイスを取り出した。「これをホログラム塔にアップロードすれば、タカシの研究データとプロジェクト・リバースの証拠が表示されます」
「私はその間に歌を始めます」由紀が言った。「人々の注目を集めるために」
「俺たちは警備員の注意をそらす」ネオが続けた。「必要なら、孝吉の能力も使う」
四人は最後の確認を終え、それぞれの位置に散らばった。作戦開始の時間は正午、広場が最も混雑する時間だった。
時計が正午を指すと、由紀は噴水の縁に立ち、歌い始めた。最初は小さな声だったが、その美しい歌声はすぐに周囲の人々の注目を集めた。
彼女の歌は古い曲だった—戦後の混乱期に希望を歌った曲。その歌声には不思議な力があり、聴く者の心に直接響くようだった。徐々に人々が集まり始め、由紀の周りに小さな輪ができた。
ハルキはその隙に、ホログラム塔の制御パネルに近づいた。彼はさりげなく周囲を確認し、素早くデバイスを接続した。
「何をしている?」警備員の一人が彼に気づき、近づいてきた。
その瞬間、ネオが間に入った。「すみません、道に迷ってしまって...」と、警備員の注意をそらした。
孝吉は別の警備員に対応していた。彼は老人を装い、助けを求めるふりをしていた。「すみませんが、孫が見えなくなってしまって...」
その間に、ハルキはデータのアップロードを完了させた。「完了」と彼は小声で無線機に伝えた。
由紀の歌声はさらに力強くなり、広場全体に響き渡るようになった。彼女の周りには、すでに大きな群衆が形成されていた。
突然、広場中央の巨大ホログラムが切り替わった。通常の市政告知から、プロジェクト・リバースに関する機密文書の画像に変わったのだ。
「あれは何だ?」人々は混乱し、ホログラムを指さし始めた。
文書には明確に「時間操作による歴史改変計画」「勝利への回帰」「新秩序の確立」といった言葉が記されていた。さらに、市民委員会の幹部たちの署名入り文書も表示された。
広場に動揺が走った。人々は混乱し、互いに話し合い始めた。
「市民の皆さん!」由紀は歌を中断し、大きな声で叫んだ。「これが市民委員会の真の目的です!彼らは過去に干渉し、私たちの歴史を書き換えようとしているのです!」
広場は騒然となった。警備員たちは急いでホログラム塔に向かったが、既に情報は拡散されていた。多くの市民がデータをダウンロードし、個人のデバイスに保存していた。
「逮捕しろ!」突然、厳しい声が響いた。
振り返ると、グレイが多数の特殊警備隊を率いて広場に入ってきていた。彼の表情は怒りに歪んでいた。
「由紀!」孝吉は彼女に向かって叫んだ。「続けるんだ!」
由紀は深呼吸し、再び歌い始めた。今度は違う曲—より力強く、人々の心に直接訴えかけるような歌だった。彼女の周りに微かな光が形成され始め、それは徐々に広がっていった。
人々はその歌に引き寄せられるように、由紀の周りに集まり始めた。そして不思議なことに、彼らの間に連帯感が生まれ始めたのだ。見知らぬ者同士が手を取り合い、由紀の歌に合わせて声を上げ始めた。
「彼らを止めろ!」グレイは部下に命令した。
特殊警備隊が人混みを掻き分けて進んできたが、市民たちは彼らの前に立ちはだかった。
「私たちの歴史に干渉させない!」
「真実を隠すな!」
市民たちの声が広場に響き渡った。
孝吉はこの状況を見て、噴水の上に立った。「市民の皆さん!市民委員会は我々の過去、現在、そして未来を操作しようとしています!彼らは戦争の結末を変え、平和条約を無効にしようとしているのです!」
彼の声は高齢にもかかわらず、広場に響き渡った。多くの人々が彼の方を向いた。
「彼は嘘つきだ!」グレイが叫んだ。「彼らは反体制テロリストだ!」
しかし、ホログラムには明確な証拠が表示され続けていた。市民たちは目の前の現実を無視できなかった。
由紀の歌はクライマックスに達し、彼女の周りの光はさらに強くなった。その光は人々の間を繋ぎ、共感と理解の波を生み出しているようだった。
「彼女を止めろ!」グレイは部下に命令した。
特殊警備隊の数人が由紀に向かって突進してきた。孝吉はそれを見て、即座に行動した。彼は手を伸ばし、警備員たちの装備に集中した。
次の瞬間、警備員たちの武器から火花が散り、彼らは驚いて手を放した。
「魔法だ!」誰かが叫んだ。
「違う」孝吉は静かに言った。「これは能力だ。市民委員会が悪用しようとしていた能力の一つだ」
混乱は広がり続けた。ネオとハルキも市民たちと共に、警備隊から由紀を守った。
突然、大きな爆発音が広場の端から聞こえた。全員がその方向を見ると、黒煙が上がっていた。
「別の爆弾だ!逃げろ!」パニックの声が上がった。
「違う!」ハルキが叫んだ。「これは注意をそらすための...」
彼の言葉が終わる前に、特殊部隊の一団が煙幕を投げ込んだ。白い煙が広場を覆い始め、視界が悪くなった。
「由紀!」孝吉は煙の中で叫んだ。彼は彼女の最後の位置に向かって走り始めた。
煙の中で人々は混乱し、パニックになっていた。孝吉は必死に由紀を探した。
「孝吉さん!」かすかな声が聞こえた。
煙の向こうに由紀の姿が見えた。彼女はグレイを含む数人の警備員に囲まれていた。
「放せ!」孝吉は怒りを込めて叫んだ。
グレイは冷たい笑みを浮かべた。「さようなら、孝吉さん。彼女は私たちと一緒に来ます」
「由紀!」孝吉は前に進もうとしたが、別の警備員に阻まれた。
由紀は恐怖に満ちた目で孝吉を見た。しかし、その中には決意の色もあった。
「歌い続けます...」彼女は小さく言った。「人々に真実を...」
グレイたちは由紀を連れて煙の中に消えていった。孝吉は警備員を振り切ろうとしたが、その時、背後から強い衝撃を受けた。
「孝吉!」ネオの声が遠くから聞こえた。
視界が暗くなる中、孝吉は地面に倒れた。最後に見たのは、混乱の中で市民たちが警備隊と対峙する姿だった。
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孝吉が目を覚ましたとき、彼は見知らぬ部屋にいた。白い天井と清潔な壁、医療機器の音...病室だと気づいた。
「目が覚めたか」
振り向くと、ネオが椅子に座っていた。彼の顔には疲れの色が見えた。
「何が...」孝吉は起き上がろうとして痛みに顔をしかめた。
「無理するな」ネオは彼を押しとどめた。「頭に軽い打撲を負った」
「由紀は?」孝吉は急いで尋ねた。
ネオの表情が暗くなった。「奴らに連れて行かれた。どこにいるかはわからない」
孝吉は拳を握りしめた。「すぐに探さなければ...」
「その前に、これを見ろ」ネオは小さな画面を孝吉に見せた。
それは市内の様子を映したニュースだった。驚いたことに、市民たちがあちこちで抗議活動を行っていた。「真実を明らかに」「時間操作反対」といったプラカードを掲げる人々の姿が映っていた。
「広場での出来事が...」孝吉は驚いて画面を見つめた。
「ああ」ネオは頷いた。「由紀の歌と私たちの行動が、市民の心に火をつけた。データは瞬く間に拡散し、今や市全体が真実を求めて立ち上がっている」
「市民委員会は?」
「混乱している」ネオは少し満足げに言った。「彼らは『デマ』と主張しているが、証拠は明白だ。多くの市民が彼らの説明に納得していない」
孝吉はしばらく黙って考え込んだ。「だが、由紀がいなければ...」
「ここにいるよ」
新しい声に二人が振り向くと、ドアの前にハルキが立っていた。そして彼の隣に...
「リン!」孝吉は驚いて声を上げた。
マエストロ・リンが微笑みながら部屋に入ってきた。「お久しぶりです、孝吉さん」
「どうやって...?」孝吉は混乱した表情で尋ねた。
「私には多くの教え子がいます」リンは静かに言った。「中には市民委員会内部で働いている者もいます」
「由紀のことを知っているのか?」孝吉は切迫した声で尋ねた。
リンは真剣な表情になった。「はい。彼女は市民委員会の秘密施設に連れて行かれました。グレイは彼女の能力を使って...別の計画を進めようとしています」
「別の計画?」
「プロジェクト・リバースの代替案です」ハルキが説明した。「彼らは装置の破壊によって時間操作の方法を失いましたが、由紀の能力を使って別の方法を試みようとしています」
「具体的には?」ネオが尋ねた。
「集団洗脳です」リンは厳しい表情で言った。「由紀の歌には人々の心に影響を与える力がある。彼らはその能力を悪用して、市民全体の記憶や認識を操作しようとしているのです」
孝吉は震える手でシーツを握りしめた。「許さん...」
「彼女は協力するでしょうか?」ハルキが心配そうに尋ねた。
「強制されれば...」リンは悲しげに言った。「彼女の能力は感情と直結しています。恐怖や痛みから生まれる歌は...危険な効果を持つことがあります」
「場所はわかるのか?」孝吉は決意を込めて尋ねた。
「はい」リンは頷いた。「東区の地下、旧軍事基地です。かつては秘密研究所として使われていました」
「警備は?」ネオが実務的に尋ねた。
「厳重です」リンは正直に答えた。「しかし...今は混乱の時です。市民の抗議行動に対応するため、多くの警備員が動員されています」
孝吉はゆっくりとベッドから起き上がった。痛みはあったが、それ以上に強い決意があった。
「今夜行く」彼はきっぱりと言った。
「無謀だぞ」ネオは反対した。「もう少し休んでから...」
「時間がない」孝吉は静かに言った。「由紀が...彼らの手の中で苦しんでいる」
ハルキとリンは顔を見合わせ、そして頷いた。
「私たちも行きます」リンが言った。
「危険だ」孝吉は心配そうに言った。「特にリンさん、あなたは...」
「私も能力者です」リンは微笑んだ。「そして、私の教え子を救うためなら、どんな危険も厭いません」
ネオはため息をついた。「仕方ない。私も行く」
四人は計画を立て始めた。ハルキはリンの教え子から得た情報を基に、施設の見取り図を描いた。ネオは武器や道具を準備し、リンは彼女の能力—才能を見抜く力—を使って、各自の役割を最適化した。
「孝吉さんは中央制御室のシステムを無効化する」リンは説明した。「ネオさんは警備員の対応を、ハルキさんは由紀の正確な位置の特定を担当します」
「あなたは?」孝吉が尋ねた。
「私は...別の方法で助けます」リンは謎めいた微笑みを浮かべた。
準備は夕方までかかった。孝吉の傷は完全には癒えていなかったが、彼は痛みを無視した。由紀を救うという一点に、彼の全精神が集中していた。
夜になり、四人は別々のルートで東区の旧軍事基地に向かった。街はまだ騒然としており、あちこちで抗議活動が続いていた。それが彼らの行動の隠れ蓑になった。
基地の外周に到着したとき、彼らは警備の状況を確認した。確かに、通常よりも警備は薄かったが、それでも侵入は容易ではなかった。
「あそこだ」ハルキが小さな通気口を指さした。「その通気システムを通れば、内部に入れる」
「私には狭すぎる」ネオが不満そうに言った。彼の体格では通気口を通ることは不可能だった。
「あなたは別の役割を」リンは彼に言った。「外部からの妨害工作を。警報システムを混乱させてください」
ネオは頷き、自分の役割を受け入れた。
孝吉、ハルキ、リンの三人は通気口から侵入することにした。孝吉が先頭に立ち、通気口の格子を手で触れて壊した。彼の能力は、こういった細かい作業に特に有効だった。
「行くぞ」孝吉は小声で言った。
三人は狭い通気口を這って進んだ。年齢を考えれば驚くべき柔軟性で、孝吉とリンは難なく通路を進んでいった。
約15分後、彼らは施設内部に到達した。ハルキの案内に従い、彼らは中央制御室に向かった。
「気をつけて」ハルキは警告した。「監視カメラがある」
孝吉は手を伸ばし、近くのカメラに集中した。数秒後、カメラから小さな火花が散り、赤いランプが消えた。
「この先は?」孝吉が尋ねた。
「右に曲がって、二つ目の扉」ハルキは指示した。
彼らは慎重に廊下を進んだ。施設内は意外なほど静かだった。多くのスタッフが市内の混乱対応に出ているのだろう。
二つ目の扉に到着すると、孝吉は再びロックに手を当てた。彼の集中力は以前より高まっており、ロックはすぐに解除された。
扉の向こうは中央制御室だった。幸いにも、室内には一人の技術者しかいなかった。
「動くな」ハルキは素早く技術者の背後に回り込んだ。
驚いた技術者は抵抗せずに降参した。リンは彼に近づき、静かに話しかけた。彼女の声には不思議な説得力があった。
「由紀はどこにいますか?」
技術者は混乱した表情を見せたが、すぐに答えた。「地下三階...実験室Cです」
「グレイは?」孝吉が鋭く尋ねた。
「彼も...そこにいます」技術者は震える声で言った。「彼らは何か...放送の準備をしています」
三人は顔を見合わせた。時間がないことは明らかだった。
「システムを無効化できますか?」リンが技術者に尋ねた。
「はい...できますが...」
「やってください」リンは優しいが断固とした声で言った。
技術者はためらいながらも、コンソールを操作し始めた。「セキュリティシステムをメンテナンスモードに切り替えます...これで30分間、すべての自動警報が停止します」
「ありがとう」リンは感謝の意を示した。
ハルキは技術者を拘束し、彼らは再び移動を始めた。今度の目的地は地下三階の実験室Cだった。
彼らはエレベーターを使わず、非常階段を使って下降した。途中、数人の職員と遭遇したが、孝吉の能力で彼らの通信機器を無効化し、リンの説得力で協力を取り付けた。
地下三階に到着した彼らは、実験室Cを目指した。廊下の突き当たりに大きな金属扉があり、その前には二人の警備員が立っていた。
「どうする?」ハルキが小声で尋ねた。
「私に任せて」リンは前に出た。
彼女は優雅に警備員に近づき、何かを話し始めた。警備員たちは最初警戒していたが、リンの声を聞くうちに、徐々に緊張が解けていくようだった。
孝吉とハルキは驚きながらも、この状況を利用した。彼らは静かに近づき、リンが警備員の注意を完全にそらしている間に、扉に到達した。
孝吉は扉のロックに手を当て、集中した。これは今までで最も複雑なロックだった。彼は全精神を集中させ、内部の機構を感じ取った。
「できた」彼はついにつぶやいた。
扉が静かに開き、彼らは中に入った。
実験室の内部は広く、中央には大きな装置が設置されていた。それは音響増幅システムのようで、複数のスピーカーとマイクが接続されていた。そして、その中心に...
「由紀!」孝吉は思わず声を上げた。
由紀は透明なブースの中に立っていた。彼女の顔は疲れ切っており、目の下には暗い影があった。しかし、孝吉の声を聞いて、彼女の目が輝いた。
「孝吉さん...」彼女の声はかすかだった。
「よくぞ来てくれた、孝吉」
冷たい声が響き、グレイが装置の陰から現れた。彼の隣には数人の特殊警備隊員がいた。
「由紀を解放しろ」孝吉は静かな怒りを込めて言った。
「残念ながら、それはできない」グレイは冷静に言った。「彼女の能力は、私たちの新しい計画に不可欠なのだ」
「新しい計画?」
「プロジェクト・ハーモニー」グレイは誇らしげに言った。「時間を物理的に変えることはできなくても、人々の記憶と認識を変えることはできる。由紀の歌には、そういう力がある」
「人々を洗脳するつもりか」ハルキが怒りを込めて言った。
「洗脳ではない...調和だ」グレイは熱意を込めて言った。「混乱した社会に、統一された認識を与えるのだ」
「それは間違っている」リンが静かに言った。「人々の自由な思考を奪うのは、最大の罪だ」
「自由?」グレイは皮肉な笑みを浮かべた。「人々は常に誰かの影響下にある。私たちは単に...より良い影響を与えようとしているだけだ」
「由紀は協力しないだろう」孝吉は自信を持って言った。
「彼女には選択肢がない」グレイは冷たく言った。「このシステムは彼女の声を増幅し、特定の周波数パターンに変換する。彼女が何を歌おうと、出力される音は私たちの設定した効果を持つ」
「許さん...」孝吉の声は低く、危険な響きを持っていた。
「止めてください!」由紀が透明なブースから叫んだ。「孝吉さん、危険です!」
グレイは警備隊員に合図した。「彼らを排除しろ」
警備隊員たちが動き出したその瞬間、孝吉は両手を前に突き出した。彼の全身から波動のようなものが発せられ、室内の電子機器が一斉に火花を散らし始めた。
「何をする!」グレイは驚いて叫んだ。
孝吉の能力は以前よりも強力になっていた。彼は単に機械を壊すだけでなく、部屋全体のシステムに干渉していた。照明が点滅し、コンピューターの画面がちらつき、警報が誤作動を起こした。
混乱の中、ハルキとリンは警備隊員に対応し、孝吉は由紀のブースに向かった。
「由紀!」孝吉はブースのガラスに手を当てた。
「孝吉さん...」由紀は涙ながらに彼を見つめた。
孝吉は全精神を集中させ、ブースのロックシステムに干渉した。複雑な機構が次々と解除され、ついにブースのドアが開いた。
「行くぞ!」孝吉は由紀の手を取った。
しかし、その瞬間、鋭い痛みが孝吉の背中を貫いた。振り返ると、グレイが銃を構えていた。
「お前たちは行かせない」グレイは冷酷に言った。
孝吉は痛みを押し殺し、由紀を守るように前に立った。「もう終わりだ、グレイ。外では市民たちが真実を求めて立ち上がっている」
「だからこそ、このプロジェクトが必要なんだ!」グレイは叫んだ。「混乱を収めるために!」
「真の混乱はあなたたちが作り出したものだ」リンが静かに言った。彼女は警備隊員との争いから抜け出し、グレイに向き合っていた。
「黙れ!」グレイは銃をリンに向けた。
その瞬間、由紀が前に出た。「もう十分です」
彼女は深呼吸し、歌い始めた。それは孝吉が聞いたことのない歌だった—平和と真実を求める、深い感情に満ちた歌。彼女の声は部屋中に響き渡り、不思議な共鳴を生み出していた。
グレイは銃を彼女に向け直した。「止めろ!」
しかし、由紀の歌は止まらなかった。むしろ、より強く、より純粋になっていった。彼女の周りに光が形成され始め、それは部屋全体に広がっていった。
孝吉、ハルキ、リン、そして警備隊員たちさえも、その歌に引き込まれていくのを感じた。それは心の奥深くに届く、真実と和解の歌だった。
グレイだけが抵抗を続けていた。「止まれ!」彼は銃を構えたまま叫んだ。
「もう暴力は終わりにしましょう」由紀は歌の間に言った。「真実を受け入れる時です」
彼女の言葉とともに、部屋の中の緊張が溶けていくのを孝吉は感じた。警備隊員たちは武器を下ろし、混乱した表情で互いを見つめていた。
「馬鹿な...」グレイは震える手で銃を持ち続けていた。
孝吉はゆっくりと彼に近づいた。「終わりだ、グレイ。もう十分だ」
「終わりじゃない...」グレイは絶望的な表情で言った。「私たちは...より良い世界を作ろうとしていただけだ」
「強制された世界は、より良い世界ではない」孝吉は静かに言った。「人々は自分たちで選択する自由を持つべきだ」
グレイの手から銃がゆっくりと滑り落ちた。彼の表情には、長い間抱え続けた重荷から解放されたような安堵が見えた。
由紀の歌は静かに終わり、部屋には不思議な静けさが残った。
「さあ、行きましょう」リンが言った。「外の世界が私たちを待っています」
四人は実験室を後にした。警備隊員たちは彼らを止めようとはせず、グレイもただ座り込んで、虚空を見つめるだけだった。
彼らが施設を出ると、外ではネオが待っていた。彼の表情は安堵に満ちていた。
「成功したのか」
「ああ」孝吉は頷いた。「由紀の力で」
「市内の状況は?」ハルキが尋ねた。
「市民委員会は崩壊寸前だ」ネオは少し笑みを浮かべた。「真実が広まり、多くの高官が辞任している。新しい暫定政府が形成されつつある」
五人は静かに夜の街を見つめた。サンクトリアの街には、新たな夜明けが訪れようとしていた。