濡れ烏のカエリミチ
今年のホラー小説企画のテーマは「水」です。
海行くと肌荒れるからプール行きたい。
てか一人でプールとか惨めだわやめとくわ。
烏の号哭が、冷めた雨音の中から聞こえてきていた。
長靴と雨の二重奏の隙間から届いた声に、少女は少しの恐怖と嫌悪感を感じた。雨粒が艶やかな公園の広葉樹を穿ち、拍手やまないオーケストラを演じている。
公園で喧しく鳴く烏の声を追い払おうと、少女は傘で叩いた。傘の骨を伝って、硬くも柔らかさを含んだ感触が手まで昇ってきた。
天気予報で大雨だと知っていた少女は、家にてるてる坊主を拵えて、傘にレインコート、長靴と完全装備で登下校し、我が家への道を歩む途中で、この公園の烏と遭遇した。
少女は最後に傘をさして、雨合羽から伝わる冷たさを心地よく感じていた。雑音もつい今しがた消えて、「1/fゆらぎ」のリズムが純粋に包まれたまま幼き鼓膜を震わせる。
雨具で身を守りながらも、少女は自然的な刺激に喜んでいた。
烏の声も消えて少し静かになった帰り道を、赤い長靴と白いレインコートを着て歩いていく。
ザーザーと降り頻る水の空襲から逃げるため、防空壕へとバシャバシャ靴音を鳴らした。ゴム製の少し軽い音が、沈んだアスファルトの上を通過していった。
日照り続きで久々の雨もあってか、面白みの無くなった帰路が今日は違って見えた。
車の往来もない道、大蛇がうねる川のそば、古い空き家。まるで雨の止まない異界に迷い込んだような気分だ。少女は少し気分が高揚した。
そして家まで真っ直ぐ歩けば着く道に差し掛かった時、少女は急に悪寒と不快感をその身に感じた。これは雨の冷たさでも、青黒い雲のせいでもないと勘が告げていた。さっき冗談のつもりで思っていた異界に、本当に自分だけが放り出されたような孤独感と異質に対する恐怖が、心臓から血管を伝って全身に駆け巡ってきた。
様々な感情が少女の動きを止める。そんな彼女を、元凶は待ってなどくれなかった。
ぐちゃ
ぐちゃ
グチャ
くちゃ・・・・・・。
肉感のある気持ち悪い音が、雨の中であるはずなのに背後から反響のように耳にこびりついた。乱れたリズムが異様な存在をアピールしてくる。
少女は、その正体が気になって仕方がなかった。振り向くこともせず前を歩くことが本能が叫んだ最善だが、運命は不幸を選び、子供の好奇心は悪い方向へ傾いてしまった。
とにかく、ゆっくりと背後を振り向く。
雨にしては鮮明に見える、いつもと同じ住宅街の路地がそこにはあった。
正しくは、いつもと同じに"見える"だけの街があった。見てくれだけのハリボテが羅列するかのように、人やペットなどといった命の気配が、幼い女の子にも感じられないくらいに閑散としていた。
しかし、その鮮明さが逆に少女に恐怖感を与えた。
自分以外に、水溜りを歩く水音がする。
霧があれば誰かいるかもしれないという現実逃避ができたが、現実は無常に少女以外に誰もいない路地にいる"ナニカ"を、彼女の双眸に見せつけていた。
そこに何もいない、なのに、近づいてきている。
音がある程度近づいてくると、少女は目前の虚空に黒い烏の群れを幻視した。影なのか、黒羽の集合体か。幻視と言ったがそこに居る現実かもしれない。
それに、なにやら異臭もする。
酸っぱい?
違う
生臭い?
違う
一言で言い表せない悪辣な混沌のような臭いが、少女を絡めとろうとそよ風に乗って運ばれてきた。墨汁のような匂いも少し混ざって、それらはより複雑な不快を作り出していた。
目の前のナニカから発されている、不快感と嘔吐感を促してくる異臭を、少女は幻覚だと言い切ることはできなかった。
判断のつかない恐怖がそこにいることだけは分かった少女は、遂にその黒い塊の深淵を見てしまった。
小さな無数の目玉が、痙攣することなく少女を黒の中から見ていたのだ。
少女は小さな悲鳴を漏らした。光のない交際が、少女に別の恐怖を思い起こさせる。
それは、地獄に堕ちた死者が復活してきたのと似たような恐怖だった。ようやく動いた足が、傘を置き去りにした。見捨てられた傘は逆さまになり、薄い水面に浮いている。
少女は、そこまで遠くない自宅を目掛けて走った。ランドセルが揺れて肩を痛めるが、そんなことは知ったことではない。
少女はバチが当たったと思った。悪い子を攫うナマハゲや、黒いサンタクロースより恐ろしい存在が、湿気と瘴気を纏って追いかけてくる。
烏のように黒いものが影の中で蠢いていたことも、少女に嫌な汗を流させた。
あれは、多分長い髪だ。曇天の光に反射した、湿った髪が艶を放っていたのだ。
後ろから、水音は聞こえない。いや、雨のせいで聞こえなくなってしまっただけなのかもしれない。
振り返れない。
あの姿をもう一度見てしまえば、自分は恐怖のあまり水溜まりに飛び込んで溺死する道を選んでしまうだろう。
そして家に近づくにつれ、鉄臭い匂いが強くなってきた。
いつのまにか灰色の雨は錆色に変色してきていた。
その不気味な水が、レインコート越しでも体にまとわりついていることに、少女は生理的嫌悪感に苛まれた。その雨の一粒一粒が、まるで意思を持った生物であるかのように感じた少女は、鳥肌を立てながらもその雨たちを無視した。
死にたくない一心で走っていると、我が家の磨りガラスでできた玄関が見えた。ビショビショのまま家に入り、玄関をすぐ閉めて鍵もかける。そして、真っ直ぐに家の中を向いて自殺を目指そうとした。
その瞬間、
ドンドンドンッ!!!
ガラスと木を叩いて揺れる音がした。
原因は分かっている。
さっきのナニカだ。
少女は背筋が伸びて飛び上がるほど驚いたが、反射的に振り向くことだけは逃れた。
黙って自室に入り、宿題に手をつけることもなく布団にくるまって晴れるか親が帰ってくるのを待った。窓を叩いているわけでもないのに、あの叩く音や網膜に映った恐ろしい光景が頭から離れず、寝るまでずっとトラウマのように少女の脳裏を焼き焦がした。
彼女を見守っていたのは、薄笑いを浮かべるてるてる坊主だけだった。
無事に部屋で過ごすことができた少女は後日、親に指摘されるまで気づかなかったが、彼女は寝るまでの間、ずっと自分の腕を握りしめていて、爪が食い込んで血が出るほどだったという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
翌日は雲一つない晴天だった。
昨日のことが悪い夢だったかのように、街に異変があった痕跡なんてなかった。
親も学校の先生も生徒も、何一つ変わっていなかった。
それに安心する一方、少女は帰り道が怖くなった。また急に雨が降ってきて、今度こそ自分を何処かに連れ去ってしまうと思うと怖くて仕方なかった。
同時に、少女は雨が嫌いになった。
花にとっては恵みの雨が、少女にとっては自分を侵食してくる悪意にしか感じられなくなってしまっていた。
今日は早く家に帰ろう。
少女はまだ街が明るいうちに家路へと急いだ。
その道中で、昨日カラスの声を聞いた公園の前を通った。なんだか気になって公園に入ると、昨日の烏が地面で倒れていた。黒い羽はまだ湿っていて、それがより生気のなさを感じさせる。
少女は申し訳程度に、濡れて掘りやすくなった土を掘って、その死体を穴に埋めてあげた。土を被せて、花の代わりにクローバーの混ざった草を飾った。
これでよし。
整理のついた少女は公園で手を洗って汚れを落とし、再び家に帰っていった。
少女はこの日、晴れがもっと好きになった。
4日後、少女が立ち寄った公園から、5日前に行方不明になっていた長髪の女子小学生の死体が発見された。どうやら、発見当初は土の中に埋められていたらしい。
体には複数の打撲痕があり、最後に喉を細い棒のようなもので突かれ潰されていたと、酷い内容がニュースで流れていた。
警察はこれを殺人事件として捜査していくと発表。ここ数ヶ月続く児童の行方不明や殺人事件に、町の人々は不安になっていた。
少女は、リビングで家族と朝の暗い報道を見て、犯人が早く見つかりますようにと願った。
それと同時に、少女は誰にも聞こえない声で呟いた。
―――あ〜あ・・・。お巡りさん、またカラスさんの墓を荒らしちゃったなぁ―――
用無しになって捨てられた"てるてる坊主"は、ゴミ箱の中で嗤っていた。
バリコワって映画がオススメだよ!
二度と見ねえけど。