春
「お邪魔します」
ドアを開けた瞬間、シオン特有のデージーの香りが鼻をくすぐった。
彼の匂いを嗅ぐといつも心が落ち着く。
「九くんちって初めて来たな〜」
皇はキョロキョロと珍しそうに部屋を見回した。
「ちょっと風呂入ってくる。試合で汗かいたし、べたべたして気持ち悪い」
シオンはカバンをきちんと玄関脇に置くと、風呂場へと消えていった。
(え?シオンこれから風呂に入るって?ってことは今から皇さんと二人きりってことじゃん!)
息が詰まりそうになるくらい、ドキドキが止まらなくなった。
(やばい。何話せばいいんだよ...)
皇に顔を見られないようにソファーに座り、ただただ床を見つめた。
彼はソファの方へゆっくり歩いてきて、カバンを置くと俺の向かいに腰掛けた。
「藤田くん...?」
(えっ?俺?今、俺の名前呼んだの?)
突然の呼びかけに、背筋がピンと伸びた。
「は、はいっっ!!」
「あはは、別にそんなに緊張しなくていいよ。後輩だろうけど、シオンの友達だし、敬語はやめて」
彼の細められた目と柔らかい笑顔が、眩しすぎた。
「あっ!はい!あっ、いや、うん...」
俺は小さく返事をして、またしても黙り込んでしまった。
皇は少し考え込むような表情をして、また口を開いた。
「九君とはかなり長いの?付き合い」
「あ、そうですね。幼稚園からずっと一緒だし」
いきなりため口なんて、そう簡単に切り替えられるわけがなかった。
バッチリ不自然な笑いを浮かべた。
「いいなぁ」
彼は少し寂しげな声で呟いた。
なんか切なそうな目をしてる皇を見て、思わず話題を変えた。
「あっ!今日の試合かっこよかったです」
いきなり試合の話を振られて、彼は一瞬「えっ?」みたいな顔したけど、すぐにいつもの優しい微笑みに戻った。
「そう言われると嬉しい。ありがと」
ふわっと微笑む彼の姿に、目が眩んだ。
(こうやって憧れの皇さんと二人きりなのに、まともに会話できないなんて)
体感だと永遠とも思える沈黙が流れ始めた。
何を話せばいいのか全く分からなくなった俺は、もうただただ黙って床を見つめるしかなかった。この日のために「スメラギさんと話す100の話題」なんてノートに書き出したのに、今はすべて頭から消え去っていた。
俺が明らかに引きつったような顔で緊張しているのを見て、彼もこれ以上話しかけるのをやめたみたいだった。
そんな時、天から舞い降りた救世主のように、シオンが風呂からあがってきた。
「はぁ〜、サッパリした〜」
シオンは上半身裸のまま、タオルで髪の毛をガシガシ拭きながら出てきた。
(シオン様!絶妙なナイスタイミング!)
俺は心の中で土下座しながら、嬉しそうな顔で振り返った。
さすが毎日の筋トレと試合の練習でできた体は、鉄板みたいにカッチカチだった。
分厚い肩幅、男として羨ましい体つきだった。
「はると。汗かいたら風呂入っていいよ。服貸してやるから」
シオンは気さくに声をかけた。
こんなに自然に憧れの皇さんと会話できるシオンが、正直うらやましかった。
「確かに少し気になるけど...いいの?そこまで世話になっちゃって」
「いいよ。入ってる間に適当に服置いとくから」
シオンはタオルで髪をブンブン振りながら言った。
「じゃあ、お言葉に甘えるよ」
皇は席を立ち、風呂場へ向かった。
彼が部屋から出ていくと、まるで重りが外れたかのように、やっと息ができるようになった。
シオンはドサッとソファに座り込みながら尋ねてきた。
「ハルトとなんか話した?」
「...まぁ」
「ハルトってさ、マジでいい奴なんだ。性格もいいし、イケメンだし、勉強もバリバリできるし。お前もいい加減、俺としかつるまないで他にも友達作れよって思って、今日連れてきたんだ」
シオンは胸を張って言った。
(いやだからなんで『他の友達』がいきなり皇さんなんだよ!ハードル高っか!)
でも、幼なじみに自分が皇 陽斗のヲタだってバレるわけにはいかない。
だから無理やり笑顔をつくって言った。
「うん、ありがとう」
「何か食べたいものある?作るよ」
シオンは席を立ちながら尋ねた。
「何でもいいよ」
「じゃあ、みんな好き嫌いなく食べられるオムライスにしよう」
彼はタオルを洗濯かごに入れた後、キッチンへ向かった。
そして裸の上半身にピンクのエプロンを巻いた。
白い猫の顔が胸に描かれていて、彼には似合わなかった。
「あ、そうだ。ユイト。引き出しから適当に服取って、ハルトに持っていってくれる?」
彼は玉ねぎを切りながら言った。
「...え?」
突然の彼の言葉に戸惑った。
「ごめん。今、席を離れられなくて」
やっと落ち着いた心臓がまた狂ったように鼓動し始めた。
「...わ、わかった」
また緊張し始めた。
引き出しから服を取り出し、浴室へ向かった。
浴室へ向かう足取りは重く、その足音に合わせて心臓がドクドクと脈打った。
ドアの前に立つと、シャワーの水が落ちる音が聞こえてきた。
その水音を聴いていると、緊張で何も行動できなくなった。
僕は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
そして手を上げてドアをノックした。
トントン
「服...ここに置いていくね」
俺はしゃがみ込み、丁寧に折りたたまれた服をドアの横に静かに置いた。
服を置いて立ち上がろうとした瞬間、ドアが開いた。
「あっ」
本能的に目を覆ってしまった。
「ありがとう」
彼の優しい声に、そっと目を開けた。
タオルを下半身に巻いている彼は、笑いながらお礼を言った。
「う...うん」
彼は服を持って中に戻った。
「ふぅ...はぁ........」
溜めていた息を一気に吐き出した。
(これは危険すぎる。何考えてるんだよ)
自分を責めた。
一瞬見えた彼の引き締まった筋肉質の体が思い浮かんだ。
シオンが厚い鉄板のように固く荒々しい筋肉なら、ハルトはまるで大理石の彫刻のように滑らかで精巧な線で構成された筋肉だった。
(しっかりしろ)
自分の頭をコンコンと叩きながら、急いでその場から離れた。
リビングに戻ると、美味しそうな匂いがし始めていた。
「ユイト、テーブルセッティングしてくれる?」
シオンは一生懸命卵を返しながら僕に頼んだ。
「わかった」
俺はスプーンとお箸を適切にセットした。
「できた」
シオンは準備の整ったオムライスを席に一つずつ置き始めた。
「美味しそう」
オムライスの香りは鼻をくすぐり、さっきまでの緊張感を和らげてくれた。
「どう?!」
「ありがとう、シオン」
中学生の頃から両親がいなくて、一人でまともに食事を取れない俺をいつも家に連れてきて食事を作ってくれたシオンだった。
だから彼の料理の腕前は食べなくても分かる。
素晴らしいということを。
しばらくして、皇が髪を慎重に拭きながら出てきた。
「タオルはどこに置けばいい?」
「適当に放り投げておけば。あとで片付けるから」
シオンの言葉にも皇は周りを見回しながら洗濯かごを探した。
そして慎重にその中に入れてから、キッチンに向かって歩いてきた。
「美味しそう」
皇はオムライスから目を離さず、笑いながら言った。
彼は自然と俺の隣に座った。
突然の二度目のイベントに、また体が固まってしまった。
(なに?俺の隣に座るの?これはちょっと早すぎるいけど、いや。向かい合って食べるのも緊張しすぎるし、かといって隣で一緒に食べるのも緊張するよ!)
予想外のことに、俺の頭の中はまた騒がしくなり始めた。
(待って、皇さんって左利きじゃなかったっけ)
とんでもないことに気づいたかのように騒ぎ始めた。
(これは絶対に腕が触れるしかないけど、どうしよう。皇さんの腕に触れていいのか!?)
「藤田」
俺がああでもないこうでもないと妄想に苦しんでいるとき、皇が話しかけてきた。
「もし右利きなら、僕と席替わらない?不便かと思って」
彼は慎重に尋ねた。
俺なんかにまでこんな細やかな配慮をしてくれる彼の姿に、また別の好感が生まれた。
「うん...」
俺は席から立ち上がった。
そのとき、皇が立ち上がりながら、懐かしいシオンのデージーの香りが鼻をくすぐった。
何か心臓がドキッとした。
シオンの家で入浴したから当然のことだけど、俺の心臓には石ころが落ちてきて、息苦しくさせた。
でもその理由は分からなかった。
見知らぬ感情に包まれる自分が嫌になって、何でもないふりをしてすばやく席を替わった。
「いただきます」
短くお礼を言うと、急いでオムライスを口に運んだ。
余計な考えを頭から消したかった。
「お、お腹空いてたんだな、ユイト」
シオンは満足そうな目で僕を見て笑った。
「早く食べてみて」
シオンは期待の眼差しでスメラギが食べるのを待っていた。
皇はゆっくりとスプーンに一口すくい、口に入れた。
「おっ!!」
彼は口を少し隠しながら、モグモグと噛み始めた。
そして大きな目をキラキラと輝かせながら言った。
「すごく美味しい」
「でしょ?これがシオン様の実力ってやつだ」
シオンは彼の反応にかなり満足したようで、しばらく笑顔を浮かべた後、食べ始めた。
食事を終えるまで、僕は見知らぬ感情に包まれ、食べ物がどこに入ったのかさえ分からなかった。
「今日は本当にありがとう」
皇がドアの前でシオンに挨拶をした。
「また明日」
「うん、二人とも気をつけて帰って。ユイト!着いたらメールして」
シオンは俺を心配そうな口調で言った。
「もう子供じゃないし」
俺はぶつぶつ言いながらドアを閉めた。
「ははっ。二人、本当に仲がいいんだね」
皇は軽く笑いながら俺を見た。
見知らぬ感情はまだ消えていないのに、皇と二人きりになってしまった。
(どうしよう?)




