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地獄に落ちた元聖職者と悪魔の話

作者: 夏八木アオ

 死後の世界に飛んでから、男は自分が天国と地獄について説きながら、心の底から存在を信じていなかったのかもしれないと気づいた。本当に信じていたら、「お前は地獄行きだ」と言われたときに、地獄とは本当に存在するのか、とは思わなかったはずだ。


 男は生前、聖職者だった。

 男は教会つきの孤児院で育った。善人は天国へ、悪人は地獄へ。そういうもので、そうあるべきだと教わって、一度も疑ったことはないまま死を迎えた。

 

 聖職者としての男は、順調に出世の道を進んでいた。具体的にどうしたかという詳細な記憶は抜け落ちているのだが、記録としては男はあらゆる不正や暴力から他者や社会を守っていた。結果として、彼は若いうちに国の要所となる栄えた街の司教となった。


 そうしてそのまま、黒髪に白いものが混じるようになるまで生きた。彼の人生は穏やかで、彼の心は清廉で善良だった。


 それなのに、目の前にいる死後の世界のなにかは、男は地獄行きだと言う。姿は見えないがそこにいて、男の行き先を告げた。


「なぜ私が地獄行きなのでしょうか。私は教会の一員として、誠心誠意神に仕えてきたつもりです。私の何が至らなかったのでしょうか。神の言葉を、心の底から信じていなかったことが、私の罪ですか」


 男の問いかけに対して、感情の籠らない声が答えた。


「お前は悪魔と時間を共にしすぎたからだ。お前の魂を、天国の門は受け入れることができないよ」

「何?」


 どういう意味かと問う前に、男の足元が暗闇になった。



 男はいつの間にか、荒涼とした平野に立っていた。赤みがかった大地が広がり、時折、遠くのほうに炎が高く舞い上がっているのが見える。

 葉のない枯れた木がいくつか並んでいる以外、生命を感じさせるものはない。


 その風景を男ははじめて見たはずだが、他人の声がそれを語るのを、聞いたことがあった。


 血を流し、苦しみ呻く人で溢れている地獄の図は、人間が勝手に考えたものなのだと。実際はだだ広くつまらない土地が広がっているだけで、地獄に落ちた人間がそれぞれどこにいるのかもよく分からないし、退屈な場所なのだと。


 それを男は、誰かの口から聞いたことがあった。


「うっ……!」


 急な頭痛に男は頭を押さえた。鈍痛が頭を突くたびに、その突かれた割れ目から何かが飛び出すように、男の頭に映像が流れる。


 銀色の瞳に、赤い長髪。頭には山羊のものに似た黒い角が生えていた。身体は女性の形をしているが顔つきと服装は少年を思わせる。教会のステンドグラスから差し込む光を、趣味が悪いと言って文句を言うわりに、男がその悪魔を見つけるのはいつも聖堂のパイプオルガンの前だった。


「ルカ……!」


 男は、自分が呼び出した悪魔の顔を思い出した。

 掃除中に古い書籍を片付けた時に、表紙をなぞったら出てきた不本意な契約だった。


 悪魔だと聞いて、すぐに祓おうとしたが、ルカは別に祓わなくても出ていってやるが、退屈しているからその前に一つ何か面白いものを見せてくれと言った。


 男はルカに退屈の理由を聞いた。ルカは地獄には何もないという話をした。

 生きる喜びを感じていないルカに対して、男の胸には使命感が宿った。たとえ相手が悪魔でも、与えられた生に喜びを感じられていない者に、命とささやかな日常の幸せへの感謝を説き、目に光を宿すのは聖職者の使命である。


 男はルカに神の教えを語った。ルカは言葉そのものには興味がないと言ったが、それを人間がどう解釈するかは興味があると言う。男は手応えを感じて、ルカともう少し共に過ごすことにした。


 一年ほど共に過ごしたはずなのに、ルカの存在は、男の頭から完全に抜け落ちていた。ここが地獄ならば、悪魔のルカは、ここにいるはずだ。


 宛もないのに荒野を走り回って、どれくらい時間が経ったのかも分からないまま走り続けた頃に、男が勤めていた教会によく似た建物を見つけた。円形のドームは半分崩れてしまっており、錆びたパイプオルガンが見えた。


 その教会の中に、見覚えのある赤色が見えた。


「ルカ!」


 男が叫ぶと、赤い髪の悪魔が振り返った。銀色の瞳が瞬きを繰り返す。


 男はルカの元に走って、頭を下げた。


「すまなかった!」

「何が?」

「君が消えたのは私のせいだろう。私自身の未熟さが原因で欲望に打ち勝つことができなかったというのに、君に全てを押し付けていた。地獄に落ちるのに相応しい。感謝も告げないまま君を完全に忘れていた。すまない」


 ルカは悪魔だ。人の欲望を刺激する存在だ。

 男がルカに神の教えを説き、人について教えるのと引き換えに、ルカは男の周りで不正を働く人々の心を少しだけ刺激して、現行犯で捕まえるのを手伝った。

 男が出世をしたのは、悪魔の力を借りてのものだった。


 最初はそんなことをするべきではないと思っていたのに、男が見ていても見ていなくても不正を働くのだから、それなら早く捕まえたほうが善良な人々が守られるのではないか、そして捕まったほうが、罪を犯した彼らを救う機会にもなるのではないか、とルカに言われて、男はその言葉に納得した。


 そうして正義を執行する中で、男は自分の行為が知らぬ間に度を過ぎていることに気づいた。まだ罪を犯していない者まで、欲を刺激して、犯罪に手を伸ばしたところを捕まえる。罪を作り出しているのは男だった。


 そのことに絶望してルカを祓おうとして、ただ自分が悪魔の影響に抗えずに欲に溺れただけで、元々自分はこういう人間なのだと気づいて、男は聖職者の任から降りようとした。

 辞職届を書いたはずだった。


 書いて、司教に明日話そうと思って眠ったはずだが、翌朝起きた時にはその手紙も、ルカも、男の部屋から消えていた。


 ルカはぽかんと口を開けて男の謝罪を聞いていた。はぁ、と気のない返事をする。


「貴方に地獄は合ってないよ。ここでは誰も謝ったりしない」

「そうなのか」


 男は考え込むように視線を落とす。やがて顔を上げてルカを見た。


「それなら、地獄の作法を教えてほしい」


 淡々とした男の声に、ルカは銀色の目を細めた。


「真面目すぎるよ、馬鹿だなぁ」


 ルカは悪魔だ。男は聖職者。


ーー違うね、ただの元聖職者だ。


 今のルカは、男の指先に触れることができる。紙に触れすぎて乾いた指のかさついた感触を知ることができる。

 地獄に作法など存在しない。ここはただ各自が欲望に生きるだけの退屈な場所だ。そして悪魔は嘘をつく。


「仕方ないな。貴方は私に人間のことを教えてくれたし、今度は私が教えてあげるよ。暇つぶしにもなる」


 ルカの指が、男の指先をくすぐった。その瞳に欲が宿る瞬間を、この終わりのない場所でなら、いつまでも待つことができる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かった! 聖職者と悪魔という正反対の性格のペア、、、好きです、、、ありがとうございます。 加えて、ルカが男の指先に触れる所や指先のかさついた感触〜の表現が素敵だと思いました。
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