黒髪と師団長
黒い獣ゾイに導かれ、恐ろしくも美しい魔の森の主アーシアと無事邂逅したマヴラは、顔見せという当初の任務を無事 (?)に終えた。
「お前は私の犬だ。獣の糞になりたくなかったら逆らうな」
笑顔でそう宣ったアーシアに、用が済んだとばかりにぽいと家の外に放り出されたマヴラは、固く閉ざされた玄関の前で呆然と立ち尽くした。
マヴラは魔の森の途中から黒い獣の後を追っていたので、何処をどう歩いて来たのかうろ覚だった。それでなくても方向感覚が狂ってしまう深い森を、自力で抜けられるかどうか自信がなかったからだ。
迎えに来てくれたゾイが帰りも送ってくれるのではないかと、マヴラは僅かな期待を込め暫く待っていたが、黒い獣は家の奥に引っ込んだまま姿を現す気配はない。どうやらやはり「勝手に帰れ」という事のようだ。
マヴラは仕方なくひとりで来た道を引き返すことにした。
が、再び森の中に入った途端そこかしこから胡乱な気配が感じられ、赤い三角屋根の家が見えなくなると気の所為ではなく、近くで獣の唸り声のようなものも聞こえ始めた。
来る時に鳥の囀りひとつ聞こえなかったのは、マヴラが魔の森に分け入った時点から、彼を見張るためにゾイが側にいたからだろう。
マヴラは肝を冷やした。
マヴラは兵士で分隊長ではあるがさほど魔力は強くない。剣技にしてもそこそこだ。顔はまあ十人並み以上だが獣は獲物の美醜など忖度しない。四方八方から襲い掛かられればあっさり獣の糞に成り果てるだろう。
マヴラはアーシアの魔の森の主としての支配力を信用するしかなかった。彼はずっと自分を追いかけて来る獣の威嚇音を聞きながら、脇目も振らず足早に進んでいった。
日没前に五体満足で魔の森から何とか抜け出すことに成功したマヴラは、魔の森の境界に繋いでいた馬に跨りよろよろと駐屯地へ帰還した。
過酷な任務も顔色ひとつ変えず飄々とこなすマヴラではあったが、今回のようにやたら精神を削られるようなものは初めてだった。このままベッドにダイブしそのまま泥のように眠りたかったが、それでも報告の義務があるため渋々士官宿舎へ足を向けた。
士官宿舎への道すがら、マヴラは背後から伸びて来た腕にいきなり捕らえられ、荷物のようにひょいと担がれてしまった。彼は建物の影で待ち構えていた、金髪で偉丈夫の第三師団長に確保いや拉致されたのだ。
(またかよ。勘弁してくれ)
マヴラは決して小柄ではない。十六で軍に入ってからは過酷な訓練や様々な実戦を経験し、身長も人並みでそれなりに筋肉もついている。
かようにマヴラは立派な青年兵士だが、師団長にしてみればひょろい新兵と大差ないのだろう。彼を拉致した師団長はその童顔に似合わぬ筋肉の持ち主で、横幅もさることながら上背もあるのだ。
「無事帰還したかマヴラ分隊長!」
この暑苦しい第三師団長はイリオスタ・シオ・セリノ・アイキニトスといい、貴族位を持ってはいるがおよそ貴族らしからぬ人物で、五十路を過ぎたというのに未だ少年のようでやたらとフットワークが軽かった。
今回の連絡係選抜に於いて、声高にマヴラを推したのは何を隠そう第三師団長の彼だ。
だがそれはマヴラが“優秀だから”ではなく、現在のように帰還次第彼を捕まえ、魔の森の情報を誰よりも早く手に入れられるとの目算があったからだ。それは出世の足掛かりというより単に野次馬根性であり、それがイリオスタの為人を表しているともいえる。
そんな第三師団長イリオスタは人気の無い場所にマヴラを連れ込むと、きらきらと目を輝かせ好奇心を隠そうともせず、魔の森の深部の様子や魔の者は如何だったと彼に詰め寄り、事の詳細を聞きたがった。
しかしマヴラは、世にも恐ろしい“ペナルティ付きの守秘義務”をアーシアから課せられているので、おいそれと口を開くわけにはいかない。それでも彼は一応、上官命令とアーシアの命令とどちらに重きを置くか天秤にかけた。
──その結果は言うまでもない。
「申し訳ありません。魔の者との盟約なので何も話せません。その代わりといってはなんですが『お前の上官に渡せ』と私信を預かって参りました。この場合どなたにお渡しすべきでしょうか」
美しい笑顔のアーシアに「獣の糞にするぞ」と脅されたことはおくびにも出さず、マヴラは盟約などという美辞麗句を持ち出し、さらに彼女から持たされた怪しげな手土産をポケットから取り出しイリオスタに提示した。
上官に渡せと言われたのは嘘ではないが、その時のアーシアの意味深な表情に言い知れぬ危険な気配を察知したマヴラは、それをさっさと手元から遠ざけたかったのだ。
「なんと! 魔の者が私信を寄越すなど初めての事だぞ」
イリオスタの顔が輝いた。
魔の森の主は国王としか取り引をしない。
通常は国王からの手紙を連絡係経由で魔の者に届け、魔の者は何らかの方法を用いて手紙に書かれている要求を叶える。手紙を用いるのは『証拠』を残すためだ。長い付き合いがありながら魔の者は王家を信用しておらず、口約束などもってのほかだと考えているからだ。
その上手紙の内容が魔の者にとって不適切であった場合、魔の者の罵詈雑言とともに王の親書は連絡係に突き返される。その時の魔の者の悪罵を貴族語に変換し、やんわり王に伝えるのも連絡係の役目なのだ。
それを考慮すれば、貴族の独特の言い回しなどさっぱりな平民のマヴラは連絡係に全く相応しくない。相応しくないがなってしまったものは仕方がない。兵士である限りマヴラは上官の命令には逆らえないからだ。
兎にも角にも珍しい魔の者からの私信に、イリオスタはううむとカイゼル髭を捻った。彼は今“これは軍のトップである元帥閣下に渡すべきではないか”と葛藤している。しかし即座に“マヴラの所属する第三師団のトップは師団長である自分である”と自身を納得させ、緑の封蝋の押された封筒を開いて便箋を取り出した。
イリオスタが四つ折りの便箋を広げると、ふわりと甘い香りがマヴラの方にまで漂ってきた。その香りで深緑の髪と空の青を持つ美しい顔と、己の胸をついたほっそりとした指先を思い出しどきりとしたが、果たしてそれは歓喜と不安のどちらの胸の鼓動なのか、当のマヴラにも分からなかった。
便箋から発せられた香りにイリオスタの顔が緩んだが、手紙を読み進めるうちに顔色が変わった。どうしたのかと訝るマヴラの目の前でイリオスタは徐ろに封筒を逆さにした。
ぽとりと何かが地面に落ちた。
「……耳ですね」
「……耳だな」
干からびたそれは右か左か判別不能だが、耳たぶと思しきあたりに貴石のピアスがついており、それが赤く光っている。
「魔の者アサナシア殿の手紙によると前任者のものらしい。手紙によるとだな、んんっ『これと同じような阿呆な役立たずを送ってきたら次は他のところを毟る』そうだ。『役立たずの上官も連帯責任を負うことになるだろう』ともある」
「………はあ」
「うむ」
マヴラはアーシアが正しくは「アサナシア」だと知ったことより、獣の糞に成り果てる以前にどこかを毟られる可能性もあることに衝撃を受け遠い目になった。
「……マヴラ分隊長!」
「はっ!」
「此度の任務気を引き締めて励みたまえ。……くれぐれもよろしく頼むよマリアちゃん」
イリオスタの“マリアちゃん”呼びには、他の貴族のような悪意も倒錯的な下心もない。悪意はないのだがマヴラに対する「男娼マリア」という陰口が止まないのは、若干、いやかなりお調子者のこの師団長が親しげにマヴラを呼ばわったり、何かというと袋のように担いだりするのも要因の一つである。
「よろしくついでにこれの処分をマヴラ分隊長に任せる」
イリオスタは足元の干物を指差した。
「あのう師団長、貴石のピアスとかついてますが、ご遺族に渡さなくて宜しいのですか?」
「うむ。死亡した少佐の右腕は既に埋葬済みであるし、あの者の実家にはもう充分すぎるほどの弔慰金は支払ったのでな。蒸し返すのは得策ではない。幸い干物は分隊長と儂の他は誰も見ておらんしな、まあそういうことだ。片方だけだがその飾りが欲しければお前のものにしても構わんぞはっはっは」
「……了解しました (いらねえよっ!)」
能天気な笑顔のイリオスタ師団長にぽんと肩を叩かれたマヴラ分隊長は、こうして証拠隠滅の片棒を担がされることになったのだった。