優しい嘘のその先に
世の中は王族の結婚に湧き立ち、心浮かれた人たちが毎夜喜びの乾杯を上げ、老いも若きも隣国からやってきた美しい姫君に夢中になっていても、わたしには関係ない。いつも通りの朝がやってくるだけだ。
ここ、治安騎士隊の宿舎の食堂、朝食時間の一番手は決まってケニス様だ。
「おはよう、リーファ!今朝のメニューは何?」
「焼きたてパンと具沢山のスープ、チーズオムレツと果物ですよ」
「お!やった、好きなやつだ」
寝癖たっぷりの空色の髪をした青年が空いた席に着くと、まずはコップに水を淹れて渡す。
「ありがとう、リーファ」
「どういたしまして」
トレイに載せた朝食をテーブルに運ぶのはわたしの仕事だが、女の子が力仕事しなくていいからと、ケニス様は必ず自分で取りに来てくれる。調理を担当している母が、ありがとうございますとケニス様に言うと、こちらこそいつも美味しい食事をありがとうございます、などと返してくれる。
こんな毎朝のやり取り、このささやかな交流が、わたしにとっての喜びであり生き甲斐であることを彼は知らない。知らせるつもりもない。
やがてケニス様に続いて、騎士隊の面子がぞろぞろと食堂に集まってきて、朝のこの時間はまるで戦争状態、忙しなく慌ただしく過ぎてゆく。そして食事を済ませた彼らが騎士服に身を包み宿舎を出ていく頃、わたしも仕事に向かう。
*
わたしの両親は、住み込みで王都治安騎士隊の宿舎の管理人をしている。元々、父は男爵だったが、ある事件に巻き込まれて爵位と仕事を手放す事になった。それが10年前の事。
仕事も住む家も失い、護衛として雇ってくれる場所を探すつもりで王都を離れる準備をしていたわたし達家族に、手を差し伸べてくれたのがケニス様の父親であるジェファーソン侯爵様だ。
この治安騎士隊というのは、主に平民と下位貴族の子息達で構成されていて、王都の見廻り警備、つまり市民の治安を守ることを目的とする部隊だ。酔っ払いやゴロつきを相手にする事もあるため、少々荒っぽくやんちゃな騎士達もいる。その実力と人柄で第二騎士団で活躍した父ならば、そういった若手の抑制にもなると思われたようだ。
ちなみに、第二騎士団ではジェファーソン侯爵様の率いる隊に所属していた事もあって、ケニス様は父に対して敬意を払ってくれている。その様子に他の面子も大っぴらには反抗出来ないし、何か不満があっても娘のわたしに手を出すような真似はしない。未だに時間を作っては鍛錬を続けている父と、その父と懇意である事を隠さないジェファーソン侯爵が恐ろしいのだろう。
わたしは侯爵様の援助もあり、王立学院は平民特待生として通って卒業し、侯爵様に紹介していただいた商会で事務員として働きだして2年目になる。誕生日がくれば20歳になるが、平民だから当然婚約者などいないし、恋人がいた事もなかった。
父親譲りの黒髪に黒目、ひっつめ髪に貧相な服装の地味で目立たないわたしは、騎士達からは道端の花だと言われている。注意して見ないと見つけられないほど地味だと言いたいのだろう。わたしは怒る気もせずただ力なく笑うのだが、そんな時に、それはリーファに対して失礼だろう、と言ってくれるのがケニス様だった。
ケニス様に庇われる事が恥ずかしいのと、優しさが辛くて泣きそうになる。
どうかわたしなど構わないでください、優しくしないでください。
道端の花にはそれに相応しい人生がある。ケニス様の歩まれる輝かしい陽の当たる道には、雑草なんて生えて来ないのだから。
*
職場の商会は宿舎から近く、わたしは昼前からの勤務なので朝食の手伝いと片付けをしてから出ても充分間に合う。王立学院時代からずっと食堂の手伝いもしており、今更辞め難いのもあって、商会の勤務時間をずらしてもらった。ありがたい事だ。
それもこれも、商会に就職する際にジェファーソン侯爵が話をつけてくださったからで、その分給金は少なくなるが、得意の事務作業や計算作業を活かせる職場は働き甲斐がある。
この商会は、侯爵夫人のご実家の親戚のカナート子爵が経営している。そこのお嬢さんのマリル様とは、貴族学院で同級生だった。そして、マリル様はケニス様の想い人でもある。
マリル様は平民に対して偏見を持たない上、華やかで人目を引く容姿をした美しい人だ。
親戚筋のケニス様が、この子と仲良くしてやって欲しいとわたしをマリル様に紹介してくださった時、マリル様はその大きな瞳を在らん限り見開いて驚いた様子だったけど、すぐににっこり笑って、もちろんよ、こちらこそ仲良くしてねと言ってくれた。
ちなみにケニス様はひとつ上の学年だ。細身ながらも筋肉質の恵まれた体格と男らしく整った顔立ちで、しかも気さくで優しいところから女子生徒の憧れで、数々の貴族令嬢に声をかけられているみたいだが、特定の恋人も婚約者もいなかった。
ただ、学院内でパートナーが必要な時は必ずマリル様と連れ立っていたので、ふたりの婚約は秒読みだと言われていたし、わたしもそう思っていた。
ケニス様は時折、マリル様宛の手紙をわたしに託した。直接渡せば良いのに手紙は必ずわたしの手を通してマリル様に届けられた。ありがとう、と柔らかく微笑むマリル様のお顔は恋する女性そのものだったと思う。
好きな人が他の女性に書いた手紙を渡さねばならない程、辛い事はない。わたしの心の中は醜い嫉妬でぐちゃぐちゃになっていたが、ケニス様の差し出す手紙を黙って受け取るとマリル様に渡し、返事の手紙をこっそりとケニス様に返すのだった。
手紙は白い封筒に収められていて仄かに良い香りがする。ケニス様の香りかと思ったけれど、騎士を目指すケニス様が香りを身につける事を好まなかったので、この香りはただマリル様の為にだけに付けられたのだと思う。
返信の手紙を渡すのはきまって人の来ない裏庭で、ケニス様は頬を赤らめて手紙を受け取った。熱の籠った眼差しでわたしを見て、ありがとうと言われると胸が苦しくなった。
マリル様を見つめるケニス様の眼差しや少し上気した頬、そっと触れる手、優しい言葉、それらは恋する者の態度だ。
それ程までに愛されていたマリル様だが、その気持ちがケニス様に向いていない事を、わたしは知っていた。
マリル様には好きな人がいるのだ。ひそかに逢引きするお相手がいるのだ。ケニス様から手紙を受け取るたびにわたしの心は引き裂かれるように悲鳴をあげていた。
*
好きな気持ちに蓋をして、叶わぬ恋を心の奥底にしまい込むのは、告白するのと同じくらいの熱量が必要だと思う。
かつて、まだ父がジェファーソン侯爵様の部下だった頃、ケニス様は父から剣術の指南を受けていた。練習の後、父とケニス様に冷たい飲み物やお菓子を持って行くのはわたしの仕事で、おませな少女は、その頃から空色の髪の少年に憧れていた。つまり、わたしは8歳の頃からずっとケニス様を密かに慕っているのだ。
平民になって、ケニス様とは身分が違う上、実らぬ片思いとわかっていても、小さく灯った恋心の火はなかなか消し去る事が出来なかった。辛いだけだとわかっているのに。
そして、ケニス様もまた、辛い恋をしているのだと思うと、わたしはケニス様の為に泣きたくなってしまうのだった。
*
平民だからと馬鹿にされないようにと、わたしは寝る間も惜しんで必死で勉強して席次は常に上位を保ち続けた。その甲斐あって、卒業後はマリル様のご実家カナート子爵家が経営する商会で働く事が決まった。この商会は王国でも有数の大手商会で、ここに勤める事が出来るのは誇らしい事なのだ。
口利きをしてくださったのは勿論ジェファーソン侯爵様だけど、マリル様の口添えがあった事も大きい。
『リーファは大切なお友達なのですもの』
マリル様はそう仰ったけど、それは烏滸がましいと思う。わたしは友達というより、マリル様の腰巾着で便利な手下だったに過ぎない。
雑用はもとより、マリル様を慕う貴族令息からの手紙―その中にはケニス様からの手紙も含まれる―を預かって渡したり、時には逢引の手助けをしたりとまあまあ役に立っていたとは思う。
マリル様は婚約者を決めていなかったが、商会に務める5歳ほど年上の番頭の男性ととても仲が良く、2人は隠れて会っていた。その時の言い訳に使われるのが、『お友達のリーファに商会で役立つ知識を与える』や、『リーファが貴族の客に困らないように淑女のマナーを教える』と言ったものだ。
マリル様と番頭と3人で落ち合ったのち、わたしは数時間を1人で時間を潰すことになったが、番頭の手書きの教本を読んでいると時間が経つのはあっという間だ。
その逢引はマリル様が卒業するまでの間、ひと月に一度の割合で続いた。
あの番頭は平民だったのかマリル様と結ばれることは難しかったようで、わたしが就職した時には既に店を辞めていた。マリル様との交際を咎められたのだろうか。幸いな事にわたしにお咎めが無かったのは、マリル様がわたしを庇ったからだと聞いた。
『あの娘は、言いつけを守らないと就職させないと言われ、仕方なく従ったのです』
その通りだが、実際は少し違う。
隠された本音を言えば、ケニス様とマリル様が結ばれるのを見たくないという、わたしの醜い嫉妬心から、マリル様が番頭と上手くいけば良いと思っていたのだ。
マリル様は、空色の髪に澄んだ青い瞳をしたケニス様のどこが気に入らなかったのだろうか。わたしなら、ケニス様を一番に選んだのに。あの番頭より余程素敵な人なのに。
*
ケニス様はジェファーソン侯爵家の三男で卒業後は騎士となった。そして、わたしの両親が管理人を務める治安騎士隊の宿舎に入寮した。
侯爵家の子息が何故騎士団ではなく、町の治安騎士隊に配属されたのかはわからないが、ケニス様は笑ってこう言った。
『リーファの父上の指導が受けたいから自分から志願したよ』
父はただの舎管であり、騎士隊の指導者ではない。しかし父が第ニ騎士団で有名だった事を知る平民の騎士達が父を慕い、せめて打ち合いを見るだけでもと頼むので、父は休日に彼らの自主練習に立ち会っている。
ただ様子を見てちょっとしたアドバイスをするだけなのだが、それが噂となりこっそり忍んでやってくる他の騎士団員も居ることは、内緒である。
*
わたしは相変わらずカナート商会で働き、宿舎の手伝いもしていたが、商会の仕事が忙しくなるにつれ朝の食事の配膳から徐々に遠ざかるようになった。ケニス様と顔を合わせる事も、ちょっとの会話を楽しむ事も無くなってしまったが仕方ない。
そして20歳の誕生日を迎えた。いつまでも宿舎にいてはいけない、自立しなくてはと考えていた。
少し前にマリル様は結婚した。お相手は父親のカナート子爵が選んだ人で、貴族子息だが家を継がずに婿入りして、カナート商会も引き継ぐのだと言う。ひとり娘のマリル様に相応しい婿なのだそうだ。
結婚式はそれは豪華だった。その日は商会も休みになり、カナート家の使用人や、商会員たちは、教会から出てくる新郎新婦に、心からの祝福を告げ、手にした花びらを放つ。色とりどりの花びらが、マリル様を益々美しく彩った。そんなマリル様を優しく見つめる新郎の髪は青く、ケニス様と同じ色だ。
例の番頭は既に退職していたから姿は見えないのは当然だが、わたしはキョロキョロと辺りを窺って番頭を探してしまう。
そして、見慣れた空色が、隠れるように立っているのを見つけた。
ああ、やはりケニス様はいらしてた。一体どのようなお気持ちだったのだろうか。愛する女性が他人と結婚する姿を見て、心穏やかではいられないだろう。それでも彼女の幸せを願って、その晴れ姿を目におさめる為にやってきたのだろうか。
ケニス様を見つめるわたしに気がついたのか、青い瞳がわたしを見た。驚いたように目を瞠っていたけれど、やがていつもの朝の食堂のように、にっこりとわたしに笑いかけた。そしてズンズンと歩いて近寄ってくると
「やあ、会えてよかったよ、リーファ!マリルは本当に美しいかったね。きっと幸せになるだろうなあ。うん、幸せになる筈さ」と和かに言った。
その彼の目に籠る熱に気が付かないほど、わたしは鈍くない。
*
ただ見ているだけで幸せだった日々が終わるのは呆気ないものだ。
ケニス様が失恋した日、わたしは2度目の失恋をした。
なぜケニス様では駄目だったのだろうか?
あの番頭と、伯爵子息と、ケニス様。わたしなら絶対にケニス様を選ぶのに。
ふと視線を感じて見上げると、ケニス様がわたしを見下ろしている。
「リーファ、時間があるなら少し付き合ってくれないか?」
少しでもケニス様の気晴らしになるのならと、二つ返事で引き受けてしまったけど、一体どこへ?それより自分の格好が気になる。確かに結婚式を見る為に少しお洒落をしてきたつもりだが、ケニス様に恥をかかせないだろうか。そんなわたしの心中など知る由もないケニス様は、迷っていたようだが、さっと手を出してきた。
「美しいレディ、エスコートさせていただけますか?」
*
「女性と出かける事などないから、気遣いが足りなかったらごめん。足とか、その、大丈夫?馬車に乗った方が良い?」
「平気です」
わたし達は何故か手を繋いで王都の賑やかな通りを歩いている。
「あ、もしかして好きな人とかいる?勘違いされたら迷惑だろうか?」
迷惑なわけがない。わたしは首を横に振った。
「良かった」
あからさまにホッとした様子のケニス様に、何故か胸が痛む。勘違いするような相手なんていやしないのに。
「ケニス様こそ、わたしなどを連れ歩いて大丈夫なのでしょうか?平民と一緒にいるとお咎めがありませんか?」
「全然!何を言い出すかと思ったら。俺、三男だから家は継げないし、婿入りする相手もいない。せいぜい頑張って騎士爵をもらえるようにと考えているんだけどね」
ケニス様はどうやら街歩きを楽しみたいらしい。わたしの手を引くと、通りに並ぶ店を覗きながら歩く。
「この所ずっと君に会えなくて、早起きする楽しみが無くなってしまったよ」
「商会で責任ある仕事を任されたのです。両親と相談して食堂のお手伝いは休日だけする事になりました。それもしなくて良いと言われてはいるのですけど」
「え!そうなの?そんな大事な事、俺には伝えて欲しかったなあ」
ケニス様は繋いでいる手に力を込めた。驚いたわたしは思わずびくりとしてしまう。
「ごめん!痛かったかな。つい力が入ってしまった」
「いえ。そう言うことではなくて……手を離していただけたらと」
「そうだ、リーファは屋台飯を食べた事はあるかな?何か買ってくるから、座って待ってて」
答える前に駆け出したケニス様の背中を、わたしは呆然と見送った。
*
「あの、わたしがこんな事を言うのは大変失礼だと存じ上げていますが、一緒にいるとケニス様が誤解されてしまいます」
わたしは片手に飲み物、片手に串焼きを持ったままケニス様を諫めようと口を開いた。
「あーダメダメ!」
心臓が止まりそうになる。何か気に触るような事を口走ってしまったのだろうか?
「リーファは口調が固いの。普通に話してよ。同じ釜の飯を食べる騎士隊の仲間じゃないか」
「わ、わたしは隊員ではありませんし、そこに住んでるから仕方ない事です」
ケニス様の思わぬ言葉に、顔が赤らむのがわかる。怒っているわけじゃないんだ、良かった。
「ほら、学院時代も手紙渡して貰ったりして、俺たち結構親しかったから、誤解されて嫉妬されていたんだよ、知ってた?」
「は?……何をでしょうか?」
まさか、マリル様がケニス様を受け入れなかったのは、手紙を仲介したわたしとの仲を誤解したからなの?まさか?
「リーファはさ、人気あったんだよ。男爵が嵌められて爵位を失った事は高位貴族達の間では知れ渡っていたんだ。それに君は学力優秀で性格も良い。ひそかに君を慕う男子学生達にとって、手紙のやり取りで君に会う俺のことをやっかむ奴とかいてさ」
「ご冗談を。学院時代、誰からも声をかけられた事はないんです。冤罪とは言え爵位を失った平民に興味を持つような酔狂な方がいらっしゃる筈がありませんよ。
ケニス様はこんな時でもお優しいのですね。マリル様をずっと想ってらっしゃったのに、お辛い気持ちを隠して。わたしに気を遣ってくださる必要は一切ございませんから」
言うつもりなんて無かったのに、口をついて出た言葉は、酷い言葉だった。
わたしはあの時のケニス様のお顔を一生忘れないだろう。
彼は絶望したように大きく目を見開いて、え?そんな勘違いある?と頭を抱えた。
「ずっとわかりやすくアピールしたつもりだったんだけどなあ。君の父上がリーファに手を出すなって言うから我慢してたのに。まさかそんな誤解をされてたなんて」
は?ケニス様は一体何を言ってるのだろうか?
「俺の初恋は君で、初めて会った時からずっと君の事が好きなんだ。君を守るために治安騎士隊に入隊したといっても過言ではないよ」
「嘘!ケニス様はずっとマリル様に手紙を」
「あれは兄からの手紙を届けていただけなんだ。兄とマリル嬢はずっと想いあっていたんだよ」
「でも!マリル様は今日、伯爵子息様とご結婚……」
「うん、だから新郎は俺の兄貴。伯爵家へ養子に入ったんだ」
わたしは混乱してしまい、死ぬまで口にするつもりの無かった事が思わず口をついて出てきてしまった。
「マ、マリル様は、商会の番頭さんの事が好きで、だからケニス様の恋は叶わないと思って、わたし…わたし」
「だからね、その番頭と兄上とマリル・カナート嬢の夫君は同一人物なんだよ」
悪戯が成功した時のような楽しげな顔をしたケニス様を前に、わたしはどんどん顔が青ざめていく。
一体どういう事なの?
「まさか!髪の色が全然違います!番頭さんは茶色の髪に眼鏡で……」
「髪は染めて、眼鏡で変装していたんだろうね。顔は同じだよ?気が付かなかったかい?」
なんて事なの?驚いて服の上に串焼きを落としてしまったわたしがあたふたとしていたら、ケニス様は落ちるかなあと言いながら、濡れたハンカチでスカートのシミを拭う。
「な、何をっ」
「汚れを落とさないと。せっかく似合ってるのに。ああ、でもそうだな、代わりのドレスを俺に贈らせて欲しい」
「何が何やら訳がわかりません」
やっとの事でまともな言葉を発したわたしに、ケニス様は優しく微笑みかけた。
「リーファ、可愛い」
*
結論から言うと、ケニス様の言葉は正しかった。
カナート商会の番頭をしていた男性は、ケニス様の兄、ただし母親が違うという事で、お兄様はお母様と別邸で暮らしていたそうだ。お兄様のお母様はジェファーソン侯爵夫人の侍女をしていた人で、夫人の嫁入りと共に実家から付いてきた。
身体の弱い夫人はなかなか懐妊しなくて、自分に何かあった時の為にと、第二夫人としてその侍女を侯爵様に薦めていたのだと言う。
番頭だと信じていたお兄様はカイト様と言うお名前らしい。そのカイト様が生まれた後で、体の弱かった正妻の夫人が男子を産んだ。
その男子が、ジェファーソン侯爵家の次男で、ケニス様が三男になる。カイト様は長男ではあるけれど、夫人に男子が生まれた事でジェファーソン侯爵家の継承権は無くなった。もとよりカイト様とお母様はそれを望んでいたわけではなく、万が一奥様に子どもが生まれなかった時の保険だと思って割り切っていたそうだ。そしてカイト様のお母様は第二夫人となる事は辞退して、侍女に戻ってしまったのだ。
一方、夫人に嫡男が生まれた事で微妙な立場になったカイト様だが、幸い三兄弟は仲良かった。そしてたまに遊びにやってくる親戚の娘とも親しく交流するようになったのだった。
「それに番頭じゃないんだよ。ゆくゆくはカナート家へ婿入りする為に、勉強をしていただけなんだ。
リーファはまだ商会員では無かったから、お店で兄を見た事はなかっただろう?カイト兄は、商会の番頭の振りをして、リーファを騙していたんだよ」
「それは何のためにですか?それなら別にこそこそせずとも、堂々とマリル様とお付き合いされたら良かったのでは?」
「うーん。それは複雑なんだけど、カイト兄の母がマリル嬢との仲を認めなかったからなんだ。
納得がいかない顔だね。カイト兄の母上は俺がマリル嬢の事を好きだと思い込んでいたので、二人の仲を認めるわけにはいかなかったんだ」
「ええっ、そうなのですか?」
わたしは口から心臓が飛び出しそうになった。
「いや、だからそれは誤解なんだって!俺が好きなのはリーファなんだ!
それにカナート子爵は、俺の母上の従兄弟だから、母や嫡男の兄上を脅かす存在のカイト兄を、心情的に認める訳にはいかなかったんだよ」
なんという事だろうか。
番頭だと思っていた人がケニス様の母親違いのお兄様で、マリル様との結婚を認めてもらう為に頑張っていただなんて。
「結局、カイト兄が我が家から離れて傍流の伯爵家に養子に入った事で、ジェファーソン侯爵家とは縁を切った。それでようやくカナート子爵が折れて、ふたりは結婚できる様になったんだ」
ケニス様はわたしの頭を撫でると
「リーファは、あの手紙が俺からマリル嬢宛だと思っていたんだね」
「それはそうです!だから……何故ご自分で渡さないのだろうかと不思議で」
「カイト兄は結構嫉妬深くて、手紙は直接渡しちゃ駄目だと言うんだぜ?俺にすれば、手紙を渡してもらうという口実でリーファに会えるから役得だったとはいえ、それが誤解の元なんだから酷い話さ。もっとも返事を貰う時にまた会えるから役得ではあったけどね。
そして、マリル嬢に悪い虫が付くといけないからと、学院のダンスパーティは身内の俺なら許すそれ以外は駄目だとか言ってきかないから、ずっと彼女のパートナーを務めていた。本当は誘いたい相手がいるのに誘う事が出来なくて歯痒かった。
もうわかっていると思うけど、誘いたかったのは君の事だよリーファ」
わたしは大量に流れ込んできた情報に、頭がついてゆかず、また目の前でわたしを見つめて微笑んでいるケニス様が直視出来なくて、目を回してしまったらしい。
目が覚めた時、自室のベットの上だったのだから。
*
「ごめんなさいね、リーファ」
開口一番、深く頭を下げて謝る目の前の美しい人は、新婚のマリル様だ。
マリル様は人妻らしい落ち着いた装いと薄化粧で現れた。学院時代はまるで武装でもしていたかのようにきっちりと化粧をしていて、地味なわたしは引き立て役として更に地味に見えていたのだが。こうやって薄化粧のマリル様を見ると、年相応の愛らしさがあって可憐だ。
「今はまだカイト様が商会の仕事を引き継いでいる途中なの。だから今日はひとりで来たの。本当は彼も一緒に謝りたいと言ってたのだけど。本当にごめんなさいね。嘘をついて騙していて」
マリル様は申し訳なさそうに頭を下げた。
「やめてください。わたしには被害も何もないですし、マリル様が好きな方と結ばれて本当に良かったと思っているんです」
「それはそうかもしれないけど。ケニス様とわたしの事を誤解してたと聞いて本当に反省しているの。貴女を利用するばかりで貴女の気持ちを二の次にしていたわ。ごめんなさい」
「わたしの気持ちは大丈夫です。ただ、ケニス様は片思いが辛いのではないかと思っていました。そうでは無かったみたいで、わたしの早とちりだったんですね」
確かにわたしとケニス様は、マリル様にとっての虫除けになっていたと思う。子爵家とは言え財産家のひとり様、国でも有数の商会に婿入り出来るのだから、爵位を受け継げない高位貴族の次男三男にとっては理想的な相手だし、低位貴族の子息なら、玉の輿に乗った様なものだろう。
彼らの思惑は、常に付き従うわたしや、学院でのパートナーと看做されているケニス様の存在で、一歩踏み込むところまではいかなかった。
全く気にしていませんからと、笑って答えるわたしに安堵したのか、マリル様はこう言った。
「ケニス様からリーファを紹介された時、あの方どんな顔をしていたか知ってる?
大切な、とても大切な人だからいじめたら承知しないぞ、みたいな顔をしてわたしを睨むのよ。リーファを見る時の愛情に満ちた目との落差が激しすぎて、わたくし驚いたのよね」
貴族学院には意地の悪い令嬢や、平民の娘なら無体を働いてもいいと思っている馬鹿な令息が結構いるの、爵位こそ子爵だけどカナート商会を営んでいる我が家と、大貴族のジェファーソン侯爵家に楯突こうなんていう考えなしが出てこなくて良かったわ、というマリル様の言葉を聞いて、ああ、わたしは実は守られていたのだと、今更ながらに気がついたのだった。
部下の失敗に連座し責任を取って全てを失った元男爵の娘、
マリル様繋がりとは言え、ケニス様と親しいという事だけで攻撃対象になってもおかしくはなかった。
マリル様の腰巾着として常に行動を共にしていたから、変な人に絡まれる事はなかったし、カイト様が扮していた番頭さんは、教本とともに授業で役立つノートも渡してくれていたからわたしの学院での成績は常に上位で、卒業式では平民特待生として表彰されもした。
おふたりが守ってくれたのね。
「それに、リーファは目を離すと変な男に引っかからないかと心配で、ついつい貴女を拘束してしまっていたの。平民は貴族には逆らえない、だから貴女に手出しを出来ない様に放課後まで連れ回してごめんなさい」
「そんな事!わたしこそ、マリル様にお礼を言わねばなりません。守ってくださっていたのですね。マリル様が、あの番頭さんと、いえカイル様と結ばれて本当に嬉しく思っています。どうかお幸せに」
わたしは心からの笑みを浮かべおふたりの幸せを願う。
「ありがとうリーファ!それで貴女、商会を辞めるって本気なの?」
そうなのだ。わたしは商会を辞める決意をしたのだった。
「はい。マリル様にはたくさんお世話になっておきながら、申し訳ありません」
「謝る必要などないわ。リーファはわたくしと旦那様を繋いでくれた恩人ですもの。わたくしやカナート商会に気遣いは無用よ。だけど仕事を辞めて、貴女はどうするつもりなの?」
「縁談があってお受けしようと思っているのです。わたしみたいな地味で取り柄のない娘でも良いと仰る方がいるんです」
「まあ!それはおめでとう。お相手は?ふふ、聞かなくてもわかっているわ。
リーファ、貴女は自己評価が何故か低いけれど、その艶やかな黒髪も神秘的な黒い瞳もとても綺麗よ。
それに貴女の顔立ちはお母様に似て美人さんですもの。学院でもうちの商会でも密かにリーファを狙っている男性が多くて、リーファを守れってあの人うるさかったのよ」
「騎士隊では、道端の雑草と呼ばれているのに?」
「それはケニス様があまりにも牽制するからその反動じゃないかしら?本人に聞いてごらんなさい」
嫉妬心丸出しの執着男についに捕まってしまったのねぇ、と
マリル様はくすくすと笑うのだった。
*
話は少し遡る。
ケニス様に告白されて目を回して倒れた後、ジェファーソン侯爵が宿舎に訪れた。
父が爵位も地位も何もかも失うきっかけになった事件の後始末が終わったのだと言う。
そもそもの発端は、王太子殿下の婚約者の公爵令嬢に横恋慕した騎士とその公爵令嬢が、手に手を取って駆け落ちしてしまった事だった。
その騎士の直接の上司だった父は、2人の駆け落ちに手を貸したのでは?と疑われた上、怒り心頭の公爵に対する見せしめとして罰を受けたのだった。その騎士は身寄りのない平民だったので、罰するのにちょうど適当な人間がわたしの父だった。
婚約者を失った王太子殿下だったが、この度めでたい事に隣国の姫を娶って国中がお祭り騒ぎだったのは少し前の事。この慶事によって恩赦が行われ、父の爵位の復活が決まった。部下の不祥事の引責で公爵の怒りを逸らすための見せしめの懲罰だったので、父を良く知る人たちは大層喜んでくれたらしい。ありがたい事だ。
とりわけ、父を信頼し可愛がっていたジェファーソン侯爵が、国王陛下に陳情してくださって、さらには出奔した令嬢と騎士とふたりの間に生まれた子を見つけだした。そして公爵閣下と元令嬢夫婦との仲を取りもち彼らを和解させたのだ。
自分の理不尽な怒りで不当な扱いを受けた父に罪悪感を持っていた公爵からの取りなしもあって、父は爵位を取り戻した上に再び騎士団に戻れる事になった。
しかし父は、第二騎士団ではなく治安騎士隊を選び、その隊長となった。わたし達家族は、宿舎から出て小さな屋敷に移り住んだ。
そしてわたしはケニス様に求婚され、彼が婿養子として我が家に入る。あまりの変化に戸惑うばかりだ。
*
いつか、こうなると良いと思っていた未来、叶わぬ夢だと思っていたのにそれが現実になると、これは嘘なのでは?と勘繰ってしまうのは、わたしの悪い癖だ。
目の前の彼は緊張を隠しきれずそわそわしていた。
「ずっと好きだったんだ。だけど義父殿から、身分違いは不幸の元だからと。リーファを泣かせるような事はしたくないから諦めて欲しいと言われたんだ。
そうしたら父が、全て丸く収めるから、その時には正式に婚約を申し込むと義父殿に言ってくれた。だからどうか受け入れて欲しい」
わたしは固唾を飲んでケニス様の言葉を待つ。
「貴女を愛しています。一生貴女を大切にして守る。俺の妻になってください」
ケニス様が、彼の瞳の青い色の石がついた指輪をわたしの指に嵌めた。ただただ立ち尽くして涙目になったわたしに、彼が慌てた。
「え!リーファ!?」
「…ごめんなさい。泣いたのは嫌だからじゃなくて……わたしも、貴方を愛しています。ずっとずっと好きでした、今も好き………」
やっとの事で気持ちを伝えたわたしの体を、ケニス様がそっと包み込む。
「ありがとう。いろんな柵で言えない事や黙っていた事があってごめん。愛してる」
謝らないで。ケニス様は悪くない。わたしが勝手に勘違いしていただけ。勝手に拗ねて僻んで、気持ちも言葉もしまい込んでいただけ。
でも、一言だけ言ってもよいかしら。
「もう嘘はないですよね?」
わたしはケニス様に念押しをする。
「俺はリーファに嘘をついた事なんてないのだけど?」
「だけど本当の事も教えてくれませんでした」
「それはごめん、兄の話は話せなかったし、君に気持ちを伝える事もしなかった。ああ、俺が悪い。全面的に悪い。許して欲しい。これから一生かけて君を世界一幸せな花嫁にするから」
わたしは彼の腕の中に閉じ込められて、幸福感でいっぱいになって息ができないくらいだ。少し苦しい。
「あの、ケニス様。苦しいです」
「ケニスって呼んで。呼ばないと緩めないよ」
わたしは恥ずかしくてなかなか言い出せないが、思い切ってケニス、苦しいわと小さく呟いた。
「うぅ、俺の奥さんが可愛過ぎて胸が苦しい」
まだ奥さんじゃないわという言葉は、彼の唇に吸い込まれて消えた。
お読みいただきありがとうございます。
補足として
・カイトが養子に入ったのは、父親方の親戚の伯爵家。
・カイトの母は、侯爵夫人を慕っており、夫人の必死の願いを叶えるためにカイトを出産。別邸に住んでいたが後に本宅へ戻り、夫人の侍女に復活した。
・侯爵は夫人を愛しており、その夫人の願いを受け入れたが、カイト母の事は信頼している。
・リーファの父は、身分差もあって叶わぬ想いで娘を不幸にさせたくないと、ケニスに釘を刺していた。