異端の心理学者はカリスマ教授ですわ
俺はボーッとした頭で七限目の講義を受けた。今日の昼過ぎ、正確には午後二時前までジョージの奴が俺の家にいたからだ。そしてさすがの俺でも大ケガをしたジョージが心配で日中うまく眠れなかった。しかしジョージは俺の心配をよそに信じられないくらい、急激な回復を見せた。
「フフフフッ、コノケガノ治りがハヤイノハ、美月ちゃんガ愛を込めてチリョウシテクレタカラデス。ネーッお義兄サン」
「お義兄さん? 気色の悪い。止めろ、その言い方!」
「オー、テレナクテモイイです。オニーサマ。アシタハ、土曜日ダカラ美月チャン二ショウドクシテモラオウカナ?」
「美月は明日も大学の研究室だ」
「ジャア,明後日のニチヨウビはドウデスカ?」
「日曜日も研究室だ!」嘘だけど・・・。
「ホントデスカ?」こういうところだけは鋭い。
「それよりお前、そろそろ帰れよ。そして店には連絡したのか? 今日休むこと」
「ノー! お店ヤスミマセン。僕ダイジョーブデス」こいつ、人間か!
「ソレニ、ヨーコチャンガオミセ二来たらボクガゲンキ二働いていた方が、ヨーコチャン安心スルデショ」
「確かにその通りだが」
ということで、なんとジョージは俺の家からコンビニエンスストアに出勤して行ったのだ。
俺がそんなことを思い出していたら、心理学教授の北山大悟と目が合った。正確には目が合った気がした。なぜなら北山教授は視力がほとんど無い。そのためか彼は分厚い眼鏡をかけていて白杖を持っていて、助手の土田詔子という小柄な女の人がいつも付き添っている。
北山教授の講義は深層心理学中心で無意識や魂、はたまた霊魂の話まで及んでいて学会では異端だろうけど俺は気に入っている。彼の講義内容が面白いということもある。そして俺は教授の視力がほとんどないはずなのに、その他の感覚が発達しているのか出席している学生の状況をとてもよく把握していることに興味を感じていた。
俺は集中して彼の話を聞いているのだが、時折集中が途切れたり別のことを考えたりすると、教授の意識が俺に向いている気がする。それは同じ講義に出席している秋彦や早川さんも言っていた。秋彦なんかは「北山教授、ホントは目が見えているんじゃないのか。僕が講義中、疲れて少しトローンとしていたら(藤井君、疲れているのですか?)みたいな声が聞こえたよ」と驚いていた。
北山教授大ファンの早川さんにいたっては、「あの助手が北山教授様の眼となって、彼女が見て知りえたことを北山教授様に全て知らせているのではという俗説もありますが、そんなことは断じてありませんわ。北山教授様のお力から考えればわたくし達の状況を把握することなど、教授様にとっては朝食のたくあんを齧るようなものですわ」とよく分からないことを言っている。
北山教授の講義が終わり、俺と秋彦と早川さんは大学近くの定食屋「牛若」に入り遅い夕食をとった。
「長谷川君、この間の殺人事件、例の堀内公園の件だけど、どうやらあの近くに幽霊が出るみたいだよ」秋彦は痩せているくせにハンバーグ定食ご飯大盛を食べている。
「あの辺りは霊が召喚されやすい場所ですわ」早川さんは上品に七味唐辛子を大量にふりかけたきつねうどんをすすっている。
「早川さんは堀内公園で幽霊見たことあるの?」秋彦は少し声をひそめた。
「わたくし、幽霊を見たことはございません」
「ふーん、霊感ないの」
「そう仰る秋彦さんは?」
「僕もないよ」二人は何故か肩を落とし俺を見た。
「長谷川さんは幽霊を見たことがあるのでしょう? やはり住職のご子息ですし」
「いや、別にそんなことはない」俺はさば味噌煮定食を食べながら適当に答えた。
「ホントか? 君はしょっちゅう幽霊と話している気がするけど。長谷川君の周りにはフワフワした微妙な雰囲気があるよね」ウンウンと早川さんも頷いている。
「それよりも例の堀内公園で出る幽霊って、最近殺された男子大学生なのか?」俺は強引に話題を変えた。
「フフーン、それが違うのだよ」秋彦は何故か得意そうだ。
「それでは一年半前に殺された女子高校生ですか?」
「ピンポーン! さすが早川さん。ナイスバディの女子高校生がミニスカートでフリフリクネクネして飛んでいるんだって、えへへ」こいつ何、喜んでいるんだ?
「女性の幽霊といえばスリムな体形と思っていましたが、最近は食糧事情も良くなったせいか豊満な方もいらっしゃるのですね」どうもこの二人も何かピントが外れているような気がする。
「ところでさ、今日の教授、ちょっとおかしかったことない?」
「ん? そうかぁ」
「そうですわ、今日の北山教授様はいつものクールさが少し欠けていたように見受けられました。どうされたのでしょうか」北山教授大ファンの早川さんは少し心配そうだった。彼女いわく「北山大吾様は我々には到底及ばない知性と霊性の持ち主でいらっしゃいます」とのことだ。彼女は教授の著書に深く感銘を受けたらしい。だから講義では最前列中央で教授をガン見している。
「北山教授はさぁ、目が見えなくても霊とかバッチシ見えているんじゃないのかな? この連続殺人事件でも教授が幽霊と話しをしたら、すぐ犯人見つかったりして? ねえ早川さん」
「うーん、それでどうでしょうか・・・」早川さんの否定的な返答に秋彦も俺もちょっと驚いた。
「秋彦さん、北山教授様の理論は幽霊が見えるとか霊感があるとか、そんなレベルのお話ではございませんのよ。北山教授様の理論は霊性のエネルギーについて分析されておられるのです。大まかに言いますと霊的なものもエネルギーを持っているということで、それを科学的に分析されて・・・」
「はあ・・・」秋彦と俺は首を捻った。それからしばらく早川初音の北山教授様がいかに素晴らしくて偉大かという熱い話を俺と藤井は聞かされた。俺が仕事に行く時刻だと席を立つと秋彦も慌てて俺についてきて食事の勘定を済ませた。早川さんはそれでようやく自分の熱く語る癖に気づき、俺たちに丁寧に謝った。彼女はときどき俺たち二人に熱弁をふるうのだ。
俺は涼しくなってきた夜風のなか銀色の自転車を走らせた。親父が言うように俺は運動神経が鈍く、二〇歳つまり大学受験勉強中まで自転車に乗ることができなかった。しかし大学受験勉強の合い間に美月が「運動不足解消も含めて自転車乗りの練習しない?」と誘ってきた。
隆雲寺と離れの家は丘の上に建っていて場所だけは広い。俺と美月は寺の前のスペースを練習場にして秋が深まった頃、毎夜ずっと練習した。
運動神経の鈍い人間はバランス感覚が悪い。俺もその例外ではなく、最初自転車のペダルをこぐことと転げないようにバランスをとることが同時にできなかった。となると当然ドテッとこける。運動神経の鈍い俺はこけ方も下手で、足でこけるのを防ぐとかこけた際に受け身をとるとかが勿論できない。優しい美月は俺がひどくこけないように自転車の後部座席を支えてくれるのだが、彼女はか弱い女性である。ジョージのようなマッチョではないので、時々俺と一緒に転倒したりする。見栄えのしない俺が擦り傷とかできても全く問題はないが、肌が白くて美しく可愛い妹が怪我をして傷が残らないか、俺はそのことが心配でたまらなかった。
美月は天才的な頭脳の持ち主だが運動神経も素晴らしかった。運動神経ゼロの俺がひどくこけるのに、大したケガをしなかったのは美月の補助のおかげであるらしい。俺が膝とか肘とか肩をひどく地面に打ちつけそうなとき上手に当たる力を逃がしてくれた。死んだ実の父親から何らかの武術の手ほどきを受けたらしい。だから鈍い兄の補助をしても美月はほとんどケガをしなかった。俺がそのことに気づいたのは練習の最終盤だったが。
俺はある晩、いつも抱えている心配をまた美月に口にしてしまった。
「なあ美月。俺は運動神経が鈍いからあまり上達しないだろ。美月の大切な時間を俺の受験勉強や自転車の練習に使っていいのか? 無理してないか?」
「ううん、そんなことはないよ、お兄ちゃん。私は楽しんでいるよ」聡明な妹は何故か頬を赤らめながら答えた。
「でも美月のやっている研究はとても難しくて、だから時間もたくさん必要だろ。それにもうすぐ大学院に行くって聞いたぞ」
「そうだね。確かにお兄ちゃんの言うとおりだけど・・・。私の研究は時間・空間と素粒子との関係を明らかにするもので.やっぱり難しい・・・、だけど面白いよ。今は研究所に籠って勉強している時間が多いかなぁ」
「大学生なのにもう研究所で勉強しているのかぁ。だからたまには体を動かした方がいいのかなぁ?」
「フフッ、確かにそうだね、そういうこともあるよ。私は研究所という閉じられた場所にいるけど、私の研究は新しい世界が開かれるかもしれないっていう予感もあるの。でも現実の世界とは離れたところにいる気もする。ふふっ、変だね。私はお兄ちゃんと一緒に勉強したり自転車乗りの練習をすると、この現実世界とちゃんと繋がっている気がする。そのことはとても私を安心させるし、私にとってすごく気持ちが良いことなの」俺は美月の言っていることはほとんど分からなった。だけど彼女が俺と一緒にやっていることを楽しんでいることは嘘ではないと感じた。
「わかった。俺も頑張って早く自転車に乗れるようになるよ。でもこの年になって自転車に乗る練習ってのもカッコ悪いな」
「ううん、全然そんなことないよ。何でも新しいこと出来なかったことに頑張るぞーってことが一番大切だと思うよ」聡明な人間とは美月みたいな人を言うのだろう。
俺は美月の協力もあって一週間で何とか自転車に乗れるようになった。鈍感な俺でもさすがに美月には感謝のしるしとして何かプレゼントをしたいと思った。だが美月に何をプレゼントしていいか分からない。必死に考えても全く思い浮かばない。だから愚かな俺は美月に何か欲しいものはないかと訊いてしまった。美月はしばらく考えて悪戯っぽい顔をした。
「お兄ちゃん、自転車上手に乗れるようになったけどもう一つ課題があるよ。それは二人乗りができるようになること」
「二人乗り?」俺は小悪魔のように微笑んでいる妹の言っている意味が分からなった。プレゼントの話はどうなったのか?
「じゃあ試しに二人乗りの練習をやってみようよ」美月はスタンドで自転車を立てて、それに俺が乗るよう促した。俺は彼女の言うとおりサドルに腰をおとした。すると可愛い妹は後部座席に乗り後ろからぎゅっと俺を抱きしめた。俺はびっくり仰天したが何も言えず心臓の鼓動だけが聞こえた。そしてバラの花のような素敵な香りが漂っていることに気づいた。
「お兄ちゃん、私へのプレゼントはね、このまま私がいいって言うまでじっとしておくこと」
美月と俺は数分間そのままの姿勢でいた。その時間が三分だったのか五分、いや一〇分だったのか分からない。美月はフーッと大きく息を吐き俺の体から腕をほどき自転車から降りた。俺もゆっくりと自転車から降りた。
こうして俺と美月の自転車練習は終わった。それから三日後、新しい自転車が俺の家に届いた。それは変速機つき、そして後部座席のある銀色のボディの自転車で美月が俺にプレゼントしてくれたものだった。