夜間大学の教室での回想
夜間大学の教室にはあまり人はいない。疲れた体に鞭打って勉強する人間は少ないのか? だが俺にとっては生徒が少ない方がありがたい。人がたくさんいるといわゆるグループみたいな小集団ができてきて、それに所属しないとその場所から排除されたりする。俺はそんな雰囲気に馴染めないとずっと思ってきた。小学、中学時代は何とか我慢して休みがちながら頑張って通学した。しかし高校は精神的にとてもつらくて中途退学した。そんなときに俺のいい加減な親父は再婚した。再婚した相手には娘がいて、それが美月だった。俺が何もせず家でゴロゴロしている時、四歳年下の優秀な美月は飛び級で大学に進学していた。
俺は自分のことをダメ人間だと思っていたが、呑気な親父は新しい家族の顔合わせということで、とあるレストランで食事会をした。俺は親父の再婚相手にもその娘にも会いたくなかったが、有無を言わさず連れていかされた。俺の親父は体力だけはあるのだ。俺は飛び級で大学進学した美月のことを頭でっかちで高慢な冷たい女だと勝手に想像していたが、全くの正反対だった。
男性全般に優しくない親父はその食事会で俺のことを紹介すると言って、デリカシーのひとかけらもない話を最初から話し続けていた。俺の母親となるべき人は不思議なオーラ? があり親父の話を上手に聞き流していた。そして可憐な美冬はちょっと困ったような顔をして親父のバカ話を聞いていた。俺は親父の話には閉口したが、美月とその母親―七海さんには初対面にもかかわらず親近感を何故か抱くようになっていた。
抹茶ケーキのデザートが出てコーヒーが運ばれてきた頃に初めて美月は口を開いた。
「あの失礼なことかもしれませんが、雲海さんはもしかすると体質的に夜型の人間なのではないでしょうか。今までお父様のお話を伺って、夕方以降の時間帯の方が生き生きと活動されているように思ったので。あっ、すいません。初めてお会いして勝手なことを言ってしまって。雲海さん、気を悪くされたら、ごめんなさい」美月は白い頬を真っ赤にして恥ずかしそうにそう言った。俺は妹となる少女が兄になる人間のことを一生懸命考えて話してくれたことにビックリしたし嬉しくもあった。
「いやいや、美月ちゃん、そんなに気をつかってくれてスミマセンナァ。こいつは小心者で運動神経も全然なくて未だに自転車も乗れないどんくさい男じゃ。たくさんの人間がいるとオエッと吐いてぶっ倒れるし。そうかと思うと暗いところで誰と話しているのかブツブツ言ってたり、蛇に追っかけられてギャーギャー泣き叫んで気を失うし・・・。まあ優しいだけが取り柄のゴロゴロしているプー太郎です」聖海という立派過ぎる名前を持つ親父は、仏に仕える身としてはあまりにも無慈悲な言い草をするアホ坊主である。
「聖海さん、息子さんはまだ本人が持っている才能とか良い面が開花していない状態じゃないかしら? 私だって学校の宿題なんてほとんどしたことのない劣等生だったけど、何とか音楽で食べてきたわ。美月なんかは、傍から見るとガリ勉のように机にかじりついて勉強ばかりしていた。でもね、私は一言も美月に勉強しなさいって言ったことがなかったのよ。だけど美月は数学や物理の問題を解くことが遊びのように楽しかったの。私は最初、そのことが信じられなかったけどね」世の中には勉強や学習が遊びになっている人間がいるのかと俺は驚いた。しかも目の前の少女はガリ勉タイプではなく、とても可憐で繊細で少女漫画に出てくる主人公のようなのだ!
天才少女の美月の発言は影響力があり、俺は定時制高校に入りなおし無事卒業した。そのあと俺はどうしようかと思案したが、俺の親は頼りにならない。親父は檀家さんの悩みを聴くとか言って未亡人相手にややこしいことばかりをしている。(再婚したのに)七海さんはプロのジャズボーカリストなのであっちこっち行って、たまにしか家に帰って来ない。この二人、なぜ結婚したのか理解不能である。
それで俺は美月に相談したわけだが、彼女は「夜間のバイト、例えばコンビニ店員なんかがいいんじゃないかな? 最初は無理しないで」と言ってくれた。優しく適切なアドバイスである。アホ親父は「お前、夜行性だからホストとかいいじゃないのか。あっ、でもその容姿と頭の悪さでは駄目だな、無理無理」という中身のない話とは雲泥の差だ。
俺は美月のアドバイスに従って今も務めている三丁目のコンビニエンスストアで夜間のバイトを始めた。この仕事は俺に合っていたようにストレスもあまり感じなかった。あのヘンテコな二人組を除いて。
そして美月と一緒に暮らし始めると、不思議なことに勉強嫌いな俺が大学で学びたいと思うようになったのだ。バイトをしながら受験勉強を始めたのだが、頭の良くない俺はどうしてよいかわからない。俺はおずおずと、どう受験勉強したらいいのか美月に尋ねた。美月ははにかみながら「じぁあ、お兄ちゃん、私と一緒に勉強しない? お兄ちゃんがそれで良ければだけど・・・」と言ってくれた。考え足らずの俺はその時「もちろんOKだ」と即答した。すると聡明な妹は「お兄ちゃんは理系というよりは文系タイプかな?」と訊いたので俺はウンウンと頷いた。「文系の中にもいろんな専門科目があるよね。政治・経済・ビジネス・歴史・文学・教育・福祉・環境等々。その中からお兄ちゃんが興味を持てるものを選べばいいよ」と彼女は具体的な方向性も示してくれた。
結局俺は読書が好きだからという極めて単純な理由で文学部を志すことにした。他の学部はよく分からなったのだ。美月は学習能力が乏しい俺を粘り強く教えてくれたのだが、さすがに鈍い俺もあるとき心配になって彼女に訊いたことがある。
「なあ、美月。美月は頭の悪い俺の受験勉強をよく見てくれているけど、お前の研究とか勉強とか邪魔になっているんじゃないのか? 妹だからって無理していないか?」
「ううん、無理してなんかいないよ。私、お兄ちゃんとこうやって一緒に勉強しているのが楽しいよ」
「楽しい? ホントか。俺みたいに頭が悪くて勉強がなかなか進まないのを見てるとイライラしないのか?」
「そんなことないよ。それにお兄ちゃん、頭悪くないよ、全然」
「そうかぁ・・・」
「それどころか、お兄ちゃんは他の人にはないものを、とても素敵なものを持っていると思う」美月は銀色の瞳を輝かせて、そう言った。俺はその意味は分からなかったが、妹が自分の言葉を真剣に伝えているということは分かった。
「何か、よく分からないけど、美月にそう言われると嬉しい」
「そう・・・ウフフフッ」美月も嬉しそうに微笑んだ。
俺は妹のおかげで今、大学の教室にいる。美月は「お兄ちゃんはお仕事もしているから、自分のペースで勉強をしていったらいいと思うよ。四年間で無理して卒業しなくてもいいと私は思う」と言ってくれた。飛び級で進学した彼女がそう言うと逆に妙な説得力があった。
「ねえねえ長谷川君、またあの公園で人が殺されちゃたね」五限目の西洋史の講義が終わったあと、藤井秋彦が寄って来た。
「そうだな」
「あの公園、何て言ったっけ? えーっと・・・」秋彦は考える振りをした。
「堀内公園でしょ。一年半前の幼児、半年前の女子高校生、そして今度殺された若い男性は大学生だそうですわよ」クールに早川初音が答えた。俺とこの二人とは同じ講義を選択している場合が多く、何となく話すようになった。別に仲良しグループを作ろうという気はなかったが、何故か気が合った。
「堀内公園はパワースポットだと思っていたけど。どう思う、雲海和尚?」
「俺、和尚じゃないし。それから出家する気もない」
「あれあれ、そうですか? お坊さんは最近儲かると思うけどなぁ。年寄りはたくさんいるし、じゃんじゃん死ぬし」
「秋彦さん失礼です、そんな言い方。それに今はなかなかお年寄り達は死なないですわ。しつこくてしぶといし。それより今回のように殺されて死人になる方が急増していますわ」早川さんは銀縁眼鏡のフレームの眉間の部分に人差し指を当てながら言った。それにしても二人とも不謹慎な奴だ。しかし早川さんの言っていることは事実で、老人はますます長生きするし変な殺人傷害事件は激増している。マー君とヨーコの殺人事件も怨恨説はないし通り魔の仕業とも思えなかった。一瞬で頸動脈を断ち切られているし、そもそも二人ともわざわざ人気のない場所に行く理由もなかった。もし今回の大学生の殺人も同じ状況であったのなら不可解な事件が連続するということで、それはある種の意図が働いているということではないのか。
「どうしたの長谷川君、難しい顔をして。ハハーン、殺された人が幽霊になって成仏させてくださいって君のお寺に来たりして」寺には来ていないが職場には来ている。
「あら、そうだとすれば、とても素敵なお住まいですわねぇ」何言ってんだ、こいつら!
どうも俺の周りには頭のネジが緩んだ奴ばかりが集まって来る。美月が言った「他の人にはないものを、とても素敵なもの」というのはこのことだったのだろうか? そうだとすれば、とても素敵なものとは思えない。美月にしては珍しく間違ったことを言ったわけだが、俺はそんなことはないと頭をブンブン横に振った。秋彦と早川さんは面白そうに俺の意味不明な振舞いを見ていた。