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淡々晋書  作者: ンバ
第百一、劉元海載記
87/313

十三・十四、漢軍帰還

13.

於是命其子聰與王彌進寇洛陽,劉曜與趙固等為之後繼。東海王越遣平北將軍曹武、將軍宋抽、彭默等距之,王師敗績。聰等長驅至宜陽,平昌公模遣將軍淳于定、呂毅等自長安討之,戰于宜陽,定等敗績。聰恃連勝,不設備,弘農太守垣延詐降。夜襲,聰軍大敗而還,元海素服迎師。


(訳)

ここにおいて元海は

子の劉聡りゅうそうと(部将の)王弥おうびとに命じて

洛陽へと侵攻させ、

劉曜りゅうよう趙固ちょうこらに後詰をさせた。


東海王の司馬越しばえつ

平北将軍の曹武そうぶ

将軍の宋抽そうちゅう彭黙ほうもくらを派遣して

これを防がせたが、

その師団は敗北を重ねた。


劉聡らは長駆して宜陽ぎようへと至り、

平昌公の司馬模しばも

将軍の淳于定じゅんうてい呂毅りょきらを派遣して

自ら長安から討伐に向かい

宜陽において戦ったが

淳于定らは連敗した。


劉聡は連勝をたのんで

備えを設けておらず、

弘農太守こうのうたいしゅ垣延えんえんいつわって投降した。

(のに全然気付かなかった)


(垣延から)夜襲を受けて

劉聡の軍は大敗して帰還し、

元海は素服で師団を迎えた。



(註釈)


劉淵の四男、劉聡りゅうそう

強いんですけど、強者故のおごりもあり

官軍にこてんぱんにやられてしまいます。


劉淵亡きあとは、彼らが

国を纏めていくことになるわけですが

すでに今から不安が……


劉曜りゅうようは、劉淵の族子で

「神射」の異名を取る剛将、軍才随一。

身長は9尺3寸(224.5cm)。


劉淵もでかいけど(203cm)

もっとでかい…………



知人の言によれば

匈奴漢はコーカソイド系の

血が入っているそうです。



14.

是冬,復大發卒,遣聰、彌與劉曜、劉景等率精騎五萬寇洛陽,使呼延翼率步卒繼之,敗王師于河南。聰進屯於西明門,護軍賈胤夜薄之,戰于大夏門,斬聰將呼延顥,其眾遂潰。聰回軍而南。壁于洛水,尋進屯宣陽門,曜屯上東門,彌屯廣陽門,景攻大夏門,聰親祈嵩嶽,令其將劉厲、呼延朗等督留軍。東海王越命參軍孫詢、將軍丘光、樓裒等率帳下勁卒三千,自宣陽門擊朗,斬之。聰聞而馳還。厲懼聰之罪己也,赴水而死。王彌謂聰曰:「今既失利,洛陽猶固,殿下不如還師,徐為後舉。下官當於袞豫之間收兵積穀,伏聽嚴期。」宣于修之又言於元海曰:「歲在辛未,當得洛陽。今晉氣猶盛,大軍不歸,必敗。」元海馳遣黃門郎傅詢召聰等還師。王彌出自轘轅,越遣薄盛等追擊彌,戰於新汲,彌師敗績。於是攝薄阪之戍,還於平陽。


(訳)

冬になって、

元海は再び大規模に兵を徴発し

劉聡りゅうそう王弥おうびとともに劉曜りゅうよう劉景りゅうけいらに

精鋭騎兵五万を率いさせて

洛陽へと侵攻させ、

呼延翼こえんよくに歩兵を統率させて

後詰に当たらせた。


司馬越の師団は、河南かなんにて敗戦した。


劉聡が進軍して西明門せいめいもんに駐屯すると

(西晋の)護軍の賈胤かいんは、夜になれば

劉聡の備えが薄くなると判断して

大夏門だいかもんにて戦いを挑んだ。

劉聡の将の呼延顥こえんこうが斬られ、

その軍勢はかくて潰走した。


劉聡は軍を南方へ回帰させ、

洛水らくすいを壁にして

ただちに宣陽門せんようもんへ進駐した。


劉曜は上東門じょうとうもんに、王弥は広陽門こうようもんに駐屯し

劉景は大夏門を攻撃し、

劉聡は自ら嵩嶽すうがくにて祈願し

部将の劉厲りゅうれい呼延朗こえんろうらに命じて

駐留軍を督率させた。


東海王の司馬越は

参軍の孫詢そんじゅん、將軍の丘光きゅうこう樓裒ろうほうらに命じて

幕下の精兵三千を統率させ、

自ら宣陽門の呼延朗を攻撃させて

これを斬り、劉聡はこの事を聞くと

(自陣へと)馳せ戻っていった。


劉厲は、劉聡から

この事で罪に問われると考えて

水に赴いて死んだ(入水自殺)。


王弥は劉聡に対して述べた。


「今、既に利を失ってしまっており

洛陽はなお堅固でありますから、

殿下はここで師団を撤退させるに

越した事はなく、ゆっくりと後日

兵を動員すればよろしい。


下官がまさに兗州えんしゅう豫州よしゅうの間で

兵を収斂し、穀物を積み上げようと

致しておりますから、

機会の到来をじっくり待ちましょう」


宣于修之せんうしゅうしも一方で元海に述べた。


辛未しんびに当たる年(311年)に

まさしく洛陽を得られましょうぞ。


今、晋の気運はなお盛んであり

大軍を帰還させなければ

必ずや敗北を喫しましょう」


元海は黄門郎こうもんろう傅詢ふじゅんを早馬にて遣わし、

劉聡らを召し、その師団を撤退させた。


王弥は轘轅かんえんから退却し

司馬越は薄盛はくせいらを遣って王弥を追撃させ

新汲にて交戦したが、

王弥の師団は連敗してしまった。


こうして蒲阪ほはんの戦役は終幕し

(漢軍は)平陽へと帰還した。




(註釈)


地理志によると、


洛陽の

東側に建春・東陽・清明

南側に開陽・平昌・宣陽・建陽

西側に広陽・西明・閶闔

北側に大夏・広莫


計12の門があるそうな。




首都洛陽、簡単には落ちません。


晋は瀕死の王朝には違いないですが

東海王・司馬越しばえつが粘る粘る。


対する劉聡りゅうそうはミスが目立ち、

部将が三人も死んでしまっています。

(うち一人は責任の追及恐れて自殺)




宣于修之せんうしゅうしは太史令だけあって

天運とか占うのが得意なようで

「311年に洛陽が陥落する」と予言。


裏を返せば、309年冬現在では

洛陽を今すぐには落とせない、という事で

劉淵は軍に全撤退を命じました。


当然そこを狙われる〜。


「飛豹」の異名を持つ王弥も

これには堪らず、こっぴどく

やられてしまいました。



洛陽の陥落まで2年足らず。


しかし惜しいかな

311年まで劉淵の寿命がもちません。


即位してからというもの

戦闘の方は劉聡達に任せっきりだな、

と思いきや、体にガタがきてたのかな。

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