ヨーコはニャン太郎をつれてきた
「ハセガワサン、コレドコデスカ?」ジョージはいつまで経っても仕事を覚えない。
「右の奥の棚。同じパンがまだあるだろ、そこに置いとけよ」
「ハイ、ワカリマシタ」ジョージは返事だけはいい。深夜二時過ぎなのに今日は何故か客が結構来る。みんな遅くまで何やっているんだ? 俺はレジで客の対応をしながら胸の中で毒づいた。
「やだぁー。ジョージ、面白いーっ」いつもの甲高く甘ったるい声が聞こえる。
「ヨーコか?」
「・・・」入り口近くのレジでおつりを受け取った常連のポロシャツ姿の男は何も言わない。
「ありがとうございました」俺は男性客を送り出すと奥のイートインスペースに視線を向けた。
相変わらずジョージとヨーコが楽しそうに喋っている。
「またコーヒー一杯でねばっている」
「エーッ、クモちゃん、いいじゃない。ここ居心地良いからぁ」相変わらず甘ったるい口調だ。
「ねえねぇ、それよりこれ見て」ヨーコは黄色いTシャツの豊かな胸の谷間を指さす。
「やだぁー、エッチーィ!」自分で言っておきながら、何て言い草だ。
「ハセガワサンハ、ムッツリ助平デスカラネ」ジョージもヘラヘラ笑っていやがる。こいつ、仕事は覚えないくせに変な日本語だけは覚えるのだ。
「クモちゃん、そこじゃなくてココ」ヨーコはそう言うと、Tシャツをめくって白い物体を取り出した。その白い物体はニャーニャー泣いている。
「何だよ、猫かよ」
「カワイイでしょ」
「ヨーコチャンニニテ可愛いデスネ」
「エーッ、そうかなぁ。ウレシー」ヨーコは子猫を触りながら、名前をどうしようとか言っている。
「ニャンニャン鳴くからニャン太郎ってどうかニャ?」猫はニャンニャン鳴くものだろ! と思ったが言葉を飲み込んだ。
「オー、ソレハ、ピッタリノネーミングデスネ」どこがピッタリだと思ったが黙っていた。
「ニャン太郎っていうからオスだろ?」俺はヨーコが抱き上げた子猫の下腹部を見た。
「ない! オスにあるべきものがない!」俺はヨーコとジョージを見た。
「キャーッ! クモちゃんエッチーィ!」
「ハセガワサンハ、ネコニモ欲情スルノデスネ」ぶっ飛ばすぞ! この野郎。しかし俺はジョージに手出しはしない。こいつはカポエラの達人なのだ。以前、レジの金を盗もうとした強盗犯を回転蹴りで吹っ飛ばしてKOさせた記憶が蘇る。誰でも良いところ? はある。
「それでぇ、クモちゃん、お願いがあるんだニャン」完全に猫モードだ。こいつ、化け猫にでも憑りつかれたか? それにそのメス猫、ニャン太郎でいいのか?
「ニャン太郎はあまり元気がないニャン。あたしが休んでいるところに居てもニャン太郎、あまり元気にならないニャン。それでぇ、クモちゃんのお家で飼ってくれないかニャン?」
「またかよ」
「ハセガワサンノ家ハ、ヒロサダケハアリマスカラネ」いちいち気に障ることをいう奴だ。
「ねえねえ、少し前に預けたワンちゃんーワン五郎は大丈夫なのかニャン?」
「ああ、あの犬か。ちゃんと良いところに行ったと思う」
「ヨーコチャン、アノイヌハ何故ワン五郎ナノデスカ?」確かに何故ワン太郎ではなくてワン五郎なのか? 俺も気になっていたところだ。(この犬はオスだった)
「何故ワン五郎かって? 私のママがワンちゃん大好きなのだ。それから野口五郎の大ファンなのだ・・・、あっ、ニャン」何か中途半端な猫モードだな。
「のぐちごろー? うん?」誰だ? そいつは。
「オー野口五郎デスカ! ボクハカレノ大ファンデス。『青いリンゴ』『私鉄沿線』―カイサーツグーチデーキミノコトー」ジョージは立ち上がり哀愁を帯びた顔で野口五郎という歌手の歌真似をした。こいつ、アフリカ系アメリカ人で十九歳って言っているけどホントか?
「キャーッ! ジョージ、素敵ィー・・・・・・だニャン」いい加減な猫モードだな。途中でニャン忘れている。
「ヨーコの母親が犬好きで野口五郎好きだから『ワン五郎』なのか」
「そうだニャン・・・だワン」犬モードと猫モードが混ざっているぞ。
「ヨーコチャンハ『ピョン太』ト『ピー子』モタスケテアゲマシタネ」ピョン太は灰色兎でピー子はセキセイインコだ。
「えへへへへ、偉いでしょ、ピョンピョン」猫モードから兎モードになっている。
「預かったのは全部俺だぞ」
「デモ、ホントニハセガワサンがチャントお世話ヲシテイルノデスカ? アノキュートナ美月ちゃんがオセワヲシテイルノデハナイデスカ?」
「美月は専門の研究で忙しいんだよ」俺はジョージをキッと睨むがアイツはヘラヘラ笑ってやがる。
「ヨーコ、もう一〇分で三時だぞ。早く帰れよ」この時間帯、さすがに客は少ない。
「ジャアボクガヨーコチャン送リマス」ジョージは嬉しそうだ。
「ジョージ、三時上がりだけど、いいのか」
「全然カマイマセン。ヨーコチャン、レッツゴー」
「ありがとう、ジョージ。クモちゃん、またね」ヨーコが店を出るとき小さくお辞儀をした。俺は少し違和感を覚えたが、店内の掃除を始めた。ヨーコの残した冷めたコーヒーも捨てた。三時過ぎ、意外に早くジョージは帰ってきた。
「お疲れ様。ジョージどうした、早いけど」
「ハセガワサン、チョットイイデスカ?」ジョージが珍しく真面目な顔をしている。
「ハセガワサン、ヨーコチャン数日後ニニャン太郎ノヨウスヲミルタメニ、ハセガワサンノ家ニイクッテイッテマシタ」
「えっ! 俺の家に。本当か?」
「ホントウデス」
俺の家は寺の離れに建っているのだ。
俺たちは暫く黙り込んでしまった。
東の空が紫色に染まり始めた。夜明けが近い。アスファルトの車道を自転車を押して上る俺たちに時折涼しい風が吹いてきた。周囲の木々の梢が小さく揺れている。
「結構高いところにあるのね、クモちゃんのお家」
「ハセガワサンノ家ハスゴクオンボロデスヨ」
「ジョージ、お前、俺の家でただ飯食ってんじゃないのか」俺が一瞥すると「オー! ハセガワサンノ料理ハサイコーデス」とか言ってる。
螺旋状の車道を上りきると『隆雲寺』という木の札が見えてきた。
「へぇー、クモちゃんのお家はリュウウンジって言うんだぁ」
「ハセガワサンノナマエモ雲海トイッテ、ナマエダケハ立派デスカラネ」
「お前だってジョージ・アブラハム・ワシントンだろ!」
「ボクノバアイハ、名は体を表すデス。フッフッフッ」こいつの根拠のない自信は何処から来るのか、俺はいつも不思議に思う。
「アッ! ニャン太郎!」
ヨーコが本堂に向かって駆け出した。本堂にある幅が広い階段の四段目に白い子猫が座っていた。
「ニャン太郎、元気になっている」
「ホントデスネ。イイ顔シテマス」
ヨーコがニャン太郎を抱き上げた。ニャン太郎はヨーコの腕の中でゴロゴロ言っている。しばらくニャン太郎はヨーコの腕の中で目をつむり気持ちよさそうにしていた。そして目を開けて「ニャン」と言った。
「オイ、ヨーコ。ニャン太郎がそろそろいくぞ」
「エッ?」ヨーコが腕の中のニャン太郎を見た。ニャン太郎の体が白い光に包まれた。そして白い子猫の体が徐々に霞んでいった。白い光が消えていくと同時にニャン太郎もいなくなった。
木立の間に見える空は薄紫に染まっている。
「ニャン太郎、いっちゃった・・・・・・ニャン」ヨーコは空を見上げながら呟いた。隣でジョージが十字を切っている。
東の空は徐々に蒼くなってきた。
「ねえ、クモちゃん、ジョージ・・・」ヨーコは微笑んで呟くように言った。
「あたしもそろそろいこうかなって思う」
俺は頷き、ジョージは真剣な顔をしている。
「あの事件からもう半年経ったし。ママはずっと泣いてるけどパパが傍にいる」
「ソウデスネ・・・・・・」
「あたしがまだここにいるのは、あの二人には良くないことだと思うの」
俺とジョージは何も言えなかった。
「クモちゃん、どこにいても、いくことはできるのよね?」
「ああ、もうこの世界から旅立ってもいいと思ったらな。でもお前の事件はまだ解決していないぞ」
ヨーコは自分の手のひらを見ながら暫く考えていた。
「あたしはクモちゃんやジョージにいっぱい優しくしてもらったから、もういいの。でも二人の前でいくのは、何か恥ずかしいっていうか嫌だ」
「うん・・・・・・」俺はよく分からないけど頷いた。
「だから握手して・・・」
ヨーコはジョージに小さな右手を差し出した。ジョージは両手でヨーコの手を包んだ。ジョージの大きな手の中でヨーコの手が透けて見える
「ありがとう、ジョージ」
「サンキュー、ヨーコチャン」ジョージは泣きそうな顔をしている。
「じゃあ、クモちゃん」ヨーコは先ほどと同じように右手を俺の前に差し出した。俺もゆっくりと右手を差し出して彼女の柔らかい手を握った。小さくて冷たい手だ。
「エッ?」ヨーコは小さく驚いた。そしてゆっくりと右手を見た。それから大きく深呼吸した。ジョージもなぜか驚いている。
「クモちゃん、ジョージ、お別れね。二人とも元気で。サヨナラ!」
ヨーコはそう叫ぶと石段めがけて走り出した。
「ヨーコチャン、サヨナラー! グッバイ、お元気でーッ」ジョージは大きく手を振った。俺はヨーコの冷たさが残る右手を見ながら茫然と佇むだけだった。
月曜日の深夜のコンビニは暇だった。おまけに雨も降っている。ヨーコが去ってから十日が過ぎた。
「ハセガワサン、コノパンドコデスカ?」ジョージは相変わらず仕事を覚える気がない。
「右の奥の棚」
「ハイ、ワカリマシタ」
俺はレジの金をチェックしていた。
「いやだぁージョージったら」聞き覚えのある甘ったるい声が聞こえてきた。俺はイートインスペースに目をやるとヨーコとジョージが楽しそうに喋っている。
「ハーイ! クモちゃーん。ホットコーヒー一つお願い」
「ヨーコ! お前どうしてここにいるんだ?」
「ヨーコチャンハ、マダこの世界デ、ヤリノコシタコトガアルノデス」
「はあ? やっぱり犯人が捕まるまで居るのか?」
「うーん、それもあるけど、ちょっと前にとても素敵なことがあったから、もう少しこの世界にいることにしたの」
「幽霊に素敵な体験とかあるのか?」
「ハセガワサンハ、乙女心ガワカラナイダメ男デスネ」
「ねー、クモちゃんはデリカシーないよねー、ジョージ」
「ネーッ、ヨーコチャーン。ハセガワサンハ鈍チンダヨネーッ」何言っているんだ、この二人は? バカバカしいと思いつつ俺はヨーコの前にホットコーヒーを置いた。
「ありがとう、クモちゃん」
「お、おう・・・」ヨーコの笑顔に俺は柄にもなく照れた。
「あのねぇ、クモちゃんのお手々でこのカップをかざしてくれない」
「ん? 何だ」俺はヨーコの言っている意味が分からなかった。
「そしてあたしに美味しいコーヒーを飲ませたいって願ってくれない」
「はあ?」
「クモちゃん、お願い・・・・・・」ヨーコはこれまで見せたことのない真剣な眼差しで俺を見つめた。
「ナルホドー」ジョージが言った。
俺はいつもと違うヨーコの真剣さに気圧されて、彼女の言うとおり右手をコーヒーカップの上にかざした。僅かにコーヒーの湯気の温かさを感じた。
一〇秒経った。
「クモちゃん、ありがとう」俺は右手をもどすと、ヨーコは右手でテーブルの上にあるコーヒーカップの取っ手を持った。
「ほら・・・」ヨーコはコーヒーカップの取っ手を持ち上げると、ぼやけたコーヒーカップが浮き上がった。そしてそのコーヒーカップに唇をつけて美味しそうにコーヒーを飲んだ。だが俺の淹れたコーヒーとコーヒーカップはテーブルの上にある。
「クモちゃんの淹れてくれたコーヒーは美味しいね」
俺はヨーコが持っているぼやけたコーヒーカップとテーブルの上にあるコーヒーカップを交互に見た。わけが分からない。
「物質ノ霊化現象デスヨ、ハセガワサン」ジョージが訳知り顔で言った。
「霊化現象?」
「ハセガワサンハ物質の霊性をトリダスチカラガアルヨウデス」
「何だ、それは?」
「カンタンニ言えば、ハセガワサンハ、コーヒーカップとコーヒーの霊ヲ取り出して、ヨーコチャンハソレヲ飲むことがデキタノデス」
「ンン?」助平外国人が学者みたいなことを言っているので俺はますます混乱した。
「クモちゃんはこっちの世界とあっちの世界の間でも動けるニャン」
「ソレハ凄いデス! ンーン、ダカラ握手出来たノデスネ」
「だけど、やっぱりクモちゃんが握手したいって思わないと駄目だと思うニャン」
「デスヨねー」
「ネーッ」
「アイ ラブ ユー ヨーコ。ンーン、チュ」
「オー、ミー ツー。 チュ チュ イヤァー どうしよう クモちゃーん」またこのおバカコンビがヘンテコなことをやって、ご機嫌になっている。
俺は二人を無視して入り口近くのレジにもどった。そしてしばらく楽しそうに話しているヨーコとジョージを見ていた。
いつの間にか雨は止んでいた。
午前三時、街はまだ闇の中に沈んでいる。まだ夜明けには時間がある。