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奥ゆかしいような図々しいような・・・早川さんのお願い

土曜日四限目の古典文学史の講義が終わった後、俺は早川さんを見つけた。

「早川さん、少し時間ある?」

「ええ、今日はこの講義で終わりですわ」

「俺、訊きたいことがあるけど、ちょっといいかな? コーヒー奢るし」

「あら、嬉しい。それではお言葉に甘えて」

俺と早川さんは大学構内の喫茶店に入った。土曜日なので構内の学生は少なかったが、男子学生の多くが早川初音を見つけると振り返った。彼女はベージュのチノパンツと白のブラウス、紺色のブレザージャケットというオーソドックスなファッションだったけど気品があり独特の美しさがある。

俺たちは喫茶店の奥の隅にあるテーブルに座った。幸いなことに客は数人しかいなかった。

俺と早川さんは対面して座り、それぞれブレンドコーヒーを注文した。

「長谷川さん、お客さんが少なくて良かったですね」

「ああ、まあ」

「昼間も以前に比べると、かなり耐えられるようになったのではないでしょうか?」

「うん、最初の方は講義中、半分寝ていたみたいだった」

「やはり長谷川さんは夜に活動すべき人間ですわ」コーヒーが運ばれてきて早川さんは砂糖を少しだけコーヒー入れた。彼女が言うには、そちらの方がコーヒーの味がハッキリするそうだ。

「早川さん、あのさ、北山教授の書いた本、いっぱい持っているだろ?」

「ええ、まあ多少は」早川さんは北山教授の名前が出たので驚いていた。

「できれば何冊か、いやなるべく多く貸してくれたら嬉しいんだけど」

「お貸しすることはやぶさかではございませんが、長谷川さん、どうされたのですか?」

「どうされたと言われましても・・・」

「北山教授様の講義に出席されていて,教授様のお話を熱心に聞かれっていることは存じ上げております」

「あっ、そうでございますね」俺は他人の口調に影響されやすいのだ。

「こう言っては失礼ですが、長谷川さんが北山教授様の熱心な信奉者だと思えませんが」君ほどのファンはほとんどいないと思うが。

「ひょっとして・・・」早川さんは銀縁メガネの眉間の部分に右人差し指を当てて、しばし熟考した。そして少し吊り上がった茶色の瞳を見開いて言った。

「長谷川雲海さんは、霊的に開眼したいのですね? つまり霊力を獲得し幽霊を見たり迷える魂を成仏させたりしたいと・・・・・・」

「ハイッ?」俺は嫌な予感がした。

「長谷川さんは出家なさるのですね!」また勘違い人間がここにもいる・・・。

「いや、そういうわけでは・・・」前のめりになって迫ってくる早川さんに俺はのけ反って一定の距離をとった。

「世界的に有名で歴史的にも評価が定まっている仏典と同じくらい、北山教授様の著作は価値があるものです」

「エッ? そうですか」

「分かりました。わたくし、早川初音は教授様の作品を二〇冊は持っております。来週の月曜日に持って参りますわ」

「いや、あの、早川さん、一週間に五冊でいいです」一週間にややこしい本を五冊も読むのは俺には到底無理だし元々読むつもりもない。だけど美月は超速読でちゃんと本の内容も理解しているので一週間に五冊ぐらい大丈夫だ。

「あら、そうですの?」早川さんは少しがっかりした。それから彼女は北山教授の崇高な理論を話したそうだったが、以前のことがあるので自重したみたいだ。

「ところで長谷川さん、北山大悟教授様には特別なメンバーしか入れないゼミナールがあるのです」

 北山教授様熱烈信奉者は何故か隠れるようにヒソヒソ声で話した。俺は残り少ないコーヒーを飲みながら訊いた。

「特別なゼミ? 一般の人も含めて開催しているのでしょうか?」

「一般の人、主に社会人が主体のようですわ。あまり大っぴらにやっているわけではなく、目立たないように継続されています。ゼミナールと言っても実践的な内容らしく、わたくしも当然応募したのですが、あの助手の土田の野郎に・・・いえ、失礼しました。土田さんに却下されてしまいましたの・・・」土田の野郎! 早川さんは時々猛毒を吐く。

「それは残念だね」

「はい、本当に残念です。でも私は北山教授様の講義を聴けるだけで十分幸せですわ」本当かな? と疑問に思いながら目の前の友人を見ると、やはり彼女は寂しそうだった。こんなに熱心なファンならば、その特別なゼミとやらに入れてあげてもいいじゃないかと思い、土田詔子の不思議なおかっぱ頭を思い浮かべた。彼女のおかっぱ頭は髪と言うより、原チャリに乗っているおばさんが被っている丸いヘルメットみたいなのだ。何か特殊なムースでも使っているのか、彼女のおかっぱ頭の髪の毛はピクリとも動かない。

思えば土田詔子も変な存在である。彼女は身長一四五㌢くらいで、いつもダブダボの大きなズボンとカーキー色の作業服みたいな大きなジャケットを着ている。だから体形が分からない。まあ別にどうでもいいが。それに夜間大学勤務なのになぜか大きなサングラスをかけている。黒いヘルメット風おかっぱ頭に大きなサングラス・・・なかなかの迫力である。これでタオルでも首に巻いていたら全共闘の学生みたいだ。

彼女は北山教授の助手だが、教授はとても勘が良いのでほとんど介助する必要もない。時折土田が教授に何か言っていて二人で短い会話をしている。まあ研究室での文書整理や教授の原稿作成の補助とかあるだろうし、早川さんが言った特別なゼミ? の選考係も任されているみたいだ。一番不思議なのは年齢不詳で、若いのか年とっているのか全くわからない。俺はときどき土田が北山教授の娘に見えたり逆に親に見えたりする。教授は五〇代だから親ということはないのだろうが・・・。

「どうされました? 長谷川さん、何か心ここに非ずといった御様子ですが」

「いや、ちょっと助手の土田さんのことを考えていて」

「土田ッ・・・さんのことですか」

「あの人って本当に教授の助手なのかな?」

「でしょうーッ! 長谷川さんもそう思われますわよね。なぜ、あんな奴、アッ失礼しました、なぜあの方が北山教授様の助手なのでしょうか?」

「早川さんの方が適任じゃない?」

「いえいえいえ、わたくしなどは、とてもとても」と言いながら早川さん、首を縦に振っているぞ。

「そう言えば土田さんの声って聞いたことがないなぁ」俺は深く考えずに言った。

「わたくし、ありますわよ」ゼミに入ることを断られた早川さんの声には怒気が含まれていた。

「小さくて甲高くてニワトリの鳴き声みたいで、変な感じで頭にはよく響きました。『あなたはこのゼミに入る資格がありません』と・・・ちくしょ・・・・・・あの・・・」資格? 何の資格だろう。それからニワトリの鳴き声みたいな声って何だ? それと早川さん、「畜生あの女」は訂正しないのかな?

 しばらく早川さんは黙っていた。

「早川さん、コーヒーお代わりしない?」

「アッ、そうですわね。よろしいでしょうか」

「いいよ、このくらい」俺は店員にコーヒー二杯のお代わりを注文した。

「長谷川さん、わたくし今思ったのですが、長谷川さんは北山教授様の特別ゼミに入る資格があるのではないかと」

「エッ、俺が?」俺はそんなゼミに入りたくはない。

「秋彦さんともよくお話しするのですが、長谷川さんにはわたくし達にはないものを持っていらっしゃるのではないかと。それは北山教授様の研究していることと関連があるように思われます」

「そうなのかな?」

「そのゼミは長谷川さんが出家する際にとても役立つのではないでしょうか?」やけに出家に拘るな? そんなに俺の坊主姿を見たいのか?

「わたくしも微力ながら長谷川さんが北山教授様のゼミに入ることができるよう協力を惜しまない所存でございます」

「はあ?」

「そしてもし長谷川さんがそのゼミに入られたのなら、その内容を教えて頂けたら幸いです。その内容が分かれば、わたくしもそのことを参考にさせて頂き切磋琢磨できますもの。そしてゆくゆくはその特別なゼミに入ることもできるのではないかと、ささやかな希望を持つこともできますわ」奥ゆかしいような図々しいような・・・。

 よくわからない会話だったが、ともかく早川さんから俺は北山教授の著作を借りることの約束ができた。俺たちは二杯目のコーヒーを飲み終えたあと、早川さんは帰宅し俺は夜の講義に出た。



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