笑顔になるために
もうすぐ年末だ。一年はあっという間に過ぎる。「流星の彼方へ」に出会ってから、私は読書にハマっていた。この本は水上京佳という人が書いている。この人の描く物語は、美しい。人の心情をとても美しく描くのだ。
図書館で借りたり、私が気に入って、いずれ恭介も読めたらと思う本は購入したりしている。でも、そのお金は創一が働いて得たお金。毎月の生活もそんなに余裕がある訳ではない。
「やっぱり、少しだけでも働きたいな」私はそんな思いを募らせていた。今まで、恭介のことがあってなかなか踏み出せずにいた。毎朝本当に手が掛かるし、心の面もしっかりサポートしてあげたい。その気持ちは今でも変わらない。それでも、恭介が学校に行っている少しの時間だけでも働けないだろうか……
商店街に新しくケーキ屋さんがオープン予定で、そこでパートを募集中している。恭介の出産を期に退職したからブランクはあるけれど、人と接することは好きだし、ケーキも大好きだ。採用されるのは若い子だろうけど……応募してみようかしら。私はまだ決めかねている。なかなか一歩を踏み出せない自分がもどかしい。
今日は週末で恭介も創一も休みだ。創一は相変わらず、ゴロゴロしながらスマホをいじっている。話しかけても上の空なので、創一と会話をすることはもう諦めた。初めは寂しかったけれど、特に困ったこともなかったし、実際話すことってないもんだなと気づいたら少々おもしろく思ったりもした。
創一は休みでも、恭介と遊んだりしないので、ただただ私の負担が増えるだけ。創一の昼食を用意することも面倒だ。家にいられるだけでイライラする。そんなこと、口が裂けても言えないけれど……
恭介にも手伝ってもらって、サンドイッチを作った。
恭介には家事も料理も教えている。将来、大切な人ができたときに二人で協力して生きていってほしい。そうしたら、相手にも大切にしてもらえるだろう。創一のようにはならないでほしい。そんな思いからだ。
ハムサンドと卵サンドが出来上がった。
「パパ、お昼にしましょう」恭介の手前、なるべく普通に接するようにしている。でも、子供はするどい。もしかしたら、恭介が学校に行きたくないのも、夫婦関係が冷め切っている私たちのせいなんじゃないか。そんな気もしていた。
三人でサンドイッチを食べる。三人での会話は特にない。私と恭介が時々話すぐらいだ。以前、創一は食事中もスマホをいじっていた。でも、恭介がそういうものだと覚えてしまっては嫌だ。何度も何度も創一に説明して、それだけは流石に辞めてもらった。不複そうだったけれど。
サンドイッチを食べる私の顔をまじまじと見ながら創一が言った。
「ママちょっと痩せた?」くだらないことを喋るな。
「特に変わってないと思うけど」本当は少し痩せたけれど、どうでもいい。なるべく創一とは話したくない。
「ふ〜ん。痩せても鼻は変わらないんだな。恭介の鼻は俺に似て良かったよな」コイツは本当にくだらないことしか言わない。三十代半ばも過ぎて、人の容姿にケチばかりつけてくるくだらない男、遠藤創一。私は自分の鼻をそんな風に思ったことはない。確かに他の顔のパーツと比べると私の鼻の比率は大きいかもしれない。でも、私は自分の顔が好きだし、コンプレックスには感じていなかった。鼻が大きいから、だからどうしたという感じだ。でも、創一といる自信がなくなっていく。私は聞こえないフリをした。それでも視線は落とさない。背筋をピンと伸ばして真っ直ぐ創一を見た。そして、何も言わず心の中で呟いた。「アンタなんかだいっきらい」コイツのせいで自分を大切にできなくなる。そんなの嫌だ。私は恭介の母親だ。強く美しくありたい。こんなくだらない男に負けたくない。創一は視線を逸らした。私の勝ち。
「恭ちゃん。食休みしたら、お買い物に行こうか」恭介は元気よく頷いてくれた。証明写真を撮りに行こう。履歴書を買ってこよう。創一への苛立ちが私の背中を押した。
やると決めてからは早かった。次の日に、電話をかけ、面接の日程が決められ、面接。なんと、採用された‼︎恭介が学校に行っている間の四時間。10時から14時で週に5日働くことになった。時給は東京都最低賃金の1.113円。シフトは恭介の学校に合わせてもらえるそうなので、扶養内で収まるだろう。
不安と期待でソワソワしている。
今日は創一が久しぶりに早く帰ってきて、やっぱりゴロゴロしながらスマホを見ている。
「私、働こうと思うんだけど」キッチンから声を掛けた。
「――うん」やっぱり聞いていない。
「いいよね」
「――うん」これでOK。創一が聞いていようがいまいが、私は「働こうと思う」と話した。創一は「うん」と言った。働くといっても扶養内だし、正直なところ創一にはあまり関係の無い話かもしれない。既成事実はバッチリだ。
働き始める日が楽しみ――
「今日からお世話になります。遠藤優子です。よろしくお願いします」私が二の足を踏んでいたので、オープンには間に合わなかったけれど、逆にそれが良かったのかもしれない。
私よりも少し年上の店長、有森香澄はものすごい情熱を持っている。ケーキは食べる専門なので、詳しくはわからないけれど、ここのケーキはどれも可愛い。女性ならではの繊細さがケーキにも出ていて、美しくて儚い。水上京佳の小説の世界となんとなく共通点があるような気がした。眺めているだけで、元気が出る。
「遠藤さんが来てくれて良かった。オープニングスタッフって人気がありそうなんだけど、募集かけても全然来なくて。やっぱり時給安いかなぁ。でも、駆け出しからあまり高い時給設定できなくて、ごめんなさいね。念願の自分の店だから、なんとしても成功したくて」
店長はあまり笑わない人だけれど、何でもよく話してくれるから心地良い。これまでは店長の家族や友達が変わる変わる手伝いに来てくれて、なんとか回していたらしい。
「私、働かせてもらえてとても嬉しいです。仕事も早く覚えたいです」他人から必要とされるってなんて気持ちがいいのだろう。緊張がほぐれ、やる気がみなぎってきた。
「という訳だから、人員不足で今日はヘルプもいなくて。早速お店出てもらうね」店長は申し訳なさそうに、でもハッキリとそう言った。
「は、はい。頑張ります」私は心の中で「えー‼︎」と叫んだ。
「ちゃんとフォローするし、わからないことはどんどん聞いて」店長からレジの打ち方とケーキの名前を簡単に教わった。もう開店の時間だ。初心者マークとか無いのだろうか?でも、もう、やるしかない。
「店開けるよ」
「はっ、はいっ‼︎」
あたふたしている間にあっという間に四時間が経った。
もうクタクタだったが、もっと働きたい。素直にそう思った。
「遠藤さん、お疲れ様。明日もよろしくお願いします」
店長が時計を見ながらそう言ってくれた。
「ありがとうございました。あの、この後は一人でやられるんですか?」
「夕方から大学生のアルバイトの子が来てくれるから、それまでは一人。そんな顔しないで。大丈夫だから。明日も待ってるね」世の中にはこんなに頑張っている人がいるんだ。普段、創一と恭介としか関わっていない私には衝撃的で、刺激的な一日だった。
「明日もよろしくお願いします」私は深々と頭を下げ、お店を後にした。
急いで帰らないと、恭介が帰ってくる。今日からママ、お仕事するんだ。と朝話しておいた。恭介はキョトンとしていた。私が働くことで、恭介にも何か良い変化があるといいなと思っている。
恭介が帰ってきた。
「ママー‼︎お仕事どうだった?」今日も走って帰ってきたようだ。
「ただいまでしょ。お仕事たのしかったよ。ママ頑張るね‼︎お給料出たら、ケーキ買ってくるからね。手を洗っておいで」恭介のキラキラした瞳に見つめられながら、私は興奮気味に話した。明日も楽しみだ。