表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々晋書  作者: ンバ
第百、王弥伝
94/313

四、洛陽地獄絵図

4.

彌後與曜寇襄城,遂逼京師。時京邑大饑,人相食,百姓流亡,公卿奔河陰。曜、彌等遂陷宮城,至太極前殿,縱兵大掠。幽帝於端門,逼辱羊皇后,殺皇太子詮,發掘陵墓,焚燒宮廟,城府蕩盡,百官及男女遇害者三萬餘人,遂遷帝於平陽。


(訳)

王弥はその後、劉曜とともに襄城へ侵攻し

とうとう洛陽へ迫った。


この時洛邑では大飢饉が起きており

人々は互いに喰らい合い、

百姓は流民となって逃亡し、

公卿は河陰かいんへと落ち延びていった。


劉曜、王弥らはかくて洛陽を陥落させ

太極前殿へと至ると、

兵士に欲しいままに大略奪を行わせた。


懐帝は端門たんもんに幽閉されてしまい、

羊皇后は辱めを受け、

皇太子の司馬詮しばせんは殺害され、

陵墓は盗掘され、宮廷や宗廟は焼き払われ、

城の倉庫は盡く奪い尽くされ、

百官及び男女三万人余りが殺され、

かくて、帝は平陽(匈奴漢の本拠地)へ遷った。


(註釈)

310年に劉淵が亡くなり、

劉和りゅうかが後を継ぎますが、

弟たちを排除しようとして

返り討ちに遭い、6日で滅びました。


結果、弟の劉聡りゅうそうが皇帝となったのは

既に見てきた通りです。


一方、洛陽では

懐帝が司馬越の専横を恐れ、

兗州刺史の苟晞こうき

「司馬越を消せ」という密勅を与えます。


八王の乱を勝ち抜いた司馬越。

西晋は彼の奮闘でなんとか

もっていたのですが、この事が原因で

司馬越は憤死してしまいます。


さらに、洛陽で大飢饉が起こり、

公卿や百姓はみんな逃げ出してしまいました。


懐帝は目の前の賊を恐れて

遷都を群臣に諮りますが、

食糧や宿場の目処が立たず、

翌311年、劉曜と王弥は

ついに洛陽を陥します。


その後に待っていたのは地獄絵図。

略奪、殺戮、陵辱、蹂躙、盗掘。


この有様じゃ、序文で

「低俗な野蛮人」と言われても仕方ない。


誇張されて書かれている

ものだと思いたいです。

これじゃ、応援できないよ。


彭城ほうじょうのときはともかく、

劉邦が咸陽かんように入った時とか

お宝に一切手をつけなかったでしょ。

仮にも漢を名乗るのならば

漢の歴史に倣おうよ。


匈奴漢に捕まってしまった

懐帝と羊皇后(羊献容ようけんよう)は

そのまま平陽まで拉致されます。


羊皇后はレイプされるわ

懐帝は奴隷の服を着せられて

酒を注がされるという

屈辱を受けた末に殺されるわで

西晋の権威は完全に地に落ちました。


羊皇后は劉曜の皇后となり、

おそらく中華史上で唯一

二つの王朝で皇后に立てられた人物です。


劉曜が羊皇后に


「俺と司馬家の男、どっちがステキ?」


と訊ねると、


「比べるまでもなくあなたです。

亡夫は妻子はおろか、自分の身すら

守れませんでしたから」


と答えたとされます。


本心なのか言わされてるのかは不明。


匈奴漢は、劉淵がいなくなった途端

蛮族の集まりに見えてきました。

カリスマ指導者を失ったことで、

だんだんその蛮性が表面化してきたか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ