美ジョン
「カエデ村だ」
そう意気込み、早速旅の支度でもしようかと思い至った時、城の門をくぐる何者かの気配がした。
「ツォルフォイ……来客だ」
こんな時に来客とは、随分とタイミングが悪い。魔王城には五年近く来客がなく、五忌魔配はもちろん、魔王自身もわざわざ表門を使うようなことはしなかったため、正門はすっかり錆びつき、建付けが悪くなっていた。
無論、たった今来客方が、この門に苦戦し、半ばこじ開けるような形になった事を、魔王は知る由もない。
「お連れします」
ツォルフォイはそう言うと、身なりを整えながら部屋を出ていった。
久しぶりの冒険ということもあり、浮ついていたぶん、降りかかる落胆は大きかった。いや、誰も悪くない……ただ少し、タイミングが噛み合わなかっただけだ。
彼が部屋を出て行ってからしばらくして、話し声とともに廊下を歩く音がした。部屋に戻ってきたツォルフォイの後ろには、頭から頭巾を被り、羽織を身につけた若い女と、護衛だろうか、顔を隠した二名の男が、腰に短刀を携えて立っていた。
「魔王様、お連れしました。こちら、カエデ村使節長のミュラ・フランワインゼン様です」
驚愕した。いわずもがな、たった今向かおうと思っていた村の者だというのだ。
「ご紹介にあずかりました。ミュラ・フランワインゼンと申します。この度は魔王様のカエデ村への訪問を予見し、お足をわずらわせませんよう、参上致しました」
これが予知夢か、と魔王は思う。なるほど確かに、素晴らしい性能だ。
ツォルフォイが茶を用意している間、魔王は足を組み換えながら、目の前に座っている彼女に、まずは何を聞こうかと思いを巡らしていた。
ストールで覆われた顔の上から、薄い白布が目元までかかっているため、表情は分からなかった。しかし彼女は魔族と比べればはるかに小柄で、後ろの従者もたくましくはあったが、城下町の魔族の門番と見比べると、やはり見劣りした。
「遠路はるばるご苦労だった」
「いいえ。魔王様のためとあらば、お易い御用です」
「ところで――カエデ村というのはどこにあるのだ? 私もツォルフォイに聞いただけで、詳しくは知らないのだが」
「……」
それまでお世辞がスラスラと出てきていた彼女の口が、ピタリと止んだ。何か、あるのだろうか。
「やましい事でも?」
「いえ……しかしお伝えする前に、これだけは胸に留めておいてほしいのです」
先程までの堂々とした態度は、今やどこにも見られず、後ろの従者たちが醸し出す気配も、先程までとは一転していた。
「私どもは、魔王様のお力に添えるよう参上したのです」
彼女はそう前置きをすると、深く息を吸って、吐いた。その動作を二度繰り返したところで、顔のストールを外して言った。
「私たちのカエデ村は――イリア領にあるのです」
ミュラが告白した瞬間、魔王の前に座る三人の人間は、凄まじい気迫に身震いした。重圧、と言うのが正しいだろうか。冷や汗が出るような殺気は、紛れもなく、ミュラの前に座るギライアン魔王から発せられていた。
「そうか。人間だったのだな」
魔王は唸るような声で言った。誰一人として、肯定する者はいなかった。
殺戮寸前の客間に、ツォルフォイが鼻歌を歌いながら、人数分の茶を盆にのせて現れた。 その瞬間、全てを悟った彼は、茶を机に置いてから、静かにこう言った。
「魔王様。彼らに敵意はありません。味方では無いかもしれませんが――彼らは人間でありながら、決死の覚悟でこの城に訪れて下さったのです」
分かっている。メルモア領――人間の間では死地と呼ばれている――に栄える魔族と、イリア領のほぼ全土を支配する大国のディモス王国では、ここ二十年近く戦争寸前の緊張状態が続いている。それを分かっていながら、わざわざメルモア領に足を踏み入れるのは自殺行為に等しい。しかし彼らはそうしたのだから、村の存続に関わる何かがあるのだろう。
しかし魔王の中には、ただひたすらに、人間という種族に対する憎悪そのものが渦巻いていた。それを払拭するのが容易ではないことを、知らぬ者はいなかったし、現に人間は、それを試そうともしなかったのだから。
魔王は宙を睨みながら、少しの間沈黙した。来させておいて何だが、とても話す気にはなれなかった。
「代わりに話してくれないか、ツォルフォイ」
魔王はそう言うと、両手で顔を覆いながら、深いため息をついた。
ツォルフォイは承諾すると、ミュラに魔王が見た夢の数々と、予知夢との関連性について尋ねた。
「魔王様がご覧になったのは、私どもの予知夢とは全くの別物です。過去の映像――いわば回顧です――それが、まるで未来を見通しているかのように錯覚させたのでしょう」
魔王は唖然としながらその話を聞いていた。つまり彼女が言うには、私はあの男に殺されたというのだ。
「しかし、やはり来ていましたか……彼らが」
ミュラは浅いため息をつきながらそう言うと、膝の上でこぶしを握りしめた。
「彼ら?」
まるでこれまでの話を全て理解したとでもいうような口調で、ツォルフォイが聞いた。
「勇者の一行です……前回は一人だったようですが」
「少し、待て」
疲れ果てた魔王の声に、部屋は静まった。ツォルフォイは心配そうに魔王に茶を促し、ミュラは護衛たちと何かを話していた。
茶が冷めた頃合で、ようやく魔王が口を開いた。
「どうして、私は生きているんだ」
当然の疑問だった。なぜなら、彼は死んだはずなのだから。
「ご説明するのが難しいのですが……確かに、魔王様はご逝去されました。しかしそれは、"前回"の世界の物語で、実際に起こったことではありますが、この世界では存在しない事実なのです。つまり、魔王様が前回の記憶を今回に持ってきてしまうというのは、本来あってはならないことですから、原因の解明を急ぎたいところではありますが、それよりもまず、勇者一行の発足に備えるのが現在の課題でしょう」
「それは、勇者一行がまた発足する可能性があるということですか? 過去の記憶ではなく?」
ツォルフォイが相変わらない態度で聞いた。
「はい。可能性、というよりは、確定、という言い方のほうが正しいでしょうか。前回と今回、前々回と前回、というふうに、我々は何度も、同じ生を体験しているのです。つまり魔王様がご覧になった回顧も、実質的な意味では、予知夢と何ら変わりありません」
ツォルフォイはミュラの熱弁を聞き終えると、「なるほど」と噛み締めるようにうなずいた。
一方で、魔王は魂が抜けたかのように呆然としていた。呆然としながら、怒りを感じていた。一つ尋ねれば、その百倍もの答えが返ってくるのだ。魔王は愚かではなかったが、自分が殺されていたというショックと、これまでを見下していたがために、その頭は完全に思考を停止していた。
嘘とは思えなかった。なぜなら、覚えているから。勇者に殺される自分の姿を、燃え盛る魔王城を、裂かれる痛みを、魔法の苦痛を、そして、奴の姿と声を――。彼には望まぬアリバイができたのだ。
「少し……休む」
魔王の不具合に気づいたツォルフォイは、申し訳なさそうにしながら、魔王の腕を自分の腕にかけ、寝室まで運んだ。
ツォルフォイが 応接室に戻ると、ミュラは外したストールを顔に付けて、護衛たちと椅子の傍に立っていた。
「ツォルフォイ様。本日は大変お邪魔しました。今日はこれにて、一度帰還させていただきます」
ミュラは深くお辞儀をしながら言った。
ツォルフォイはその言葉を聞いて微笑むと、「確かに、帰還という言い方が正しいですね」と賛同した。
「また来るんでしょう?」
奥の棚から何かを取り出しながら、ツォルフォイは聞いた。
「はい。まだお伝えできていないことが沢山ありますから。ですが、今はまだ――いずれまた、勇者の一行が発足する前に、もう一度訪問させていただきます」
彼女はツォルフォイの動作を目で追いながら、親しみを込めて、しとやかに答えた。
「せっかく来て頂いたのに、そのまま"帰還"されてしまうのは残念ですから――カエデ村の者は緑茶が好きだそうですね?」
そう言うとツォルフォイは、茶葉を布に包んで、ミュラに手渡した。この茶葉は緑茶好きのツォルフォイが、城下町の裏通りにある茶葉屋から月に二回取り寄せてくる代物だった。
ミュラは困ったような表情を浮かべながら、「そんな……ツォルフォイ様に申し訳ありません」と手渡された茶葉を返そうとした。
「受け取って頂けないのですか?」
小動物のような瞳で見つめてくるツォルフォイに、ミュラはたじろぎ、ついに観念した。
「では、故郷に帰ったら、皆に分け与えたいと思います。ありがとうございます」
ツォルフォイに案内されながら、正午に通った城内の道を戻り、正門の前まで行き着いた。
「そういえば、どうして貴方は私たちに好意的に接してくださったのですか?」
別れ際、ミュラはふと振り向き、ツォルフォイに尋ねた。
「私は、人間が好きだからです」
ツォルフォイは呟くように言った。
「二十八年前の大戦で、人間と魔族はその種族の壁を更に分厚くしました。しかし私には、分からないのです……なぜ私たちは、同じ星に住み、互いに憎みあねばならないのか」
ミュラは立ち尽くしながら、青年のような幼さを秘めた一匹の――一人の魔物を見つめていた。
「私の両親は――まあ、母が――人間でしたから。それ抜きにしても、憎む理由が分からないのです。見つける理由も、ないですから」
赤く染まった太陽が、そよ風に揺れる木の葉を、黄金色の地面を、柔らかく照らしていた。名前も知らない鳥の鳴き声、地面を駆けていく不思議な生き物。素朴で、美しいと、ミュラは感じた。
死地なんて恐ろしくて仕方が無かった。使節長になったことを、深く後悔したほどに。恐ろしさを紛らわせるために、選りすぐりの護衛を付けてもらった。それでも、いっそのこと毒薬を飲んでしまおうかと思ったくらいだ。
確かに魔王は恐ろしかった。あの時は死を覚悟したけれど、今は、不思議と分かり合える気がする。
世界は、どこも変わらぬ美しさを秘めているから。