消滅
目が覚めた時、私は寝室にいた。当たり前だ。私がツォルフォイに寝室まで付き添ってもらったのだから。
軽く痛む頭を抑えながら、ゆっくりと上半身を起こした。左手側の窓からは、白い透き通った光が部屋に差し込んでいる。どうやら、昨日の逢魔が時から朝まで、寝込んでいたようだ。
「元気なのな?」
稼働しきっていない頭を右に向けると、丸椅子に座ったマームベーグが、さほど心配もしていないという顔でこちらを見つめていた。
「魔王様らしくないのな。ツォルフォイに何があったのか聞いても、『今話すべき内容じゃない』ってはぐらかされたのな。まあ、どうせ昨日の来客の時に何かあったのな」
マームベーグは治療専門の医術師だったから、彼女が魔王の寝室に居座っているのも納得がいった。きっと、ツォルフォイが頼みでもしたんだろう。
「まあ、ただの疲労な。まさか魔王様に限ってそんなことは無いと思って、必死に病状を探したけどな……」
「すまなかった。もう大丈夫だ。ありがとう」
魔王はそう言うと、少し気取りながらベッドから這いずって出た。
「そんな事とっくに分かってるな。ただの……サービスな」
マームベーグは淡い桃色の髪を人差し指で巻きながら、照れたように言った。
「そういえば、もうすぐ朝食の時間な。あんまりモタモタしてると、リツに怒られるからな」
そう言って、マームベーグは寝室から出ていった。魔王はとりあえず無心で、寝間着から着替え、二頭のケルベロスを連れて急ぎ足で食堂に向かったが、朝食にリツが現れることは無かった。不気味な違和感を胸に秘めながらも、魔王は仕方なく、食事を始めた。
異様なほど静かな食事の途中、魔王は声量にビクつきながら、ツォルフォイに
「例の件はいつ話そうか」と打ち明けた。
彼は目線を左下に固定したまま動かなかったが、しばらくして、
「ミュラ様もまだお伝えできていないことがあったそうなので……少なくとも、二回目の訪問後がよろしいでしょうね」と説明した。
「まだ何かあるのか?」
魔王は居心地の悪そうな表情を浮かべて言った。
ツォルフォイは微笑しながら、肉を口に運んだ。咀嚼の動作とともに、何かを模索する様子で。
「魔王様。やはり人間がメルモア領に足を運ぶのは危険すぎます。ですから、我々がカエデ村に赴くのは――」
「ダメだ。仮にイリア領に侵入できたとして、我々の正体がバレたら騒ぎどころではすまない」
魔王はツォルフォイの言葉を遮って言った。
「なんだ。情が湧いたのか? あの人間に。さほど親しくも見えなかったが……何にせよ、私情は挟むな、ツォルフォイ。情は――ろくな事がない」
魔王の言葉に、ツォルフォイは返す言葉が見当たらなかった。
食事が終わってからもリツが現れなかったことを心配した魔王は、リツの部屋まで足を運び、そして城外に出た。部屋にリツはいなかった。
森をさまよいながら、魔王は得体の知れない不安に駆られていた。リツだって配下の一人だ。そうやすやすと去ってしまうはずがない――そうと大いに承知しているはずなのに、払拭しきれない不安感が、やがて恐怖へと変わる。
逃げ出してしまいたいと思ったその瞬間――目の前に、柔和な笑みを浮かべた、真っ白な少女が現れた。
目をこすってもう一度見ようとした時には、その少女はいなかった。まるで、消えて無くなってしまったかのように。
魔王がしばらく呆けていると、背後から「魔王様」と呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、そこには赤い壁がそびえ立っていた……ように見えたが、魔王は数歩下がると、それがようやくリツの胸板――赤い衣服を身につけている――と分かった。
「何やってんだ、こんなところで」
「それはこっちの台詞だ。お前こそ、生きがいの食事をほっぽり出してどこに行ってたんだ」
魔王は自分より二十センチメートルほど高い位置にあるリツの目を見つめて言った。
「ああ――そのことで話があんだ」
リツは声を潜めながら、ささやくように言った。
「なんだ?」
魔王もつられて、ささやき声になった。
「なぜか、コヤック中継貿易町が無くなってた」
「無くなってた……というのは?」
魔王は意味が分からない、というように首を傾げて言った。
「だから、そのまま丸ごと消え去ってたんだよ。解体か移転でもしたんなら、普通は跡地が残ってるだろうに、そこにはただ草原が広がってたんだ」
「いつからだ?」
「分からない。その周辺の住民もみんな消えてんだ。商人の乗った馬車の一つや二つあってもいいものを、それすらもないんだからな」
理に触れた何かが起こっている。もともと活発に貿易をしていた訳ではないにしろ、その損失は大きい。恐らく、ディモス王国は発生当時から既に把握していただろうし、いくら我々が気づくのに遅すぎたとはいえ、国書の一枚も送ってこないのは、明らかに喧嘩を売っている。
「とりあえず、見に行こう」
「待ってくれよ魔王様。俺の食事はなしか?」
リツは慌てながら言った。
「早く済ませてくれ」
どうせ二食目だろうに。魔王は呆れた様子で言うと、そのまま木の根元に腰を下ろした。一瞬、表面の凹凸が腰の骨をえぐるように突き刺さり、魔王は悶えながら姿勢を直すと、深くため息をついた。
あの朝を迎えてから、何もかもが上手くいっていないと感じる。魔王はケルベロスを撫でながら、これまでを思い返した。
ただ配下たちと食事を囲むだけの、静かな暮らしがしたいだけなのだ。それすらも叶いそうにないのなら、この世界で生きる意味など到底見いだせない。
あの少女は、一体何だったのだろう。もう一度思い出そうとするが、その姿は上手く浮かばない。しかし、彼女と私は、どこかで親密な関係にあったような気がした。
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「ところで、何用でコヤックになんて向かったんだ?」
荒れた道を歩きながら、魔王はパンを片手に握りしめているリツに尋ねた。
「ああ……あそこで暮らしていたはずの鹿達が、なぜかイース地区の林地まで移動してたんだ」
リツは、一定範囲内の動物と自由に意思疎通をする事が出来る。本人はあまりやりたがらないが、七十年前に見せてもらった実技では、指定の数だけ動物たちを操ることもできるそうだ。
「俺は毎朝あそこの鹿達と会話をしてたんだ。だが、四日前に疎通をした時、イース地区の辺りにしか生えないアスキミを嗜んでいる鹿達の声が聴こえて……そこだな、違和感を感じたのは。今日は予定が空いてたから、確認しに行った。それだけだ」
イース地区というと、コヤック中継貿易町周辺からでは、少なく見積っても、彼らの速さでは六日はかかる。仮に移動したのなら、リツは確実に気づくだろうし、そもそも道中には魔獣がいるだろうから、全滅しても不思議ではない。
いくつかの村を通り過ぎ、そのまま未舗装の道路を二時間ほど歩いてから、リツは右手に広がる丘陵地を登った。それに魔王も続く。
「ここだ」
魔王は丘の上から、はるか遠くまで続く草原を見た――そう、そこには草原が広がっていた。
「なるほど……本当に何もかもが無くなったのだな」
かつて、コヤック中継貿易町は、魔族と人間の出入が豊かで、交流的な気のいい町だった。私も何度か訪れたことがあるし、それなりに親睦を深めた住民との思い出も無くなった訳では無いから、こうしてその更地が広がっているのを見ると、多少切ない気持ちになる。まあ、それももう、二十年ほど前の話だが。
「普通ならこの丘の上に墓石があったんだ……誰のかは知らねえが、この町のシンボルみたいになってたな」
リツは乾燥しきったパンをかじりながら、物寂しげに言った。
「鹿達の転移とコヤックの消滅が別物とは到底思えないのだが。それが五日前だったのなら、コヤックの消滅も同時期だったのではないか?」
「俺の見積もりじゃあ、そうなるな。どうせなら、そこらの村の住民に話でも聞いてみるか」
そう言うと、リツが村の方に歩み始めたので、魔王は慌てて言った。
「待ってくれ。私はどうすればいい? 下手に顔を晒す訳にもいかないだろう」
「変わったなぁ、魔王様。じゃあ、先に帰っててくれ」
あまりにもあっさりとそう言うので、魔王はたじろいだ。しかし村を訪問する勇気も出ないため、大人しく帰路につくことにした。
独りで歩くルーラル地域の泥道は、その豊かさも相まって、ますますうら寂しい胸懐を漂わせていた。柔らかな風は身体を撫でるように吹き去っていき、それに伴って落ち葉の何枚かが、冒険にでも出かけるような面持ちで草原の方へ流れていた。
五日前――ちょうど、私があの夢を見た頃合いではないだろうか。だとしたら、コヤックの消滅も、人々の失踪も、全て私が引き起こしたということになるのだろうか。いや、逆に、私も被害者のうちの一人なのかもしれない。やはり、この件に関しては、彼女に聞かなければならない。
魔王はため息をつくと、その場で伸びをした後、もう一度ため息をついた。その後はまるで憂鬱そうな面持ちで、多少の淋しさを感じながら、木の葉と小石のみが転がる砂道を、ゆっくりと歩み始めた。