北山教授からのmail
午後六時になり言語学概論の講義が終わった。夕陽がまだ残っている。ジャケットの内ポケットに入っているスマートフォンが振動している。俺はスマートフォンを取り出し北山教授からのメールを読んだ。
【前略、長谷川雲海様 明日水曜日、午後八時から開催いたしますゼミナールの場所は堀内公園北の森・南入口・円形休憩場です。貴殿のご出席を心から楽しみにしております。北山大悟】
俺はその文章を何回も読み返していた。
「ねえ長谷川君、彼女からのメール? 熱心にメール読んでいたけど」秋彦が楽しそうに訊いてきた。俺は席を立ち秋彦と一緒に次の講義の教室に移動した。
「残念ながら北山教授からゼミナールのお誘い。早川さんのお勧めで参加せざるを得なくなった」
「ふーん、そうなの・・・。早川さんさぁ、最近ちょっと変じゃない? 北山教授の大ファンなのは分かるけど入れ込み過ぎだよ」
「確かに」
「前はクールな感じで教授を評価していたのに、最近は魂まで吸い取られたみたいで心配だなあ」俺は黙って頷いた。休憩時間が終わり日本古典文学の講師が教室に入って来た。俺は源氏物語のテキストを開いた。隣の秋彦が小さな声で言った。
「それからさぁ、最近の北山教授見ると、僕なぜか〇特の現場思い出しちゃうんだよ。変なの」 秋彦は清掃会社で働いている。〇特の現場というのは特殊清掃の現場で、いわゆる孤独死した人の部屋や家ことだ。
秋彦の話は俺にとって当然気持ちの良い話ではなかった。
俺が店の制服に着替えてレジに入るとジャスミンが電子レンジやガラスケースを掃除していた。彼女は午後一〇時三〇分に仕事が終わるシフトだが、いつも二〇分くらい超過勤務する。残業代は出ないのに何故かな?
「ジャスミンさん、もう退社時刻過ぎたよ。帰っていいのに。もうーっジョージの奴、何やってんだ?」俺は怠け始めているはずのジョージを捜した。だがジョージは店の奥にある清涼飲料水が入っている大きな冷蔵庫のガラス戸を清掃用布巾で拭いていた。
「おーい、ジョージ、ジャスミンさん帰るぞーっ」
「ハーイ、スグ行きまーす」と言い終わらないうちにジョージはレジの前に来ていた。
「じゃあ、ワタシ帰ります。失礼シマス。ジョージさん・・・・・・長谷川さん」ジャスミンは恥ずかしそうに二回小さくお辞儀をして店を出た。
「ジョージ、お前ホント、ジャスミンさんが一緒だと仕事するなぁ」
「エーッ! 僕はダレトデモ一生懸命シゴトシマスよ」
「俺以外はな」
「へへへヘヘーッ」否定しないのか?
「でも彼女は真面目だな。いつも二〇分くらい超過勤務している」
「チチチチチッ、ハセガワサン、分かってませんネー」ジョージは俺の目の前で馬鹿にしたように右手の人差し指を立てて左右に振った。
「何だ、偉そうに」
「フッフッフッ、 ジャスミンチャンはキノウこの場所ガ好きですとイッテマシタネ。ハセガワサン、つまり彼女はジョージサンと一緒にイルバショガ好きだというコトデス」
「はあ?」連続殺人事件の犯人逮捕で緊迫しているときに、どうしてコイツは能天気なことを自信満々にほざいているのか? 俺はジョージのおバカぶりに、呆れるよりもむしろ感動してしまった。
「ハセガワサン、ジャスミンチャンが帰る時ハズカシソウにボクヲミテ、お辞儀をスルデショ。アノカワイイ瞳にはボクシカ映ってイナイノデス」
「お前、そういうところだけは、ホントよく見ているなぁ」
「凄いデショ」凄くないわ!
「ところでジョージ、明日の北山教授のゼミの場所、分かったぞ」
「何処デスカ?」
「堀内公園北の森、南入口 円形休憩所だ」
「ヤッパリ北の森デスカ。円形休憩所はイリグチノマエ二アル丸いテーブルとソレヲ囲む長いベンチガアルところデスネ?」
「ああ、そうだ」
「堀内公園は城址で、北の森は昔、戦でたくさんの人が死んだ場所らしいです」いつの間にか袴田刑事が俺の前にいた。今日もくたびれた紺色のスーツを着ている。
「コンバンハ袴田刑事。エーット、ハセガワサン、ジョーシとは何デスカ?」
「お城の跡だよ。ジョーシは城と址という漢字がくっついている。昔、堀内公園にはお城が建っていた。そしてそのお城をめぐる戦いがあって、北の森でたくさんの人が死んだそうだ」
「ソウデシタカ」
「盗聴器の調子はまあまあですね」袴田刑事は耳からイヤホンを外してそう言った。俺は袴田刑事から受け取った腕時計型盗聴器を見た。俺の左手首にはデジタル式の黒い腕時計が装着されている。
「刑事サン、北の森トイウバショハ、ドウモ嫌な感じデスネ。守り神のシロがコロサレチャッたカラカナ。デモ、ハセガワサンハ大丈夫だとオモウマス。」
「たぶん大丈夫でしょう。おっと、お客さんが来ますね。また二時に来ます」袴田刑事は疲れを引きずるように店から出て行った。
「エーッ! 今日の夜、クモちゃんが犯人と会うのは北の森なの?」午前二時過ぎ、ヨーコはイートインスペースの一番奥の椅子に座っていた。柴丸は彼女の足元に座っている。
「それって、大丈夫ですか? 袴田刑事さん?」坂下も緊張した面持ちで訊いた。
「たぶん大丈夫だと・・・。というのも現時点で北山教授が長谷川さんに危害を加える理由がないと思います。それに会う理由が北山教授主催のゼミナールなので長谷川さん以外の参加者もいるかもしれませんから」
「デモ時刻ト場所ハアキラカニヘンデスヨ。ボクハ長谷川さんダケヲソコニ呼び出してナニカスルンジャナイデスカ? アイツハ」
「まっ、まあーッ、今となっては、いッ行くしかないだろ・・・っ」俺は正直、北山教授に会うことが怖かった。平気で人を実験材料のように殺す男と接したくはなかった。しかしこの連続殺人事件を含む北山教授の意図した流れの中で、俺はどうすることもできないような気がしていた。
「あの一つだけ教えてほしいことがあります。犯人が僕たちを殺したのは自分の理論を検証したかったからだとお兄様は言われましたね。それはどういうことですか?」坂下は変人だけど勇気があると俺は思う。俺は袴田刑事に説明してほしいと目で合図した。
「私から説明しますが、これは若宮さん坂下さんにとってはつらい話になるけど構わないでしょうか?」
「ウン、いいよ」
「説明してください」二人の声が袴田刑事に届いた。
「きわめて簡単に言えば、犯人はヒトの魂を支配したいだけです。そのために幽霊になりやすい人を選んで誘導し殺したわけです。ヒトの魂というのは北山教授の言い方では人間の機能の集約体で意識の核とも言っています。その魂を取り出しやすい人が稀に存在する、その人たちがマー君、若宮さん、坂下さんだったのです。違った言い方をすれば死んで幽霊になる人です、アナタたちは」
ヨーコも坂下も呆然としていた。袴田刑事はハッキリと見えない二人の雰囲気を感じたのかしばらく黙っていた。
「刑事さん、続けてください」坂下が固い声で言った。
「おそらく犯人はあなたたちの魂にアクセスできる能力を持っていると思われます。そしてあなたたちの魂に忍び込んで、何らかの方法で北の森に誘導して殺害した。あなたたちは殺されたあと、数日間その現場に留まっていましたね。混乱して何をどうしていいか分からないから、その場に留まったと二人とも言っていました。でも長谷川さんの妹の美月さんはもう一つの力が働いて、魂―幽霊のあなたたちがその場に留まったのではないかと言われました」
「それは何かにゃ?」ヨーコはだいぶ袴田刑事の話に慣れてきたようだ。
「それはあの黒いナイフです。黒蛇と呼ばれているそうですが。私も今朝、長谷川さんのお寺に行ってあのナイフを見ました。あれは人の憎しみ、恨み、妬みなど暗い念が詰まっているように私は感じました。あの妖しいナイフの力であなたたちはしばらくその土地に縛られていたのです。あのナイフは普通に人間の体を貫きます。ジョージさんの右胸に刺さったように。そして霊体である若宮さんの手も切りました。物質にも霊体にも機能する不思議な刃物です。そのナイフの力を殺人犯は確かめたかったのではないか?」
「確かに、あの時はビックリしたワン。幽霊なのに血が出たもん、痛かったニャー」
「やはり僕の天使様は最高ですね。天才だ」ヨーコの傷はいいのか? 坂下。
「そしてもう一つ重大なことがあります。あの妖しいナイフはこの世界では普通の物質です。だけど霊体にも有効に作用します。若宮さんを切ったように。そしてあの黒いナイフを霊化して操ることができるとしたら、ヒトの魂を支配できるのではないかと・・・。北山教授はそのように邪悪な考えを持っているのかもしれません」ヨーコ、坂下、ジョージとみんなは俺を見た。
「だけどモノを幽霊さんにできるのはクモちゃんだけだワン」
「だからお兄様は殺されなくてもいいのですね」何か嫌な言われ方だな。
「ハセガワサンデモ取り柄がアッテヨカッタデスネーッ」うるさい!
とても恐ろしい話なのに、この三人はことの重大さを分かっているのだろうか? だけどこいつらの言葉で俺の気分がいくぶんか軽くなったのは事実だった。
「それでクモちゃんは今晩、あいつに会って、どうするのかニャー?」
「分からない、相手の出方次第だ」
「エーッ! あんな奴ボコボコにして『僕は連続殺人事件の犯人でしゅー』とか言わせたらいいのにワン! アーッ、でもクモちゃん弱っちいからニャー、だめだワン」
「シロに睨まれただけで、硬直して口開けるビビりですからね、お兄様は」
「オマケ二、ハセガワサンハ運動神経ゼロデス」うるさいな! 俺があいつらを睨んでいると、俺の横で袴田刑事も笑いをかみ殺している。俺が不機嫌そうに袴田刑事の顔を見ると彼は俺の視線に気づいてわざとらしく咳をして話を続けた。
「犯人、北山教授はおそらく長谷川さんの物質霊化能力に目をつけて、長谷川さんに何らかの協力を求めてくれでしょう。その際に連続殺人事件に関わることの言質が取れればベストなのですが・・・・・・」
「フーン」ヨーコも坂下も期待外れのような表情を浮かべた。
「では皆さん、午後七時三〇分には所定の場所でスタンバイしてください。犯人は我々の動きを把握する力がありますが、それでもその場所にいることは長谷川さんをサポートすることになりますので、よろしく!」
ヨーコも坂下もジョージも何故か立ち上がり「ハッ!」とか言って袴田刑事に敬礼した。
やはり俺はまだ今日の夜、堀内公園北の森に行きたくはなかった。