三、永嘉の大乱
3.
永嘉初,寇上黨,圍壺關,東海王越遣淮南內史王曠、安豐太守衛乾等討之,及彌戰于高都、長平間,大敗之,死者十六七。元海進彌征東大將軍,封東萊公。與劉曜、石勒等攻魏郡、汲郡、頓丘,陷五十餘壁,皆調為軍士。又與勒攻鄴,安北將軍和郁棄城而走。懷帝遣北中郎將裴憲次白馬討彌,車騎將軍王堪次東燕討勒,平北將軍曹武次大陽討元海。武部將軍彭默為劉聰所敗,見害,眾軍皆退。聰渡黃河,帝遣司隸校尉劉暾、將軍宋抽等距之,皆不能抗。彌、聰以萬騎至京城,焚二學。東海王越距戰於西明門,彌等敗走。彌復以二千騎寇襄城諸縣,河東、平陽、弘農、上党諸流人之在潁川、襄城、汝南、南陽、河南者數萬家,為舊居人所不禮,皆焚燒城邑,殺二千石長吏以應彌。彌又以二萬人會石勒寇陳郡、潁川,屯陽曜,遣弟璋與石勒共寇徐兗,因破越軍。
(訳)
永嘉年間の初め(307〜)に
上党へ侵攻し、壺関を攻囲した。
東海王の司馬越は
淮南内史王の司馬曠、
安豊太守の衛乾らを討伐に当たらせた。
王弥と高都・長平の間にて戦闘となったが
大敗を喫してしまい、
死者は十のうち六〜七に及んだ。
元海は、王弥を征東大将軍に昇進させ
東萊公に封じた。
劉曜・石勒らとともに
魏郡・汲郡・頓丘などの
五十余りの砦を攻撃して陥落させ、
(人民を)残らず調練し、兵士とした。
また、石勒とともに鄴を攻めると、
安北将軍和郁は城を棄てて逃げてしまった。
懐帝は北中郎将の裴憲を遣わし
白馬へ宿営させ、王弥の討伐に。
車騎将軍の王堪を
東燕へ宿営させ、石勒の討伐に。
平北将軍の曹武を
大陽へ宿営させ、元海の討伐に当たらせた。
武部将軍の彭黙は
劉聡に敗れて殺害されてしまい、
軍勢は全撤退した。
劉聡が黄河を渡ってくると
帝は司隷校尉の劉暾と
将軍の宋抽を派遣して拒がせたが
いずれも、対抗することは出来なかった。
王弥と劉聡は、
一万騎を擁して洛陽の城へ至り
二つの学舎を焼き払った。
東海王司馬越は西明門にて防戦し、
王弥らは敗走した。
王弥は再度、
二千騎にて襄城の諸県へ侵攻した。
河東・平陽・弘農・上党から
潁川・襄城・汝南・南陽・河南へ
逃れてきた流民が数万家存在したが、
彼らは、もともと住んでいた場所で
冷遇されていたため、挙って城邑を焼き払い
二千石の長吏(郡太守)を殺して、王弥に呼応した。
王弥はまた二万人を率いて
石勒と共同で魏郡・潁川を侵略した。
陽翟に駐屯し、弟の王璋を派遣して
石勒とともに徐州・兗州へ侵攻させ
司馬越の軍勢を破った。
(註釈)
劉淵や王弥は賊軍扱いだからか
「寇」の字が頻出します。
「侵略」「侵攻」「わざわいを為す」
と訳しています。
こうして見ると、王弥は
石勒と一緒に行動してる事が多いです。
最終的に、石勒に
謀殺される事になるのですが……
黄巾の乱は存外すぐに鎮圧されましたが
永嘉の乱は無理。
西晋は内ゲバ続きで余力がないし、
帝と有力臣下の足並みも揃ってないし、
後漢ほどの求心力もない。
民衆もまた、苛政を敷く晋ではなく、
王弥たちの味方をして官吏を殺していく。
かつて、董卓に焼き払われてから
だいたい干支が10周していますが
ふたたび洛陽が廃墟に変えられていきます。
劉淵軍は漢の後継を標榜するくせに
伝統ある漢の都を焼き払うってのは
どういう了見なのかしら。
劉淵の後を継いだ劉聡は、
漢民族と匈奴部族のシステムの
矛盾に苦しむ事になります。




