因縁の決着
朝の五時に起床し、魔族調査員らの部屋を一つ一つ訪ねた時には、既に全員が出払っていた。魔族にしては随分早い出で立ちだと疑問に思ったが、調査に精力的なのは良い事だし、いずれにせよ四日後の会合で伝えれば済むことだから、特に気にはしなかった。国王直属の大臣は調査期間として、到着までのおよそ一ヶ月を除く一ヶ月の猶予を与えてくれたのはありがたいが、魔王城下町の人目につかない裏通りにある、魔族さえも使わないような薄汚い下宿所で、これからのおよそ一ヶ月を過ごさねばならないと考えると、気が重かった。
「スピカ。そろそろ起きろ」
俺たちがこの魔境で、魔族によって殺される可能性はゼロと言っていい。仮に俺たちが殺されたとなれば、いつまで経っても帰還しないことで事件が発覚し、国王は国際問題に発展させるだろう。奴らは、特に魔王は、公沙汰を嫌っている。とは言え、企画者は自分だし、むしろ気の休める宿まで用意してくれて、ありがたいと思うべきなのかもしれない。死地の中でも最も死に近いこんな場所まで潜り込むような人間は、俺とスピカの二人だけだ。スピカは目を輝かせて下宿所のあちこちをうろつき回っていたが、「魔族に見つかるぞ」と一言伝えると、見る見るうちに大人しくなって、ついに一言も喋らなくなった。魔族とはそういうものなのだ。
「この道具は何?」
馬車の荷に積まれた物々しい装置を見て、スピカが言った。それは馬車の天井ギリギリまで届くほどの大きさで、見るからに複雑そうな作りをしていた。
「後で分かる。こんな物、触ったこともないがな」
ベヌスが"それ"を紐で縛り付けながら言うと、スピカは驚いたような顔をした。
「扱えるの?」
「扱えなかったら、俺もお前も帰国した時に殺されるぞ」
べネスのこの言葉が冗談ではないことは、スピカにもよく分かった。
今日は日射しが一段と強く、それゆえ蒸し返すような暑さだった。馬車の速度に身を任せ、向かい風の心地良さを感じようとしても、風さえ生暖かく、額からしたたり落ちる汗を少しばかり食い止める程度である。
馬の動きも少々鈍くなってきており、今ここにいる四体の雄が、心身ともに限界を迎えているのが分かった。
「休憩しよう。スピカ、荷台から日除けのブランケットを持ってきてくれ」
スピカは嬉しそうに頷くと、颯爽と御者席から荷台に飛び降りた。
スピカから受け取ったブランケットを手際よく二頭の馬に被せると、スピカと同様、荷台に逃げるように飛び込んだ。木陰のないこの場所では、唯一の避難所だった。
スピカは革製の筒を握りしめて、喉を鳴らしながら水を飲み始めた。それを見ているうちにこちらも喉が渇いてきて、巾着袋の中に紙で包まれた砂糖と香辛料を混ぜた粉末を取り出すと、それを自分用の飲み水に入れた。交際を初めてから三ヶ月目に、妻が教えてくれた秘伝のレシピだ。
ふと、妻との思い出が蘇った。華奢な身体の上から、銀色の重厚感ある鎧を身にまとい、俺に別れを告げて去っていった。その姿の、何と似合わなかったことか。まるで不格好で、着られていて、その姿からはなんのいかめしさも感じない。それなのに、無理に戦場に出るからだ。信念を貫き通して、尽くす価値のないものにひたむきになるから――。
「父さん、何を入れてるの?」
スピカの声で、はっと気がついた。
「水が甘くなる粉末だ。お前も入れるか」
スピカはうなずくと、残り半分ほどしかない水の中に、ベヌスが入れたのと同じ量の粉を投入した。
「バカだな。甘くなりすぎるぞ」
「甘いのは好きだから大丈夫だよ」
まるで分かりきっていない息子に、ベヌスは呆れながら水を一口含んだ。
「うぇっ。甘い! 父さん、飲めないやこれ。水が台無しになっちゃった……」
「はあ……これを飲め」
案の定スピカが泣きついてくると、ベヌスは仕方なく自分の水を譲った。
一瞬とも思える休憩が終わると、ベヌスとスピカはもちろん、二匹の馬たちも嫌々動き出し、果てしなく続くのではないかと思われる道無き道を、暑さに悶えながら走らせた。
コヤック中継貿易町に繋がる退屈な道を進み続けると、やがて村が見える。それを通り過ぎると特徴的な丘陵地帯が続き、中心部分がくぼんで平地のようになっている所を目指せば、コヤック中継貿易町"だった"場所に到着する。
ベヌスとスピカは馬車を降りると、荷台に回り、物々しい装置に取り付けられた紐を一本ずつほどいた。
「父さん、これどうやって下ろすの?」
スピカが唖然としながら言った。
「スロープを馬車にかけろ。かけたか――? じゃあ、動かすぞ!」
ベヌスはそう言うと、鬼のような形相でふんばりながら、巨大な装置を引きずり下ろした。
「もしかして、乗せる時も同じようにやったの?」
「ああ……魔族なんかには頼りたくないからな」
ベヌスは息を切らしながら、威張るように言った。
「父さんなら、もっと頭を使って楽にできたはずだけど」
装置を町のおおよそ中央部分まで引きずると、ベヌスは装置に取り付けられた梯子をつたって上部まで上り、装置の中心を通る、先端が針のようになっている水晶製の棒に取り付けられた紐を掴んだまま飛び下りた。紐は滑車を経由して垂れ下がっており、ベヌスが全体重をかけながら綱引きのように紐を引くと、円柱状のガラスで仕切られた中の方で、棒が少しずつ上がっていくのを見て、スピカは盛り上がった。
その瞬間、紐が手放されると、水晶の針が勢いよく地面に突き刺さった。スピカは初め、父が力尽きたのかと思ったが、ベヌスの満足そうな顔を見て、これで正解なのだと悟った。
「この装置は、地質から大規模魔法の痕跡を読み取る為のものだ。出発に向けてあらかじめ、魔法学に精通した学者から貸してもらった」
ベヌスはスピカの質問に答えながら、懐から石のようなものを取り出した。
「そしてこれは耗石だ。魔力に触れると、その分だけ石が溶けて無くなる。微量な魔力でも反応するが、消耗量は少ない。石の消耗がこの円よりも内側に来たら、コヤック中継貿易町の転移は魔法によるものだと証明できる」
ベヌスの言った通り、石をはめるための窪みには、赤い線が描かれている。
「転移は魔法によるものなの?」
「文献を読み漁ったが、どうやら優れた|魔波《
まは》を持つ、ごく少数の者だけが転送術を扱うことができたらしい。それが、いわゆる魔王陣営なんだが……魔王ギライアンはもちろん、その配下の五忌魔配でさえ、詳しい素性や能力を明かさないときた。つまり現時点では確固たる証拠を突きつけることは出来ないが、その基盤となる憶測を生み出すことはできる。ほら、消耗が始まったぞ」
スピカが石の方に視線を戻すと、確かに少しずつだが、角張った無数の頂点が溶けるように消えている。いや、溶けるというよりは、まるで宙に吸い込まれているようも見える。
「いいぞ……この調子だ」
ベヌスは期待に満ちた眼差しで、永遠とも思われる石の消耗を見守っている。スピカも若干緊張し始めると、気づけば固唾を呑んで装置を凝視し、微動だにしなくなった。
石の頂点という頂点が均一に取り除かれ、丸みを帯びた石がそこに現れると、再び消耗が始まり、また角張った形状に変化していく。やがてまた角が侵食されるのだと思った矢先、石はそれ以上変化を続けず、赤の境界線を拝むことも無かった。
先程とはまた違う沈黙がその場に流れた。ベヌスは面食らったような顔をして、目を見開いている。スピカは石の消耗が既に止まっていることに気がついておらず、未だに石の方を見続けている。
「参ったな……」
顔を手で覆いながら、ベヌスは疲れきった口調で言った。
正直、確信していた。しかし転移でないとなれば、考えられるのは消滅だ。転移は魔法術式的な観点から説明できるが、消滅に関しては不可能だ。仮に町一つを綺麗さっぱり消滅させる魔法を扱う魔族がいたら、それは魔法ではなく超能力で、魔族ではなく厄災だ。転移ではなかったと判明した今、奴らを追い詰めるためのロジックも全て消え失せてしまった。
「父さん、帰ろう」
そう呟くスピカの声に悲しみの色を感じ取った瞬間、ベヌスは我に戻った。
――あの子をよろしくね。
ゆるやかな時間だけが流れていたあの日の昼下がり、妻は――タンジーは出征の間際に、スピカを抱き抱える俺にそう言い残した。その時俺はなんと答えただろうか。『ああ』という味気のない一言だったろうか。
兵士の帰還式に妻は居なかった。隣では見知らぬ親子が再会に涙している――それよりもタンジーは? 半狂乱になりながら、妻を探した。再会を喜ぶ他人の顔は、どうでもいい赤の他人の姿は嫌というほど目に入るのに、妻の姿はどこにもない。どこにいる? どこだ? 帰ってくると約束したじゃないか。そうか、一足先に家に戻っているに違いない。きっとサンドイッチでも作りながら、俺たちの帰りを待っているんだ。
全速力で街の中を駆けた。行き交う人々を避けることなど頭に無く、子供を一人押し倒した。大通りの角を曲がり、ようやく自宅が目に入ると、嬉しさのあまり、走る勢いのまま体当たりするように扉を開けた。部屋には暖かな正午の光が射し込んでいて、反射した埃が銀粉のように宙を舞っていた。こんなにも大袈裟に家に帰ってきたというのに、無反応か。「タンジー?」そう呼びかけたが、返事はない。台所にも、二人の寝室にも、厠にも、至る所を探したが、妻はいない。
不幸の予感に心臓が嫌な鳴り方をした。呼吸も荒くなった。絶望に惑わされてその場にしゃがみ込んだ時、玄関の扉が開く音とともに、泣き声が部屋中に響いた。後ろを振り向くと、王国騎士の鎧を身にまとった男が、スピカの手を握って俺を見おろしていた。
「あなた、兵士の帰還式にこの子を置いていったでしょう。父親なら……責任感を持って下さい」男はそう言うと、泣きじゃくるスピカの肩に手を乗せて何かを呟いてから、家を出て行った。――あの子をよろしくね。三年前の妻の声が蘇った。俺は、彼女との約束さえ十分にこなせない。そう思うと、笑いが止まらなかった。俺はなんて馬鹿な男なんだろう。ただの屑だ! タンジーとの宝物もその場に置いて忘れるような人間だ。俺が代わりに死ねばよかったんだ。スピカもそっちの方が幸せだっただろう。狼狽する俺の背中に、スピカの腕が回った。どうして、こんな俺でも抱きしめてくれるのか。小さく、か弱い体を両腕で包み返した時、言い表せぬ感情がふつふつと湧き上がるのを感じた。
魔族に敗けてたまるか。境遇に敗けてたまるか。運命とは定められたものではなく、自らが作り上げるものだ。
「大丈夫だ、スピカ。何も心配いらない。お前は死なないし、俺も死なない。なんたって、父さんが全部解決するからな。国に帰る時には、あの酒場でミルクでも飲みながら、魔族がジワジワと追い詰められていくのを見物できるぞ」
ベヌスの目に迷いはなかった。スピカを見つめる眼は、未来をも見据えていた。