堀内公園北の森での決闘
梅雨入り前の夜は湿気を含んでいた。風もない。午後七時四十五分、俺は盗聴器付きデジタル式腕時計で時刻を確認した。俺は堀内公園北の森、南入口にいつもの紺色のデイバッグを背負って立っていた。目の前には暗く重々しい森があった。夜の北の森は人を寄せつけない力がある。
「定刻よりも早く来るとは、さすが私が見込んだ長谷川君だ」北山教授は北の森の中からゆっくりと現れた。白いシャツにグレーのスラックス姿が夜の闇にぼんやりと浮き出ている。
「今日のゼミナールは長谷川君、君が思っているように参加者は君だけだ。そうそう私の優秀な助手だけはスタッフとして参加してもらっている」北山教授は眼鏡をかけているが視力のない目で振り返った。森の中から黒のミニスカートに大きく胸の開いたピンクのブラウスを着た女性が腰を振りながら歩いて来た。南入口の薄暗い灯りの中でも彼女の真っ赤な唇がテラテラと光っていた。以前ジョージが喜んでレジ袋を渡したセクシィな女は早川さんだった。
「どうだい長谷川君、早川さんも眼鏡を取ると雰囲気が変わるだろ? 君のお店に行っても分からなかっただろ。ヒトは見方によって違う風景が見えるのだよ」
「なぜ、早川さんをここへ呼んだ?」
「なぜ呼んだのかだって? だって君、早川さんはゼミナールに参加することを熱望していたじゃないか」北山教授の傍に立っている早川さんはマネキン人形のように生気がなかった。カラーコンタクトをはめた銀色の瞳はガラスのようで、形の良い胸が僅かに上下している。
「長谷川君の友達もたくさん来ているが、彼らは元気そうだね。若宮葉子さんも坂下昇君も以前より元気そうだ。フフフッ」北山大悟は冷ややかに笑った。
俺の傍にいるヨーコと坂下は悔しそうな表情を浮かべたが蒼ざめている。
「あなたが二人を殺したのに、よくそんなことが言えますね」
「殺した? 私が殺したのか? 馬鹿なことを・・・。彼らを殺した犯人はいまだに捕まっていないのではないかね?」北山大悟は眼鏡を通して俺を凝視した。彼の眼は黒く光っているように見えた。その色はヨーコを傷つけた黒いナイフから出ていた黒い煙の色と同じだった。
「じゃあ、どうして彼らが殺されて幽霊になったことを知っているのです?」
「それは彼らが私のゼミナールの参加者だったからだよ」
「エッ?」
「ご存知の通り、私のゼミナールは一般の人にも門戸を開いているので資格のある人は参加可能だ」
「でも、ヨーコも坂下もあなたのことなんか知らなかったぞ!」
「まあ、死んじゃったときに忘れたのでしょう。ハハハ―ッ。彼らにとって、この世界ではいい思い出でもないしね。可哀そうに」この男は人の記憶も消せるのか? 早川さんと研究室に行ったとき、こいつは魂―意識の核にアクセスすれば様々な情報を手にすることができると言っていた。情報や記憶を操作することもできるのか?
「彼らのことはもういいでしょう。楽しく幽霊として生きているし、どうせそのうち消えていくのだから」俺の両脇に居るヨーコと坂下がさすがにムカッとしている。
「それより本題に入りましょう。長谷川雲海君、単刀直入に言います。君の持っている素晴らしい力、物質霊化能力を私とともに研究してくれないですか?」
「研究?」
「そうです、共同研究です。私は学者ですから」
「いったい何の研究するのか? 俺のこのややこしい力は困っている幽霊にちょっと使うだけでいいんだ」
「長谷川君、それこそ宝の持ち腐れですよ・・・」北山大悟は一度大きくため息をついた。そしてまた眼鏡の奥から俺を見つめていた。生ぬるい風が吹いてきた。木々の梢がざわめいている。
「この世界は滅びに向かって急いでいる。長谷川君、君にはとても深く愛する人がいる。自分の命よりも大切な存在がある。そして君はその人と幸せに生きていきたいと願っている。子どもが生まれて幸せな家庭を築きたいと思っている。長谷川君、君も薄々感じているでしょう。世界はもうすぐ滅びます。ただ人類だけが滅びるのではない。この世界の様相が劇的に変わってしまいます。その世界で果たして知的生物が存在できるのか? そんな時がもうすぐやって来る。その具体的な原因は数多くあるが根本原因は一つだけです。わかりますか?」
「人間か?」
「そうです。人間の霊性を変革すべき時が来たのです。仏陀もジーザス・クライストもモーセもカール・マルクスも孔子もムハンマドも彼らは皆、天命を受けてこの地上に現れたのです。そして私、北山大悟も!」坂下以上の桁外れな勘違い男だな、こいつは。
「長谷川君、あなたにはまだ理解できないでしょう。しかしいずれ分かる時が来る。私の崇高な理念と画期的な理論に賛同共感する同志が多くいるのです。そして世界を救済するときには多くの才能が集結する。長谷川君、私の手足となって働く同志がここにもいるのです。この意味、おわかりですね?」俺は北の森で待機している美月たちのことを思った。袴田さんはあれでも刑事だし、ジョージはカポエラ使いだし。
「もう遅いですよ。私の同志たちがちゃんと仕事をしたと思います」俺はどうするべきか迷った。美月たちのいる場所にすぐ行こうか? だが俺はヨーコが言う様に喧嘩に弱いのだ。
「長谷川君、私の隣にいる早川初音さんは私のことをとても理解している。いや、理解し過ぎていると言った方が正解かな。見たまえ、彼女は私のことを敬愛し過ぎて、こんなふうになってしまった。私を慕ってくれる可愛い生徒を何とかしたいのだが・・・」早川さんは教授の声が聞こえないのか微動だにしない。
「早川さん、おい、早川さん!」俺は無駄だと思いつつ勝手に声が出た。
「早川さん・・・・・・」俺の気落ちした声が聞こえたのか、彼女の右眼の瞼が一瞬ピクッと動いた。
「フフーン、なるほどー。長谷川君、早川さんはねぇー、私をとても敬愛している。だけど私に恋をしているわけではないのだよ。彼女の魂の地下室に訪問して分かったのだがね、その小さな地下室には温かいストーブがあって木製のテーブルと椅子があって、とても親密な空間だった。僕の肖像画が壁に掛かっていてね。そしてテーブルで彼女とコーヒーを飲んでいるのは君だったのだ。早川さんは君と一緒にいたいのだよ。長谷川君、君は幸せだね、こんな素敵な女性に好かれて」
北山大悟は眼鏡を外した。その黒い光を放つ眼は義眼だった。こいつは「黒蛇」で自分の眼を抉りだしたのだ! 北山大悟は大きく口を開けた。その口から黒ずんだヌメヌメものが現れた。眼と口は空洞のようで短い手足が生えた細長いトカゲのようなものが北山大悟の周りをまわっている。あいつの幽体か? 妖刀「黒蛇」の影響で不気味な幽体になってしまったのか。その黒いトカゲのようなものは体から黒い煙を出している。
「ヒッ!」ヨーコが叫んだ。
「シャア―!」という唸り声と共に北山大悟の黒い幽体は俺の目の前に現れた。
「クッ」俺は顔を歪めた。そして右手を後ろに回し、デイバッグの底に掌を重ねた。
その瞬間、俺の胸に「ドン!」という何かがぶつかる音がした。北山大悟ののっぺりした幽体がじわじわと俺の体の中に入ろうとしている。北山大悟の幽体から黒い煙が出て饐え(すえ)た匂いがする。気持ち悪うー。吐き気がした。
「グッ・・・・・・何故入らない・・・」不気味や幽体が小刻みに震えながら唸っている。俺は左手でこのトカゲお化けの首のあたりを掴んだが鉄のような感触でひんやりしている。俺はそのおぞましい冷やかさに鳥肌が立った。
「クモちゃん!」
「お兄様!」
ヨーコと坂下が声を上げたが体は固まっている。
俺は美月に言われたように必死で右手をデイバッグの中にある「黒蛇」に集中させた。俺の右手には霊化した黒蛇が浮き上がった。「お兄ちゃん!」美月の声が聞こえた。俺は意を決して、その霊化した「黒蛇」を胸にへばりついている北山大悟の幽体に突き立てた。
「ギョアーッ!」
北山大悟の幽体は断末魔のような叫びをあげブルブルと痙攣した。気色悪い! 坂下やジョージの「お兄様」の言葉より何千倍も何億倍も気色悪い。
俺は渾身の力で震えているトカゲのような幽体を引きはがした。俺の体から引き剝がされた北山大悟の幽体は胸にナイフが突き刺さったまま、俺の眼の高さで痙攣しながらのたうち回っている。「黒蛇」が突き刺さったところからドス黒い血が流れ落ちている。気持ち悪ぅ―っ、吐いてしまいそうだ。
「ヨーコ、坂下、どうにかしてくれっ」と俺は叫び二人を見た。二人は汚いモノを見るように固まったままだ。やはりこの二人は役に立たん。
「ハッ!」俺はまた美月の言葉を思い出し北の森を見て、胸の内で呼びかけた。
その時、北の森の中から白く輝く大きな蛇が現れた。その大蛇は素早く北山大悟の不気味な幽体に巻きついた。ブルブル震えている幽体の顔が恐怖に歪んでいる。シロは黒いナイフが突き刺さった北山大悟の幽体を巻きつけたまま、ゆっくりと夜空に昇っていった。その白い美しい体は徐々に小さくなり白い流星のように見えた。そして夜空の溶けるように消えていった。
「アレーッ、コイツ生きてる、ワン」呪縛が解けたヨーコが倒れている北山大悟を覗き込んだ。
「ホントですか。ちくしょう、この野郎! です」坂下が意識を失っている北山大悟の顔面に右拳を打ち下ろした。すると北山大悟の体がピクッと反応した。
「ンン? どーいうこと」ヨーコが不思議そうに俺を見た。
「北山大悟は幽体離脱して俺の体に入ろうとしたとき、奴は魂の一部を体に残していたんじゃないかな? その残した魂の一部が上手く体に馴染んでいないみたいだ」
「保険をかけていたわけですか。世界を救うとかデカいこと言っていたわりに、セコイ男ですね。それに変な体質」坂下が呆れていた。
「でも、シロいっちゃた・・・ニョロ」
「ヨーコさん、こいつが警察に逮捕されるより、シロに裁かれた方がいいと思いませんか? 僕は今、結構スッキリしていますよ」
「そうだねぇー、シロ・・・・・・」ヨーコはシロが消えて行った夜空を見上げた。
「あーっ痛っ、ジョージさん、もう少し早く助けに来てくださいよ」右の頬を押さえながら袴田刑事が俺の方にトボトボと歩いてきた。
「袴田さんハ刑事デショ。アイツノ手下がボクタチヲ襲ってきたノデ、急いでミツキチャンヲタスケニ行きました」こいつ何人倒したんだ? ジョージと一緒に歩いてきた美月が俺の方へ駆け寄った。
「美月さんがジョージさんと同じくらい強いってことは、今朝の組手で分かっていたはずでしょ」
実は今朝、美月が俺たちと一緒に北の森に行くと言い張ったので、俺は危険だから止めさせようとした。いつもは俺の言うことを素直に聞くのに、今朝は絶対に行くと譲らなかった。美月は自分の体は守れると言ったので、俺はジョージと戦って勝ったらいいと無茶なことを言った。美月は分かったと言って道着に着替えてきたので、俺もジョージも袴田刑事もビックリした。そして寺の前の広場でジョージと組手をしたのだが、カポエラの達人であるジョージのキックが当たらない! もちろんジョージは手加減していたが、そのうちに美月がジョージの左ハイキックを右手で跳ね上げて奴の顔面を左掌底で覆い後頭部を地面に押し付けた。その際美月は「手で頭の後ろ、受け身を」と言ってジョージに受け身をさせ、自分も力を抜いた・・・らしい?(後でジョージがそう言ったのだ)
「オーッ、ワンダフル! 合気道デスネ」ジョージは起き上がると俺たちにOKと言った。俺と袴田刑事はあっけにとられたが、美月は白い顔を真っ赤にして恥ずかしそうに慌ててその場から自分の部屋へ走って行ってしまった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」何でもできる妹はホッとした表情で俺の右手を両手で包んだ。
「ああ、大丈夫。ほぼ美月の言った通りになったよ」
「長谷川さん、私にはハッキリとは見えませんでしたが、この北の森の主が北山大悟の魂を連れ去って行ったのですね」
「そうです。あいつの魂はまだ少しだけ倒れている体内にあるようです」
「だから辛うじて生きているのか・・・」袴田刑事は地面に横たわっている北山大悟に目を向けた。
「袴田さん、奴を逮捕することはできますか?」
「ウーン、盗聴器で聞いたかぎりでは難しいです。あの話を信じる人間はほとんどいませんから。北山大悟がこの連続殺人事件の真犯人だと私は確信していますが・・・」
「ハセガワサン、早川さんガ少しツラソウデス。ドウシマショウ?」ジョージが円形ベンチで横になっている早川さんを心配そうに見ている。
「うーん。北山が早川さんにかなり強い暗示をかけたのかな。でももうゼミが終わる時刻だから、そろそろ解けてもいいのだが」俺はスマートフォンを取り出し、藤井秋彦に電話した。「そうだよ。早川さんが調子悪くなって・・・、秋彦、車で迎えに来てくれないか?俺もうすぐ仕事だし」俺の友だちは「わかった!」と言って直ぐ通話を終えた。あと十五分もすれば秋彦も来るだろう。
「長谷川さん、ありがとうございました。あとの処理は僕の方で何とかします。これでも一応協力者はいますので。皆さんに危険な目をあわせて申し訳なかったですが、無事で何よりです。詳しい話はまた後日、させてもらって構いませんか?」
「わかりました」俺はチラッと隣にいる美月を見た。美月はずっと俺を見ていたようで、目が合うと美しく笑った。
「ハセガワさーん、早川さんノイシキガ回復シマシターァ」ジョージの声がとても優しく聞こえた。