黒髪と兵士と黒い獣
マヴラが五体満足で魔の森から帰還したことに兵士の一部は渋い顔をした。
特に第一・第二師団の士官たちは、たかが分隊長しかも平民があっさりと魔の森の結界を超え、魔の者との対面を果たし連絡係となる認証を得たという事実に臍を噛んだ。
──無事に帰って来れるならば志願したのに──と。
特に第一師団に所属する士官たちの反応は顕著だった。
王国には第一・第二・第三師団からなる王国軍とは別に、近衛師団なるものが存在する。
近衛師団は軍とは別の独立した組織で、主に王家と王城の守護の任に就いている。近衛師団に属するものは「騎士」と呼ばれ、その大半は元第一師団所属の士官で占められている。騎士に選ばれるのは、家柄・軍歴・容姿などが優れたものに限られるからだ。
第一師団は一兵卒に至るまで貴族が占める。
王家の傍に侍る近衛師団に一番近い場所にいるとされているエリート集団たる第一師団だが、そこに所属する士官たちが最前線に出ることは稀で、軍歴などあってないようなものだ。そんな彼らにとって連絡係は、王直筆の親書を運ぶだけの命を危険に晒すことがない『楽な任務』であり、他者に一歩先んじ近衛師団に入るに足る『輝かしい軍歴』のひとつであった。
──マヴラの前任者の少佐が非業の死を遂げるまでは。
で。
現在マヴラは真っ昼間の下士官用の食堂で、その第一師団所属の兵士たちに絡まれている。
先程から彼らが言い募っていることを意訳すると「きさま如きがあっさりと抜けられる結界ならばエリートでもある我らの上官が超えられないことはない」「平民の分際で貴族を差し置いて王の勅命ともいえる魔の森の主との連絡係を拝命するなど身の程を知れ」とこんな感じだ。
(きさまって。見たところ皆星なし(新兵)だよな。所属は違うが俺は一応分隊長なんだが)
口角泡を飛ばす勢いで捲し立てる第一師団の兵士たちを尻目に、平然と食事を続けるマヴラに業を煮やしたのか彼に対する嘲罵が加速した。
「一体どんな卑怯な手を使ったのだ」
「いや待て。男娼マリアなる人物であれば、我らには思いつけない色々な手を講じることができるのではないか?」
「成る程、魔の者にもその手練手管が通用したということか」
「さすがは平民。我ら高貴な者にはとてもそのような淫猥な真似はできん」
「確かにな。下劣で野卑な者の寄せ集め集団の第三師団ならではの──がっ」
言い終わる前に第一師団の兵士のひとりが吹っ飛んだ。マヴラの隣で食事をしていたオルギー伍長が、音もなく立ち上がり問答無用でその剛腕を振るったのだ。
「いきなり何をするかっ!」
殴られ足元でうめく仲間を抱え起こしながら第一の兵士が叫んだ。オルギーの硬い拳を顔面に受けた兵士は鼻血を出している。
「何をするかじゃねえよ気分悪い。飯が不味くなる」
オルギーはマヴラの隊の中でも特に血の気の多い男だ。不機嫌な彼の言葉を合図に、マヴラの近くにいた第三師団の兵士たちががたがたと席を立つ。
「さっきからぐだぐだぐだぐだうるせえんだよ」
「分隊長をやっかむくらいなら最初っからてめえらの上官どのが立候補すりゃあよかったじゃねえかよ」
「『少佐どのが殺られたぁ!』って大騒ぎして散々びびってやがったくせによ。へっ腰抜けのおぼっちゃま集団が」
「何だとっ!」
貴族だエリートだとはいえ所詮は血の気の多い兵士だ。食堂の中には当然他の兵士も大勢いるし、第一や第二師団の伍長や分隊長階級も存在するが誰も止めに入る気配はない。彼らは寧ろ、これから起こることを面白そうに待ち構えているのだ。
マヴラは仕方なく食事の手を止めた。
「おいお前ら止さないか」
彼は無駄と知りながら取り敢えず仲裁を試みる。
「そっちの君らもだ。我らは同じ王国軍の仲間じゃないか暴力はいかんぞ」
「誰が仲間だ第三如きと一緒にするな!」
──が逆効果だったようだ。
「如きだあ?! そりゃこっちのセリフだくそったれ!」
「下賤な平民の分際で口を慎め!」
「うるせえ! 何がエリート兵士だこの腰抜け集団が!」
「きさまら許さんっ!」
マヴラの予想通り乱闘が始まった。
絡まれていた当事者そっちのけで始まった乱闘は食堂全体に飛び火し、今回の揉め事には全く関係のない第二師団の兵士まで加わっての大騒ぎになった。
嘲罵は無視していたマヴラだが、飛んでくる拳はその限りではない。
マヴラは殴りかかってくる相手に食器を投げつけ、食べかけのポークビーンズごとその顔面に一撃入れた。仰向けに倒れる兵士を避けこちらに掴みかかってくる腕を捉え、相手の動きが止まったところでその足の甲を力任せに踏みつける。上がった絶叫を聞きながら次の相手の腹を蹴り飛ばし、背後から隙を窺う者には振り向きざまに肘を叩き込む──。
剣技はそこそこなマヴラだが喧嘩で負けたことはない。大人数相手なのでさすがに一二発はもらったが、最初に突っかかってきた第一の兵士たちは既に全員床に沈んでいた。だというのに、オルギー伍長ほか乱闘のきっかけとなったマヴラの隊の兵士たちは、離れたところで何故か第二師団の連中と殴り合っている。
大混乱の中、誰かが魔法をぶっ放し食堂の壁に穴を開けたことで、騒ぎを聞きつけ姿を現した第三師団長イリオスタの物理的な雷が兵士全員に落ちた。
食堂での乱闘は、参加人数が多すぎる上にイリオスタが全員に『仕置き』をしたことで、他に懲罰的なものもなくそのまま有耶無耶になった。乱闘の原因を知った第一師団長は『下士官たちが勝手に暴走しただけで、新しい連絡係に特に思う所はない』と語ったが本音は窺い知れない。
結局、軍内部で乱闘にまで発展したことを重くみた元帥が
「ならば連絡係希望者で魔の森に入ってみればよい。結界を超え魔の者に真を問うことが叶えば、或いは任命変更ということもあり得るかもしれん。結果が覆らないのならば今後一切異議を申し立てることは罷りならん」
と軍全体に向け通達した。
それを受け第一師団の少佐二名・中佐一名が名乗りを上げた。
足元の枯れ葉が音を立てる。
前回魔の森に踏み入れた時と違うのは、マヴラの周囲が騒がしいことだ。彼の同行者は魔の森に入って十分もしないうちから、歩きにくいだの暗いだの虫が多いだのと不平たらたらなのだ。今も先導するマヴラの背後から苛立ちを隠さない声がかけられる。
「おいまだか」
「もうすぐだと思いますが結界は目に見えるものではないので」
何度目かの「まだか」の問いにマヴラはうんざりしたが、それを悟られないよう振り向かず歩き続けた。
「ふん。本当は結界など存在しないのではないか? 魔の者に会ったというのも本当かどうか怪しいものだ」
魔の者アーシアから持たされた手紙は第三師団長イリオスタに渡したが、その後彼がそれをどうしたのかマヴラは知らない。あの私信は謂わば魔の者に面会したという証明書のようなもので、同封されていた干物の件は別として、軍全体に公開すべきだったのかも知れない。
後悔先に立たずを地でいくマヴラの全身にぴりりと痛みが走る。結界を超えたようだ。
「どうした虫にでも刺されたか」
どうやら身体に異変を感じたのはマヴラだけのようで、立ち止まって腕を摩っている彼に嘲笑が投げかけられた。
「……結界を超えたようです」
「何?! 虚言ではあるまいな」
「本当だ」
応えたのはマヴラではなく、何処からともなくのそりと姿を現した黒い獣──ゾイ──だった。ゾイは黒い尾を一振りすると、マヴラを下から睨めあげたあとにやりと笑った。
「またぞろぞろと引き連れて来たな黒髪」
「すまない。ちょっと事情があ」
言い終わらないうちにマヴラを押し退け、第一師団の三名が我先にとゾイの前に進み出た。
「お前が魔の森の主か! 我らは王国軍第一師団所属の者だ! 私はストゥラ中佐だ」
「私はミハニコ少佐だ。我々が本来の連絡役候補だ!」
「モリーヴィ少佐だ。誰にするのださあ選べ!」
ゾイはちらりとマヴラに視線を向けた後ふすんと鼻を鳴らした。
「俺は主ではない。もっともお前らはアーシアに会わせる価値もないが。第一といえば末端まで貴族だと聞いたが結界の有無も感じられんとはな。大層な肩書きを持っていてもそこの黒髪より役立たずじゃないか。前の奴もそうだったが、王国貴族も随分と質が落ちたものだ。なあそう思わないか? 平民のマヴラ分隊長」
ゾイが嗤う。彼に馬鹿にされたことで、プライドの高い第一師団の士官たちは顔を赤黒く染めた。
「このっ……! ケダモノの分際で人を貴族を愚弄するかっ!」
「我ら第一師団の将校が平民より下だと!? ふざけるな!」
「その汚らわしい首を落としてくれる!」
マヴラ以外の全員が剣を抜き一斉にゾイに斬りかかった。