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何でもないから

 しばらくして、皇が着替えて戻ってきた。


「なあ、皇」


 声をかけたことに気づいていないのか、皇は考え込むような表情で俺の前を通り過ぎた。


「なあって」

「ひゃっ!?」

 驚いた様子で俺の方を振り向く。


「な、なによ」

「なんか具合悪いのか? さっきまでより顔色悪いように見えるけど」


 俺の言葉に皇は顔を逸らした。


「心配しなくても平気よ。大丈夫だから」

「そうか、ならいいけど」 


「お待たせ」

 そう言って、着替えた姫野が戻ってきた。


「あれ、そう言えば皇、さっきのヘアピン外したのか?」

「ヘアピン?」

 姫野が首を傾げる。

「ああ、姫野は知らないか。昨日の誕生日に……」


「やめて!」


 突然、皇が大声を上げた。俺達の顔を見ると、皇はハッと悲しそうな表情になって俯いた。


「ごめん、何でもないから……」

 その時、廊下から足音が近づいてきた。

「そろそろ、開店するぞ。亮太はキッチンを手伝ってくれ」

「あ……ああ」


 皇のことは気になるけど、どうしたらいいのか分からなくて、俺はその場を離れた。

 



 仕事が終わり、テーブルの片付けをしている皇に近寄った。


「皇、開店前の話なんだけど」

「ごめん、変な態度取っちゃって。ほんと気にしないで」


 皇はテーブルから顔を上げずに言った。


「でもさ」

「本当に何でもないから。この話はこれで終わり。こっちの片付けは私1人で出来るから、あんたは店長の手伝いしなよ」

「……分かった」


 ギクシャクしているのは分かっているけど、皇が話したくないならこれ以上踏み込む訳にもいかなかった。



 それから皇とシフトが噛み合わず、一度も顔を合わせることはなかった。そして、土曜日を迎えた。




「さすがに早く着きすぎたな……」


 何となく目が覚めて、いつもより随分早く店に着いてしまった。窓から中を覗いてみると、電気もついていない。近所に住んでいる汐姉もまだ店へ来ていないらしく、渡されていた合鍵で店の入り口を開ける。


 まだ薄暗い店内で、俺は近くの客席に腰掛けた。誰もいない店はいつもより広く感じる。まあ、まだ仕事を始める時間じゃないし、汐姉が来るまではゆっくりしておくか。


 そう思って、机の上に突っ伏そうとした時、ガチャっと扉が開く音がした。


「汐姉、もう来たの、か……?」

「ここがみーちゃんの働いてるカフェで合ってる?」

「誰!?」


 そこに立っていたのは、ショートカット姿の知らない女子だった。


 その女子は俺と目があって、眉間に皺を寄せた。


「え、誰……不審者?」

「不審者はそっちだろ!」

 はぁ、なんか調子狂うな……


「とりあえず、今は開店前なんで要件があるなら後にしてもらえます?」

「え、君ここの関係者なの? てことはもしかして、みーちゃんが話してた『亮太君』?」


 名前を言われて、嫌な感じで心臓が跳ねた。


「な、なんで俺の名前を……?」

「ふぅん……君が、ねえ?」


 俺を見定めるように上から下まで視線を向けられる。初対面のはずなのに、既に好感度が低いらしい。

 それに、「みーちゃん」って言うのはもしかして……


「りっちゃん!」

 その声と共に、深恋が店へ飛び込んできた。

「みーちゃん!」

 嬉しそうにその女子は深恋をハグした。


「りっちゃん、こっちに来るならもっと早く連絡してよ。びっくりしたよ」

「えへへ、だってみーちゃんのことびっくりさせたかったんだもん。サプライズ成功だね」

「も、もう……!」


 なんて言うか、大変仲が良くてよろしい事なんだが、

「あのー、そろそろ俺にも説明してもらえると……」

「ああっ! そうですよね!」

 そう言って深恋は、構わずに抱きしめてくる腕から抜け出した。


「紹介しますね。彼女は藍田莉子あいだりこちゃん。私の幼馴染なんです」

「まあ、そういうことだから」

 そう言って藍田は深恋の腰に手を回し、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

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