険悪
「本日は皆様、よろしくお願いします。」
ツォルはかしこまった口調でそう言うと、左手を胸に当て、我々に向かって丁寧に一礼した。
ツォルフォイは姿勢を正すと、ベヌスの背に半分だけ隠れている十六歳の少年に微笑みかけ、「おや、もしや、威風堂々としたあなたがベヌス様かな?」とからかった。魔族から問いかけられるとは思いもしなかったスピカは、言葉を詰まらせ、父の背に隠れたまま、どぎまぎしていた。
( 全くもって、実に、実に憎たらしい男だ)
当の本人であるベヌスは、いかにも不機嫌そうにその場に佇んでいた。もちろん、ツォルフォイの社交辞令を真に受けたからではなく、息子をからかわれた事への怒りが一割、後の九割はツォルから発せられる所作の一つ一つが実に不愉快であったからだ。
「失礼しました。ほんの冗談です。本日はよろしくお願いします」
ツォルフォイは両手に纏っていた白い手袋を外すと、屈託のない笑みを浮かべながら、ベヌスに握手を求めた。
ベヌスは差し伸ばされたツォルフォイの手を一瞥すると、未だ自分の背に隠れている息子の右腕を左手で引っ張り出し、ツォルフォイの手に被せた。その行為にはベヌスのツォルとその背後にある強大な組織に対する宣戦布告の意が込められていたが、これにもツォルフォイは笑顔を崩さずに応じた。
ツォルフォイが下がった後は、それぞれ適当に挨拶を済ませ、再び馬車に乗って現場に向かった。ツォルフォイと四人の調査員が乗る見るからに真新しい馬車が先頭を走り、ベヌスとスピカの乗る年季の入った馬車はその後ろを追いかけた。
しばらく馬を走らせても、辺りにはただひたすらに草木の生い茂る草原が広がるのみであった。強いて言うならば、道中で一度だけ小さな村を通り過ぎたこと以外は、ほとんど何も無い。しかし草木の中にはアカツメクサやエゾリンドウなどの花々が、色鮮やかに美しく咲いており、緑色のキャンパスに絵具を散りばめたようだった。それらをかき分けるようにして、それらしい道――道と言えば道だが、道でないと言えば道とは言えぬ――があちこちにうねりながら、地平線の彼方まで続いていた。
太陽が頭上を少しばかり通り過ぎた頃、一同はなだらかな丘を下り、そして、先端が赤く染められた木の棒が突き刺さっている少し手前に馬車を停めた。
「どうしてこのようなことに……」
ツォルフォイが馬車を下りながら、呆然とした様子で言った。調査員の魔族らも、ツォルフォイに続いて外に出ると、改めて落胆したようだった。
貿易町のおおよその敷地面積が、打ち付けられた杭に通された紐によっておおまかに示されていたが、そこに町があった痕跡は感じられず、ただただ異質な雰囲気が漂っていた。
「とりあえず、状況整理をしないか。あんたら魔族は適当だから、まだまともな情報交換も出来てないだろ」
ベヌスはそう言うと、ぶっきらぼうにその場に腰を下ろした。
少しの間、淀んだ空気が流れた。ツォルフォイは微笑を浮かべているが、一部の調査員らは顔を見れば苛立っているのは確かであり、今にでも口を開いて罵倒してきそうだった。スピカは大人の険悪な雰囲気の中で、なぜ父はここまで馬鹿なのだろうと、内心父を罵倒しながら、泣きそうな思いを堪えていた。
「ほう、適当と。あなたがもっと早く城下町に着いていれば、言葉を交わし合う時間もあったというものだ」
ついに耐えきれなくなった調査員の一人が、腕を組みながらそう言い捨てた。その傍らに立っていた獣族の女は中立の立場で、ベヌスに反論したその男を「ありえない」と軽蔑するような眼差しで見つめていた。
「ああ。あんたらの基準で考えたらな。すまないが、人間はあんたらみたいに魔法が使えたりしないんだ。知らなかったのか?」
もうすぐ四十半ばを迎えるベヌスは、明確な殺意を目に宿しながら反論した。
「知っているとも。その気になれば、お前なんぞいつでも――」
「いい加減にしなさい」
男が禁忌を口にする前に、ツォルフォイが言葉を挟んだ。その顔からいつもの微笑は消えていた。
「あまり時間はありませんよ。ベヌスさんの言う通り、まずは情報交換をしましょう」
ツォルフォイはそう言うと、ベヌスを真似して、ぬかるんだ草木の上に腰を下ろした。
ツォルフォイは「そういえば」と手を叩くと、
「私もベヌスさんが到着される前に、事件について調べてみたのですよ」と快活に言った。
全員がその場に座ると、ツォルフォイは再度口を開いた。
「まず、私はイース地区の辺りを探索しに行きました。三魔のリツから、妙なことを聞いたからです」
「詳しく教えてくれ」
ベヌスが言った。
「本来は守秘義務があるので、このことは口外しないで下さい」
ツォルフォイはそう念を押すと、言葉を続けた。
「彼はかなり広い範囲で、動物と会話をすることが出来ます。あとこれも本来は秘密にするべきですが……彼は毎晩、貿易町周辺の林地に暮らす鹿と会話をする趣味があるのです。そして彼から聞いた話では、四日前にここの鹿達と疎通をした時に、なぜかイース地区の方の山林に、一夜で移動していたと。ですから私は、もしやイース地区の方に行けば何かあるのではないかと思い、二日かけて調査しに向かったのです」
ツォルフォイはひとしきり喋り終えると、大きく息を吸ってから、「無駄足でしたがね」とだけ呟いた。
「しかし、その話が本当だとすれば、関連性があるのは明らかだろう」
ベヌスが髭を触りながら言った。
「その言い方は三魔様に失礼ですぞ」
「ところで、会話をすることが出来るのなら、鹿達にイース地区へ転移した理由も聞くことが出来るんじゃないのか?」
ベヌスは男の指摘を無視して続けた。
「そう思い、私も聞いてみたのです」
「三魔は何と?」
「鹿達は『ぼくらはずっとここにいる』と」
ツォルフォイがそう言うと、しばらくの間、沈黙が流れた。ベヌスは依然として、手を顎に添えながら、何かを模索するように、一点を凝視している。スピカは父とツォルフォイ、そして調査員らの顔を代わる代わる観察しながら、自分も何か考えなくてはと思い至った。
「信じ難い話だ」
事実が変化したということだ。つまり、小規模で既存の概念が覆された。本来ならつまらない嘘として片付けることが出来るが、現にこうして貿易町が消滅しているのに加え、証言元が五忌魔配だとなると、もはや信じざるを得ない。どうやら、この件に関しては、科学的根拠の枠内で思考するのは控えた方が良さそうだ。
「貿易町周辺の山林に住む鹿達がイース地区に転移したとなれば、コヤック中継貿易町の消滅も、同じく転移したと言えるのではないでしょうか?」
調査員の老人が言った。
「しかし、現時点では発見報告はされていません。我々も近隣地区及び地方の村々に伝達を送りましたが、もしかしたら、イリア領の方に転移したのかもしれません。いずれにせよ、時間をかけなければ、現状は何とも言えませんね」
解決の糸口が見えたと思ったのか、満面に明るい希望を宿した老人に、ツォルフォイは残念そうに返答した。
「この件に関しては、もともと貿易町周辺にいた鹿の出所を調べ、この町との関連性を導き出す必要がある」
ベヌスが簡潔にまとめると、調査員らは軽く頷いた。
「では、次に行方不明者についてです。貿易町で生活を営んでいた市民らはもちろん、貿易町の転移に伴い、地方から出入を繰り返していた業者ないし貿易町に訪れたと考えられる人々が同時に失踪しています。また後者に関しては、個人の特定に捜索が難航しています」
ツォルフォイは帳簿のようなものに視線を落としながら、丁寧に読み上げていった。
「貿易町の転移に巻き込まれたと考えると、その転移先が判明すれば、行方不明者の発見も時間次第ではないでしょうか?」
調査員の女が言った。
「とにかく、捜査をしなければ、何も始まらないという訳だ」
一同がベヌスに視線を向けた時には、彼はいつの間にか立ち上がり、スピカと共に馬車に戻ろうとしていた。
「ツォル・フォイーゼ、あんたは三魔に『鹿はどこから来たのか』を尋ねろ。今言った言葉通りに」
「承知しました」
「調査員のあんた達は、転移時に起きた全ての事象をまとめろ。あと四魔のあんたもこれに協力してくれ。俺たちは、転移の原因を調べてみる。報告は魔王城下町の下宿所に五日後だ」
ベヌスは一通りの計画を早口で伝えると、馬を走らせ、まるで川の流れのように滞りなく、速やかに去っていった。
「何をそんなに急いでるの?」
スピカの声が、馬車がガタンと音を立てる度に揺れる。
「腹が減ったんだ。わざわざこんな辺境の地まで来て、ただの話し合いで終わるとは、とんだ無駄足だ。だから魔族は嫌いなんだ」
西の方には、なだらかな丘の連なるほぼ水平線上に、淡い橙黄色の夕陽が浮かび上がっている。まるで彼方まで続きそうな、面白味のない、乾いた平坦な道は、その光に照らされ、クッキー生地のように色付いており、ベヌスの腹をますます空かせていた。
先程まで喋りまくっていたスピカは、大人たちの重苦しい空間から解放され、安心したのか、ベヌスの肩にもたれかかって眠っていた。ベヌスはクッションの代替品として尻に敷いていたブランケットを引っ張り出すと、スピカの身体にしっかりと被せた。