暇を持て余した悪鬼の総大将は陰陽師になりすまし、悪戯の種をまき散らす
「また生まれたな……」
玖弦は夜空を横切る朱い彗星を見つけて、つぶやいた。
組んだ腕を枕代わりにして片膝を立て、岩山の上に仰向けになる玖弦は、星が地平線へ吸い込まれていく様子を呆れ顔で眺める。
都を囲む山岳のひとつ、鬼祖山。
その名のとおり鬼の祖が生まれたとされる山である。
昼夜問わず深い霧で覆われ、常人であれば足を踏み入れたとたん、瞬く間に道に迷ってしまう。
実際、鬼祖山は陰の瘴気で満ちており、鬼門とされる方角に位置する。
宮廷に仕える陰陽師たちは鬼祖山に入山することを禁忌として定めたが、一方で霊峰として祀り、陰の瘴気を押さえようとしていた。
年に数回、決まった時期に陰陽師が麓の鳥居を訪れ祈祷を捧げるのだ。つい先日も行われたばかりである。
その中にはそしらぬ顔をして経を唱える玖弦の姿もあり、影から見守る悪鬼たちはその性悪さに腹を抱えていたかもしれなかった。
供物の中には玖弦の好物が並べられており、参列する度に頬が緩んでしまう。
今日もまたその中のひとつを手に取って食む。熟れた柿だ。濃く甘い果汁が口の中を潤す。玖弦の好みは少し硬めのものだが、これも悪くない。
柿に歯を立てる玖弦の膝元には、一匹のガマガエルがいる。
肌は岩山と同化したように茶とも灰色とも形容しがたいものだが、大きさは通常の数倍はある。
「霧峰盆地の方角ですな」
灰色の半透明なその目は何も映さぬようでしかと見えている。平べったい目を更に細めて地平線を見やった。
「出向かれるか、若様」
「放っておいてもどうせ都に集まってくるのだ。その方がたやすいだろう」
「まったく暢気なことを言っておられる。都に至るまで他の悪鬼を取り込む可能性もあるのですぞ」
「脆弱なものたちだ。俺の手を煩わせるほどの災厄になれるのなら、なってみるといい。そのほうが倒し甲斐もあるというものだ。なんなら仲間にしてやってもいいしな」
「十鬼神が嫌がりますぞ」
「だろうな」
くつくつと玖弦は笑った。
千年ほどこの地で悪鬼たちを管理してきたが、玖弦の手を煩わせるほどの悪鬼はここ最近生まれていない。最近といってもここ数百年の話しだ。玖弦からしてみれば、ほんの束の間の出来事と変わりない。
この命は尽き果てることを知らぬ。なんの為に生まれ、悪鬼どもから崇められるのか。
それを玖弦が知る由はないが、このガマは生まれてからこのかた、ずっと傍にいる。ひとの形をして紛れる術を教えてくれたのもこのガマだ。
玖弦には親と呼べるものがいない。ひとの真似をするのであれば、見た目こそ蛙であるが、このガマこそが父と呼べるものであろう。
かといって玖弦の風貌は樹齢数百年の樹木のようではない。それこそ元服したての青年である。
この世で最も贅を尽くしている御仁よりも肌艶は良いし、技芸に秀でた姫君よりも秀美な顔立ちをしている。参内すれば、その美しさに公卿までも惚けるほどだ。
まさかそれが、世に蔓延る悪鬼の元締めだとは夢にも思わぬだろうが。
「明日も祭事があるな。考えるだけでうんざりする。あそこには悪鬼などおらんのに、夢見が悪いだの便通が悪いだの、くだらぬことを全部悪鬼のせいにして。目を瞑って念仏を唱えていると、ついうたた寝をしてしまうわ」
「しかしながら、あそこは古く強固な結界が張られておりますゆえ、我らは立ち入れませぬ。若様だからこそ耐えられるのです。何もあの様な場所に潜まぬともよいと思うのですが」
「くだらぬ。力のない陰陽師がいくら祈祷を捧げようとそよ風さえ吹かぬ。ただ、あそこには都や宮中の異変が真っ先に飛び込んでくるのでな。都合が良いのだ」
「それだけですか?」
「それだけさ」
ガマは今にも閉じそうなほど目をすわらせる。玖弦の唇は笑っていた。その理由をガマが知らぬはずはなかったのだから。
「いつか、あの男に狩られる時が来るやもしれませんぞ」
「それならそれでよい。この世は退屈過ぎるからな」
死に場所を求めているわけではない。ただ言葉のままに、この世は退屈なのだ。
玖弦は毎日思っている。
自分を凌駕するほどの怨霊や悪神が新たに生まれればよいのにと。
自分を滅するだけの力を持った陰陽師が出現すればよいのにと。
さすれば毎日が楽しかろう。
だからこうして人間の真似をして鬱陶しい厚手の狩衣を纏い、頭にヘンテコな帽子をかぶって、いかにもそれらしく御所の門をくぐる。
少々肌にぴりっとしたものがはしるが、大したことはない。
(この結界もだいぶ弱まったな。あれから数百年経つのだから当然か)
すれ違う公家大名たちにすまし顔で会釈しながら、玖弦は遠い記憶に思いを馳せる。
この門に施された結界は、数百年前にいた陰陽師が張ったものだ。
いまの名ばかり陰陽師とは違って本物の霊力を持ち、悪鬼を視ることもできたし、呪符や式神なんぞを使って退治することもできた。
何度か戦いを交えたこともあるが、あれは実に愉しかった。
致命傷を負うようなことはなかったが、十鬼神のうち三体は封印されたのだから、人間にしてはよく奮闘した方だろう。
玖弦としては、それすらも暇つぶしの一環であったから、本気になることはない。ただ失念していたのだ。人間には寿命があるということ。
遊戯がわりの戦いに終止符が打たれたのは、奴が天寿をまっとうした時だった。
悪鬼からの報告で葬式に出向いて見れば、確かに出会った頃より老けたあやつが棺桶の中で静かに眠っていた。
戦いの時に見せた豪傑さも、猛々しさも、満ち満ちた精力も。もうどこにもない。
当初はまだ十代であったし、栗のように澄んだ丸い目をした愛らしい顔立ちであったのに、いつの間にこれほど深いしわが目元に刻まれていたのか。
戦いに興じてまったく気づかなかった。
これなら最後の戦いくらい本気を見せてやればよかったと悔やんだが、後の祭り。
それだけがいまだに心残りである。
「玖弦! 遅いぞ、また遅刻かっ!」
向こうから一人の青年が眉をつり上げて走ってくる。
栗のような丸い目が朝日を反射して琥珀色に輝いた。
玖弦は口の端を引き上げる。
どことなしか、声までもあの男と似ている気がする。
あいつがどんな声をしていたのかなんて、とうの昔に忘れてしまったはずなのに。
「千隼。おはよう。それほど焦ることもあるまい。どうせ帝が来るまでは始まらんのだ」
「阿呆! 帝が来る前に参列しなくちゃならないんだよ!」
ほら早く! と腕をつかんで駆けだした千隼にやる気の削げた顔を浮かべて、玖弦は引きづられてゆく。
「まったく。もう少しどしりと構えていたらどうなのだ。かつて名を馳せた稀代の陰陽師、安部泰忠の末裔とは思えんな」
「そんな顔も見たことのない祖先のことなんて知らないよ。俺は俺だ。稀代の陰陽師でもないし、ただのしがない陰陽生ですよーだっ」
千隼は目の下に指をあてて舌をだす。
あいつがこれを見たらどう思うだろうか。
またこれも一興といって笑い飛ばすか。それとも不甲斐ないと説教でも始めるか。
あれは以外とおおらかな性格の持ち主であったから前者かもしれない。
そういえばあいつがまだ千隼と同じ歳のころ、決着がつかないことに悔しがり、帰り際に同じことをしていたなと思い出す。
(やはり血だな)
玖弦は心のうちでくつくつと笑い声をあげた。
陰陽生とは陰陽寮に於ける訓練生のことである。
陰陽寮に入ったからといって、簡単に陰陽師となれるわけではない。
教育にあたる陰陽博士の指導を受けて実力が認められ、帝が承認してようやく一人前の陰陽師として名乗れるのだ。
かくいう玖弦もまた、この陰陽生という地位に甘んじているのであるが。
「そろそろ陰陽師として格上げされてもいいと思うのだがな」
「無理無理! 俺、霊力これっぽっちもないから。せいぜい占うくらいしできないし」
「そうか? あいつらよりは実力があると思うんだが」
境内の廊下を歩みながら玖弦がそう言うと千隼はぴたりと足を止め、ぎこちない動きで振り返った。頬がやや引きつっている。
「あいつらって……おまえ、まさか。陰陽師様のこと言ってる?」
何を恐れているのか声まで震えていた。
玖弦はせせら笑う。
「ふん。なにが陰陽師様だ。あれほど大層な詐欺師はおらんだろ」
「しーっ! おまえは市井の出なんだから、そんな大口叩くなよ! 誰かに聞かれたどうするんだよ!」
千隼は青ざめ慌てて玖弦の口を片手で覆い、きょろきょろと周囲を見渡す。
「貴族の出であろうが市井の出であろうが関係あるまい。実力のあるものが出世するのは当然ではないか」
「そりゃ俺だっておまえの実力は認めてるし、その意見には賛成だけど。まだ陰陽生なんだから目上の方には敬意を払わなくちゃ」
「ふん。ほれ来たぞ、目上のものが」
口を押さえつけられたまま玖弦が奥へ目を滑らせる。
千隼もそちらを振り返った。
「おはようございます。あなた方は本当に仲がよいですね」
水のせせらぎを思わせる清涼とした声色だった。
長い睫毛を細めて唇に微笑を浮かべるその男を目にしたとたん、千隼の顔面が弾けた。
「黃沈様! おはようございます!」
頬が紅潮し口元は情けないほど緩む。
玖弦は呆れた眼差しを千隼に向ける。
現れたのは六人いる陰陽師のひとり。藤原黄沈。
千隼の年は十七。
特に興味のない玖弦は己の歳を正確に覚えていないが、見た目は千隼とさほど変わらない。
対し、黄沈はそこから五つ上。
かの阿倍泰忠を凌ぎ、歴代最年少で陰陽師の位を授かった天才と謳われる男である。
千隼が憧憬の眼差しを向けるのも理解はできる。
が――
「そろそろ帝が参られる時間だというのに、こんなところで油を売っていてよいのか」
「玖弦! 言葉遣い!」
よもや陰陽寮の人間はすべて大内裏に集結しているだろうに。
その意味を正確に読み取った黄沈はくすりと笑う。
「陰陽頭が取り急ぎ、千隼を呼んでこいと申すものですから」
「俺⁉ じゃなくて、わたしをですか⁉」
「そうです。どのような用件かは存じませんが、早く行った方がよいでしょう」
「わかりました!」
バタバタと千隼が駆けてゆく。その後ろ姿を眺めて、残された二人は肩を並べてゆるりと歩みだす。
「結界がだいぶ弱まってきているな。あれでは中級程度の鬼なら入ってこれる。ここはもう安全ではないかもしれん」
玖弦が空に目を向ける。
青く晴れ渡った空だが、その内側に薄く膜が張ってある。
御所を囲む結界である。
当時、あいつが施したこの結界は玖弦の力をもってしても打ち破れぬほど強固なものだった。しかし長い歳月と共にその力も風化しつつある。
それに反し、玖弦の力はより強固なものになった。
だからこそ、やすやすと結界をすり抜けられる。
(しかし術者がおらぬのに、よくもまあ、ここまで保ったものだ)
感慨に耽りながらも、玖弦は時の流れに侘しさを感じずにはいられない。
隣を歩む黄沈は小さく頷く。
「仰るとおりです。ここ最近、すでに何匹か鬼を視ました。今回のご祈祷……まだ詳細は明らかにされていませんが、帝は菅埜宮様に憑物がついたと考えられているご様子。あながち空言ではないかもしれません」
「ふん。ならばあの詐欺師どもがどこまでやれるか見ようではないか。おまえは手出しするな」
「御意」
言って、黄沈はふっと姿を消した。
黄沈、またの名を黄幡神という。
玖弦の懐刀、十鬼神のひとつである黄幡神は武器に縁のある鬼神である。
ここにはあいつの力が宿る宝刀が祀られているので、ちょうどよかろうと内裏の内情を探らせるために忍ばせておいたのだ。
憧れの黄沈様が鬼神と知ったら千隼の奴め、どんな顔をすることか。
その顔を思い浮かべるとまた笑いがこみ上げる。
「さて、本物の悪霊だとよいがな」
玖弦は意地の悪い笑みを唇に浮かべて、歩みを進めるのであった。
内裏は厳かな雰囲気で満ちていた。
そろそろ秘密裏にされていた菅埜宮の話しも伝わったころであろう。
陰陽頭を上座に、陰陽助、陰陽允などが並び、その下に黄沈を含む陰陽師たち、指南役の陰陽博士、続いて陰陽生など総勢七十名ほどが座して待つ。
一番最後に到着した玖弦は何気ない顔をしてその合間に割って入る。
「聞いたか、帝のご寵愛やまぬ菅埜宮様に憑物がついたらしい」
「どのような憑物なのだ」
「わからぬ。菅埜宮様は温厚なお方だというが、夜になるとまるで人が変わったようになるのだとか」
「どのように変わる」
「それが、お付きの女房(世話係)の目を簪で刺したらしい。翌日、目覚められた菅埜宮様は何も覚えておられなかったと」
「なんと」
そんな話しがこそこそと交わされる。
玖弦は腹を抱えて笑いたくなるのを必死に堪える。
奥の事情はよくわからないが、それの正体が何かだいたい想像はつく。
暇を持て余し、ぼんやり眺めていると千隼の姿を見つけた。
珍しく陰陽頭と陰陽博士に挟まれて肩身を狭くし、神妙な顔で頷いている。
いったい何をさせる気なのやら。
玖弦が座して間もなく、奥から大勢の護衛官を従えた帝と十二単を纏った女人が姿を現した。壇上にある簾の奥に帝が腰を下ろすと女は一段下座についた。
陰陽頭が頭を下げ、続いて一同が礼をする。
宮廷仕えだとしても奥に住む女人とまみえることはない。
玖弦は帝の下座に腰を下ろした菅埜宮に眼差しを向ける。
目尻は垂れ気味であるし、頬もふっくらとしていて眉も薄く丸い。
桃色を基調とした単衣を着ているせいもあるだろう。
桃の花を思わせる可憐さと控えめな華やかさがあり、柔らかな人となりが全身から滲み出ている。
なるほど。確かに温厚そうで、とうてい人の目を簪で刺すような人物には思えない。
祈祷については先に陰陽頭が吉凶を占い、先見を立てる。
(さてさて、お手並み拝見といこう)
そろそろぽっくり逝きそうな老齢の陰陽頭は、祭壇の前に菅埜宮を座らせると自分は後ろにつき、紙垂を絡めた榊の枝を掲げ経を唱え始めた。
毎度のことであるが、この時間が実に退屈なのである。
この経は占いではなく催眠術なのではないか。
そう疑ってしまうほど強烈な眠気が襲ってくる。
強風が吹いたらぽきりと折れそうな体をしているくせに、声には内裏の隅々まで響き渡る力強さがあり、陰陽寮を率いる者としての威厳がそこはかとなく感じ取れる。
しかし悟りを開いた坊主とでもいうのか。
棘など微塵もない。ささくれのひとつも含まれぬ。
春の陽気を思わせる穏やかな声が波紋のように広がってゆくのである。
「ふああ……」
つい涙をためて欠伸をすると隣に座す陰陽生が小さく睨みをきかせた。
(おっと。まずいまずい)
慌てて顔を引き締め、しんそこ真面目に耳を傾ける。
さあて、どのような結果がでたのやら。
ここで糞詰まりだのと言えば腹を抱えて笑ってやったのだが。
「どうやら菅埜宮様には悪鬼が取り憑いておられるご様子」
一通り経を唱え終わった陰陽頭は神妙な面持ちで帝に向き直り、恭しく結果を告げた。
(ほう。まともに占うことはできるらしい)
帝は嬉しそうに顔を輝かせた。
「やはりそうであったか! でなければ、この菅埜宮があのようなことをするがずがない。それで、祓えるのであろうな」
「もちろんでございます。我ら三日三晩祈祷を捧げ、菅埜宮様に取り憑く悪鬼を打ち払ってみせましょう」
「よう言った! 菅埜宮よ。おまえも難儀であろうが、耐えるのだ。よいな」
「はい。それで安寧が手に入るのでしたら、お安いものです」
解決策が見出され、二人は安堵したようである。
しかし玖弦と言えば渋面を浮かべる。
あのもうろくじじいめ。
三日三晩の祈祷だと?
意味のない経をいくら唱えたところで何も変わらぬわ。
「しかし……ひとつ進言したい議がございますれば」
「なんだ」
「本来、帝や奥の方様への祈祷は高位の陰陽師が対応すべきことと存じております。しかし許されるのでしたら、ここにおります阿倍千隼の力を借りとうございます」
じじいがそう言うと千隼が緊張で凝り固まった顔をして立ち上がった。
真横に担ぎ上げたら、まな板のごとく不動のままでいそうである。
帝は「ほう……」と声をもらし、簾の奥から千隼に眼を向けた。
「阿倍泰忠の血族だな」
「さようでございます。この者はまだ陰陽生ではありますが、鬼を占うことに関しては秀でたものがありまする。もしや菅埜宮様のうちに棲む鬼も姿を現すやもしれませぬ。さすれば三日待たずとも、この場で祓えることができるやもしれませぬ」
「ぶっ」
ここにきて玖弦は吹き出すのを止められなかった。
口元を袖で覆い隠し、肩を丸めて声を押し殺す。
千隼は確かに術に長けている。特に鬼の気配を探る術に秀でているのだ。
あくまでここにいる猿どもに比べればの話しだが。
千隼が探ることで鬼が反応するのであるが、鬼が千隼にだけ過剰に反応をみせるのには訳がある。
それこそ千隼の祖先である阿倍泰忠と玖弦の関係に起因する話しだ。
あのころ、玖弦は鬼たちに泰忠を見たら問答無用で襲うように言いつけてあった。
命令を撤回する前に泰忠が往生してしまったので、その血を継ぐものに命令が引き継がれてしまった。
つまり千隼が鬼を探っているから見つけるのではなく、千隼を見つけた鬼がみずから襲いかかって姿を現しているだけなのである。
見つけていることに変わりはないので、ずっと黙っていたが……
「くくくく」
笑いが止まらない。
千隼が術を使えば、鬼はすぐさま千隼の中に眠る泰忠の血を嗅ぎ分けて襲ってくるだろう。
(これは愉しいことになりそうだ)
「かつてこの国は阿倍泰忠どのに大いに助けられたと聞く。その子孫であるおまえにどれほどの力があるかは知らぬが、試してみるのもよいかもしれぬ」
「はっ、はいっ。精一杯がんばります!」
「では千隼、頼むぞ」
千隼は変な汗を額に浮かべながら力強く頷く。
じじいに代わって菅埜宮の後ろに座し、榊の枝を手にして一呼吸おいた。
千隼は目を閉じ、唇から細い息を吐きだす。
――集中しているのだ。
とたんに千隼のまわりに金色の霊気がゆらりと立ちこめる。
泰忠が纏っていた霊気と同じ色。玖弦は懐かしさに目を細めた。
ここにいる誰もがあの高潔たる霊力を視ることは適わない。
玖弦と黄沈の二人だけが、じっと魅入っていた。
立ち上がる霊力がまた一段とふくれあがる。
帝とじじいの期待を背負い、しいては陰陽寮の威信さえ背負って祈るのだから、失敗など許されない。
緊張するのはもっともであるし、本気になるのも当然のこと。
あの霊気を視れば千隼がどれだけ集中しているのか手に取るようにわかる。
いつもせわしないくせに、ここぞという集中力の高さはさすが泰忠の子孫というべきか。
千隼が経を唱える。まだ声変わりも怪しい女のように高い声だ。
それでも経は応じる。
異常な速さで空に暗雲が立ちこめた。
急に暗くなった空に廊下を歩む者は訝しげな目を向ける。
ろくな術が使えないとしても、やはりそこは腐っても陰陽師ということなのか。
彼らもまた、異変に気がついたようである。
不穏な空気を感じ、部屋のあちらこちらに目を走らせた。
陰鬱とした気が菅埜宮の背中に集結してゆく。
床に広がる十二単が波打ち、艶やな黒髪が風もないのにさわりと浮いた。
じじいが息をのんだ。そばに控える陰陽師たちは目を見張り、身構える。
轟っ
菅埜宮を中心として突風が起きた。
帝の座す簾をものともせずに吹き飛ばす。
「来るぞっ!」
そう叫んだのはじじいではない。
じじいは飛ばされないように床にしがみつくので精一杯だ。
護衛官たちは帝の前に立ち塞がり、守りに入った。
その顔は恐怖に青ざめていたが、反射的にでも動いたのは称賛に値する。
千隼の経はとっくに途切れていたが、ここまでくれば十分。
菅埜宮に巣くった悪鬼が姿を現す。
額を裂いて反り上がったツノを二本生やし、小さくすぼんだ唇を横に引いて牙をのぞかせる。目はつり上がり、袖口からは長く伸びた爪が見えた。
菅埜宮がゆらりと立ち上がり、後ろを振り返る。
赤く燃える瞳に映ったのは真っ青になって震える千隼の姿。
「泰忠あああああ!」
菅埜宮の姿をした鬼がその爪を千隼の首筋に向かって振りかぶる。
玖弦は何気ない顔をして人差し指ちょいと動かした。
「うわっ⁉」
千隼の体が後方に飛ぶ。まるで何かに引っ張られたような動きだった。後方に座していた陰陽師たちを巻き込んで盛大に吹き飛び、菅埜宮の爪が空を切る。
「何者か」
菅埜宮のものとはとうてい思えぬ、低い声だった。
ねっとりと肌を這う、背筋が冷える声色。
ぎょろぎょろと血走った眼を動かす菅埜宮にばれぬように、玖弦は限りなく妖気を抑え込む。
「捕縛八卦を唱えよ! まずは動きを封じるのじゃ!」
やっと突風が収まって、じじいが叫ぶ。
顔色こそ悪かったが、逃げ出す陰陽師は誰ひとりとしていなかった。
経がこだまする。何重にもなった経の輪唱。
菅埜宮の声をかき消すほどに、低く波状してゆく。
玖弦も黄沈もその中にいながら平然として座していた。
手助けなどする気もなかったから、経など唱えない。
黄沈は妖力はこめずに口だけは動かしているようであった。
しかし菅埜宮の表情は歪む。
ひとりひとりの霊力がざるであっても数でかかれば、それなりのものになる。
邪魔をしたやからを探すことは諦めたのか、菅埜宮は再び千隼を振り向いた。
ぎぎぎと、ぎこちない首の動きである。
目が合った千隼はさらに青ざめた。
「泰忠あああ……」
「俺はじいちゃんじゃないって!」
周囲はみな額に汗を垂らして経を唱えていたが、泣きながら言い訳する千隼がおかしくて、玖弦は顔を伏せて肩をふるわせる。
菅埜宮が千隼に手を伸ばそうとして、そこでぴたりと止まった。
捕縛の術がしかとかかったようだ。
「よし! 千隼、おまえも陰陽寮の末席に座すなら泣き喚かずに経を唱えんか!」
「は、はいいいっ」
陰陽博士に怒鳴られて、千隼は怖々と菅埜宮を見た。
経が切り替わる。否、経が二つに分かれた。
動きを封じるものと祓うもの。その二つである。
祓う経を唱えるのは陰陽師から上の官職を持つものたちだ。
玖弦と千隼はその下なので動きを封じる経を唱えなければならない。
玖弦は黄沈に手出し不要と言いつけた。
黄沈の協力を欠いた名ばかりの陰陽師とじじいで何ができるのか。
じつに見物。
そう思ったが――
あろうことか、まわりを取り囲む高位の陰陽師たちにつられて、千隼が祓いの経を唱え始めたのである。
これには玖弦も黄沈もすぐに気がついて、目を丸くして千隼を見た。
千隼は無我夢中で経を唱えていた。恐らく菅埜宮を見るのが怖いのだろう。固く目を閉じて、声がかれるほどの大声で経を叫んでいる。
「あの馬鹿」
千隼から金色の霊気が立ちこめる。
いったいどれほど恐れをなしているのか、菅埜宮の鬼を呼びだした時の比ではない。
天上を突き抜けるのではというほど高く伸びる霊力。
それが菅埜宮に襲いかかった。
「ぐわああああ」
菅埜宮が悶絶する。
身動きも取れず、千隼から伸びる霊力を恨みがましくねめつけて。
千隼の持つ霊力は他と群を抜いているが、いかんせん使い方が悪い。実戦などしたことがないし、己の能力を扱いきれていないのだ。
経が乗っているので効くことには効いているのだが、未だに鬼は菅埜宮の体から離れない。
言うなれば一瞬のうちに業火で炭と化すことができるのに、つま先からたき火でちりちりと焼いているようなもの。それはそれで、あの鬼にとっては苦痛であろう。
口さえ動けば、やるならさっさとやってくれ! と叫んだかもしれない。
延々と待っていれば、いずれば燃え尽きるだろうが。
下手に千隼の霊力が上乗せされて攻撃は成功しているし、だからといってすぐには終わらない。
これで千隼がいなければ、そこらの陰陽師のひとりやふたりくらいは食われていたかもしれなかった。本当に余計なことをしてくれたものである。
「ちっ」
そこに微々たるものであるが、高位の陰陽師たちの力が加わる。
せっかく愉しい見物ができると思っていたのに、これでは興ざめだ。
持久戦を鑑賞するくらいなら、さっさと終わらせた方がよい。
苛立って妖力を纏った玖弦だったが、その指先は菅埜宮ではなく左右に振られる。
際限なく放出される千隼の力に呼び寄せられて、大内裏の襖や壁から次々と悪鬼が姿を現し始めたのだ。
「余計なものまで呼び寄せよって」
玖弦の苛立ちは頂きを極めた。
目に見えぬ速さで指先を振り回し、黒い妖気を穿ち、的を外すことなく悪鬼どもを殲滅していく。
黄沈といえば、すました顔で悪鬼の攻撃を極小の動きで躱しながら、経を唱えるふりを続けていた。玖弦の命令はどんな時も絶対なのである。
当然のことであるが、黄沈がひらりと躱せばその後ろに座していた陰陽師に攻撃が当たる。
悪鬼の存在に気づかず瘴気を食らった間抜けな陰陽師はその場で泡を吹いて転がった。
「あいつ。もう少し融通が利いてもよいと思うのだが」
あまり強力な妖気を使っては、他のものに感知されかねない。
菅埜宮に憑いた悪霊の妖気に混ぜるようにして妖力を調整をする。
それでも殲滅するまでに、さした時間は要さなかった。
あちこち攻撃したおかげで多少気が紛れたとはいえ、再び正面に目をやれば菅埜宮に取り憑いた憐れな悪霊はいまだに悶絶を繰り返していた。
玖弦は項垂れながら大きく嘆息し、ぶんっと手首をひねる。
「……‼」
絶叫する暇すらなかったのだろう。
鬼は声も立てずに霧散した。
菅埜宮の額からツノが陽炎のように霞んで消え失せ、爪も元の長さに戻る。
ふっと意識を失った菅埜宮はその場に崩れ落ちた。
天から暗雲が引いてゆく。
部屋に満ちていた瘴気が綺麗さっぱりなくなって空気が変わる。
明るさを取り戻した部屋には清涼なる空気が行き渡った。
いっときの静寂を経て、じじいの声が響き渡る。
「おお! 帝よ、悪霊は去りましたぞ!」
顔を輝かせ誇らしげに立ち上がったじじいの言葉に、護衛を含めるその場の全員から安堵の吐息がもれた。
「誠か。それは誠なのだな、陰陽頭よ!」
「誠でございます。不浄な悪霊の気はもうどこにもありませぬ。これも我ら陰陽師の力。菅埜宮様のお力になれたこと、誠に光栄の極み」
「なんと!」
帝は憚ることもせず、菅埜宮に駆け寄って抱きしめた。
「菅埜宮!」
菅埜宮は動かない。
「菅埜宮よ、頼むから目を開けておくれ」
菅埜宮の睫毛がふるえた。だらりと下がっていた指先がぴくりと動き、数度まばたきを繰り返して目を覚ます。
「みか……ど」
「菅埜宮!」
帝の目には涙が浮かんでいた。
菅埜宮を見る眼差しには愛おしさが溢れ、喜びで顔が破綻した。
「みな、よくやった! よくやってくれた! 感謝する!」
心からの声であった。
熱く心が震える帝の叫びに、みな誇らしげに顔を輝かせる。
玖弦と黄沈をのぞいて、だが。
黄沈は感情を映さぬ顔をしていたが、玖弦なんぞは頬をひくつかせていた。
「して、あれの正体はなんだったのだ」
「それは……」
じじいが言い淀む。
助けを求めるように後ろの陰陽師を振り返ったが、みな首を傾げるばかり。
そんな中、不機嫌そうな声がざわつく空気を断ち切る。
「あれは菅埜宮様そのもの」
声の主は玖弦であった。
帝もじじいも他のものも一斉に玖弦を注視する。
「どういうことか」
帝の問いに玖弦は面倒くさそうに顔をしかめた。
最後までじじいの手柄にされてたまるかと口をだしたのだが、どうにも尻拭いをしている感じが否めない。
「あれは菅埜宮様が生み出した悪鬼だと申しておるのです。鬼は必ずしも外からやってくるのではない。すべては人が生み出したもの。もしや菅埜宮様には誰にも話せぬ悩みごとでもあるのではないですか」
菅埜宮が驚いたように玖弦を見た。
大きくなった瞳が小刻みに揺れ、小さな唇を噛みしめる。
帝の手を握る指にわずかに力がこめられた。
帝は驚いて菅埜宮を見る。
強ばる頬と玖弦を見る揺れる眼差しが、的をつかれたことを如実に語っていた。
「己で処理できぬ感情が菅埜宮様の魂を分かち、あのように現れたのです。僭越ではありますが、帝は心より菅埜宮様を寵愛されておられるご様子。打ち明けてみてはいかがでしょう。心が晴れれば、二度とあのような悪鬼が菅埜宮様に憑くことはありますまい」
「菅埜宮よ……いまの話しは誠か?」
「帝……」
菅埜宮の目から涙が溢れた。
「どんなことでも話してくれ。余に至らぬことがるのなら申して欲しい」
菅埜宮は帝にすがりつき子供のように泣いた。
そのあと菅埜宮様はなかなか子を成せず苦しんでいたと噂が立った。側女に帝の寵愛が移ろうことを心配されていたらしい。
げすの勘ぐりに他ならないが、そんなことを口にしたのが目を刺された女房だった。
それから数ヶ月後、無事に菅埜宮は懐妊し、宮廷に吉報をもたらすこととなる。
皆様、こんにちは。
今回は和風ファンタジーを書き綴ってみました。
中編か長編にしようと思って書いたのですが、キリのいいところで一段落ついたのでまずは短編として投稿することにしました。
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